George Harrison
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George Harrison (ジョージ・ハリスン) プロフィール

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ジョージ・ハリスンは1943年2月24日、イギリスはリバプールの南地区ウェイバートゥリーで生まれた。リバプールの中でも特に労働者階級の多い地区として知られるウェイバートゥリーだが、ジョージの父となる人物もまたホワイトスター航路を往く客船のボーイとして働いていた。一方のジョージの母となる女性は八百屋で働くアイリッシュ系の娘で、そのジョージの父と恋に落ち、1930年に結婚している。ふたりの間には長女、長男が生まれたが、船員の給料で生活するには苦しいということでジョージの父は陸にあがり再就職先を探すことになった。その後失業保険で暮した後に、ジョージの父は公営バスの運転手の職を得て生活していくが、生活はやはりラクでないことには変わりなかった。そうこうするうちにハリスン家には3人目の子供が生まれ、そして1943年に男の子が生まれる。このハリスン家の末っ子は、時の国王ジョージ六世に因み、ジョージと名付けられたのだった。

手狭な住居での生活を強いられていたハリスン家は、1949年頃にそれまでよりはましな家をあてがわれることになった。廊下や浴室があり、トイレが外にない、といったことでもハリスン家の子供たちは喜んだという。その同時期にジョージは学校へ通うようになるが、地元の小学校の定員が既にいっぱいだという理由で、バス通学の必要な遠くの小学校へ通うことになった。両親はいろいろな面で心配したが、ジョージはそうした親に心配をかけることなく成長し、小学校を優秀な成績で修めた。またその後もジョージはイレヴン・プラスという学力診断でも高得点をとり、名門リヴァプール・インスティテュートへの進学を決めた。

ハリスン家は意外にショウビジネスに関わりのある一家だったという。リヴァプール・エンパイアなどで催されるヴァラエティ・ショウを家族で仲良く観に行ったり、ジョージの両親は社交ダンスを教える立場だった、という話が残っている。またジョージの父親は普段は愛想のない男だったが、労働組合の会合などではジョークを連発しながらステージを仕切るというところを見せ、周りから人気があったという。そうした家庭環境もあり、ジョージ・ハリスンは後に出会うスキッフルやロックンロールという音楽を聴く前に、古いジャズやラグタイムに親しんでいたのだった。

話を戻すと、1954年にジョージはリバプール・インスティテュートに成績優秀で入学したが、同校の古臭い校風に馴染めないこともあって、すぐにテディ・ボーイ風の格好をするようになる。またそのうちに仲間とタバコを隠れて吸うような問題児になってしまったが、それでも格好をのぞけばどちらかというと内気な少年という感じだったようだ。当時のジョージの興味は自動車レース観戦で、バイトで稼いだ小遣いはレース通いに使われることが多かったという。

そうした内気な少年だったジョージが決定的に変わるのは、やはりスキッフルやロックンロールのレコードに接するようになってからだった。ジョージはすぐ上の兄ピーターとデュオを組んだ。ギターはジョージの友人の父親が使わなくなったあまり大したものとは思われないアコースティック・ギターを親に買い上げてもらい使っていたが、最初はジョージがウォッシュボードを担当し、兄がギターだった。しかしギターに熱心だったのはジョージのほうで、やがて兄からギターを取り上げてしまうことになる。しかしこのギターはあまりに弦高が高いギターだったため思うように弾けなかったようで、ジョージは落胆したという。それを見て不憫に思ったジョージの母はまともなアコースティック・ギターをジョージに買い与えたが、するとジョージはすぐに上達し、いよいよ本格的なバンド結成に向けて動き出していく。ビートルズジョージ・ハリスンがいよいよ動き出したのだ。

同じ路線のバスで知り合ったまだ学生のポール・マッカートニーとギターの腕前を競い合うようになったジョージは、その後もまじめにギターに取り組み地元のセミプロ・バンドのギターに負けないくらいの実力をつけていった。そして念願のエレクトリック・ギターを手に入れたジョージは、レベルズという最初のバンドを結成。このバンドはジョージ・ハリスンと兄のピーター、そしてジョージの学友などで結成された5人組だったが、ピーターの就職や学友の両親の反対などにも遭い、たった一度のステージを踏んだだけで終わった。

一回のステージでレベルズが解散してしまった後、ジョージ・ハリスンは地元のセミプロ・バンドのオーディションに出かけもしたが、まだ学生だからという理由で落とされたりしたという。そんなジョージが音楽活動を再開したのはレス・スチュワート・カルテットというバンドに加わってからだ。そしてこの後すぐにジョージにチャンスが巡ってくる。ジョージを自分のやっているバンドに引き込みたかったポール・マッカートニーの誘いにより、(まだ美術学校の学生だった)ジョン・レノンの前でギターを弾いてみせたジョージは、ジョンに気に入られジョンとポールがやっていたクォリーメンに準メンバーとして加入することを許されたのだった。この頃のエピソードとして有名なのは、ジョージは、何かと言うと憧れていたジョンと彼の恋人シンシアにくっついて歩くのでジョンが閉口したという話だ。

この後、クォリーメンはメンバー交替などを経て、ジョニー&ザ・ムーンドッグス、シルヴァー・ビートルズ、ビートルズと改名を重ねていくが、ついにあの知られた4人によるビートルズとして1962年10月5日、シングル“ラヴ・ミー・ドゥ/P.S.アイ・ラヴ・ユー”でデビューを飾る。その後のビートルズの活躍はよく知られた通りだ。

ビートルズのリード・ギタリストとして、またバンド後期から作曲面でも実力を発揮し始めたジョージ・ハリスンは、ビートルズ解散後、ソロ・アーティストとして活躍した。1970年11月にLP3枚組(CDでは2枚組)による本格的な初ソロ作 オール・シングス・マスト・パス を発表――それ以前の1969年にはサウンドトラック 不思議の壁(Wonderwall)、電子音楽の世界(Electric Sound)をアップル・レコードから発表している。英米でナンバーワンを記録した“マイ・スウィート・ロード”を収録した同作は、全米でナンバーワン、全英で最高位4位を記録するヒット作となり、また音楽的にも高い評価を受けた。翌1971年8月1日にはラヴィ・シャンカールの要請でNYマジソン・スクエア・ガーデンにて「バングラ・ディシュ救済コンサート」を主催。このイベントにはリンゴ・スターボブ・ディランエリック・クラプトンレオン・ラッセルといった錚々たるメンバーが揃った。この模様は3枚組LP バングラ・デシュ(Concert For Bangladesh) 、そして映画 「バングラ・デシュのコンサート」に収められた。

1973年5月 アルバム リヴィング・イン・ザ・マテリアル・ワールド(Living In The Material World) を発表。全米ナンバーワン・ソング“ギブ・ミー・ラヴ”含む同作はアルバムとしても全米1位/全英2位のセールスを収めた。1974年には自らのレーベル「ダーク・ホース」を設立。シタールの師ラヴィ・シャンカール、デュオのスプリンターを売り出した。また同年12月にアルバム ダーク・ホース(全米最高位4位)を発表したジョージは、それに先立つ11月から27都市を廻る50回ものアメリカ公演ツアーを行うが、これは不評に終わっている。ここで肉体的にも精神的にも疲れ果てたジョージ・ハリスンは、翌1975年10月ジョージ・ハリスン帝国(Extra Texture)を発表。これでアップルとの契約を満了したジョージは、晴れて自己のダーク・ホース・レーベル(配給はワーナー)に移籍することになった。

1976年12月 移籍第一弾となる 33 1/3(33 & 1/3)を発表(全英35位/全米11位)。そして1979年3月には 慈愛の輝き(George Harrison) を発表し(全英39位/全米14位)、またデニス・オブライアンと映画会社ハンドメイド・フィルムスを設立する。

一方この頃のジョージの私生活面はというと、妻パティと離婚(彼女はジョージの親友エリック・クラプトンと再婚―デレク&ドミノスの“レイラ”がパティを想って書かれたというのは有名な話)し、A&Mレコードの秘書だったオリヴィア・ブライアンと再婚、また1976年には“マイ・スウィート・ロード”がシフォンズの曲“ヒーズ・ソー・ファイン”の盗作と認定され、58万7千ドルを支払うように命じられるなど、かなり波乱含みのものだった。

1980年に2000部限定の自叙伝「I, Me, Mine」を出版。そして翌1981年6月には、アルバム 想いは果てしなく―母なるイングランド(Somewhere In England) を発表(全英13位/全米11位)。この作品からは、ジョン・レノンに捧げた“過ぎ去りし日々”が全米で2位と、久々のヒット・シングルが生まれた(因みに同曲にはポール・マッカートニーリンゴ・スターが参加している)。翌1982年12月に ゴーン・トロッポを発表。これはジョージ・ハリスン自身がプロモートに消極的だったこともあり全米最高位108位(全英ではチャート記録なし)とセールス的に不調に終わる。そうしたこともあってこの時期にジョージの引退説も囁かれたが、1985年には映画「ポーキーズ〜最後の反撃」のサウンドトラックに参加したり、カール・パーキンスのTVスペシャルに出演し、「みんないい娘」などをプレイ。また1986年にはデュアン・エディのアルバムに参加するなど健在ぶりをアピールした。ただ同時期にプロデュースしたマドンナの映画「上海サプライズ」は失敗に終わっている。

1987年6月、プリンス・トラスト・コンサートに出演。ビートルズ時代の楽曲“ホワイル・マイ・ギター〜”、“ヒア・カムズ・ザ・サン”をプレイ。そして11月にはELOのジェフ・リンとの共同プロデュース作 クラウド・ナイン(Cloud Nine) を発表。第一弾のシングルとなった“セット・オン・ユー”は翌年1月にジョージにとって15年ぶりの全米ナンバーワン・ソングとなり、アルバム自体も全米で7位、全英で10位を記録する久しぶりのスマッシュ・ヒットとなった。また第二弾シングル“FAB”の、ジェフ・リンが絡んだと思しき中期ビートルズの本歌取り的なサウンドや、リンゴ・スターも出演したユニークなビデオも話題となった。

1988年にジョージ・ハリスンは、ロイ・オービソンボブ・ディラントム・ペティ、ジェフ・リンらと覆面ユニットという名目(当初)でプロジェクト、トラヴェリング・ウィルベリーズを結成。その一作目、ヴォリューム・1は全米10位を記録し、またグラミー賞の最優秀ロック・グループ部門を獲得した。1990年の作品 ヴォリューム・3で再びトラヴェリング・ウィルベリーズに参加したジョージは、この前後にウィルベリーズの仲間であるジェフ・リン、ボブ・ディランといったところをはじめ、エリック・クラプトンジェフ・ヒーリー・バンドなど数多くのアーティストの作品にゲスト参加するなど、活発に活動を展開した。さらに1991年12月にはエリック・クラプトンとそのバック・バンドの協力を得て日本ツアーを敢行(この模様は翌1992年7月に ライヴ・イン・ジャパン として発表されたが、現在は廃盤)。その後ジョージは、ジミー・ネイルのアルバムやゲイリー・ムーアのライヴに参加。また1992年10月16日、NYマジソン・スクエア・ガーデンで行われたボブ・ディランデビュー30周年記念トリビュート・コンサートにも出演している。

90年代半ばにはビートルズ・アンソロジー・プロジェクトに参加。同プロジェクトは1995年にアンソロジー1(Anthology 1)とテレビ特番 ビートルズ・アンソロジー、1996年にアンソロジー2(Anthology2)  、アンソロジー3(Anthology 3)を生み、ジョージはアンソロジー1(Anthology 1)で発表されたフリー・アズ・ア・バードアンソロジー2(Anthology2)  で発表されたリアル・ラヴというビートルズの「新曲」で、ポール・マッカートニーリンゴ・スターとともにプレイを披露した。しかしその後1997年にジョージは喉頭癌の手術を受け、本格的な音楽活動には向かえなくなってしまった。またこの後1999年末に、ジョージは自宅に押し入った暴漢に襲われるアクシデントにも見舞われるが、これは見事に回復し事なきを得たのだった。そして今年2001年1月には名盤 オール・シングス・マスト・パスのニュー・センチュリー・エディションを発表。ここには2000年にジョージが録音した“マイ・スウィート・ロード2000“や、未発表だった曲なども収録されていた。また、このリリースにあわせてオフィシャル・ウェブサイトを立ち上げている。2001年に入るとインタビューなどで今後の音楽活動への展望を明らかにしていたジョージだが、しかし2001年5月に肺癌の手術を受けることとなり、またジョージに対するニュースがメディアを騒がせることになった。術後は順調に回復したと報じられ写真で元気な場面を見せることもあったが、11月に入り再手術を受けるなど容体は悪化していた。11月30日午後、ジョージ・ハリスンは、米ロサンゼルスの友人宅でがんのため死去した。享年58歳だった。

そしてジョージの死から1年、遺作となるブレインウォッシュドは発表された。ジョージの優しい人間性に満ちた掛け値なしに素晴らしい作品である。1周忌にあたる2002年11月29日には、ジョージ最愛の妻であるオリヴィアと盟友エリック・クラプトンが中心となり、ロンドンのロイヤル・アルバート・ホールでジョージを偲ぶトリビュート・コンサートが開かれた。このコンサートは2003年にCDDVDの2つのフォーマットでリリースされている。そして2004年には長らく廃盤になっていたダーク・ホース時代のアルバム、『Thirty Three & 1/3』『George Harrison(慈愛の輝き)』『Somewhere In England’想いは果てなく〜母なるイングランド』『Gone Troppo』『Cloud Nine』『Live In Japan』が再発される予定だ。

東洋思想に深い影響を受け、どこかシャイで落ち着いた佇まいを持っていたジョージ・ハリスンは日本のビートルズ・ファンに愛される親しみ易い存在だった。圧倒的な才能だったジョン・レノンポール・マッカートニーに次ぐ、ビートルズ第三の男としての地位から、徐々に自分の音楽に磨きをかけ頭角を表わしてきた部分に共感を覚えるファンも少なくないだろう。また80年代後半辺りから、ギャラクシー500の”イズント・イット・ア・ピティ”のカヴァーや、そのギャラクシーのプロデュースでも知られるシミー・レーベルのクレイマーオール・シングス・マスト・パスのパロディ・ジャケを持つ作品を発表する(クレイマーは大のビートルズフリーク)などといったことを通して、あるいはジョージ・ハリスンの持ち味に通じるような、抑揚は少ないながらも愛らしいメロディと技術的、音響的な部分を組み合わせて聴かせるようなサウンド作りを感じさせる新世代のシンガー・ソングライター達の登場によって、オルタナ世代のリスナーにもジョージ・ハリスンが再評価されるようになったことも付け加えておこう。

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