プリンス・ロジャー・ネルソンは1958年6月7日、ジャズ・バンドのリーダーだった父親とシンガーだった母親の間にミネソタ州ミネアポリスに生まれた。両親はプリンスが7歳のときに離婚してしまい、淋しさをまぎらわせるためにピアノをはじめ、やがてギター、ベース、ドラムスなどを次々に独学でマスターしていく。そして12歳のときに初めて自分のバンドを結成、14歳のときにはデモ・テープを作っていたという。白人ばかりの街ミネアポリスでプリンスはブラック・ミュージックだけでなく様々な音楽を聴いてその才能を培っていく。当時のバンド活動の音源は「One Man Jam」というアルバムで聴くことができる。 プリンスがワーナー・ブラザーズからファースト・アルバム「フォー・ユー」を発表したのは78年のことだ。ワーナーはメジャーながらも大きな賭けに出たのか、この弱冠17歳の青年にセルフ・プロデュース&セルフ・レコーディングを任せたのである。全曲オリジナル曲。MCハマーがカヴァーした事でも有名になった性愛路線のシングル"Soft And Wet"は全米ポップ・チャートで92位どまりに終わる。
79年に発表されたセカンド・アルバム「プリンス」(邦題:愛のペガサス)は日本でのデビュー作となる。前作よりも才能は開花し、ファルセットを多用したり、後にチャカ・カーンにとりあげられた"I Feel For You"のようにポップなダンス・ナンバーからロックっぽいギターが特徴の"バンビ"など後のプリンスを彷佛とさせる。
しかし、80年の「ダーティ・マインド」はジャケットの写真からもわかる通り、もう黒人音楽のエロいなんてものを通りこし、バイセクシャルな匂いプンプン。なんてったってビキニパンツだ。中身もオーラル・セックスを連想させる"Head"や近親相姦を題材にした"Sister"といった超・過激な内容(案の定この2曲は放送禁止に)。続く「コントラヴァーシー」(81年)には自らのゴシップを題材としたタイトル曲、レーガン大統領にロシアとの対話を求めた"Ronnie, Talk To Russia"のような曲を収録。
82年の「1999」はオールド・プリンス・ファンの間で最高傑作と言われる作品。第一弾シングル"Little Red Corvette"はMTVでも頻繁にオンエアされ、初めて全米ポップ・チャートのトップ10入りを果たす。アシッド・ハウス、ロック、バラードと全てのスタイルで唯一無二のプリンス・サウンドが完全に確立した。
91年にはニューパワージェネレーションを結成、「ダイアモンズ・アンド・パールズ」をリリース。その後、ワーナーともめたり、The Artist Formerly Know n As Princeへの改名(これは印刷会社の人も困ったとか)などあり、「カム」は殿下としては不本意な作品。そして、99年アリスタ移籍第一弾「レイヴ・アン2・ザ・ジョイ・ファンタスティック」をリリース。この作品はプリンス自身も様々な問題が吹っ切れたのか、全盛期を思わせる内容となった。もちろんThe Artist〜名義でリリースしたものの、プロデュースはプリンス名義。ノーダウトのグウェン・ステファニーやシェリル・クロウをフィーチャーしたポップ・ソング、チャックD、メイシオ・パーカー、Eve、アーニー・ディフランコがゲストで参加している。
「Albums, Remember Those? Albums still matter. Like books and black lives, albums still matter. 」 「みんなアルバムって覚えてるかい? アルバムはまだ大事だ。本とか黒人の命と同じようにアルバムって重要なんだよ」