Nirvana
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Nirvana (ニルヴァーナ) プロフィール

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やはりココから書き始めるほかないけれど、グランジ・ムーヴメント(終わってしまった今となってはマーケティング的なネーミング以上のものではないが)の英雄としてカート・コバーンやニルヴァーナは語られる。賢明なファンはそうして祭り上げる事がカートを自殺に追い込んだことを知っている。生涯一パンクスを貫こうとした男がやはり世間的には'英雄'、'スーパースター'以外の何者でもなかったという悲劇(一度でもロックを聴いたことがある人はこれを'ナイーヴ過ぎる'で済ますことは出来ないはずだ)。ただ彼らの音とマトモに対峙し、バイオを追っていけば自分らと何ら変わらない”唯のパンク〜ロック好きのミュージシャン”というカート・コバーンの素顔に出会えるだろうし、熱心なリスナーはそこに安堵に似たものを見出すだろう――

’67年2月20日、アメリカ北西部ワシントン州のシアトル郊外、アバディーンという林業だけで成り立っているような小さな町(イメージとしては米TVシリーズ 『ツイン・ピークス』的な場所)に生まれ育ったカート・コバーン。彼が小学校3年生の時に両親が離婚。それ以降、親戚の家をたらい回しにされた彼はフラストレーションからマリファナに溺れてはエアロスミスAC/DCを聴き狂う、という思春期を送る。本人が後に語ったように、地方都市近郊のうらぶれた町という閉鎖的な環境も影響していただろう。

そんなカートを救ったのがパンク・ロックだった。特にブラック・フラッグなどUSハードコアにのめり込んだ彼は、一時期はかつて聴いていたAC/DCキッスなどのアーティストは消えかかるほどのめりこんだようだ。しかし、後のニルヴァーナの活動で判るように、彼はパンクを軸にそれまで聴いてきたハード・ロックの要素を自分達のサウンドに採り入れ、オリジナリティあるサウンドを作るようになる(このパンク〜ハードコアとハードロックを並列に見るというような、サウンド志向の視点は昔からのUSバンドの特徴といえる)。

フェイカル・マターズ、テッド・エド・フレッド・ブリスなど次々とバンドを作っては壊していたカートが、クリス・ノヴォゼリックと出会いニルヴァーナを結成したのは’87年12月のこと。正式なドラマーが居ないままバンドはスタートし、シアトル周辺でライヴ活動を行っていたが、’88年に初代ドラマー、チャド・チャニングが加入し形が整った。後にマッドハニーパール・ジャムのメンバーとなる人物が在籍した伝説の’ファースト・グランジ・バンド’、 グリーン・リヴァーサウンドガーデンなどはこの時期既に当地のシーンで活躍していた。のちに”グランジ・ロックの総本山”と呼ばれるようになるサブ・ポップ・レコードは7”シングルを中心に扱う”サブ・ポップ・シングル・クラブ”なるもの(申し込めばリリース毎にシングルを送ってくれる通販のようなもの)を展開し、アンダーグラウンド・ファンに人気を博した。 ニルヴァーナもそのサブ・ポップからデビュー。ファースト・シングルは’60〜’70年代に一世を風靡したオランダのポップス・グループ、ショッキング・ブルー(”ヴィーナス”のヒットで有名)の曲をカヴァーしA面に据えた”Love Buzz / Big Cheese”だった。またグランジのバイブルともいえる有名なコンピレーション、Sub Pop 200に参加したりもした。

そして’89年6月、1stアルバム ブリーチを発表。この頃セカンド・ギタリストとしてジェイソン・エヴァーマンが4人目のメンバーとなるが、即座にクビ。またチャドも抜けた。新ドラマーにはデイヴ・グロールが迎えられ、遂によく知られたあのニルヴァーナのラインナップが揃った。1990年はライヴ音源も含むシングル Sliverなどのリリースもあり、アンダーグラウンドで沸々とヒートアップしていくシーンとニルヴァーナという名前は一部のロック・ファンには知られるようになった(当時、某音楽誌の年間ベストみたいな企画でアングラ大王ソニック・ユースサーストン・ムーアTADらと共に名を挙げニルヴァーナはイイ! と言っていた事を思い出す)。

間もなくニルヴァーナはメジャー・レーベルのゲフィンと契約(それ以前にソニック・ユースが契約しており、シングルなどを別のレーベルから出せるといったバンド側に有利な契約をモノにしていたので、それに倣った、とカートは語っていた)。そして’91年、バンドはあの歴史的な一枚 ネヴァーマインド を発表する。プロデューサーはブッチ・ヴィッグ(現在はガービッジというバンドをやっている)。当時先述のシングルなどを聴いてきたファンにとっては、この作品が何か戸惑うようなサウンドだったことは正直告白せねばならない。筆者のようにパンク以降のニュー・ウェイヴの流れを聴いてきた者には、ソニック・ユースダイナソーJRピクシーズといったギター・バンドに比べ頭抜けてハード・ロック色が強いと思われたからだ(日本盤ライナーノーツはクロスビートからBURRN!に移った編集の人<逆でしたっけ?>だったという印象も強かったかも)。それはともかくこのアルバムはアメリカ国内を中心にジワジワと売り上げを伸ばしていき(この背景にはバンドの過酷なロード・ツアーの成果もある)遂には’91年暮れの時点で30万枚(この種のバンドとしては異例のことだった)を売った。MTVでシングル スメルズ・ライク・ティーン・スピリット のビデオ・クリップが頻繁にかかるようになる’92年には同曲は全米1位を獲得する快挙を成し遂げた。このヒットの背景にはよく’ジェネレーションX’とかフラストレーションを抱えた無気力世代とか呼ばれる層がアメリカのマーケットの中心になっていたことが言われる。しかし、その需要を満たす条件に適ったバンドは、アートっぽいスマートさを持つソニック・ユースやインテリ大学生臭さ漂うダイナソーではなく、ある種の’ベタさ’と斜陽な地方都市周辺特有の秘めた熱さを持ったニルヴァーナだった。

急速に有名になったバンドとそのカリスマ、カート・コバーンはこうした状況やゴッシプに面喰らい、悩まされた。それでもヨーロッパ中心にライヴ活動は続け、この時期来日も果たしている。オアシスが武道館で演るのを当たり前と思っている若いファンには信じられないだろうが、 ニルヴァーナ>の公演はクラブ・チッタ川崎や名古屋、大阪などのクアトロ系のハコを廻るものだった(どの会場でもパジャマを着てカートは演奏した〜リヴァー・フェニックスが映画で演じた役のように意識と関係なく唐突に眠ってバタンと倒れてしまう病気に罹っているからだとウワサされた)。

’グランジ’という言葉はひとり歩きを始め、一大現象とさえ言えるものとなっていた。グランジ・ロックの名のもと、以前ではメジャー・カンパニーが見向きもしなかったようなバンドが幾つもメジャー・デビューした。それはある種の人には、セックス・ピストルズが出現し隆盛を誇ったUKパンクの状況と似たものに思えた。実際、現在活躍する優れたオルタナティヴのアーティストがこのグランジというムーヴメントを何処かしらで意識せざるを得ない、という状況がそれを物語っている(パンク同様シーンを一掃し、ポスト・パンク的な、より幅広い音楽性を生んだ)。

’92年、カート・コバーンはホールのコートニー・ラヴと結婚、愛娘フランシスを授かる。この頃、ゴシップ・ネタをエスカレートさせるマスコミに対するカートの不満、憤りが頂点に達していたことや、クスリのせいで、カートはむやみやたらと過激な発言・行動をするようになる(同業のバンドへ向けられた批判も…)。またMTVアウォードに出演した際にはのちにイン・ユーテロに収録される レイプ・ミー を演奏しようとして曲目変更を迫られたという事件もあった。入手困難だった初期のシングルなどを集めた編集盤 インセスティサイド を’92年にリリース。

’93年9月アルバム イン・ユーテロ  リリース。プロデューサーは元ビッグ・ブラッグレイプマン、現シェラックのスティーヴ・アルビニ。シカゴ・アンダーグラウンドの頑固一徹インディ・オヤジとして知られたアルビニ起用は、行き届いた前作のサウンド・プロダクションの反動とも、へそ曲がりなパンク魂とも言われた。果たして出来あがった作品は’剥き身のサウンド’が気持ちのいい快作となった。11月、のちにアルバム MTVアンプラグドとして音源化されるセッションの番組収録。

イン・ユーテロ の評判も上々で、 ニルヴァーナの次の活動にもリスナーからの注目が集まっていた頃のことだった。’94年に入ってカートがローマの宿泊先でドラッグのショックで倒れたという事故が起こる。またそんな記憶もまだ生々しい4月、さらに衝撃的なニュースが――カート・コバーンがピストル自殺を遂げたというニュースが世界を駆け巡った。死体が発見されたのは4月8日、しかしその6日ほど前から行方不明になっていたため、当初命日は4月1日だろうと言われていたが、現在では公式に4月5日が命日とされている。その死直後、カートの妻コートニーはカートが’悲劇の英雄’であることを否定、’後追い’をしないようファンに声明を送った。

しばらく沈黙を守った遺されたメンバーはそれぞれ、デイヴ・グロール(ドラムからギター、ヴォーカルに転身)はフー・ファイターズを、クリス・ノヴォゼリックはスウィート75というバンドを結成し活動している。

’96年、過去の音源から成るライヴ盤 マディ・バンクス〜 発表。ライヴでのニルヴァーナのテンションが尋常ではなかったことを物語る貴重な音源だし、またそこに込められた熱さや想い、サウンドそのものは、今聴いても震えがくるほどの感動を(陳腐なニルヴァーナ伝説を越えて)与えてくれる。

ニルヴァーナのファンの間で長らく待たれているものがある。いつであったかは正確に記憶していないが、未発表音源などを多数収録するというボックス・セットだ。残されたデイヴとクリスの二人はGOサインを出すも、やはりコートニーがなかなか首を縦に振らないのであった。何年かの話し合い(というほど穏やかでなかったと思うが)の結果のとりあえずの折衷案としてベスト・アルバムの発売まではなんとか漕ぎ着ける事が出来るのだった。そのベスト・アルバムとはシンプルにバンド名が冠にされたニルヴァーナ。ハイライトはなんといっても冒頭の未発表曲“ユー・ノウ・ユー・アー・ライト”。コートニーが「ペイン」と聴き違えたもの頷ける、ものすごい数の濁点がついた「ヘイ!」というフレーズがなんとも印象的。これがボックス・セットへの足がかりになってくれればいいのだが…。  

Grunge
どんなムーヴメントでもそうだが、'グランジ'という言葉やイメージもココからココまでという風には説明出来ない。とりあえず押さえておきたいのは本文でも触れたグランジの代表的オムニバスと言われるSub Pop 200と”伝説のバンド”グリーン・リヴァー 。前者は当時在籍したサブ・ポップ・レーベルの代表的なバンドを収録。後者はマッドハニーのマイク・アームやパール・ジャムのストーン・ゴッサードらが在籍した”ファースト・グランジ・バンド”。

Kurt’s Favorite Groups
カート・コバーンが好んだバンドは数多いが、代表的なところといえば少年ナイフレインコーツヴァセリンズなど。どのバンドにもパンクの”D.I.Y.(自分でヤれ)”精神を感じる。レインコーツのCDライナーはカートが執筆。またヴァセリンズのカヴァー2曲は編集盤インセスティサイド に収録されている。USのバンドではメルヴィンズミート・パペッツなどにリスペクトを表明していた。

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