ビッグ・ブラザー〜の正式なデビュー・アルバム アンダー・グラウンドの王者 Big Brother & The Holding Company を1967年にメインストリーム・レーベルからリリース。しかしプロデュースの失敗その他でジャニスのヴォーカルを活かし切れなかった同作品は、全米チャート60位止まりとなり、商業的には失敗作といえた(後にこの作品は後にCBSが買い取り、シングル・リリースのみだった“クークー” 、 “最後の時”を加え、 ジャニス・ジョプリン・ファースト・レコーディング Big Brother & The Holding Companyとしてリニューアルされ再発)。
このステージの話題がきっかけとなり、ジャニスはCBSと契約。ジャニスとビッグ・ブラザー〜の本領がライヴにあることを感じ取った会社は、ニュー・ヨークとサンフランシスコでのライヴで構成されたアルバム チープ・スリル Cheap Thrills を1968年9月にリリース。同作品は8週連続ナンバー・ワンという大ヒットを記録した。またシングル・カットされた アーマ・フランクリンのカヴァー“心のかけら Piece Of My Heart”も12位まで浮上するヒットとなった。しかしこのアルバム最大の聴きどころは、何といってもガーシュインの名曲“サマータイム”と前述の“ボールとチェイン”での絶唱だった。そうした歌唱の凄まじさによって、ジャニスの名は音楽誌のみならず、タイムやニューズウィークといった有名な一般誌にまで取り上げられるほどになった。なおこの作品は1968年3月から5月にかけて制作されており、ニューヨークのフィルモア・イーストとサンフランシスコのウィンターランドでのライヴで構成されているが、それまで白鳥の歌 Farewell Songなどで聴くことの出来た4月12/13日のウィンターランドでのライヴは、別ヴァージョンで構成され、1998年にライヴ・アット・ウィンターランド'68 Live At Winterland '68としてリリースされた。
折からの‘ロック革命‘の嵐の中で、ジャニスはロック界初の女性スーパースターの地位を得たが、この直後、既に噂されていたようにジャニスはビッグ・ブラザー〜を脱退することになる。この脱退劇についてはジャニスの才能とバンドの演奏力/表現力とのギャップといった話が、やはり真相として有力視されているが、ジャニスの存在を受け止めるバンドが現れるのはもっと先のことだった。1968年12月1日、サン・フランシスコのアヴァロンでのステージを最後にジャニスはビッグ・ブラザー〜のもとを離れた。この後もバンドとしてのビッグ・ブラザー&ザ・ホールディング・カンパニーは、元エレクトリック・フラッグのニック・グレイヴナイツらを加え、ビー・ア・ブラザーBe A Brother(1970年)、恋とは辛いものHow Hard It Is(1971年)といったアルバムをリリースしたが、1972年に解散する。
そうした間に、ジャニスは初のソロ・アルバム コズミック・ブルースを歌うI Got Dem Ol’Kosmoc Blues Again Mama!(1969年11月)をリリース。最高位全米41位を記録した“コズミック・ブルース”はジャニス自身が書いた詞に、プロデューサーのガブリエル・メクラーが曲をつけたもので、彼女の25年間の人生を歌い込んだものとして多くのリスナーの共感を呼んだ。しかしアルバム自体の出来としては“トライ”という彼女の名曲や、ビージーズのカヴァー“ラヴ・サムバディ”などを収録してはいるものの、いささかオーヴァープロデュース気味ともいえる側面もあるなどと指摘されることもあった。ただ商業的には全米で最高位5位を記録し、ミリオンセラーとなってはいるのだが。
彼女の遺作は、お気に入りのニックネームからパール Pearl と名付けられ、1971年にリリースされた(全米9週連続ナンバー・ワンを記録。シングルの“ミー・アンド・ボビー・マギー”も唯一のナンバー・ワン・ヒットとなった)。ジャニスの死後も1972年に未発表ライヴ音源を集めた ジャニス・イン・コンサート Janis In Concertをはじめ、さまざまな未発表テイクやライヴ音源が出回ったり、ドキュメンタリー映画 ジャニスJanisが1974年に公開されるなどした。またベット・ミドラー主演の映画ローズRose(1979年)はジャニスをモデルにしたものだった。