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2015年9月22日 (火)
連載 鈴木淳史のクラシック妄聴記 第61回サントリー・サマー・フェスのツィンマーマンやホリガーで猛暑でへろへろになっていたアタマをガツンとやられ、呆然としたまま、コンサート・シーズンが幕開けたかと思うや、ノット指揮東響のマーラー、カンブルラン指揮読響のトリスタンの連日の総攻撃にさんざ打ちのめされ、シーズン初っ端からゴージャスなことよ、人生はかくのごとく悦楽に満ちていて、うははと遊び過ぎていたら、たまには仕事しろと怒られているところ。
これらの公演については、またいずれ詳しく書く機会があればいいのだけど、とりわけ特異なものを一つだけ。カンブルランが読響を指揮したムソルグスキーの《展覧会の絵》(ラヴェル編曲)の演奏だ。ちなみに、同日同時刻に、今を時めく俊英バッティストーニが東フィルを率いてまったく同じ曲を振っていて、東京のコンサートの充実っぷりには驚くほかはない。
新しもの好き、爆演好きな方は、迷わずバッティストーニのほうに行くわな。カンブルランはいつも通り、精緻に曲の隅々まで聴かせてくれることに徹してくれるだろうけどね、とか言ってさ。
いやいや、これがちょっと度が過ぎたのである。カンブルランと読響の相性の良さ、ここに極まれりといった感じ。曲の途中で、ムソルグスキー作品を聴いている感覚がまるっきりなくなり、思い浮かんだのは、ラヴェルのドヤ顔。俺、こんなにオーケストレーションうまいんだぞ、参ったか。
参りましたよ。これほどまでに高揚させてくれない「キエフの大門」なんて、初めて聴いた。いや、音量は適切に鳴っていたし、決して白々しく構えた演奏どころか、熱演といっていいほどだった。ただ、ムソルグスキーの音楽ではなく、完全にラヴェルの仕掛けた音響だけが聴こえてきたのだ。嗚呼その響きの鮮やかさ、旋律が旋律として聴こえんのよ。
これって、トリスタン・ミュライユとかのスペクトル楽派と同じ。音の響きの設計や構造で聴かせる音楽だ。現在のIRCAMあたりの管弦楽って、このラヴェルの編曲を嚆矢とするのではないか。そんな音楽史の発見をしたような気分になって、やたら興奮しつつ会場を後にしたのだった(相変わらずのアホだ)。
ただ、いささかの悲しみが胸をちくちくと突いたのも事実。なにしろ、ラヴェル版《展覧会の絵》といえば、チェリビダッケやらケーゲルやらの演奏で育てられたわたしである。響きそのものに耳を向けること自体、彼らは否定するはずはないが、出てくる音楽があまりにもスタティックすぎるのではないか。あるいは、ドラマトゥルギーを欠いているのではないか。それでいて、音楽として成立していることの不思議さ。
ムソルグスキーがすっかり消えて、ラヴェルしかいなくなった《展覧会の絵》を聴いて、自分のなかにあった何か大事なものが揺さぶられていることに怖じ気付いた一瞬だった。まあ、おセンチな。
一息ついたら、ディスクになっているカンブルラン指揮バーデン=バーデン・フライブルクSWR響の同曲演奏を聴き直してみようと思う。昔聴いたときは、それほど印象は深くなかったが、今なら何かしら違う発見があるかも知れぬという期待を抱いて。
そうしたことのリハビリになっているのかどうか、ジョージ・セルがフランス国立管を指揮したモーツァルトとブラームスのライヴ録音を折にふれて聴いている。1958年のモノラル録音だが、セルがヨーロッパのオーケストラを振ったときのーークリーブランド管弦楽団との演奏にはないーー、陰影感や立体感があって、これが実に作品の偉大さをくっきりと浮き上がらせてくれる。
モーツァルトの交響曲第33番は、第1楽章の現在のピリオド派も顔負けの高速なテンポ、そしてゆったりと歌う第2楽章は、毅然としながらもどこかひなびた雰囲気も漂う。押しつけがましいところがなく、しかもその造形の気高さに惚れ惚れする。
ブラームスの交響曲第2番は、プロポーションの良さがさらに際立つ。第2楽章の逞しさと繊細さのコントラスト、スケルツォ楽章の木管のバランスもすこぶる心地良い。終楽章はガッツリ引き締めつつ、その犀利な筆致が悦楽感をもたらす。
素っ気ないといわれがちなセルなのだけど、ヨーロッパのオーケストラとのライヴ録音は、そのオーケストラの美質をもさりげなく引き出してくれるのがいい。収まるところに何気なく収まっている響きの崇高さ。
そして、アーノンクールとベルリン・フィルによるシューベルト・エディション。これが意外なことに、この晩夏の小事を癒すのに絶大な効果を発揮したのだ。
アーノンクールのシューベルトには、これまでコンセルトヘボウ管との交響曲全集があった。律儀にして精密、そして好悪を分かつ、アーノンクールならではの剛強なるアクセントが特徴といえるだろう。
今回のベルリン・フィルとの演奏では、アーノンクールのシューベルト解釈がよりクリアになっているように思われる。たとえば、アーノンクールの前のめりになりそうな強いアクセントは、声楽、つまり人間が歌う歌に準拠しているということ。
オーケストラを歌わせるには、近代的な器楽の性格を生かし、滑らかに歌うというロマン派に端を発する方法がある。これをアーノンクールは受け入れない。滑らかさ(独特のテヌート)を交えながらも、人間ならではの声の生々しい特徴に近づけるのが彼の流儀。声がもたらす独特な広がり、そのアクセントのタイミング、つまり肉体の生理がアーノンクールのシューベルト演奏には宿っている。
ゆえに、彼のシューベルトの交響曲は、人間の歌によるシンフォニーになる。すべてのアゴーギクと思しきテンポ切り替えも、激しい抑揚も、すべては歌のために。これも、ベルリン・フィルという絶大な表現力を誇るオーケストラによって、アーノンクールの意図する音楽が実現可能になったのはいうまでもない。
第7番《未完成》を聴けばよくわかる。彼の最初の《未完成》はウィーン響との録音で、これはまさしく彼のモーツァルト演奏のような強烈なコントラストで明暗を描いていた。二番目のコンセルトヘボウ管とは、よりシンフォニックな様相が強まった。そして、このベルリン・フィル盤は、これまででもっともスケール感を伴いつつも、音楽全体を歌わせようという意志が見える。
このセットには、ミサ曲第5番と第6番も含まれているので、その器楽と声楽が何の壁を隔てずに溶け合う様子を堪能できるはずだ。
さらに、オペラ《アルフォンゾとエストレッラ》全曲を収録しているのも嬉しい。ドイツ・ロマン派のオペラの系譜上、必要以上にシューベルトのオペラ作品は無視されすぎてるんじゃないの、と密やかに思っていたものの、これらを演奏してくれる人、機会ともども実に希少なのが現状なのだ。
《アルフォンゾとエストレッラ》は、ウェーバーの《魔弾の射手》の同時期の作品。もちろん、ブレイクしたのはウェーバーのほうで、それは現在まで相も変わらず。
このオペラを聴いてわかるのは、いかにもシューベルトらしい転調のセンスの良さだ。歌詞に寄り添い、細やかに変化する。第2幕第2場のフロイラの長大なアリアは、まさしく彼のリートのように、完結したバラードになっている。
シューベルトのオペラが人々に受けなかったのは、その繊細さにあるのではないか。歌詞に寄り添いすぎるのだ。そして、ハッタリをかますような派手さが完璧に欠けている。
《魔弾の射手》が派手目な展開とキャッチーなアリアに満たされているのに比べ、この《アルフォンゾとエストレッラ》のやけに慎ましやかなこと。アーノンクールの指揮は、やはり歌に寄り添うことで、このオペラの美質を慎ましやかに伝えてくれる。すでに、吹き抜ける風は秋の気配。
(すずき あつふみ 売文業)
評論家エッセイ情報ブロンズ・ゴールド・プラチナステージの場合です。
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