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ロンドン響委嘱作〜 10人の新進作曲家による作品集

2013年3月27日 (水)

パヌフニクの遺産〜ロト&ロンドン交響楽団
次世代を担う10名の新進作曲家たちが
LSOのために書き下した作品集


「LSO Live」の新シリーズ「LSO Discovery」第1弾。10名の若き新進作曲家たちの新作を収めた内容はすべて、もともと「LSO パヌフニク・スキーム」の一環として委嘱された作品で、ロンドン交響楽団(LSO)がその音楽を世界中で分かち合い、プロモートできるように、あらたにレコーディングされたものです。
 ポーランドが生んだ20世紀を代表する作曲家サー・アンジェイ・パヌフニク[1914-1991]は、生前にLSOが3つの作品を委嘱して、その交響作品の多くをレコーディングしたことから楽団とのゆかりの深かったことで知られています。
「作曲家で私の夫は、今日ではどうしたら若い作曲家たちが最高水準のオーケストラとの絶対不可欠な経験を得ることができるのかを気にかけていました。このプロジェクトこそが彼の夢をかなえるのです。」 このように語るカミラ・パヌフニク夫人の協力のもと、LSOによって「LSO パヌフニク・スキーム(The LSO Panufnik Scheme)」は、今は亡き作曲家パヌフニクを追悼する目的で創設されました。2005年にスタートしたスキームでは、著名な作曲家コリン・マシューズの指導を受けて、毎年6名の作曲家たちにLSOのための演奏時間3分間の曲を書く機会を提供しています。スキームの開始以降、この作曲家たちの多くが、引き続きLSOよりさらなる作品の委嘱を受けるようになっています。
 このアルバムでは、このプロジェクトの最初の5年間から厳選された作曲家たちの作品の数々を紹介していますが、その経歴や作風はじつにさまざま。グラスゴーの生まれで、作曲家への転向以前の青春期を、スコットランド中を演奏して廻るフォークバンドのヴァイオリン弾きとして過ごしたサックリング。クリント・イーストウッド監督の映画「父親たちの星条旗」と「硫黄島からの手紙」とのサントラの一部の譜面起こし、オーケストレーションおよび演奏を手掛けたマコーマック。作曲家、アレンジャー、プロデューサーそしてジャズ・サックス奏者としてすでに名高いヤードは、2013年3月のLSOセント・ルークス10周年記念式典の一環として、2013年4月のワークショップで演奏予定の、LSOブラスとパーカッション・セクションのための新作も委嘱されています。ここで選ばれた10名を含め、このアルバムはいま現在もこのスキームを通じてオーケストラと共同作業をする過去総勢45名の作曲家たちによる多岐に亘るスタイルと影響の範囲の一端を示すものといえるでしょう。
 なお、指揮を手掛けるロトは、LSOが1990年より2年おきに行うドナテッラ・フリックLSO指揮コンクール(The Donatella Flick LSO Conducting Competition)で2000年に優勝を果たし、最長1年間LSOのアシスタント・コンダクターを務めるチャンスを得てキャリアの足掛かりを築き、世界の舞台へと羽ばたいていった指揮者でもあります。
 2003年のオープンから10周年を迎えるLSOセント・ルークスは、LSOのリハーサルや演奏会およびレコーディングのためのホール。もとは18世紀にニコラス・ホークスムーアが設計した教会で、第一級指定建造物にも登録されており、外観が当時の様子を留めているのとは対照的に、内部には録音機材など最新鋭の設備が整えられています。公開リハーサルや、年間を通して毎週木曜日に開催される、BBCラジオ3放送番組用のクラシック・ランチタイムコンサートの会場として活用されると同時に、クラシックのほか、ワールドミュージックやポピュラーを取り入れた音楽教育プログラム「LSO Discovery」も実施しています。(キングインターナショナル)

【収録情報】
・アンドルー・マコーマック:インセンティヴ (Incentive)
・クリスティアン・メイソン:…照りつける日差しからの逃避… (… from bursting suns escaping …)
・チャーリー・パイパー:浮遊 (Fleotan)
・エロイーズ・ジン:サクラ (Sakura)
・エドワード・ネズビット:類似I (Parallels I)
・エドワード・ネズビット:類似II (Parallels II)
・ジェイソン・ヤード:ひどい幻滅 (Rude Awakening)
・マーティン・サックリング:新生児のためのファンファーレ (Fanfare for a Newborn Child)
・クリストファー・メイヨー:サーマ (Therma)
・エリザベス・ウィンターズ:突然の豪雨、突然の曇り (Sudden Squall, Sudden Shadow)
・ヴラド・マイストロヴィチ:ハロ (Halo)

 ロンドン交響楽団
 フランソワ=グザヴィエ・ロト(指揮)

 録音時期:2012年10月
 録音場所:ロンドン、LSOセント・ルークス
 録音方式:ステレオ(DSD/セッション)
 プロデューサー:ジョナサン・ストークス

【パヌフニク・プロフィール】
ポーランド出身の20世紀の作曲家、アンジェイ・パヌフニクは、1914年9月24日、ワルシャワに誕生。父はヴァイオリン製作者、母はヴァイオリニストという環境で早くから音楽を学び、ワルシャワ音楽院では打楽器と作曲・指揮を修めます。
 卒業後はウィーンでワインガルトナーに師事し、その後、ロンドンとパリにも滞在して研鑽を積み最初の交響曲も作曲、ロンドンに居合わせた師のワインガルトナーから、国際情勢の悪化を理由に同地に残るよう勧められるものの、パヌフニクは祖国に帰還。
 ドイツ軍占領下のワルシャワでは、友人のルトスワフスキと共に、ピアノデュオを結成して秘密裏にコンサートを開催、さらにレジスタンスの歌を書いたり、交響曲第2番や悲劇的序曲を作曲するなど大活躍。しかし、1944年、病気の母を連れてワルシャワを後にすると、ほどなく「ワルシャワ蜂起」が起き、一般市民ら約20万人(!)がドイツ軍によって惨殺され、市街地も放火・砲撃などで徹底的に破壊、パヌフニクの兄弟たちも殺されてしまいます。
 パヌフニクは1945年に同地に戻り、破壊を免れた自宅を訪れますが、そこにはすでに別な人間が住んでおり、戦火を生き延びたパヌフニクの作品は彼らによって燃料として焼かれてしまっていました。失意のパヌフニクは、兄弟たちを埋葬すると、クラクフに移り、政府のプロパガンダ・フィルムのための音楽を作曲する仕事に就きます。
 やがてクラクフ・フィルの首席指揮者となったパヌフニクは、指揮活動の合間を縫って自作の再構築にも着手。その後、戦火で実体が無くなってしまっていたワルシャワ・フィルの音楽監督に任命され、楽員を集めるなど再建に尽力しますが、政治的な妨害を受けて、退任を余儀なくされてしまいます。
 辞任後、作曲活動に精を出し、四分音を導入するなど新生面を開いたパヌフニクは、ポーランド作曲家同盟の幹部に選ばれ、また、ユネスコ国際音楽評議会ではオネゲルとともに副会長を務めることとなりますが、ポーランド文化省から、西側の作曲家を共産主義に勧誘するよう強制され続けたことに嫌気がさしてきます。
 さらに、ソ連のフレンニコフが、大会でパヌフニクの『シンフォニア・ルスティカ』を形式主義的として公然と批判し、作品の破棄と演奏禁止を要求すると、パヌフニクの音楽の前衛性に非難が集まりますが、ポーランドでは同作品は国営出版社によって出版されて何度も演奏され、さらにパヌフニクが表彰されるなど、ソ連での批判はあまり影響がなかったようです。
 同じ頃、パヌフニクは3度目の夫と新婚旅行中のアイルランド女性、メアリー・エリザベス・オマホニーと知り合い、その美貌と人柄に一目惚れしてしまいます。1951年に彼らは結婚し子供もできたため、パヌフニクは生活のため映画音楽の仕事にも打ち込む一方、ヘルシンキ・オリンピックのプレ・オリンピックのために『英雄的序曲』を音楽コンクールに出品して優勝するなど、忙しい日々を過ごします。そんな中、1953年にはワルシャワ・フィルの室内管弦楽団と共にパヌフニクは中国を訪れ、周恩来首相や毛沢東主席にも会います。しかしその間、留守宅ではメアリーが娘との入浴中に癲癇の発作を起こし、娘が浴槽で溺死するという不幸な事故がおきていました。
 失意のパヌフニクに対し、政府は相変わらず西側作曲家への共産主義勧誘をおこなうような依頼をおこなったため、パヌフニクは英国への亡命を決意、先に妻のメアリーが英国に渡り、その地で亡命ポーランド人たちの協力を得て、スイスにパヌフニクを招く形で国外に脱出、その後、ロンドンに飛ぶという計画を立てました。
 パヌフニクはスイスに無事に入りましたが、現地のポーランド公使がパヌフニクの亡命計画に気づき、彼をポーランド大使館に呼び戻そうとします。しかしパヌフニクは同行していた秘密警察を振り切ってタクシーで飛行場に行き、なんとかロンドンに着くと政治的保護を認められました。このことは新聞でも大きく報じられ、ポーランド政府はパヌフニクを「人民の敵」とし、作品の演奏を禁止します(この措置は1977年まで続けられます)。
 着の身着のままで西側の人となった彼の生活は困窮していましたが、作曲家のヴォーン=ウィリアムズやアーサー・ベンジャミンからの金銭的援助、さらにピアニストのマルクジンスキーによる後援者探しなどもあって、なんとか落ち着きます。
 パヌフニクには作曲のための静寂が必要でしたが、妻のメアリーはポーランド脱出行をきっかけにパヌフニクについての本を出版、その騒動と内容に落胆したパヌフニクは彼女と距離を置くようになっていきました。
 やがてパヌフニクはBoosey & Hawkes と契約を結び、自作の出版に向けて動き出しますが、ポーランドで出版された作品の著作権のトラブルを回避すべく、旧作の改訂に着手します。しかし、改訂作業がすべて終わったときに、ポーランドの国営出版社がパヌフニクの作品について争う気はまったく無かったことを知り、彼は浪費された時間を大いに嘆きました。
 1957年、パニフニクはバーミンガム市交響楽団の首席指揮者に就任することになりましたが、妻のメアリーはロンドンを離れることを拒否、すでに関係が冷えていたこともあって離婚します。バーミンガムでのパヌフニクは、経済状態は安定しますが、年に50回おこなわれるコンサートのための準備で、今度は作曲の時間が無くなってしまいました。
 1959年、首席指揮者を辞任したパヌフニクは、魅力的な女性ウォードと恋に落ちます。しかしウォードは翌1960年に癌と告知され、1961年に亡くなってしまうのです。悲しみに暮れたパヌフニクは『秋の音楽』を作曲、ガナーズベリー墓地の彼女の墓石にその楽譜の一部を刻みます。このできことは、のちの『カチンの墓碑銘』作曲へとつながってゆきます。
 失意のパヌフニクは作曲に打ち込み、1963年、『シンフォニア・サクラ』を完成、コンスタンティン・シルヴェストリがとりあげて話題を呼び、後にBBCでポートレート番組が放映されるほどの成功を収めます。
 やがてパヌフニクは若いカメラマンのカミラ・イェッセルと出会い、ほどなく結婚。数々の苦難の果てに得た幸せな家庭生活を背景に、充実した作曲活動をおこない、1990年には騎士に叙せられ、さらに祖国ポーランドにも帰還を果たすなどの栄誉に浴しますが、翌1991年10月27日に亡くなってしまいます。77歳でした。なお、二度目の妻カミラとの間に生まれたロクサナは、現在作曲家として活動しています。(HMV)
※表示のポイント倍率は、
ブロンズ・ゴールド・プラチナステージの場合です。

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『パヌフニクの遺産〜10人の新進作曲家によるオーケストラ新作集』 ロト&ロンドン響

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『パヌフニクの遺産〜10人の新進作曲家によるオーケストラ新作集』 ロト&ロンドン響

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発売日:2013年05月18日
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