それ以後はまさに順風満帆な活躍を遂げる事となる彼等。ニュー・ミュージカル・エクスプレス紙の’84年1月28日号では2ページに渡って大きく紹介され、遂にメジャーのEpicとレーベル契約を結ぶ。デビュー・シングル「Your Love Is King」はイギリスで大ヒットを記録、彼女の魅力的なルックスも相乗して音楽紙は勿論、ファッション紙にも取上げられ、世界的名声を得る事となる。2枚目のシングル「Make A Living」を経て、同’84年の7月、デビュー・アルバム「Diamond Life」はイギリスで初登場2位に輝いたのを始め、アメリカ、日本(同11月に初の来日公演も行う)においても記録的な大ヒットとなり、世界で600万枚を超えるセールスを上げた。ここには彼女の代表作「Smooth Operator」も収められている。
それから3年のインターヴァルを置き、1、2作目をプロデュースしたロビン・ミラーからも離れ、エンジニアのマイク・ペラと共に所謂セルフ・プロデュースで制作したサード・アルバム「Stronger Than Pride」を’88年に発表。バハマのナッソーのコンパス・ポイント・スタジオ、南フランスのミラヴァル・スタジオ、パリのマルカデ・スタジオと、あまりジャーナリストが押しかけないひっそりとしたスタジオで1年近い時間をかけてレコーディングされた本アルバムには、今聴いても色んな意味での解放感が漂っていた。セールス面でも全英で最高3位、全米でも同7位とまたしてもスマッシュ・ヒットを記録するが、予定されていたワールド・ツアーも行なわれず、シャーデーは以後、長い充電期間に入る事となった。
シャーデーが約4年半に及ぶ沈黙を破ってシーンに復帰したのは、’92年11月の事である。アルバート・ワトソンの撮影による彼女のヌード・フォトが大きな話題と呼んだ4thアルバム「Love Deluxe」は、全英で最高10位、全米で同3位と、長いブランクを埋める好成績を記録。シングルでは「No Ordinary Love」、「Kiss Of Life」、ネリー・フーパー&マッド・プロフェッサーによるリミックスも評判を呼んだ「Feel No Pain」がそれぞれヒット・チャートを賑わせた。
翌’93年3月から約7年振りにワールド・ツアーを開始。アメリカ、ヨーロッパ、日本を廻って、その後再びアメリカで大規模なスタジアム公演も行った。この間には映画「フィラデルフィア」のサントラのためにパーシー・メイフィールドのカヴァー「Please Send Me Someone To Love」を録音。また、10月3日のサンディエゴ・オープン・エア・シアターでのコンサートはヴィデオで収録され、「Sade Live」としてリリースされた。
「Please Send〜」を含むベスト・アルバム「The Best Of Sade」がリリースされたのは’94年11月の事で、当然の事ながらこのアルバムも全英で最高6位、全米でも最高9位と、根強い人気を裏付ける成績を記録。日本でもロング・セラーとなるヒットとなった。しかし、この後、彼女が妊娠、出産(’98年7月、娘アイラ)したこともあってまたまた長い充電期間に入ってしまう。グループ、シャーデーが活動を休止している間、メンバーのスチュアート・マシューマン、ポール・スペンサー・デンマン、アンドリュー・ヘイルの3人はアメール・ラリューをヴォーカルに迎え、’96年、スウィートバックを結成、アルバム「Sweetback」をリリース。「You Will Rise」のヒット曲を生んだ。また、マシューマンはマックスウェルのデビュー作をプロデュースしたり、アメリカ映画「ツイン・フォールド・アイダホ」の音楽を手掛ける等、シャーデーのキーマンである事を証明するような活動を行っていった。