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ショスタコは龍安寺だった〜チェリビダッケの第5番 許光俊の言いたい放題へ戻る

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2015年9月19日 (土)

連載 許光俊の言いたい放題 第245回


 いやはや、びっくりである。今年、拙著『クラシック魔の遊戯』が、ある大学の入試において長文読解問題として使われたとき、あのマニアックな内容が出題されたことに心底驚いた。よりによって、「展覧会の絵」でチェリビダッケとミュンヘン・フィルは、シュトゥットガルト放送響は・・・という箇所なのである。ふだんクラシックを聴かない受験生にとっては、まったく見たこともないような文章、内容だったのではないか。だからこそ、予備知識なしに言葉をきちんと読めるかという力を試すことになるのだろう。しかも、設問が高度だ。編集者ともども、うなってしまった。
 その前に『最高に贅沢なクラシック』がこれもまたある大学の入試で出題されたときにも驚いた。内容からして、とても一般向けではないと思っていたからだ。
 実は拙著はこれまでにもいくつかの大学の入試で使われている。ありがたいことであるが、恐るべきは、どの問題も、書き手としてはここが一番力が入っているという部分から必ず選んでくることだ。
 昨日は、ある出版社から、これまた拙著の一部を小学生向け問題集に使いたいと連絡があった。え、なんと小学生? 子供が私の文章を読まれれるのか? 再び大いに驚かされたのだった。

 さて、今までこのコラムではさまざまなCDを紹介してきた。ことに、次々と発掘されるライヴ録音の中には、期待ほどではないものもあるにせよ、とんでもない演奏が混じっている。そのたびに驚いてきたが、今回、極め付きの中の極め付きを紹介できるのが嬉しい。
 間違いなく別格の中の別格の1枚であり、演奏家の代表盤たり得る、いやいやそれどころか、その衝撃性と説得力において疑いなく演奏芸術の最高峰に位置する録音が発売されたのだ。
 チェリビダッケ指揮スウェーデン放送響のショスタコーヴィチ交響曲第5番。正真正銘、録音で聴ける彼の最高の仕事のひとつである。私は時々「毒がある」という形容を使うが、これは毒があるどころではない。完全に猛毒だ。ビリビリくる。しかもジワジワしみこんでくる。こんな毒にやられて死ぬのなら本望だ。
 もっぱらブルックナーに馴染んでいる人には信じられないかもしれないが、実はチェリビダッケはショスタコーヴィチを得意としていた。「レニングラード」のドイツ初演が彼の手によることを知っている人も多いだろう。
 だが、始終指揮していたわけではない。第5番の演奏回数も少なかった。イタリアの放送オーケストラと演奏したことはあるし、商品化もされた。また、1980年代後半にミュンヘン・フィルともヘルクレスザールで演奏している。しかし、残念なことにこのときの録音は楽団や放送局のアーカイヴにも遺されていないようだ。チェリビダッケの死後、いよいよ正式なCD化が始まるというときに、私がまっさきに要望したもののひとつがこれだったのだけれど、見つからず、発売は不可能だったのだ。ついでに言うと、晩年の来日時、私は本人にぜひ再び5番を演奏してほしいとお願いしたのだが、「誰がそんなものを聴きたがるのだね」と一蹴された。本人としては、どうせならみなが喜ぶブルックナーをやりたいと思っていたようだ。
 それだけに、スウェーデンでの演奏がまともな音質で存在し、発売されるのはたいへんな事件なのだ。そして、何より、演奏が期待をはるかに上回ってすごいのだ。

 チェリビダッケに馴染んだ人ならば、おおよそどのような演奏になるか推測できるかもしれない。だが、事実は推測をはるかに凌駕しているはずだ。
 第1楽章からしてチェリビダッケ以外には不可能な、あまりにも深遠な瞑想的世界が展開する。異様に静かな音楽だ。弱音のところだけが静かなのではない。全体が恐ろしく静かなのだ。エアコンの音が耐え難くなるほどだ。だから、このCDを聴くためには、エアコンを使わなくてすむ天気を選ばねばならない。嘘のようだが、本当の話だ。
 チェリビダッケの方法論は、ある意味ではきわめて簡単である。ひたすら淡々と正確に弾かせていくだけだ。だが、その結果生まれた音楽は・・・わかりやすい熱気はゼロにもかかわらず、聴いていて息苦しくなるような緊張感に満ちている。それでいて妙に平静でもある。
 演奏時間は異常に遅いと言うほどではないにもかかわらず、音楽が完全に止まっているように聞こえる。音が勢いで先に進んでしまうことがないのだ。まさしく音による彫刻だ。
 あっ、そうだ、こう言えばよいか・・・まるで龍安寺の石庭のようなショスタコーヴィチ。あらゆるものがそこに静止している。明晰である。はっきり見える。その意味では謎などない。だが、本当は、存在自体が謎なのだ。いや、謎という言葉では追いつかないくらい、不思議なことなのだ。そして、それは、それ自体でしかありえない、ありようがないものなのだ。
 チェリビダッケが禅に影響されていたということはかねがね言われてきたことである。私にとってはどうでもよいことだが、もしそうだとしたら、その最大の証拠はこの第1楽章ではないか。
 まったくおおげさな身振りがないにもかかわらず、この曲がかつてなくグロテスクかつおぞましく鳴り響く。繰り返すが、誇張などいっさいない。にもかかわらず、もとからしてこの曲は目をそむけたくなるほどにグロテスクでおぞましい音楽だったのだ。音型、音色、リズム、楽器の重なり合い、異なった要素の拮抗・・・気味が悪いことがいっぱいだ。作品に即すとはこういうことなのか・・・演奏とはこういうことなのか・・・。
 とにかくこの楽章の最初から最後まで、ただただ唖然として聴くしかないが、ただ一か所だけ具体例を挙げるなら、ことに最後の静かな部分は、まさしく心臓が痛くなるような、背筋が凍るような恐ろしい数分だ。もし音楽が本当に死の世界を描いたことがあるとするなら、これだろう。だが、同時にその死はまったく特別なものではない。感傷など入り込む余地がない。あまりにも自明で当たり前のものなのだ。そこまで感じさせてしまうところがすごい。怖い。

 第3楽章は言うまでもなく透明、明晰で冷たい。まさに酷寒だ。淡々と寒い。やがて静かな音楽が徐々に膨れ上がり、抑えに抑えていた抑制が徐々に解き放たれていく瞬間、それが録音で聴いていてすら気が遠くなるほど戦慄的だ。この楽章がたかが十数分だとは信じられないほど長く感じられる。
 そこから、一転してあのフィナーレになるのだが、唐突な感じがまったくしない。「一転」と書いたが、実は転じるのではない。第3楽章の最後の消え入るような弱音から何の違和感もなく、続いてしまうのだ。ここを初めて聴いたとき、文字通りクラクラした。こんなことがあり得るのか。
 そのフィナーレも、もちろん爆走するはずがない。テンポは決して遅くはなく、十分な疾走感はある。ソヴィエト音楽らしい金管楽器の活躍もある。けれども、いわゆるスリルは皆無だ。そして最後は・・・。
 実は私は、チェリビダッケを聴き始めて何年もの間、この人の真価というか芸術というか考えというか、とにかく彼の音楽がわからなかった。ところどころで感心しつつも、あまりに人工的でわざとらしいという印象はぬぐえなかった。だが、(EMIからCD化されたが)チャイコフスキーの交響曲第5番を会場で聴いたとき、まさにあっと驚いたのだった。途方もない体験だったが、あのときの衝撃が、このCDを聴くと蘇る。
 音符のひとつひとつの意味が、かつてない鮮明さと自明さで示される。いわゆる名演奏とは、完全に次元が違う。うまいへたの問題でもない。見えている人と見えていない人の差は、あまりにも大きい。そして、自分が見えるようにならないと、見えることの意味がわからない。まさしくそれは禅の悟りと同じことに違いない。
 この録音を聴きながら、これを生で聴いたら死んでしまうのではないかと思った。少なくともしばらくの間、頭がおかしくなることは間違いない。見えるということは恐ろしいことなのだ。チェリビダッケの仕事とは、見えてしまった人間が、見えない人間と格闘することでもあった。
 これを必聴と呼ばねば、必聴と呼ばれるべきCDなどありはしない。

 交響曲第9番のほうは、皮肉が効いた20世紀作品を好んだチェリビダッケにぴったりの作品である。禁欲的な第5番と聴き比べればあまりにも違いは明らか。アンサンブルの厳しさ、緻密さは同様としても、はるかに開放的、演劇的な作りだ。
 第1楽章では小太鼓やソロ管楽器の劇的な身振りが目立つ。あたかもバレエ音楽、それもプロコフィエフの「ロメオとジュリエット」のようだ。
 第2楽章の暗いユーモアは、ヒンデミットのようでもある。以後の楽章も、音色や楽器が激しく対比されている。フィナーレのおおまじめなふざけようも可笑しい。このように作品によって大胆にアプローチを変えてくるところがチェリビダッケならではのおもしろさだ。
 この曲は、第9番ということで偉大な作品を発表することを期待されていたショスタコーヴィチが、あえて肩透かしを食らわせた仕事である。ただし、手抜きというわけではない。彼の書法が実に習熟していたことは、このような恐ろしく丁寧な演奏によっていっそうはっきりするはずだ。

(きょみつとし 音楽評論家、慶応大学教授)

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