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グラム・ロック・ムーヴメントを代表する存在だったT・レックス。ティラノザウルス・レックスというやや通向けな音楽性を持ったマーク・ボラン率いるグループは“ゲット・イット・オン”などに代表されるブギー〜シンプルなロックンロール調のポップ・ソングをプレイするようなエレクトリック・バンドへと変貌を遂げ、またそのきらびやかな衣装や化粧を施したグラマラスなルックスで一世を風靡し、人気者となった。またその後デヴィッド・ボウイやロキシー・ミュージック、スレイド、ゲイリー・グリッター、アルヴィン・スターダストなど同様のテイストを持ったグループが70年代初頭のイギリスで台頭。全英を席巻するグラム・ロックなるムーヴメントへと発展していくのはよく知られたところだ。ただその中でもT・レックスの、というかマーク・ボランの音楽は特異な感触を持っていた。溜め息のような余韻と、震えるような低音を持つマークの歌声に、パーカッシヴで軽快なポップ・ミュージックここにあり、といったロック・サウンド。またときに濡れた叙情感を醸し出すバラード的な歌。グラム・ロックのムーヴメント自体はほんの数年という短命に終わったが、マーク・ボラン〜T・レックスが作り出した独自のポップ・ミュージックは、ロックンロール回帰運動ともいえたパンク以降に再評価されたし、またその後ルックスも含めたグラム的な美意識は80年代のニューロマンティックに代表される英国的美学として受け継がれていった。
幼い頃より自分は絶対にスターになれると信じ込んでいたといわれるマーク・ボラン(本名:マーク・フェルド)。彼は1947年9月30日に英イースト・ロンドンに生まれている。10歳にも満たない頃から、エディ・コクランやチャック・ベリー、リトル・リチャードなどのロックンロールを聴き始め、その魅力に執りつかれたマークは、近所でもウワサされるほどのロック少年に育った。15歳の頃からレコード会社に何度も売り込みに行っていたマークにデビューのチャンスが巡ってきたのは、17歳の頃のこと。デッカ・レコードと契約を交わしたマークは、1965年11月にマーク・ボーランド名義でデビュー・シングルを発表し、またセカンド・シングルをマーク・ボラン名義で発表したが、これらはどちらも失敗に終わり、一年契約も切れてしまった。
1966年にはパーロフォン/EMIからサード・シングルを発表。しかしこれも相変わらずのセールスに終わり、マークはこの後ジョンズ・チルドレンに加入する。1967年5月ジョンズ・チルドレンのデビュー・シングル”デスデモーナ”発表。その後セカンド、サードとシングルを発表していくが、マークはジョンズ・チルドレンが徐々に自分の描くバンド像と離れていることに気づき、バンド在籍中にも関わらず、1968年に入るとメロディ・メイカー誌にメンバー・オーディションの広告を載せる。そこで結成されたのがティラノザウルス・レックスだった。
6人組のエレクトリック・バンドとしてスタートしたティラノザウルス・レックスは、しかし結成直後にドラマーのスティーヴ・トゥックとマークのアコースティック・デュオという形態にすぐさま変更。何枚かの秀作を発表し、評論家筋をはじめ音楽的にも評価を高めたが、その後ドラッグに溺れたスティーヴが脱退。替わりにミッキー・フィンを相棒にティラノ〜としての活動を続けていく。そして音楽性はまたアコースティックなものからややエレクトリック寄りのものとなっていき、70年代を迎えるのだが、ここでマークにとって大きな転機が訪れる。ティラノ〜は、T・レックスへと発展的に展開していくのだった。
1970年10月にリリースされた“ライド・ア・ホワイト・スワン”は以前とは異なるマーク作のポップ・ナンバーだった。そしてティラノ〜と何ら変わらないメンバーで録音された同曲から、グループ名は「T・レックス」と短縮されたのだった。同曲は全英で20週もチャートインし、最高位2位を記録するヒットとなった。そして同年12月には T・レックス(T. Rex)というセルフタイトルのアルバムを発表。更にかねてからエレクトリックなバンドを夢見ていたマークは、バンドのベースにスティーヴ・カーリーを加入させ、翌1972年2月に“ホット・ラヴ”というシングルを発表。これがグループにとって初のナンバーワン・ヒットとなり、更にその後ドラマーにビル・リジェントが加入したバンドは、7月、遂にあの名曲“ゲット・イット・オン”を発表する。3週連続ナンバーワン、12週間のチャートインを果たした同曲で、T・レックスの名はより広く知られるようになった。そして同曲を収録したアルバム 電気の武者(Electric Warrior) を同年中に発表。これは7週連続ナンバーワンというヒット・アルバムとなった。
1972年に入ると、自らの楽曲を管理するためバンドは「T・レックス・ワックス・カンパニー」を設立。そしてシングル“テレグラム・サム”を発表。これは二日間で50万枚を売り上げたといわれ、当然の如く全英ナンバーワンを獲得。また同曲やこちらも全英ナンバーワンとなった“テレグラム・サム”を収録したアルバム ザ・スライダー(The Slider)を同年7月に発表。これは全英4位、全米17位を記録したが、凄まじいのは予約だけで25万枚を売り上げたこと。ここに至り、マーク・ボランのT・レックスは、友人でもあったデヴィッド・ボウイとともに、グラム・ロック・ムーヴメントを捲き起こす原動力となった。
しかしグラム・ロックと呼ばれたきらびやかなムーヴメントは長続きしなかった。1973年の タンクス(Tanx) 、同年リリースのベスト盤 グレイト・ヒッツ(Great Hits)が出た頃には既にムーヴメントは過去のものと見なされ始めていた。この後、1974年には ズィンク・アロイと朝焼けの仮面ライダー(Zinc Alloy And The Hidden Riders Of Tomorrow)を発表。この作品を最後に、T・レックス・サウンドに多大な貢献をしてきたプロデューサー、トニー・ヴィスコンティが離れ、またドラマーのビル・リジェントが脱退。更に1975年の ブギーのアイドル(Bolan's Zip Gun)を最後に相棒だったミッキー・フィンまでが脱退してしまう。
1976年発表の 銀河系よりの使者(Futuristic Dragon)を最後に、残っていた最後のオリジナル・メンバー、スティーヴ・カーリーが脱退するに至り、マークはこの機に新生T・レックスを結成。実力者メンバー達で固めたこの新生T・レックスが発表したアルバムが 地下室のダンディ(Dandy In The Underground) 。1977年に発表された本作は、久々に評判もよく、続く全英ツアーも成功といっていい結果に終わった。
そしてその1977年夏、T・レックス評価への再認識を決定づけたTVスペシャルが放映される。グラナダTVで放映されたその番組は「Marc」といい、マーク自身が司会をし、多くのゲストを招いて共演するというスタイルの番組だった。こうした番組が象徴するように、パンク勢の台頭も目覚しかったこの時期、T・レックスの魅力は再認識されるようになったが、悲劇は突然やってきた。
1977年9月16日朝、マークの妻であり、黒人歌手としてT・レックスに参加していたグロリア・ジョーンズの運転するミニ・クーパーが横転。助手席から外へ投げ出されたマークは、近くにあった街路樹に身体をぶつけ、死亡してしまうのだ。生前マークは30歳になる前に自分が死んでしまうという予言めいた発言をしていたが、この事故は正に彼が30歳になる目前、誕生日を2週間ほど前にした時期に起こったのだった。
マークの死後もT・レックスの音源は未発表のものなどを含め、多数の編集盤としてリリースされた。そして冒頭でも触れたように伝説となったマークとT・レックスは、その後、パンク後のシーンにおいても、ニュー・ロマンティクスやネオ・グラムなどといった動きの中で何度も何度も再評価を受け続けている。またそうした再評価とは関係せずとも、マーク・ボランの個性、音楽自体にある魔法がかったポップ性は永遠に消え去ることがないだろう。
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