1975年12月24日 矢沢永吉・ジョニー大倉・内海利勝・ユウ岡崎からなるロックンロール・バンド、キャロル
に影響を受ける7人の少年。
1980年、福岡県久留米市にてチェッカーズ結成。
1981年8月 第8回L-Motion(ライトミュージックコンテスト)本選大会
ジュニア部門グランプリ受賞。
1981年9月 LMCジュニア&レディス大会グランプリ受賞
でプロになる話が来た。けれど、ナオユキとクロベーは高校生。この2人の卒業を待つことになる。
その間、マサハルとユウジは大学へ。フミヤは国鉄へ。
トオルは楽器店でセールスマン。
1983年3月29日 東京上陸。
1983年9月21日 ギザギザハートの子守唄でアイドルとしてデビュー
1984年2月涙のリクエストで歌番組に出演、一躍全国的人気になる。
5月には ギザギザハートの子守唄、涙のリクエスト、哀しくてジェラシーの3曲同時ベストテン入りの快挙を果たす。
その後は、アイドルとして絶大な人気を得ることになるが、オリジナルでシングルを出せないいらだちを感じ始める。
チェッカーズでありながらチェッカーズではないバンド「Cute Beat Club Band」として、遊びゴコロを発揮しながら、
アイドル時代の10枚のシングル発売を経て、1986年10月いよいよメンバーによるオリジナルシングルNanaが発売された。
以降は、他者による楽曲は一切歌うことはなく、
I Love You, SAYONARA、Wanderer、夜明けのブレスをリリース。などオリジナルシングル19曲を世に送り出す。
また、バンド主演映画『Checkers in TAN TAN たぬき』『Song For U.S.A.』などでも活動。
88年頃からはメンバーのソロ活動も目立つようになった。92年にはデビュー10周年を迎え、
今後も順風満帆な活動を続けていくだろうと思われていた矢先、同年10月5日に突然の解散宣言。
その栄光の歴史に幕を閉じたのであった。
そんなチェッカーズのフロントマン藤井フミヤは、現在でもジャパニーズ・ポップス・シーンでトップアーティストとして活躍中。一時代を築きあげ、
ソロとしても、日本中でもはや知らぬモノがいないほどのビッグ・スターに成長する。
アーティスティックなアプローチを試みつつ、最終的にはあくまでも大衆ポップスの範疇に収められた名曲の数々を生み出している。
その弟、藤井尚之は
95年に1stアルバムOut of My Treeをリリースし、UKソウル/ジャズ
・シーンの錚々たるミュージシャンが参加したアルバムを完成。3rdアルバムWhat have I done?は
、アメリカを代表するロック・バンド、リトル・フィートのメンバーが全編に渡りバックアップ
した。――兄弟ユニットF-BLOODを結成。その後も、そのセンスを活かしサウンドトラックの制作や俳優としてTVドラマに出演するなど幅広い活動を繰り広げる。
2003年6月末には、タカモク氏が胃がんを克服していたという衝撃的なニュースが走った。
子供時代からチェッカーズ時代、解散、胃がん克服について語った本を出版。メンバー同志の確執など、
ファンには衝撃的な内容のものであった。
そして2004年8月17日。”クロベエ”の愛称で親しまれていたクロベエこと徳永善也が舌がんのため死去…。 チェッカーズはもちろん、自身のバンドWild-Gで活動していたメンバーに見守られて旅立ってしまった。
デビューから20年、アイドルからアーティストへ…様々なことがあった20年だっただろう。
解散発表の日、業界関係者や社会に対してのヤンチャっぷりを存分に発揮し、音楽界・芸能界を後にしたチェッカーズ。
そして2003年9月21日。デビューから20年。記念アルバムチェッカーズ All Songs Requestをリリースし、そのベスト的映像版All Songs Request - Dvd Editionもリリース。その後3ヶ月に渡って彼らのツアーやライブ映像など当時の貴重な姿を網羅したDVDが総計15タイトル続々リリースされている。
最後までポップミュージックを歌い続けた永遠のアイドルに拍手を贈りたい。