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ドクター・ジョン インタビュー

Billboard Live

2010年11月10日 (水)

interview
ドクター・ジョン インタビュー


 ブルース、リズム・アンド・ブルース、ロックンロール、ゴスペル、ディキシーランド・ジャズ・・・アメリカのルーツ・ミュージックの源泉、ルイジアナ州ニューオーリンズ。

 ルイ・アームストロング、デイヴ・バーソロミュー、マヘリア・ジャクソンら偉大なるイノヴェイターの故郷。とりわけ、プロフェッサー・ロングヘアー、ヒューイ ”ピアノ” スミス、ファッツ・ドミノ、アラン・トゥーサンといった彼の地の名ピアニストたちが遺し伝えてきた、伝統あるニューオーリンズ・ミュージックの芳わしき香りと深き味わいは、19世紀ブードゥーの祈祷師の名を冠した男の出現によって、未来永劫を約束されたと言えるかもしれない。

 ドクター・ジョンことマック・レベナックの音楽は、まさにその聖地で先達の遺産をエキスとしながら産声を上げ、成熟され、40年以上の時の流れの中で今も限りない進化を続けている。

 2010年の春に届けられた新作『Tribal』は、デビュー間もない頃のブードゥー路線を想い起こさせるようなアートワークに身を包んでいるが、そのいくらか奇妙なコフレの紐をほどいた途端漂ってきたのは、『ガンボ』や『イン・ザ・ライト・プレイス』以降、長きに亘りドクター・ジョンが追い続けてきた、ニューオーリンズ音楽の真にふくよかで豊潤な香りに他ならなかった。「生き証人」だなんてとんでもない。ドクター・ジョンの旅はまだまだ続いていくんだ、ということを強く感じさせる、そんな生命力にも満ちている。

 2010年10月18日、ドクター・ジョンは自己バンド「ザ・ロウアー 911」を引き連れて5年ぶりに来日。幸運にも、ビルボードライブ東京公演、その開演直前に少しだけ話を伺うチャンスに恵まれた。かなり充実した内容に反して、謎めいて気になる部分も多かった、そんな新作『Tribal』について、ドクター・ジョンが語ってくれた。


インタビュー/構成:小浜文晶
訳:高見展  


--- 今年4月にリリースされた最新アルバム『Tribal』についてお伺いします。前作の『The City That Care Forgot』以上に、「ザ・ロウアー911」というバンドとしての一体感が強く感じられました。

 さすがに「ザ・ロウアー911」としての活動は長いからな。もう6、7枚はこのバンドでアルバムを作っているはずだよ。

--- バンドとの「一体感」という部分についてはどうですか?

 どうなんだろうなぁ・・・音楽っていうのは楽曲によってだったり、その時々で変わっていくものなんだよ。だから、その時やっていることによりけりなんだよな。音楽によっては呼吸しているようなものもあるし、そうでないものもあると言えるし、色々あるんだよ。

--- この「Tribal」というタイトルには、実際どういった真意が込められているのですか?

 「人類皆がひとつの部族」、まさにそういうことだ。みんな同じ空気を吸っているんだからな。

--- タイトル曲の「Tribal」には、(註)マルディグラ・インディアンの「トライブ」の行進音がスキット的に挟み込まれていますよね。

 そうだな。だけど、あれはライヴ録りしてきただけの話で、厳密に言うと俺たちの部族(トライブ)からのものではないんだ。ただ、俺たちは誰にでも分け与えるよっていうこと。自らの部族だけではなく、どこの出身だろうとみんな繋がっているんだっていうことを意味しているんだよ。


  (註)マルディグラ・インディアンの「トライブ」の行進・・・ニューオーリンズ・マルディグラは、カトリックの年中行事に由来する祭りで、リオのカーニバルなどと並ぶ世界で最も有名な謝肉祭のひとつ。そのマルディグラの時に、マルディグラ・インディアンは、ネイティブ・アメリカンの儀礼的な衣服に影響を受けたコスチュームで着飾り、歌い、踊り、太鼓を叩きながらパレードをする。彼らの団体は「トライブ(部族)」と呼ばれ、その多くは6月24日の「セント・ジョセフズ・デー」に最も近い日曜日(スーパー・サンデー)にパレードを行なう。約38のトライブが存在し、規模は5、6人ほどの小集団から2〜30人のメンバーまでと幅広い。それぞれの部族は独立しているが、「アップタウン・インディアン」と「ダウンタウン・インディアン」の2つの大きなグループに分けられる。最年長の代表者が「ビッグ・チーフ」で、以下「セカンド・チーフ」、「サード・チーフ」、「トレイル・チーフ」と続く。


--- ジャケットを含めた(註)今回のアルバムの装丁は、土着的なブードゥー・アートのような風合いが強いですよね。クレジットに「Tribal Bayou artwork by Luke Quinn」とあるのですが、このルーク・クィンという方が、インナーのイラスト画や、ジャケットのお面(?)のようなもの、ところどころに写っている土人形などを全て製作しているのですか?

 いや、このインナーの画はそうでも、ジャケットは違うし、土のスカルプチャーも別の人間。だから、アートワークに関しては、都合3人ぐらいの人物が手掛けているんだ。

--- 全体のアート・ディレクションは、もちろんジョンさん?

 あぁ、もちろん。


  (註)今回のアルバムの装丁は・・・ブードゥー・テイストを練り込んだ60年代のソロ初期Atco作品を髣髴とさせる『Tribal』のジャケット・アートワーク。クレジットを頼りにすると、泥だんごのような土人形はどうやら彫刻家のバベット・リッテンバーグ、インナーに描かれたイラストレーションはルーク・クィンというアーティストによって手掛けられている模様。ジャケットに映る、間違いなくDr.ジョンをモチーフに作られた仮面(あるいは装飾品?)のようなプロダクツの作者は不明。


--- 僕は個人的にとても好きですよ。まるで60年代や70年代初期の作品にタイムスリップしたかのような雰囲気もあって。たとえば、前作のジャケット・デザインとはまたガラッと異なる趣ですよね。

 ありがとう。とにかく、前作の『The City That Care Forgot』の時は、基本的に俺は激しく怒っていたんだ。今回の作品を作ってる時は別にそうではなかった・・・だけどな、今になってみると、色々なことで腹が立ってきたりする。

 この作品をレコーディングしていた時はちょうど、友人で一緒に曲を書いてくれていた(註)ボビー・チャールズが亡くなってしまって、ものすごく作業が混乱してしまったんだ。しかも、ボビーが版権を管理してもらっていなかったから、いざ完成したアルバムにはきちんとクレジットが表記されていなかったりしていて・・・それについては今思い出しても腹立たしいんだが。でもまぁ、それはあとから”降って湧いた”ことであって、そもそもは全く別なことで怒っていたわけだからな。元々の怒りは前作のテーマになっていたことだったんだ。


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  (註)ボビー・チャールズ 死去・・・ルイジアナ州アブヴィル出身。1955年にチェス・レコードからデビューし、「See You Later Alligator」などの楽曲を生んだシンガー/ソングライター。70年代に、N.Y.のウッドストックへ住居を移し、同じ街に住んでいたザ・バンドのメンバーらとの結びつきを強めた。72年には初のアルバム『Bobby Charles』をトッド・ラングレンのベアズヴィルよりリリース。リック・ダンコとジョン・サイモンがプロデュースを担当し、ザ・バンドのメンバーに加え、ドクター・ジョン、デイヴィッド・サンボーンらも参加している。76年には、ザ・バンドの解散コンサート「ラスト・ワルツ」にドクター・ジョン同様に出演している。78年にはリヴォン・ヘルムのRCOオールスターズの一員として来日も果たしている。その後しばらくの空白期があったものの、87年以降はマイペースなアルバム・リリースを続けており、2008年の『Homemade Songs』、遺作となった2010年の『Homeless』にはドクター・ジョンも参加している。特に後者では共同プロデューサーとして名を連ね、ほとんどの楽曲にクレジットされており実質的な共演盤と言える。しかし本作の完成を待たずに、2010年1月14日に自宅で倒れ死去。直接の死因は明らかになっていないが、腎臓がんの治療から回復中だったという。ボビーの書いた曲は、ファッツ・ドミノ、ビル・ヘイリー、レイ・チャールズ、そしてドクター・ジョンなど、数多くのアーティストに取り上げられており、ソングライターとして永遠の存在感を示し続けている。


--- たしかに楽曲の詳細なクレジットはありませんでしたね。曲調から判断して、「Change Of Heart」などは、ボビー・チャールズとの共作だと思ったのですが・・・

 その通り。それと「Tribal」と「Potnah」もそう。「Potnah」は、ちょうど(註)「ラスト・ワルツ」に出演した頃に一緒に書いたものなんだ。

-- 「ラスト・ワルツ」というと、あのザ・バンドのですよね?

 そうさ。だからすごく古くからある曲なんだよ。


「ラスト・ワルツ」の商品一覧へ   (註)ザ・バンドの「ラスト・ワルツ」・・・、ザ・バンドが1976年11月25日に米サンフランシスコのウインター・ランドで行った解散ライヴで、マーティン・スコセッシ監督の元、78年に映画化された。ほか長年にわたってアメリカン・ロックの屋台骨を支えたザ・バンドのラスト・ライヴということで、ボブ・ディラン、ニール・ヤング、エリック・クラプトン、マディ・ウォーターズ、ロン・ウッド、ヴァン・モリソン、ジョニ・ミッチェルなど豪華なゲスト・ミュージシャンが参加し、ザ・バンドと競演を果たした。ドクター・ジョン、そしてボビー・チャールズは、それぞれ「Such A Night」、「Down South In New Orleans」で彼らと競演している。写真は、ボブ・ディラン&ザ・バンドに出演者全員がステージにあがったフィナーレの「I Shall Be Released」のシーン。サングラス姿のドクター・ジョンが左端に。


--- 30年以上も前に書かれた曲だったんですね。一方で、「Manoovas」には(註)デレク・トラックスが参加していますが、ジョンさんは、レコーディング・セッションなどでこうした若いアーティストと共演する機会が頻繁にありますよね。

 基本的にデレクの音は、俺たちの音を作り終えてから、後でダビングで重ねたものなんだ。だから、デレクと直接顔をつき合わせてレコーディングしたというわけではないんだな。ただ、デレクは好きだし、デレクの家族(叔父でオールマン・ブラザーズの初代ドラマー、ブッチ・トラックス)もそうだが、ずっと昔から付き合いのある連中なんだよ。

--- ちなみに、デレクの起用はジョンさんのご指名で?

 ・・・その辺に関しては、はっきりとは憶えていないんだ(笑)。ただひとつ言えるのは、このアルバム自体、ボビーと一緒に作り上げていこうとしていたものだったのに、彼が亡くなってしまったことによって、途中で諸々がすごくねじれてしまったんだ。正直、カタチにするのが難しくなった。それで、曲を完成させるためには多くの人のサポートが必要になってしまったというわけだ。こんなことは本来なら全然しなくてよかったことだったんだが・・・それはボビーとふたりで全てをやっていたからなんだよな。だからこれは、俺なりに友人の死というものに”ケリを着ける”、ということでもあったんだよ。


デレク・トラックスの商品一覧へ   (註)デレク・トラックス・・・ フロリダ州ジャクソンヴィル出身のブルース・ロック系ギタリスト。オールマン・ブラザーズ・バンドのオリジナル・メンバーであるブッチ・トラックスの甥で、その影響もあり9歳でギターを弾き始める。現在はオールマン・ブラザーズのギタリストである一方、自身のデレク・トラックス・バンドでも活動。若くしてすでに「スライド・ギターの天才」と称えられている。ロックとブルースを基本としつつも、マイルス・デイヴィス、ジョン・コルトレーン、サン・ラーなどにも影響を受けるなどジャズ、さらにはインド〜アラブ音楽などにも造詣が深く、自己バンドではその幅広い音楽性を聴くことができる。今回のドクタージョンやボビー・チャールズの作品のほかにも様々なセッションから引っ張りだこで、2006年にはエリック・クラプトンのツアーにも同行した。ちなみに彼の名「デレク」は、デュアン・オールマンが参加したクラプトンのバンド、デレク・アンド・ザ・ドミノスに由来している。


--- 紆余曲折あった点も含めて、このアルバムはジョンさんにとってかなり思い出深いものになるのではないですか?

 まぁだから、このアルバムは、ボビーの死、そこですべてが変わってしまったんだよ。その先はバンドにお願いして、昔から書き溜めていたデモの山から、いいと思う曲を選んでくれって。それをどんどんレコーディングしていくことにしたんだ。

--- それは、ボビー抜きの楽曲、ということですよね?

 そう。俺がとうの昔に書いたものだよ。(註)アラン・トゥーサンと書いたものもあるし。


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  (註)アラン・トゥーサン・・・ルイジアナ州ニューオーリンズ生まれのピアニスト/シンガー/ソングライター/プロデューサー。自らの演奏活動のほかに、特に1960年代から70年代にかけて数多くのアーティストのプロデュース・作曲・編曲を手がけ、ニューオーリンズのR&Bシーンを影から支えてきた。彼が関わったアーティストは、アーマ・トーマス、リー・ドーシー、アーニー・ケイドー、ミーターズ、ポール・サイモン、ザ・バンドなど広範囲に渡る。70年代には『From a Whisper to a Scream』、『Southern Nights』といった自身の代表作を発表。また、ドクター・ジョン『In The Right Place』、アルバート・キング『New Orleans Heat』といった代表的なプロデュース・ワーク作品も生まれている。2005年、ハリケーン・カトリーナで被災し、ニューオーリンズ市内の自宅および自身のスタジオが全壊。以後ニューヨークに拠点を構えていたが、2009年にニューオーリンズに戻っていている。カトリーナ以降、数々のカトリーナ関連のベネフィット・コンサート、CDなどに参加するようになった。また、2006年にはエルヴィス・コステロとの共作『The River In Reverse』のリリース、中島美嘉のシングル「All Hands Together」への参加など、方々で存在感を高めている。


--- 元々のアイデアとしては、ボビーとまるまるアルバム1枚を作ろうとしていたと。

 全部とは言わなくても、ボビーと書いた曲がもっとたくさん入ったものにはなっていただろうな。彼が亡くなってすぐ、たとえば葬儀の時にも、ボビーの音楽をかける上で著作権の問題なんかが発生して、ちょっとしたゴタゴタがあったんだよ。まだそれが全く整理できてないし・・・これからやらなきゃならないんだがね。

--- そうだったんですね・・・そうしたゴタゴタを収束させたい気持ちも込めて、「Tribal」というタイトルにした、と解釈するのはいささか大袈裟でしょうか?

 「Tribal」という曲に関しては、数年前にボビーが書きはじめた曲で、前作よりもさらに前だったかと思う・・・そもそも何をいつ書いたかさえもよく憶えていないんだが(笑)、とにかく俺にとってもボビーにとっても、曲を書いた時にはすごく大切なものだった。だから、この曲に込められた真実を伝えるということが、特に俺にとっては今もすごく大切なことなんだ。大概の人が話題にしないような真実をね。そのことが俺たちふたりにとって重要だったんだよ。

--- では最後に、ジョンさんにとっての2000年代、この10年というのは、どういうものでしたか? 70年代のような精力的な作品リリースがある一方で、2005年の8月には故郷のニューオーリンズが、(註)ハリケーン・カトリーナによって甚大な被害を受けるという悪夢のような出来事もありました。

 時代や時間、俺は「時」という計りのなかでは生きていないんだよ。「精神」の中に生きている。だから、「時」とは俺にとって何でもないものに等しいんだ。時間に気をとられると混乱もしてしまう。だが、音楽が「時」から解放されてタイムレスなものになると、そこに精神が宿りだすんだ。それが一番大切なことだと思っているよ。




【取材協力:Billboard LIVE tokyo】
profile

Dr. John (ドクター・ジョン)

 本名、マルコム・ジョン・レベナック Jr. 。ルイジアナ州ニューオーリンズ出身。当初はマック・レベナックの名でギタリストとして活動。しかしとあるクラブでの演奏中に喧嘩に巻き込まれ、左手薬指を負傷しギタリストを断念。

 ロサンゼルスに移り、1967年にデビュー作『グリ・グリ』を発表。1972年には、1940年代〜50年代に生まれたニューオリンズの楽曲を素晴らしい形で蘇らせた名盤『ガンボ』を発表し高い評価を得る。1973年、ニューオリンズ音楽を継承する重要人物、アラン・トゥーサン、ミーターズと競演した『イン・ザ・ライト・プレイス』(「Right Place,Long Time」、「Such A Night」収録)を発表。1976年には、ザ・バンドの解散コンサートに出演し、映画『ラスト・ワルツ』でも紹介される。

 1989年『In A Sentimental Mood』を発表。同アルバムでは、コール・ポーター、デューク・エリントンなどジャズ界の巨匠が残したスタンダードナンバーを彼なりに見事な形で蘇らせ、その中に収録された「メイキン・フーピー!」でグラミー賞を受賞。1998年に公開された映画『ブルース・ブラザース2000』にも出演。

 その後も彼は故郷ニューオーリンズに捧げるアルバムなどを発表し、ニューオーリンズの素晴らしき音楽文化を継承し続けている。






ハリケーン・カトリーナ

 2005年8月末にアメリカ合衆国南東部を襲った大型のハリケーン「カトリーナ」。カリブ海沿岸、米南部フロリダ州などを中心に被害があったが、再上陸後のミシシッピ州、ルイジアナ州での被害が最も大きかった。ミシシッピ州ではガルフポート、ビロクシといった湾岸都市、ルイジアナ州ではポンチャートレイン湖に面するニューオーリンズが壊滅的な被害を受けた。8月28日、当時のブッシュ大統領はルイジアナ州に非常事態宣言、ニューオーリンズ市は48万人の市民に避難命令を発令。翌29日にはルイジアナ州に再上陸。その後、勢力を落としながら北上。当初死者は少なくとも55名と報道されていたが、のちに死者は数千人に上ると政府高官による発表があった。また、ニューオーリンズの8割が水没し、中でもアフリカ系アメリカ人が多く住む「ロウワー・ナインス・ワード」、湖に面した高級住宅街「レイクビュー」の各地区が特に大きな被害を受けた。

 ニューオーリンズ市内で最大の避難所ルイジアナ・スーパードームへの避難者は、テキサス州アストロドームへの移転を命じられたが、行政が避難後の対応まで考慮してなかった影響で移転は全く進まず、しかも支援物資の不足により、高齢者などの衰弱死が相次いだ。また、被災者名簿の作成が追いつかず新たな避難先に移転した際、家族と離れ離れになる被災者が続出。市内の各地では廃墟のような街並みが広がり、遺体が水面を流れているという絶望的な光景が広がっていたという。さらに、移動手段をもたない低所得者は被災地に取り残され、市内の食料品店などで略奪行為が続発したほか、放火と見られる火災も起きている。また、レイプ、救援車両・医薬品輸送車への襲撃なども行なわれ、市内はまるで無法地帯と化しているとの情報も一時流れた。そのため治安維持に当たった州兵が、被災者に銃を向けなければならないという痛ましい事態があちこちで見られるようになった。

 政府の対応が遅れた事に対してブッシュ大統領自らが認めたが、大統領が休暇中のテキサスの牧場から声明を発表していたことなどもあって政府に対する非難は各方面から噴出。また、被災した地域の住民の多くはアフリカン・アメリカンであり、人種差別や貧困といった問題が被害を大きくした要因となり、アフリカン・アメリカンに対する差別意識があるとする、政府を批判する発言が相次いだ。