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2012年3月29日 (木)

連載 鈴木淳史のクラシック妄聴記 第35回

「ヴァント、そのあまりにもの繊細な表象」

 このところの最大のヨロコビといえば、何といってもヴァント指揮ベルリン・ドイツ響の第二弾にあたるセットもののリリースだ。
 この指揮者、このオーケストラの組み合わせがいかに鉄板であるかということについては幾度か書いたし、今回のセットについても同じHMVサイトで許光俊さんが取り上げてるので、改めて触れなくても罰は当たるまいとは一度は思ってはみたものの、これだけの逸品を出されると、さすがにスルーするわけにもいかないっちゅうわけで。
 曲目を見ると、ほかのオーケストラとの演奏がすでにリリースされている、つまり、ヴァントの得意曲がズラリと並び、さほど目新しい感じはない。ただ、それらには「ヴァントならでは」の精緻さが極限までに現れていて、「この曲の演奏は他のオーケストラでも聴いたことあるし」なんて舐めてかかると、そのハンパねえ音楽の姿に呆然とすること必至なのだ。

 チャイコフスキーの交響曲第5番。冒頭楽章序奏部の楽器の重ね方からして、もうこれは尋常ならざる演奏ということがわかる。痺れるほどにデリケートなバランス、有機的に響くハーモニー、明確に示される動機。扇情的な旋律の歌い方や、爆発で盛り上げているのではなく、一つひとつ精緻に楽句を積み重ねていく、まさしくドイツ的なチャイコフスキーといっていい。音量は出ていてそうだし、決してナヨっているわけでもないのだけど、一かけらの野蛮さもないのだ。
 しばしうっとり聴いていたのだけど、最終楽章の主部への入りで、突然夢が覚めた。テンポの切り替えが急すぎて、これまでの落ち着いた風情は完全に吹っ飛び、パニックで非常口に人々が殺到する様を彷彿とさせるようなイケイケな音楽に。その前ノメリ状態は展開部で一度落ち着くのだけど、いったいどうしてしまったのだ?
 よく聴いてみると、この部分でヴァントが一小節分を飛ばして振ってしまったようにも思える。それに気付かないオーケストラがテンポが急に上がったと思い込み、目の色変えて必死に付いて行ったおかげで、このような急沸騰したような音楽になってしまったのではないかと。
 このあたりの過剰な反応の良さは、さすがベルリン・ドイツ交響楽団といっていいだろう。北ドイツ放送響やミュンヘン・フィルでは、たとえヴァントが間違った指揮をしても、さほど慌てず、どっしりと構えていそうなもの。それは、いかにヴァントが常軌を逸するような細かい演奏をやろうとしても、自分たちの流儀から外れたことはしない、ある集の鈍感さにも通じている。それぞれ固有の歴史を持つ都市ならではのプライドを持ったオーケストラとして(田舎者の頑固さ、なんて言ってはいけません)。
 一方、ベルリンは状況に極めて敏感、柔軟に反応する町という印象がある。電車に乗っても、隣の見知らぬ人と普通に話すことができるようなオープンな雰囲気があり、外から入ってきた者に対しても「とりあえず話を聞こう」という姿勢がある。とくに、かつて「敵」にぐるり囲まれていた西ベルリンでは、ささいな情報でも漏らさずに耳を傾けるという鋭敏さが必要とされていたのではなかったか。
 そういったオープンな精神は、ベルリン・フィルにもある。お高くとまっているように見えるベルリン・フィルだけど、彼らは意外にまだ実績の足りない指揮者を頻繁に指揮台へ招く。そして、最初の演奏会は、その指揮者の音楽に寄り添った演奏をする。最初から、あんな若者のやり方やってらんねーべ、みたいな醒めた反応じゃないのだ。ただ、それがうまく行かなければ、再び指揮台には登れないし、オトナの事情で次回があったとしても、オーケストラは指揮者の言うことをまるで聞かないというオチが付くが。
 ベルリン・ドイツ響の演奏は、北ドイツ放送響やミュンヘン・フィルと比べると、いささか技術的に不安な箇所もある。たとえば、今回のチャイコフスキーの交響曲第6番第1楽章では、大事なところで金管が音を外す。それを修正せずに出してくるメーカーには逆に信頼感を持てる面もあるが(エンジニアがいじり回したライヴ録音は、たいがい最悪な音質だし)、生演奏ならともかく録音でこう派手にミスが入っていると、聴き手がちょっと意気消沈してしまうのも事実。まあ、良くも悪くも、青春まっしぐら、感じやすい、ナイーヴなオーケストラであることは確かだ。
 とはいえ、ヴァントの音楽が完成し、全盛期というときに、このような過剰なまでに反応がいいオーケストラと演奏が行なわれ、そしてそれが録音で残されているという事実は、涙が出るほどにありがたい。ヴァントが目指した芸術を伝える最良のディスクといっていい。

 ストラヴィンスキーの《火の鳥》や、ムソルグスキーの《展覧会の絵》のような最終曲で盛り上がる作品でも、「どりゃ、クライマックスでぶちまかしたるでえ」みたいな調子はさらさらないのがヴァント。それどころか、それぞれの最終曲は、脂肪分バッサリとカット、リズムが輪郭クッキリと立ち上がる。すがすがしく、鮮やかなフィナーレ。曲全体が精緻に組み上げられているのだから、ドカンと最後に盛り上げる必要なんてないわけだ。そこには、すでに大伽藍が築かれているのだから。
 熟成しつつも、晩年の演奏で散見されるような緩さもないブルックナーの交響曲もいい。むやみに音を厚塗りすることなく、キレイで、ときには大胆な階層を作り出す彼の方法が効いている。そして、音を溶け合わせるときは、水彩のように実に繊細なトーンを作り出す。
 交響曲第6番を聴いているとき、だしぬけに寂寥感のようなものに襲われた。それは、孤独の風を漂わせ、恐れに近い温度で、空洞のような無常観。胸を締めつけんばかりの、はかない心地。思えば、ヴァントが指揮したベルリン・ドイツ響の演奏すべてに、こうしたニュアンスをわたしは感じ取っていたような気もしてくる。
 目の前には、精巧に組み上げられた巨大な建造物がある。そのしっかりとした構造のすべてが見えているがゆえに、逆にその脆さを感じてしまうような心地なのだ。そのはかなさが、喩えようもなく美しい。
 指揮者が、もう少し雑駁で、ふくよかな音楽にしてくれていたら、「山だ」「自然だ」などと、ブルックナー音楽の恒久な姿を信仰することができたかもしれない(現代日本のブルックナー受容は富士講に近似していないだろうか、と思うこともある)。でも、ヴァントのデリケートな手つきは、積み上げられたものは、崩れる可能性もあることを示してしまう。実際、先に例にあげたチャイコフスキーの第5番終楽章では、それが崩壊しかけた様子を耳で聴くことができるし。 
 ガッチリとした構築が特色であるヴァント。でも、そのあまりにもの繊細な表象は、ヨーロッパ的な価値観をそろりと突き抜ける。そう、カタチあるものはすべて壊れる、と。

(すずき あつふみ 売文業) 


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