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2014年6月16日 (月)

連載 許光俊の言いたい放題 第232回

マゼール、天上の境地

 連休も終わり、ようやく杉花粉の季節も過ぎ去った。とはいえ、大気中の汚染物質、豪雨、湿気という新たな不快要素が増しつつある。
 この春はいろいろなことがあった。いまだ続いているSTAP細胞騒動、韓国船の悲惨きわまりない沈没・・・。それに先立って猪瀬前都知事もそうだったが、まさに天国から地獄へという運命の急転がいくつも報道された。人間の愚かさが端的に表れてしまうような事件が続いた。
 そのせいで早くも忘れられつつあるようだが、音楽界にとって衝撃的だったのは何をおいても佐村河内事件に違いない。かくいう私もすっかりテレビにくぎ付けになったひとりである。まさかひとりの「作曲家」の記者会見が、CMまで省略して1時間も放送されるとは・・・平和といえば平和、文化的といえば文化的。ある意味ではこの人物にとって人生で最大のハイライトだったと言えるだろう。
 この私も佐村河内に騙された。それも十年以上にわたって騙された。あれは今をさかのぼることすでに15年近く前、家に見知らぬ男から電話がかかってきた。耳が聞こえない、従って電話で話すことができない作曲家の代わりにかけているという(今考えるに、いったい誰だったのだろう?)。作品を聴いて、評価してほしい。それが、演奏人数が200人にも及ぶかというゲーム音楽「鬼武者」だった。
 この「作曲家」こそが、ベートーヴェンどころではない悲惨な人生を送るという佐村河内守だったのである。私はその尋常でない悲惨さに驚き、以後、ファックスやメールでアドバイスを求められるたびに親切に対応してきたし、この不幸な人が少しでも世に認められればと願ってきた。私だけではない、彼の「自伝」のあまりにも強烈な内容に強い衝撃を受けた人々は大勢いた。広島などで彼の作品に喝采を送った人々、感情こめて演奏した人々も、みな善意あるいい人たちだったのだと思う。
 代作が発覚したとたんに、あそこが怪しかった、やっぱりおかしいと思った、という感想があちこちのメディアで見られた。だが、あとからならどうとでも言える。障害者手帳も交付されている人物に向かって、本当かと問い質す人が何人もいるとは思えないし、実際いなかった。万が一そんなことをしようものなら、それこそ人格を疑われるに違いない。
 しかも、クラシックについて少しでも知識がある人ならばわかっているはずである、現代において作曲はもっとも食えない仕事のひとつだということを。金がほしいなら、有名になりたいのなら、クラシックの世界で作曲をやろうなどとは万が一にも考えないはずなのである。少なくとも80分もかかる大編成の交響曲など書かない、書かせないはずである。
 それゆえ、私は佐村河内に代作者がいるだろうとは微塵も考えなかった。もちろん、この世界では「アシスタント」なるきわめてあいまいな存在がある。その実態がどうかはケース・バイ・ケースだが、グレーゾーンどころか、ほとんど真っ黒に近いこともままあるという。佐村河内の作曲を手伝う人間が誰もいないと考えるほうがおかしい。少なくともパソコンへの打ち込みを手伝ったり、それらしい人間はいるだろうと想像してはいたが。
 公表を想定していない私信であるがゆえ公にすることはしないが、佐村河内から私あてのファックスには、辛い人生を送っている、作品を認められたい、でも障害を売り物にしたくはないという鬱屈した気持ちが赤裸々に書かれていた。一字一字にただならぬ力がこもった長文で、いったいこれほどの手間暇かけて私などを騙そうとしていたのかと思うと、今でも信じられない気がする。家に戻ってそんなファックスがデロデロと機械から流れ出しているのを見ると、そこから発散される妖気に思わず身震いしたものである。
 本当のところ、どうして佐村河内はこんなことをしたのか? 作曲家などに扮そうと考えたのか? 大量の報道のわりには、そこを突っ込んだものは見かけなかった。これに関しては私なりの考えもある。結局、私は一度も彼と直接会わなかった。あまりにも重い苦痛に苛まれている人間に会うのはなんだか気が重かったのである。こうなってみれば、会ってあれこれ聞いてみたい気はする。
 いくら騙されたとはいえ、結果的には私は事実と違ったことを書いてしまったわけで、この点に関しては読者に謝らねばならない。ちなみに、私のところにも複数のテレビから取材があった。基本的に私はこうした取材を断らない。ものを書く人間は、やはり言葉でちゃんと言わなければだめだと考えるからだ。たとえいいように編集されてしまうにしても、それでも言わないよりは言っておいたほうがよいのである。テレビ局の人は、音楽関係者が全然取材を受けてくれないと嘆いていた。それはあまりに情けなさすぎると思う。作品がよければいいじゃないかとか、いろんな言い訳も見かけたが、見苦しい。みな、騙されたのだ。善意がある人ほど騙されたのだ。残念ながら、それが人間であり社会というものである。
 私も騙された。気の毒だと思って親切にしたら騙された。おもしろいものはないかという消費者の目に留まるような文章を書いてあげて、間違った。端的に言えばそういうことである。いろいろな細かいできごとがあって、それはそれで読者にはおもしろいと思うけれど、言い訳みたいに見えるのはカッコ悪いので、書かない。
 ただし、あえてひとつだけ付け加えるなら、善意を悪用されて騙されるとしたら、それはそれで仕方がないことだ。必ずある程度は起きることである。疑ってばかりの人生では、あまりにもわびしい。目の前に渇いている人がいたら、それが本当か確認する先に、いっぱいの水を差しだしたほうがいい。適度に騙されてもいい、適度に損をしてもいい、そういう気持ちで生きたほうが幸福だと私は信じている。
 この件についてはいくらでも書くことがあって、本当はもっと長く書きたいのだが、きりがないのでこのへんにしておく。

 さて、久しくこのコラムの執筆が途絶えてしまったのも、春はずっとヨーロッパにいて、文字通り満腹感がするまで音楽を聴いていたからだ。アーノンクール、サロネン、ミンコフスキ、ラトルといった常々高く評価している人たちを満喫し、かつそれ以外にもいろいろな発見があった。
 そんな中で特に印象的なもののひとつだったのが、マゼール。ズバリ、最近のマゼールはすごいことになっている。かねてから、年を取ったら誰が大巨匠になるかなんてテーマは、音楽愛好家にとってかっこうの話題だったが、よりによってあのマゼールが同世代ではただひとり、澄み切った境地に到達してしまったのだ。まったく世の中は思いがけないことばかりである。ミュンヘン・フィルで聴いた「ツァラトゥストラ」の立派で厳粛なこと、「ティル」最後のあまりにも深い美しさ。遅いだけではない。異様な立派さがある。よけいなものがみな流れ去ったあとの清流のようである。おおげさなところ、わざとらしいところが全然ない。大手レコード会社が不調で昔みたいに活発に録音をしてくれないことを今更嘆いてもしようがないが、こんなすばらしい音楽がこのまま消えていくなんてもったいないと思った。
 ところが、そのマゼール、4月以後キャンセルが続いている。ボストン交響楽団との来日も果たせず、ミュンヘン・フィルやベルリン・フィルなどもキャンセルし、あげくには夏のPMFも降板した。そして、なんとミュンヘン・フィルの監督を辞任するというニュースまで飛び込んできた。親は100歳以上生きた長寿の家系ゆえ、自分も当然長生きすると語っていたのだが。
 ちなみに来シーズンのミュンヘン・フィルのプログラムは、まさにマゼール大特集である。85歳バースデーコンサートをはじめ、まるでマゼールお抱えの楽団かというくらいのマゼール尽くしだ。それをすべて投げ出すとは、よほどのことに違いない。再び彼の姿をステージで見ることができるのか? 私は大いに気をもんでいる。
 CDでは、フィルハーモニア管とのマーラー集で最近の芸風が聴き取れる。かつて彼の音楽にあった脂っこいくどさ、やらなくてもいいことをやるうるささがほとんど消えていることがわかるはずだ。淡々とやっているところにすごみがにじみ出る。「復活」の第2,3楽章など、かつて聴いたことがない、信じられないような美しさだ。吸い込まれそうな休符はまるでシューベルト。フィナーレは、浄化されたようなすがすがしさがある。全体に歌い方がとても自然だ。
 濃いめコテコテの味が好きな人には向かないだろう。小さな音のひとつひとつが、これみよがしではなく言うべきことを言っている。ついでながら、マゼールの指揮ぶりは、これでもかと達者なものだったが、今は違う。あいかわらずよく手が動くのだが、それが何とも美しく、見惚れてしまうほどだ。
 おそらくマゼール自身はこうした変化を意識してはいまい。おのずとこうなったのだろう。それが老人芸の神秘だ。いや、芸術の神秘だ。それを再び堪能させてほしいと願っている。

(きょみつとし 音楽評論家、慶応大学教授)

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