Allman Brothers Band

Allman Brothers Band (オールマン・ブラザーズ・バンド) プロフィール

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サザン・ロック、スワンプ・ロック・・・このように表現されるジャンルのロック・ミュージックのなかでオールマン・ブラザーズ・バンドは、その代表格というよりも、もともとそれは彼らを形容した言葉と言える程に、南部魂溢れる、泥臭い、ラフで豪快で、レイド・バックした心地良いテンションを有する・・・、そんなサウンドを身体で発するグループです。

さて、オールマン・ブラザーズ・バンドの中核メンバーはその名のとおり、デュアングレッグのオールマン兄弟です。2人は、カントリー・ミュージックの聖地として日本でも知られるナッシュヴィルに生まれ、その後デイトナ・ビーチへ移り住みます。その地では“白人はサーフィン”といったような風習があったそうですが、彼らはロバート・ジョンソンをはじめとするルーツ・ミュージックに傾倒、少年時代からバンド活動をして過ごしていたそうです。

オールマン兄弟はいくつかのバンドを経て、ブルースを中心に演奏するアワーグラスというバンドでアルバムをリリースしています。契約していていたリバティからポップなアルバムの製作を強要された彼らは、自分たち本来のサウンドを追求したブルースを数曲レコーディングするものの、リバティ側はレコード化を拒否、アワーグラスは1968年に解散することとなります。セカンド・アルバム Power Of Love には当時バッファロー・スプリングフィールドに在籍していたスティーヴン・スティルスニール・ヤングがライナー・ノーツを寄せるほどの人気を誇っていただけに、リバティの判断について、今となっては疑問を抱いてしまいます。

一度デイトナに戻ったオールマン兄弟でしたが、デュアンはスタジオ・ミュージシャンとしての活動をはじめます。アレサ・フランクリンジョン・ハモンドボズ・スキャッグスなどのセッションに参加、その名を馳せていきました。そんな彼の噂を聞きつけたオーティス・レディングのマネージャー:フィル・ウォルデンは、自身が設立するレーベルの第1号アーティストにと誘いをかけ、了承したデュアンはバンド結成へと踏み切ります。ベースにベリー・オークリー、ドラマーのジェイ・ジェニー・ジョンソン、以前グレッグとともに31stオブ・フェブラリーで活動をしていたドラマー、ブッチ・トラックス、そしてディッキー・ベッツ!を迎え、セッションを重ねていきます。最終的にグレッグも呼び戻され、オールマン・ブラザーズ・バンドは誕生しました。

そして1969年11月、デビュー・アルバム オールマン・ブラザーズ・バンド をリリースします。やはりスワンプ・ロックはここから始まったと言うべきでしょう、ブルースを基盤としながらもまさにロック、ワイルドで、なんとも言えないルーズなタイム感が実に心地良く、ある意味洗練された、素晴らしくバランス感覚の整ったサウンドです。まぁ一言とにかく、「カッチョイイ〜」な要素がたくさん詰まっているのであります。そんな彼らに対して南部の人たちは当然の如く反応し、セールスを伸ばして行きます。

1970年に2枚目の アイドルワイルド・サウス 、1971年にはアトランティック・レコーズの反対を押し切りリリースされたという アット・フィルモア・イースト を発表、この2枚組ライヴ・アルバムは、後にライヴ・アルバムの名作中の名作と賞され、サザン・ロック、スワンプ・ロックという小さな枠にとらわれない、ロック界を代表するバンドという地位を確立しました。

そんな彼らに突然の悲劇が訪れることとなりました。1971年10月、デュアンは、バイク事故で帰らぬ人となってしまいます。僅か24歳の若さでした。彼は音楽と同じ位、バイクが好きだったとも言われていますが、家族やメンバーをはじめ、多くのファンたちを悲しませる事件でした。そして残されたメンバーたちは、新しいギタリストを加えることもなく、バンドを存続させる決心をしました。1972年、デュアンが生前に残したスタジオ録音3曲+未発表ライヴ+新曲で構成された イート・ア・ピーチ をリリース、全米4位となるビッグ・ヒットとなりました。しかし、“悲運のバンド”オールマンズの悲劇はまだ続いてしまうのです…。

ベースのベリー・オークリーが、1972年10月に他界してしまいます。彼もまた24歳時にバイク事故、そしてその現場はデュアンが逝ってしまった場所のすぐ傍だったと…。

新メンバーはラマー・ウィリアムズ。ツイン・キーボードの編成となりました。悲劇を乗り越えたバンドは、ディッキーがリーダーを務め、1973年に ブラザーズ・アンド・シスターズ を発表します。このアルバムは以前とは少し異なる作風ですが、良い楽曲が揃っており、セールス的にも頂点を極めました。しかし音楽性の食い違いからメンバー間に不和が起こり、その状況を映し出したような散漫ともとれる内容については賛否両論だったようです。

その後、オールマンズはアルバム、ウィン・ルーズ・オア・ドロウを1975年に発表。また同年に行われた60万人もの観客を動員した歴史的なライヴ、ワトキンス・グレンでのステージの模様を含む熱風もリリースされましたが、同年、グレッグが麻薬絡みの事件にて偽証をしたため、他メンバーから彼のグループでの存続を拒否されたことなどがきっかけで、オールマンズは事実上解散となりました。

1979年、いま、再び・・・のリリースで復活を遂げるものの、1981年には再び解散、1989年、結成20周年を記念してリリースされた4枚組CDボックス ドリームス を発表した後、再々結成、現在へと至ります。1994年の“ウッドストック94”への出演など、1990年代の活動はとても精力的なもので、それが高い支持を受け続ける要因となったようです。2000年には、N.Y.ビーコン・シアターにて行われたライヴ ピーキン・アット・ザ・ビーコン がリリースされました。

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