Elvis Costello
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Elvis Costello (エルヴィス・コステロ) プロフィール

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吹き荒れるロンドン・パンク・ムーヴメントの主要バンド達と同時期にデビューしながらも、パンク勢とはまた別種のエモーショナルかつ難解な歌表現やクセの強いメロディで人気を博した エルヴィス・コステロ。パンクのひきがねのひとつとなったパブ・ロック出身のコステロはそもそも過去の音楽に対する造詣が深かった。例えばコステロセックス・ピストルズのジョニー・ロットンよりも2歳ばかり年上で、また2歳上にはクラッシュジョー・ストラマーがいる。実際にパブ的なバンドから後にパンクへ転向したストラマーを見れば、この微妙な2年ほどの差が個人差はあるとはいえ、当時としては大きな違いだったのかもしれないな、と思う。

コステロの1stアルバムマイ・エイム・イズ・トゥルーにあったエネルギーはパンクと共鳴しながらも、50年代の米国ロックンロールやビートルズ1st的なサウンドの生々しさにも通じるものだったし、そもそもエルヴィスを名乗り、バディ・ホリーみたいな眼鏡をかけてデビューしたということからも、過去の音楽からのヒネリの利いた引用は明らかだった(既婚で他の仕事に就いて音楽活動をやっていたコステロは同時期にデビューしたパンク・バンドのことは比較的冷ややかに見ていたようだ)。

エルヴィス・コステロ(本名:デクラン・パトリック・マクマナス)は1954年8月25日、ロンドン郊外のパディントンに生まれた。父親はもともとジャズ・トランペッターをやっていたが(後にコステロのアルバムで共演)、ある種ヒッピー的な生活をしていたともいわれる。この父親の影響と、母親が好んだジャズのスタンダードや古いトーチ・ソングの類を聴きながら、幼いコステロは少なからずこれらからの音楽的な影響を受けて育った。またこの両親はリヴァプール出身で幼いコステロもリヴァプールにはよく行っていたという。

十代後半にコステロが愛聴していたのは、ザ・バンドヴァン・モリソンランディ・ニューマングラム・パーソンズといったアメリカのルーツ系音楽に通じているロックだった。学校を卒業したコステロは、コンピューター技師として働くかたわら、フィリップ・シティというバンドを結成。時は70年代半ばで、その頃に活躍していたパブ・ロックのバンド達と同様、パブを中心にライヴ活動を行っていく。

1976年になるとコステロは本格的にソロ・アーティストとしての活動を志す。彼が作ったデモ・テープに興味を示したのは、ドクター・フィールグッドのマネージャーをしていたジェイク・リヴィエラ。彼はチリ・ウィリ&ザ・レッド・ホット・ペッパーズブリンズレイ・シュワルツのマネージャーをしていたデイヴ・ロビンソンと組んで、インディ・レーベルのはしりともいえるスティッフ・レコードを始めたばかりのところだった。かくしてスティッフと契約したコステロは1977年3月、シングル“レス・ザン・ゼロ”でデビュー。続く2ndシングル、名曲“アリソン”を5月にリリースし、徐々に注目を集める中、7月に1stアルバムマイ・エイム・イズ・トゥルーを発表。ニック・ロウがプロデュースし、アメリカのバンド、クローバー(ヒューイ・ルイス&ザ・ニュースの前身)がバックを務めたこの作品が高い評価を獲得し、エルヴィス・コステロはパンクをきっかけに登場しつつも、その枠に留まらない新しいタイプのアーティストとして注目を浴びたのだった。

その後、エルヴィス・コステロはインディ・レーベルのデーモンから一年に1枚、多くて2枚という早いペースで多くの作品を発表――ジス・イヤーズ・モデル(1978年)、アームド・フォーセス(1979年)、ゲット・ハッピー (1980年)、トラスト(1981年)、オールモスト・ブルー(1981年)、インペリアル・ベッドルーム(1982年)、パンチ・ザ・クロック (1983年)、グッバイ・クルエル・ワールド (1984年)、キング・オブ・アメリカ (1986年)、ブラッド&チョコレート(1986年)――、そしてポール・マッカートニーとの共作曲含む1989年のスパイクからメジャーのワーナーに移籍し作品を発表していくことになる。 スパイク後のワーナー時代のアルバムは マイティ・ライク・ア・ローズ(1991年)、ブロドスキー・カルテットとの競演作 ジュリエット・レターズ(1993年)、ブルータル・ユース(1994年)、1990年には録音されていたというカヴァー集 コジャック・バラエティ(1995年)、ビル・フリーゼルとのコラボレーション作 ディープ・デッド・ブルー (1995年)、オール・ディス・ユースレス・ビューティ(1996年)。その後1997年からはマーキュリー・レーベルに移籍し、バート・バカラックとの競演作ペインテッド・フロム・メモリー (1998年)を発表、またその後 ペインテッド・フロム・メモリーの曲をビル・フリゼールがアレンジしたスウィーティスト・パンチ(1999年)をリリース。クラシック歌手とのコラボレーション・アルバム フォー・ザ・スターズ (2001年)を経て、この度2002年にはポップ作品 ホエン・アイ・ワズ・クルエル を発表する。なお1999年にはジュリア・ロバーツ主演映画 ノッティングヒルの恋人 の主題歌”シー”がヒットするという出来事もあった。

エルヴィス・コステロはキャリアを重ねていくうちに、過去の音楽への愛情をストレートに自分の音楽へと引き寄せつつ多大な音楽的業績を残すことになった。と同時にときに若いリスナーにはやや解りづらいシブ過ぎる音楽性をも見せたりもする。かつてアメリカで商業的な成功を求められて苦しんだコステロは、現在では自らの幅広い音楽的興味を第一義に考え、クラシック、ジャズ、といったポップスの範疇からやや逸脱する作品が出せるということを理由のひとつに挙げマーキュリーと契約したという(ワーナー時代にもそうした越境作品はあったが)。そうした経緯があるのは仕方ないことでもあるのだが、実際コステロの曲やメロディは基本的にポップであり、かつこれ以上ないほど良質なエモーションを聴かせる歌を中心にしたものだということを考えれば、リスナーが限定されてしまうのはやはり勿体ない気もする。その意味で近年話題となったノッティングヒルの恋人の主題歌”シー”のヒットは近年にしてはコステロにとっていい傾向だったのではないだろうかと個人的に思う。アーティスティックな嗜好は勿論尊重すべきだが、ベスト盤が売れ比較的多くのリスナーが普通に聴くようなシチュエーションにおいて、コステロのエモーショナルな歌は普遍的なポップスの輝きを帯びてくるように感じられて仕方がないからだ。個人的には、そうしたポップス・アーティストとしてのコステロという部分が今後の活動の中でどう出てくるのか、に注目したいし、その意味では今回リリースされる久々のポップ作ホエン・アイ・ワズ・クルエル でどのような表現を見せてくれるのか今から楽しみだ。

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