The Band

The Band (ザ・バンド) プロフィール

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音楽評論家グリル・マーカスが、名著『ミステリー・トレイン』で ロバート・ジョンソンエルヴィス・プレスリースライ・ストーンなどと並び米ロック音楽を象徴する存在として別格に取り上げたザ・バンド。メンバーの5人中、4人がカナダ人である彼らは、「異邦人」の視点で、同時代のアメリカ人が忘れかけていた豊潤なアメリカン・ルーツ音楽を掘り下げ、自らの画期的なスタイルを築き上げた。

ザ・バンドの前身はロニー・ホーキンスのバック・バンド、ザ・ホークスだった。メンバー中最年長者のレヴォン・ヘルムは1942年5月26日、アメリカのアーカンソー州生まれ。1956年頃からローカル・バンドで活動を始めた彼は、やがてジャングル・ブッシュ・ピーターズを結成。1958年になるとロニー・ホーキンスのバック演奏を務める機会を得る。これがキッカケとなり彼はロニーが結成したホークスに参加。クオリティ・レーベルから“ヘイ・ボ・ディドリー”でデビューしたロニー・ホーキンス&ホークスは、翌1959年にルーレットと契約。“フォーティー・デイズ”、“メリー・ルー”といった全米トップ30〜50程度のヒットを放った。

そんな頃、ホークスに加入してくるのがロビー・ロバートソンだった。彼は1944年7月5日、カナダのトロントに生まれている。13歳頃から独学でギターを片手に作曲を始めていた彼は、1959年にハイスクールをドロップアウトし、クリアー・ライトというバンドを結成。その後の加入だった。

1960年に入り、ロビーに続き加入してきたのがリック・ダンコ。彼は1943年12月9日、カナダのオンタリオ州に生まれた。幼い頃からカントリーに親しみ、ヴァイオリン/フィドル、マンドリン等をマスターし、ロビー同様ハイスクールを中退してバンドに加わったのだった。

1961年になると、ガース・ハドソン(1943年8月2日、カナダ・ウォーカーヴィル生)、翌1962年にはリチャード・マニュエル(1944年4月3日、カナダ・オンタリオ州生)がホークスに加入してきた。ここでザ・バンドの原型が出来たことになる。

ロニーと共に巡業に次ぐ巡業を重ねたホークスは、1963年に遂に彼のもとを離れ、レヴォン&ホークスとして独立、トロントを拠点にアメリカ東海岸のクラブなどで活動を開始した。そうした中、ホークスはトロントのクラブでジョン・ハモンドJr.と出逢い、意気投合。1964年にニュー・ヨークでレコーディングを開始し、結局その作品はジョンのアルバム So Many Roads としてリリースされた。同作にはマイク・ブルームフィールドなども参加していたが、ロビーのギターもまた高い評価を受けた。

しばらくしてホークスはジョンの紹介で、あのボブ・ディランとの運命的な出逢いを果たす。それは丁度ディランがフォークからロックへと転じようとしていた頃だった。

1965年、ホークスはディランとセッションを重ねていた。またディランがフォークの純粋主義者達から罵声を浴びせ掛けられた、あのNYフォレスト・ヒルでのコンサートでは、ロビーレヴォンアル・クーパーらと共に参加したりもした。

この後、ホークスはディランのバック・バンドとして欧・米ツアーを行い、また1966年初頭にナッシュヴィルにて行われたディランのレコーディングに参加。これはディランの二枚組名作 ブロンド・オン・ブロンド として発表された。

しかしこの直後1966年7月に、ディランはバイク事故に遭いシーンから遠ざかることとなる。ディランの怪我が直った頃から、彼らはディランとともにニュー・ヨーク郊外のスッドストックに移住。「ビッグ・ピンク」と呼ばれる家に住み、その地下室でディランと演奏を重ね、また曲作りにも励んでいった(この時のテープは、広くミュージシャン仲間に広がり、後に 地下室(Basement Tapes) としてリリースされた)。またこの頃に彼らは近所の住民達がつけたニックネームからとって、ザ・バンドと改名したのだった。

1968年1月、ディランが久々に人前に姿を現した「ウディ・ガスリー・メモリアル・コンサート」にザ・バンドはバック・バンドとして登場。同年8月、ウッドストックで録音されたファースト・アルバム ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク(Music From Big Pink) で単独デビューを飾った。ディランの手による素朴で不思議な感触の画をジャケットにあしらった同作品は、内容的にも衝撃的なものだった。ニュー・ロック華やかりし頃に、まるで前時代からやってきたかのような超然とした佇まいを聴かせる彼らの「ロック」は、当時のロックとはいかにも掛け離れたムードを持っており、「フラワー」とは異質な「土の薫り」のようなものに満ちていた。ダウン・トゥ・アースな趣き、また“アイ・シャル・ビー・リリースト”に代表されるどこか宗教的な荘厳さも特徴的だった。

1969年8月17日、ザ・バンドはウッドストック・フェスティヴァルに出演。また8月29、31日にはイギリスのワイト島フェスティヴァルにディランと共に出演した。そして9月、西海岸のサミー・デイヴィスJr.の邸宅で録音された名作ザ・バンド(The Band)を発表。前作がオブスキュアな音像を持った作品だとすると、本作ではよりソングライティングやサウンドの輪郭がはっきりした作りが前面に出た作品といえそうな出来となった。またシングルの“クリプル・クリーク”は全米25位と彼らにとっての最高位を記録したほか、アルバム自体も最高位9位まで上がり、最終的にはゴールド・ディスクを獲得するヒットとなった。

1970年に、観客のいない木造の劇場でレコーディングされたというサード・アルバム ステージ・フライト(Stage Fright) を発表。アルバムは全米最高位5位となり、彼ら最大のヒット・アルバムとなった作品だ(二度目のゴールド・ディスクも獲得)。1971年初夏に初のヨーロッパ・ツアーを行った後、彼らはウッドストックのベアーズヴィル・スタジオで カフーツ(Cahoots) をレコーディング。同年9月にリリース。これは当時知る人ぞ知る存在だったニュー・オリンズ・ミュージックの大物アラン・トゥーサンを起用した楽曲などを含む話題作だった。因みにこれらステージ・フライト(Stage Fright)カフーツ(Cahoots) 辺りで聴かれるハイブリッドなグルーヴのサウンドは、90年代半ば頃にTokyo No.1 Soul Set小沢健二ら若い世代のミュージシャンやDJ達に支持され、ザ・バンドをロック界の巨人云々といった価値軸とは異なる、グルーヴィなサウンド面で再評価する気運が高まったことも付け加えておこう。また話をバイオグラフィーに戻すと、ザ・バンドは同1971年の大晦日から翌1972年の元旦にかけて、NYでのニュー・イヤー・コンサート(ディランがゲスト参加)を行ったが、その音源は1972年にライヴ作 ロック・オブ・エイジズ(Rock Of Ages) として発表されている(全米6位で三たびゴールド・ディスクを獲得)。

ザ・バンドは1973年夏にはNYで行われたサマー・ジャムに、グレイトフル・デッドオールマン・ブラザーズらと共に出演。60万人を集める大盛況となった。その後11月にオールディーズをリラックスしたカヴァーで聴かせる ムーンドッグ・マチネー(Moondog Matinee) を発表。

1974年1〜2月にかけて、ディランとのコンビで行われたツアーでは計39回の公演でのべ65万人を集客。同時期にリリースされたディランとの共演作 プラネット・ウェイヴス ディランにとっても、ザ・バンドにとっても初のナンバーワン・アルバムとなった。またツアーの模様を収めた二枚組ライヴも全米ベスト3を記録。

1975年11月、オリジナル作品としては通算7作目となる 南十字星(Northern Light-Southern Cross)を発表。そして翌1976年初頭にディランと共にエリック・クラプトンのレコーディングに参加した彼らは、6〜8月にかけて全米ツアーを行うが、11月25日サンフランシスコ・ウィンターランドでの公演を最後に活動停止を表明する。このイベントにはディランはじめ、クラプトンジョニ・ミッチェルニール・ヤングマディ・ウォーターズロニー・ホーキンスヴァン・モリスンら、彼らゆかりのアーティスト達が勢揃いし、 「ラスト・ワルツ」の名で映画化もされ、高い評価を受けた。また同名ラスト・ワルツ(Last Waltz)のアルバムもヒットを記録した(2002年春には ラスト・ワルツ完全盤も発売予定)。

1977年には事実上のラスト・アルバム アイランド(Island) を発表。この後、メンバー各々はソロに転じている。

1983年にザ・バンドロビー・ロバートソン抜きで再結成され、ケイト・ブラザーズのメンバーも加えて来日公演を敢行。その後1985年にはジム・ウィーダーが参加。CSNのツアーに同行したりしていたが、ツアー先のフロリダでリチャード・マニュエルが自殺するという悲劇が突然起こってしまう。しかしながらザ・バンドは活動を続行した。1990年には元ピンク・フロイドロジャー・ウォーターズが主催した「ザ・ウォール・コンサート」(崩壊したベルリンの壁において行われた)に参加。

この時期、リックレヴォンらはプロジェクトなど個々の活動も行っていたが、1992年の後半にザ・バンドを本格的に再始動させる。リックレヴォンガースジムに、かつてホークスやジャニス・ジョプリンのフル・ティルト・ブギ・バンドでも活躍したリチャード・ベル、そしてランディ・シャーランテを加えた新たなラインナップが揃った。同10月、マジソン・スクエアで行われたボブ・ディランのデビュー30周年記念コンサートや、さらにビル・クリントン大統領の就任記念行事へも出演した彼らは、1993年8月にオリジナル作としては16年ぶりとなるアルバム ジェリコ(Jericho) を発表。その後1994年には来日公演を実現し、「ウッドストック’94」にも出演。また1996年には新生ザ・バンドによる二作目 ハイ・オン・ザ・ホッグ(High On The Hog)を発表した。

1999年12月10日、あとたった一日で56回目の誕生日だったリック・ダンコが、帰らぬ人となった。ザ・バンド・ファンの悲しみはとても大きいものだった。

ヒッピー、サイケデリック、ニュー・ロックの時代にいきなりジジむさい格好と米ルーツに根差した素晴らしい音楽を携えて現れたザ・バンドの衝撃は、リアルタイム派ではない筆者のようなリスナーには想像の域を出ない。しかしながら彼らが音源として遺してくれた音楽自体は、時代を越えた豊潤な魅力を今でも放っており、音楽を愛する人をいつでも優しく包み込んでくれるような包容力を備えていると思う。

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