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2016年9月7日 (水)

連載 許光俊の言いたい放題 第250回


 まだ暑い。だが、そろそろ秋からの新シーズンが気になる。
 10月にはサントリーホールで、ムター女王様のシリーズがある。ヴィヴァルディ「四季」もリサイタルも楽しいだろうが、「アクティブシニアでいるために」という高齢者向けのコンサートがわざわざ設定されているのが女王様らしい。高齢者の元気が出るような内容かと思ったら、曲目はモーツァルトとレスピーギ。
 だが、やはり何よりも聴くべきは、同じく10月にサントリーホールで行われるクリスティ指揮レザール・フロリサンの演奏会であろう。クリスティはいよいよ70歳を超え、指揮ぶりは元気そうだが、音楽は完全に晩年らしい、爛熟の極みに達している。
 残念ながらクリスティがもっとも得意とするフランス・バロックは、日本ではごくわずかな人しか楽しんでいない。バッハだってフランス・バロックから大いに影響を受けた。だのになぜ?
 理由はあまりにも簡単。日本にはヨーロッパみたいな宮殿も教会もないからだ。雰囲気(だけ)が問題なのではない。会場の音響が問題なのだ。すべての宮殿、すべての教会の音響がいいわけではない。が、もっとも好ましい会場で聴くと、これはもうたまらなく美しい。おおげさでなく、信じがたいほどきれいな音がする。たとえばフランス・バロックの聖地であるヴェルサイユ宮殿の礼拝堂。ここでシャルパンティエ「テ・デウム」のまさに黄金のような輝かしくも神々しい響きを聴いたときは、年甲斐もなく「王様万歳、女王様万歳!」と叫びたくなった。世が世なら、この音楽のせいで王党派になっていたことだろう。それほどまでに説得力がある音が鳴ってしまうのだ。そういう会場があってこそのバロック音楽なのである。いわゆる音がいい現代のホールと、教会や宮殿は音響特性が異なる。教会や宮殿の特性に合わせて作られた音楽は、やはりそこで聴くのが一番なのである。
 近頃のヨーロッパでは、人々が宗教に興味を失っている。教会に行かなくなっている。そのせいもあって、教会はコンサート会場として積極的に使われている。小さな教会が事実上コンサート専門になってしまっていることもある。おのずとバロックが多く演奏され、人々は以前にもましてそれを楽しむようになった。逆に、日本に限らず、そのような場がないヨーロッパ以外では、バロック受容のすそ野が広がらず、演奏される曲目が限られてしまうのも仕方がないことなのだろう。

 さて、クリスティがかつて来日したとき、私はコンサートに出かけて愕然とした。ガラガラだったのだ。実は、あまりのすきぐあいにクリスティ自身がショックを受けたという。
 今回の最高席は2万円。デフレの日本では決して安くない。大編成のオーケストラでもないのにである。サントリーホールの音響が、バロックに最適なわけでもない(少なくとも及第点ではある)。だが、クリスティを日本で聴けるのはこれが最後かもしれない。ぜひとも、舞台近くの席を買って出かけるべき催しだ。これは、高い安いで行く行かないを決めるべきではないコンサートではない。ぜひとも聴いておくべきコンサートなのだ。
 プログラムは、「イタリアの庭で〜愛のアカデミア」というテーマを立てて、いろいろな曲を集めたもの。なじみがない曲も多いだろうが、実は曲目は正直言ってどうでもいい。これぞバロックの歌の楽しみといった夕べになることは間違いない。歌手たちが演技しながら、いろいろなシチュエーションを表現する。だから、親しみやすい。
 ちなみに、東京の直後、ソウルの新ホール、ロッテ・ホールでも公演がある。日程が合わない人は、そちらに行くという手もあるだろう。ただし、完成直後のホールゆえ、私もまだ行ったことがないし、音響がどうかは何とも言いかねる。

 さて、そのクリスティの演奏とはどういうものか。ひとことで言えば、これほどまでに優雅で甘美で官能的なバロック演奏は他に見つけるのが難しい。しかし、だからと言って、クリスティはニヤニヤしながら指揮しているのではない。実に怖く、厳しいのだ。それは、優雅を極める宮廷の踊りが、厳しい練習のおかげで可能になるようなものだ。
 わかりやすい例として、クラシック愛好家なら誰もが知る有名な作品、モーツァルトの「魔笛」を挙げよう。
 開始早々、3人の侍女の三重唱が嘘みたいにきれいだ。あまりにも雅な、宮廷婦人たちの歌だ。いや待てよ、そもそも三人の侍女とは、夜の女王に仕える婦人たち。ならば、これはこれでよろしいのでは。
 パパゲーノのアリア。民衆代表のような役が歌う民謡風のアリアが、えもいわれぬ上品さで歌われ、奏でられる。このパパゲーノ、鳥刺しどころか、優雅でしゃれ者の宮廷人のようだ。
 クリスティの演奏は、「魔笛」はウィーンの場末にある、民衆のための劇場に作られた作品などという事実を吹き飛ばす。「魔笛」は、晩年のモーツァルトが、フリーメーソンの盟友であるシカネーダーとともにあえてドイツ語で作った作品、そう音楽愛好家なら理解しているはずだ。しかし、クリスティ流に演奏すると、なんとそういう「魔笛」が、根本的な発想においては、対極にあるはずの宮殿向け豪華フランス・バロック・オペラと瓜二つなことがわかってしまう。ああ、モーツァルトのような天才も、時代は超えられなかったのか。子供のときから慣れ親しんだ宮廷文化が骨の髄までしみ込んでいたのか。ちょっとがっかり? いや、でもきっとそういうものでしょう。

 ヘンデルの「メサイア」も抜群にいい。ヘンデルの音楽は、バッハのように音を縦に積み上げるものではない。バッハのような音楽は、好きかどうかは別として、すごいものだということはわかりやすい。が、一見単純なヘンデルは、演奏次第で生きもすれば死にもする。鈍感な演奏では単調、退屈になるだけだ。音符に内在された複雑さを読み取れる演奏家でないと手に負えないのである。
 「メサイア」はクリスマス時期に多く演奏されるが、決してキリストの誕生を祝うだけの作品ではない。受難とか救いとか、重たい内容も含まれる。感情の振幅という点では、ヘンデルの「マタイ受難曲」と呼んでもいいかもしれないほどだ。クリスティの演奏では、ひとつひとつの曲が実に鮮やかに性格づけられている。ヘンデルが書いた旋律のニュアンスが生かされている。
 クリスティはオペラを頻繁に指揮することもあって、感情表現や雰囲気の表出が巧みだ。典型的なのは、最初のテノールのアリオーソ。こんなに神秘的で静謐な感じが出ている演奏も珍しい。少し後のアルトのアリアを支える弦楽器の退廃的な美しさにもうっとりさせられる。こうでないとヘンデル作品の本当の美しさや繊細さや多彩さはわからない。また、ヘンデルのオラトリオがロンドンで人気沸騰した理由がわからない。当時の聴衆は、オペラを楽しむようにオラトリオを楽しんでいたのだ。
 古楽による「メサイア」のCDとしては、アーノンクールよりもミンコフスキよりもこの演奏がいいと私は思う。

 新譜の「愛は苦しみ」というアルバムは、日本語訳が付いているのがありがたい。やはり、未知の曲に関しては、こうした手軽に読める手がかりがあったほうがいい。特に、この年になると、小さすぎない字で印刷されているのが助かる。
 来日公演もそうだが、クリスティ、またサヴァールのコンサートは、ひとつのテーマを立ててさまざまな曲を並べるスタイルを取ることが多い。一般論として、今のヨーロッパでは、プログラムにおいて編集性が重視されている。普通の曲を普通に並べただけではだめ。意外な組み合わせによって、新たな視点を与える。知らない作曲家も取り上げて、大作曲家を相対化する。そこに演奏家の感覚や知性が表れるのだ。
 まずはランベールと言う作曲家の作品でこのCDは始まる。トラック2の「やすらぎ、影、静寂」の美しさには、まさに言葉を失って聴き入るしかない。最初の器楽の部分のあまりにも儚い響き。聴けばわかるように、クリスティの演奏は、機械的なイン・テンポで押し通す古楽演奏家たちの対極にある。微妙なテンポの動かし方、音符の長さの取り方、たとえば、トリルが始まる寸前にほんのちょっと音楽を緩めるやり方など、柔らかな官能美のきわみだ。そのあと歌が登場するが、これまた弱音での声の溶け合わせ方に悶絶する。
 続くトラック3の「もう約束など誰がするだろう」では、微妙な半音の揺れが、思いがけない暗さを醸し出す。古楽演奏では、こうした繊細な和声感覚が絶対に必要なのだ。音ひとつずらすことで世界を揺るがせる決意が必要なのだ。脱線、脱臼、これはバロック、マニエリスムあたりの文化史のキーワードのひとつ。
 トラック14のダンブリュイの曲は、静かな森で抱き合う恋人たちの歌。これがもう心に染み入るすばらしい曲、演奏だ。この束の間の幸せの何という甘さ、哀しさ。わずか数分しか続かない永遠。
 こうした味わい深い音楽とは別に、滑稽で陽気な歌も含まれているが、多くはない。大まかに言って、このアルバムは、悲哀〜幸福〜悲哀という流れになっている。CDが一枚終わりに近づくにつれ、闇が深くなっていく。ただし、最後は、軽くすっと力を抜くように。粋だ。

(きょみつとし 音楽評論家、慶応大学教授)

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