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2013年9月24日 (火)

連載 鈴木淳史のクラシック妄聴記 第50回

「ケンプの変幻自在なるベートーヴェン」

 文京シビックホールは、文京区役所と同じ建物に入っている。二千人近い客席の多目的ホールなのであるけれど、在京オーケストラが年に何度か演奏するだけで、クラシック好きにとっては決して重要性の高いホールとはなってない。
 長らくこの近所に住んでいたことがあるので、ここでオーケストラのコンサートなぞたくさん催されればとても便利なのに、我が町の誇りなのに、もっと懸命に労働してたくさん税金収めてやるのに、などと思ったことはあったものの、そう都合よくいかないわけはなんとなくわかっていた。なにせ音響がよろしくないのだ。遠くの席は音が聞こえにくいし、そうでない席はぐだぐだに濁りがち。ついでに座席の座り心地もイマイチ。

 このホールの前身にあたり、同じ場所にかつて建っていたのが文京公会堂だった。この文京公会堂は、現在のシビックホールと違って音響の良さで知られていたようである。オーケストラやピアノの演奏会も多く、同時に多目的ホールとして「8時だョ! 全員集合」公開収録などにも使われるなど、稼働率は異常に高かったとか。確かチェコ・フィルなどもここで演奏したのではなかったかしら(「ダメだこりゃ」とセットが崩れるドリフ番組収録の翌日に、ヴァルハラが崩れ落ちるワーグナーの《神々の黄昏》抜粋なんてやった日もあったかもしれぬなあ、なんて想像して勝手に胸が熱くなった)。
 現在のホールのロビーには、古びたスタインウェイが置かれていて、内部に演奏家のサインがしてあったのを見た記憶がある。このピアノは文京公会堂で使われていたもので、かつてここで演奏を行ったピアニストの名前が記されていたのだった。ルドルフ・ゼルキン、ニキタ・マガロフ、ヤン・パネンカなどに交じって、そのなかにはヴィルヘルム・ケンプの名前もあった。
  
 1961年、この文京公会堂でケンプがベートーヴェンのソナタ・チクルスを行ったのだった。この年に来日したケンプは一ヶ月近くのあいだ、このホールでのソナタ全曲、さらにベートーヴェンのピアノ協奏曲全曲(厚生年金会館ホール)、ブラームスの協奏曲に加え、オルガン演奏を含めたリサイタルと、新幹線のない時代に東へ西へ、圧倒的なスケジュールをこなしている。まさしく「神様、仏様、稲尾様、ケンプ様」といっていい働きだ(ちなみに、この年に西鉄ライオンズの稲尾和久はパリーグ記録となる78試合に登板、最多タイとなるシーズン42勝を挙げたのだった)。

 このときのベートーヴェンのソナタのラジオ中継用録音が、初めてディスク化された。7晩に渡って第1番から第32番まで順番通りに弾かれたソナタに加え、モーツァルトやバッハのアンコール曲もすべて収録されている。しかし、最終日は第28番から第32番まで弾いて、アンコールも3曲披露しているとは、なんとも濃すぎる演奏会だの。
 すれっからしのわたくしとしては、ケンプは二つの全集も出てるし、それに今さらケンプなんてねえ、と大きな期待もせずに聴いてみたのだけれど、これが実に面白く聴けてしまったのだった。速いパッセージは指がもたついているよねえ、ミスタッチも結構あるしねえ、とツッコミたくなる気持ちは、ライヴならではのわきたつような感興にかき消されてしまった。

 よく言われているように、ケンプのベートーヴェンは、粒立ち良く旋律のラインをスマートに聴かせる現代の演奏家とはまったく異なる。旋律はパラパラと水っぽかったり、かと思えば、ゴツゴツと前のめりに攻めてきたり、トリルがいちいちオシャレだったり、突然美音を輝かせた刹那にゾッとするような弱音表現を披露したりもする。一筋縄ではいかぬベートーヴェンなのである。二度目のスタジオ録音では枯れた、しみじみとした味わいが感じられたものだったが、このライヴ録音では不思議な勢いに乗って有無をいわせぬウネリを生む。

 最近はベートーヴェンの初期ソナタを面白く聴かせてくれるピアニストが増えている。古典派の枠組みのなかで、いかに彼の個性が展開されているかをしっかりとした構成で、しかも愉悦感たっぷりに表現している演奏に出会うことが多くなった。 
 一方、ケンプの同年代、あるいは彼より古い世代のピアニストが弾いたベートーヴェンの初期ソナタには、さほど感心したためしがなかった。ベートーヴェンならではの熱っぽく野心的な実験がここでは行われているのに、どうにも演奏が醒めがちなのだ。もしかしたら、当時の巨匠にすれば「若い頃の作品だからそれほど重要じゃないし」みたいにナメてかかっていたのかもしれない。
 しかし、ケンプの今回の演奏はそういった傾向とは無縁だ。まさに「チクルスに挑んでいるぞー」といわんばかりの熱気のうちに、テンションがどんどん高まってくるような演奏なのだ。たとえば、第6番プレスト楽章の破れかぶれの前のめりのアゴーギグ。そして、ギャグすれすれにまで煌びやかにやってこました第2番終楽章のロンド旋律。

 第16番最終楽章コーダのブルレスケな表現、あるいは第24番のイケイケな第2楽章も実に妙な味わいがある。かと思えば、第27番1楽章の終わり方のしみじみした情感はさすがケンプ。ここぞというときの弱音表現は、まさしく彼の真骨頂だろう。
 もちろん、混沌は混沌のままに。そこから怪物じみたベートーヴェンの姿がにょきりと現れる。こうした変幻自在なベートーヴェンをナマで聴けたなんて、いいないいな。もっと懸命に労働してたくさん税金収めたくもなるわ。

(すずき あつふみ 売文業) 

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