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CD Aldo Ferraresi: The Art Of Violin Vol.1-the Gigli Of The Violin 1929-1973

Aldo Ferraresi: The Art Of Violin Vol.1-the Gigli Of The Violin 1929-1973

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    窓際平社員  |  徳島県  |  不明  |  13/February/2020

    現在入手できない音源をぶら下げて、「この演奏家は、とても素晴らしい演奏家ですよ」などと宣うのは、ほとんどの場合、コレクターの戯言と受け取られるだろう。そう受け取られるのも無理はない。紹介する音源は、今や手に入らないのだし、それを持っていることを自慢したいがために、そんなことを宣うのだから。そう受け取られる限り、取り上げられる演奏家は、名声的な意味で死んでいる。 人生的な意味での死と名声的な意味での死の違いは、一方が現代医学の粋を尽くしても蘇生できないのに対し、他方は再評価されることによって蘇生することが出来ることだ。入手しやすい音源が、入手しやすいルートで手に入れられる限り、その演奏家は名声的に死に絶えることはないだろう。しかし、一旦名声的に死を迎えた―つまり忘れられた―演奏家を蘇生することは、決して簡単なことではない。コレクターの戯言としか受け取られないようなことを、泥水をすすってでも言い続ける必要があるし、それが入手しやすい音源の供給に繋がらなければ、名声的な意味での蘇生につながらない。音源の入手しやすいルートが確保されただけでも、継続的な名声的蘇生は困難だ。音源を供給する側が、「所詮、忘れられた演奏家だし、やっぱり売れないし話題にもならない」と踏んで供給を打ち切れば、名声的な死を迎えた状態に、すぐに戻ってしまうのだ。 音源の供給元を探すのも一苦労だ。往々にしてコレクターは、コレクションを人目にさらすのを嫌う。名声的な意味で死んだ演奏家は、死んだままでいてもらって、そのミイラを自分の手元に置いて、自分だけがそれを持っているという秘かな優越感に浸りたいものらしい。その優越感への誘惑を乗り越えて、コレクションを開陳する勇気を持ったものが、演奏家の名声的蘇生に携わることが出来る。 音源の所有元が放送局であれば、権利問題さえ解決できれば、音源をリリースする会社からリリースが出来るのだが、これもしばしば不調に終わるという。音源のレコードやテープを破棄したり再利用して消去してしまったりして、現存しないということも非常に多いのだ。演奏家の名声的蘇生は、幾多の困難を経て行われ、しかもその復活状態がいつまで続くか保証できないという不安定さの下で行われる。 アルド・フェラレージというイタリアのヴァイオリニストは、名声的に死に瀕するヴァイオリニストである。大昔に発売されたSP&LPレコードはコレクターズ・アイテムとなって久しい。IDISというイタリアの復刻系レーベルが、フェラレージの放送用音源に目を付けてリリースを開始したものの、CD1枚発売したところで頓挫している。ジャンルカ・ラ・ヴィラという、フェラレージの生地フェラーラ在住の人が、イタリア放送局の協力を得て9枚組のCDセットをローカルに販売したこともあるが、これもすぐに底をつき、入手しやすい音源のリリースとはならなかった。 今回の18枚組のCDセットは、これまでに販売されたことのあるSP&LPレコードの音源、さらにジャンルカ・ラ・ヴィラの販売していたCD9枚分の音源、さらにイタリア放送局やフェラレージの遺族等から提供された、これまでレコードとして販売されたことのない音源を加えた、フェラレージの名声的蘇生の強力なバックアップとなるアイテムである。ただ、これに続くフェラレージの音源を探して第二弾、第三弾をリリースできるのか、またこのレーベルがどこまで活動を継続するのかが不透明だ。また18枚組のCDセット自体が高価という向きもあろうし、フェラレージの弾いたモーツァルトとベートーヴェンの協奏曲だけ聴きたい等と考える向きもあろう。第二弾、第三弾が用意できぬとあらば、分売という形での再リリースも検討されるべきか。 フェラレージの経歴については、既に商品説明に経歴が記載されているので、それを参照頂けばよいだろう。付け加えれば、ブリュッセルでフェラレージの留学を引き受けたウジェーヌ・イザイが「我が最高の弟子」として非常に可愛がった。13枚目のCDは、無伴奏ヴァイオリン・ソナタ集以外のイザイの作品が聴けるという以上の価値を持つし、イザイと過ごした思い出を語った18枚目のフェラレージの肉声の証言も、イザイの研究資料として参照に足る。 フェラレージの演奏は、1960年代の録音までがダヴィッド・オイストラフに強壮剤を注入したようなヴァイタリティを感じさせる芸風。尤も、オイストラフが得意としたドミトリー・ショスタコーヴィチのヴァイオリン協奏曲No.1は、そもそもオイストラフとは生活環境が違うのか、楽曲の捉え方が随分違う。 1970年代の演奏は、例えばルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンのクロイツェル・ソナタに、フェラレージの精力減退を感じてしまうが、それも1960年代までの一連の録音を聴いた後に接したが故の感想である。70代に差し掛かるヴァイオリニストでフェラレージのような技術的な完成度の高い演奏をする人は、なかなかいないのではないか。 1920年代あたりの録音も、超絶技巧からカンタービレまで弾くのが楽しくてしょうがないといった風。個人的にはヨハネス・ブラームスのヴァイオリン・ソナタ3曲がリハーサル用のテープで音の欠落があり、本演奏のテープが紛失しているのが凄く残念。 ニコロ・パガニーニのヴァイオリン協奏曲は、No.1の録音が複数あるが、そのどれもがカットの箇所を変えているのが興味深い。4枚目に収録された演奏が、ほぼノーカットの形といえるだろうか。同じ曲のを複数回入れているものとしては、マリオ・グァリーノがフェラレージのために作ったヴァイオリン協奏曲もあるが、こちらは表現方法が確立されていたのか、フェラレージの演奏に大きなブレはない。ウィリアム・ウォルトンのヴァイオリン協奏曲は、イギリスに行って作曲家と共演したものと、母国で演奏したものがあるが、母国で演奏したものの方が奔放。 シベリウスの《2つの荘厳な旋律》のような技術的にさほど難易度の高くない作品でも、独自の存在感を発揮する。このシベリウスの作品を聴けば、フェラレージの演奏したシベリウスのヴァイオリン協奏曲が存在していないか血眼で探したくなる。 《妖精のロンド》で知られるアントニオ・バッツィーニのヴァイオリン協奏曲No.4やアルフレード・ダンブロージオのヴァイオリン協奏曲No.1など、曲自体が拾い物なものもあり、これらの曲はNaxosあたりで再発掘をお願いしたいところ。 シュチェパン・シュレックがフェラレージのために作った協奏曲や、フランツ・シューベルトのアヴェ・マリアをフェラレージが自分の編曲で弾いたものなど、多分この18枚組ボックスでしか聴く機会がないような音源も面白い。フランコ・マンニーノの《気まぐれなカプリッチョ》など、パガニーニのカプリッチョを弾くフェラレージにマンニーノの指揮するオーケストラがちょっかいを出してひっちゃかめっちゃかにしていく珍曲。他にこの曲を演奏した例を知らないし、今後も取り上げる人がいるかどうか微妙なところ。同じCDに収録されているカルロ・ヤキーノのソナタ・ドラマティカやサルヴァトーレ・アレグラの2作品は、マンニーノの作品ほどにネタに走っていない。アレグラの作品などは、良い掘り出し物として、アンコールで弾く人も出てくるのではないだろうか。 室内楽の分野でも、ガブリエル・フォーレだろうが、ブラームスだろうが、作品の様式よりも自分のカンタービレを優先する演奏ぶりは変わらない。1970年代の演奏になると、自己の芸風の押し出しっぷりが控えめになっていくのだがフランコ・アルファーノの作品まで技のキレまでは失っていない。 コレクターの戯言ではなく、心から私は書く。「この演奏家は、とても素晴らしい演奏家ですよ!」フェラレージの名前が、このCDボックスを手に取った音楽愛好家の皆様の記憶に刻まれることを願う。

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