Red Hot Chili Peppers
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Red Hot Chili Peppers (レッド・ホット・チリ・ペッパーズ) プロフィール

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Red Hot Chili Peppers

パンクにファンクにラップにメタル、これらを組み合わせユニークなサウンドを聴かせる「ミクスチャー・ロック」。10年ちょっと前によく呼ばれたこの呼称は、現在ではあまり使われないが(というかこの種のミックスが定着したということもある)、その元祖的な存在がレッチリことレッド・ホット・チリ・ペッパーズだ。勿論、彼らがその元祖である、と言い切ることはどんな音楽スタイルであれ、難しいことは確かだ。音楽はシーンの中で影響し合い、されながら作られていくものだから。例えば同時期のフィッシュボーンも元祖的存在として思い起こされるし、80年代後半に「ミクスチャー系」と呼ばれたグループが多様な個性を持っていたことも忘れられない。レッチリのデビューよりかなり後だが、リンボー・マニアックスやフェイス・ノー・モアなども「ミクスチャー」と呼ばれることが多かったし、個人的な見解になるが、フェイス・ノー・モアジェーンズ・アディクションには何かメタルっぽい感触(従来使われていたメタルっぽさとは異なるが…)があったし、ご存知のようにフェイス・ノー・モアはプログレ的な音楽性を取り込んだものに徐々にシフト、またジェーンズは今や「オルタナの父」ペリー・ファレルのバンドとして知られている…というようにこの呼称の実体はかなり曖昧であった。時にはギター・ヒーロー的なスティーヴィ・サラスなどもここに括られることがあったし。

ともあれ、現在の「ヘヴィ・ロック」や「ラップ・メタル」というような様式的なサウンド・スタイルのものより当時の「ミクスチャー系」という呼称に多様性があったことは確かだし、商業的なムーヴメントというものにならなかったことがこの時期にポツポツと全米に現れ始めた意識的なバンドの特異性と面白さを逆に証明していたのではなかったろうか、と思う。

レッド・ホット・チリ・ペッパーズのアンソニー・キーディス(1962年11月1日生)とフリーことマイケル・バルザリー(1962年10月16日生)は、ロサンゼルスのメルローズにあり、後にガンズ&ローゼズスラッシュレニー・クラヴィッツらも通っていたことで有名になるフェアファックス・ハイスクールに同時期に通い、1977年二人が15歳の頃に出会っている。もともと音楽にさほど興味を持っていなかったというこの時期のアンソニー。彼は国語の女性教師の勧めで詩を書くようになり、演劇活動にも参加するようになっていた。そんな彼は、学校の昼休みに熱弁をふるう音楽好きの生徒と親しくなった。それがブラス・バンドでトランペットを吹いていたマイケルだった(因みにマイケルがトランペットを吹くようになるきっかけは、母親の再婚相手がジャズ・ミュージシャンだったので、影響を受けたのだという)。ハイスクール時代に仲良くなった二人は卒業後も交流を深めていったという。またマイケルの影響で、アンソニーもかなり音楽の魅力にのめり込んでいったと言われている。当時二人がよく聴いていたのはグランド・ファンク・レイルロードキッスといったハードロックだったという。

卒業後、サンタモニカのグラフィック会社に勤務するようになったアンソニーと、フィアーというバンドでギタリストとして活躍するようになっていたマイケルが、共同生活を始めるようになったのは、1980年前後のこと(共同生活は彼らと二人のフランス人との4人で営まれた)。当時LAのシーンではブラック・フラッグXといったバンドが評判を呼んでおり、彼らもまたこのシーンから多大な影響を受けている。またマイケルはそれと同時にグランドマスター・フラッシュなど初期ヒップホップやファンクにも愛着を示したという。

そうした中レッチリが立ち上がるのはひょんなことがきっかけだった。急遽、友人のバンドの前座を頼まれたアンソニーとマイケルは、以前同じ学校に通っていたハイレル・スロバグ(g)、ジャック・アイアン(ds)に声を掛け、時間がないまま、いきなりセッションを行いその場で一曲作ってしまった。これが後にデビュー作にも収録される(『アウト・イン・LA』)。ここで早くも何かを掴んだ彼らはバンド名を変えながらステージでの演奏を重ねていった。このバンドが後にレッド・ホット・チリ・ペッパーズと呼ばれるバンドの始まりだった。

会社員を続けていたアンソニーの給料を資金にしてデモ・テープを制作したバンドは、まもなく見事EMIアメリカ傘下のエニグマと契約を果たす。しかしここでハイレル・スロバグとジャック・アイアンは当時在籍し、既にMCAからデビューしていたバンド、ホワット・イズ・ディスの契約が原因で、バンドとは袂を分かつことになってしまった。そのため急遽彼らの代役としてジャック・シャーマンとクリフ・マルティネスが起用され、元ギャング・オブ・フォーのアンディ・ギルのプロデュースのもとファースト・アルバムが制作された。そしてそのデビュー作『レッド・ホット・チリ・ペッパーズ』(Red Hot Chili Peppers)は1984年夏に発表された。

その後契約問題がクリアーされたハイレルとジャックを再び迎え入れたレッチリは、フリー(マイケルはレッチリ結成時からこう名乗るようになっていた)のアイディアでファンク界の巨人、ジョージ・クリントンをプロデューサーに迎え次作を制作。そのセカンド・アルバム、『フリーキー・スタイリー』(Freaky Styley)は1985年に発表された。

ライヴでの評判も上々だったレッチリは徐々に評判を高め、1988年にサード・アルバム、『ジ・アップリフト・モフォ・パーティ・プラン』(The Uplift Mofo Party Plan)を発表。本作のインナースリーヴで、彼らは局部にソックスをつけただけの格好で登場、またこの時期初の欧州ツアーに合わせてリリースされたミニ・アルバム、『アビー・ロードEP』(Abbey Road EP)のジャケットでは、ビートルズのパロディで、アビー・ロード・スタジオ前の横断歩道を裸体で闊歩するというアホな話題を提供し、その音楽性とともにファンキーな突き抜けっぷり、ファンク直伝の笑いの要素をも印象づけた(当時はよく変態バンドなどという名誉ある呼称で呼ばれていた)。

サード発表と同年5月には、幻となってしまった来日公演も予定されていた。結局、ハイレル・スロバグのドラッグによる体調不良が原因で中止となったが、そのハイレルは6月27日にまさにそのドラッグが原因と見られる症状で死亡してしまう。さらに彼と幼馴染みであったジャック・アイアンが、このことにショックを受け、脱退してしまうという事態にまで追いこまれたバンドは解散説まで飛び出すほどの窮地に追い込まれた。

ハイレルの死は勿論アンソニーやフリーにも深い傷を残したが、二人はそんなアクシデントにもめげずバンドを存続させる方向を選んだ。一時はジョージ・クリントンのところで活動したこともあるデュアン・マクナイト(g)やデッド・ケネディーズのダーレン・ペリグロ(ds)らを加えてMTVに出演したりライヴに臨んだりもした。しかし、残された二人はどうしてもそのメンバーらに納得ができなかったともいう。それだけオリジナル・メンバーとして共に活動してきたハイレルとジャックの抜けた穴は大きかったようだ。そんな中、新たなメンバー探しをしていたバンドが出会ったのが、当時17歳でニュー・ヨーク出身のジョン・フルシャンテ(g)、そしてオーディションの末に決まった新ドラマーのチャド・スミス(元トビー・グレイ)だった。

1989年夏に新生レッド・ホット・チリ・ペッパーズは通算4作目となるアルバム、『母乳』(Mother’s Milk)を発表。この作品には故ハイレルや脱退したジャックがプレイした演奏も収められていた。

大ヒットした映画プリティ・ウーマンのサントラに“ショウ・ミー・ユア・ソウル”が収録されるなど、かつてよりも広いリスナー層に注目されるようになったレッチリだが、その一方でお騒がせな話題にも事欠かなかった。アンソニーのアイディアによる、『母乳』ジャケのワイセツ問題はそれほどのものではないとはいえ、1990年春に行なわれたMTV企画のパーティで、フリーとチャドが客席の女性を殴った後に放り投げ、暴行のかどで逮捕(真実のところはいろいろな事情が絡み一方的にどちらが悪いとはいえない)、またその後の夏のジョージア州でのライヴでは、アンソニーが楽屋に来ていた女子学生の顔に、自分のナニを押しつけたという罪で逮捕、千ドルの罰金を払う、といったワイルドな彼らならではの事件も多発していた。

そうした事件の数々も関係あったのだろうか。レッチリは所属のEMIレコードと契約上の問題を理由にレコード・ディールを解消。MCA、ゲフィン、ヴァージン、ソニーといった大手が彼らの獲得に乗り出したが、結局レッチリは破格の契約金でワーナーと契約。1991年9月に移籍第一弾となる『ブラッド・シュガー・セックス・マジック』(Blood Sugar Sex Magic)を発表した。

同作品はリック・ルービンをプロデュースに迎えたアルバムで、彼らの人気を決定付ける作品となった。シングル“ギヴ・イット・アウェイ”、全米2位を記録した“アンダー・ザ・ブリッジ”、“ブレイキング・ガール”というヒットが生まれ、アルバム自体もトップ3入りを果たす大ヒット作となったのだ。また彼らのそうした人気ぶりを見て慌てた前レーベルのEMIは、『スーパー・ベスト!!』(What Hits)『アウト・イン・LA』(Out In L.A.)というコンピレーションをリリースしたりもした。

しかしそんなバンドの絶好調ぶりに反して、ここでまたもや大きなトラブルが起こることになる。1992年5月の日本公演中に突如、ギターのジョン・フルシャンテが脱退。更にオーストラリア公演がキャンセルされるという事態になってしまったのだ。レッチリは急遽アリック・マーシャルを代役に立て、オルタナティヴ・ロックの代名詞的フェスティヴァル「ロラパルーザII」には何とか出演、そのまま全米ツアーにも突入した。しかしこの後ウェインズ・ワールド、コーンヘッズといった映画サントラへの曲提供を除くと、表立ったバンド活動は一時休止。さらにポストの決まらない後任ギタリストの籍にジェシ・トビアスを加えるも、まるで役に立たずクビにする、という出来事も起こっている。そんな中、フリーだけはミック・ジャガーのソロ作、『ワンダリング・スピリット』に参加したり、サントラ仕事やオムニバスへの参加、といった仕事をこなしてはいたのだが、しかしフリーの親友だった俳優のリヴァー・フェニックスの死により彼もまた沈黙するようになってしまった。この頃はレッチリにとっては悪夢のような時期だったろう。

1994年に入ってレッチリは再始動する。歴代の中で最も強力なギタリストと謳われた、元ジェーンズ・アディクションデイヴ・ナヴァロを加入させての復活だった。8月にウッドストック’94に参加。不確定な情報によれば、このフェス以前にレッチリは新作のレコーディングのため、ハワイのスタジオに一度集まったと言われているが、居心地の悪さからレコーディングを延期してしまった、という話。ともあれ、アメリカ本土で再開されたレコーディングは1995年夏にようやく終了し、9月には約4年ぶりとなる新作、『ワン・ホット・ミニット』(One Hot Minute)が発表された。同作は前作の手法の延長線にありながらも、“レッチリの電撃ワープ”や“エアロプレイン”といったシングル・ヒットを生み、前作以上のセールスを上げた作品となった(全体に漂う重苦しいサウンドの雰囲気などの点でファンの間からはやや違和感らしきものも聞かれたが、結果的にセールス自体をみれば、いかにこの時点でレッチリが待望されていたかを物語る数字となった)。この後、1995年秋からはワールド・ツアーが予定されていたが、何とその直前にチャド・スミスが野球をやっていて骨折し、ツアー自体が翌1996年初頭からに延期される、という騒ぎも起きた。相変わらずのレッチリ節にファンが苦笑したのはいうまでもない。無事ワールド・ツアーを敢行していったレッチリは、その流れで1997年にはフジ・ロック・フェスティヴァル’97に参加。壮絶なパフォーマンスを見せ日本のファンに彼らの底力を見せ付けていったのだった。その後デイヴは、フリーとともにジェーンズ・アディクションの一時的再結成に参加。しかしこれを機にデイヴはバンドを去ることとなり、またもレッチリはギタリスト不在、の状態になってしまう。バンドを襲う再びの沈黙。そんな中、フリーだけは『ビッグ・リボウスキ』や『サイコ』といった映画に出演するなど、バンドの中でひとり活動的なところを見せていたことは特筆すべきところで、彼のパーソナリティが窺える話である。

レッチリ次の再始動の原動力はジョンの復帰だった。大げさに言えば、バンド周辺の全員がドラッグ狂ではないかと思われるレッチリだが、ジョンのそれは特にひどく90年代半ば頃のソロ作ではかなりの狂気を孕んだサウンドを聴かせていた。1998年にクリーンになって(ヘヴィなドラッグは断って)復帰したジョン・フルシャンテ。彼の復帰が現在のレッチリの結束力を生んだのだ。フリーの家のガレージでジャムをしながら、曲作りを開始した彼らは、チベタン・フリーダム・コンサートなど単発のライヴをこなしたあと、スタジオ入り。何と約3週間という恐るべきハイ・ペースで作品を仕上げた彼らは、1999年春、『カリフォルニケイション』を発表した。発表当初はそのレイドバックしたサウンドに「パワー不足」との声も挙がったが、結局バンドのキャリアの中で最も売れた作品となった。

2002年7月には『カリフォルニケイション』と同じ布陣でアルバム、『バイ・ザ・ウェイ』を発表。『カリフォルニケイション』をもう一歩推し進めた歌心溢れる、そしてジョン・フルシャンテ全開のアルバムとなった。また同年7月にはあの嵐のステージ以来となるフジ・ロック・フェスティバルに出演。お客さんの集まりにくいとされる3日目、日曜日(次の日仕事の人が多いので)の動員観客数を塗り替える。11月には単独でも来日。用意されたチケットは瞬く間にプレミア化が進んだという。

2006年5月には初の2枚組アルバム、『スティディアム・アーケディアム』をリリース。アルバムは全世界26カ国以上で初登場ナンバー1を記録。シングル“ダニー・カリフォルニア”は映画『デスノート』の主題歌に起用され、日本でもヒットを記録。アルバムは2枚組であるにも関わらず、500万枚以上のヒット、日本でも50万枚を突破した。

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