上原善広とマーラー

2019年07月16日 (火) 14:00 - HMV&BOOKS online - クラシック

連載 許光俊の言いたい放題 第271回


 前回、西村賢太に触れたが、西村同様、「この人の本は全部読みたい」と私が思っている数少ない現代の著作家のひとりが、上原善広だ。ノンフィクションの書き手である。
 初めて読んだのは書店でたまたま手にした『被差別の食卓』(新潮社)。上原が子供のころからなじんでいた食べ物は、実は被差別部落(上原は路地と呼ぶ)に特有のものだった。その食べ物がかつてどうで、今はどうなっているかを淡々と記している。それはつまり、自分のルーツを遡る旅にほかならない。
 重たいテーマに違いない。が、上原の筆はまったく扇情的にならない。なのに、なんとも言えない情感が漂ってくる。いや、じわじわとしみてくる。途方もなく余韻が長い。この本には痺れた。
 『路地の子』(新潮社)は、成りあがっていく自分の父親のたくましい姿を描いている。昭和の匂いがプンプンのアクション映画みたいだが、路地への郷愁が強く感じられる。結局、上原にとって戻っていくべきは、そこなのか。そこしかないのか。だが、むろんさまざまな時代の変化があって、かつてのそれはもはや存在しない。子供時代が戻ってこないように。登場する人々が、たとえ簡潔に記されているようでも、人生の奥行きを感じさせる。大勢の人間たちが織り成すシンフォニックな世界。
 西村も上原も、しっかりした自分の立脚点、自分の問題がある。ここは人生にかけても譲れないという足場がある。それがいい。そうでない書き手はしょせん偽物である。ふたりともあまり長生きできるとは思えない生き方をしているようだが、それだけにいっそうの健筆を祈りたい。
 そういえば、上原がクラシック音楽を聴く人でもあることをたまたま知った。いったい彼は何を、どう聴いて、何を感じるのだろう。彼の著作を読むとそんなことを考えてしまう。たとえば、マーラーとか? 愛憎、欲望が入り混じった『路地の子』を読んでいると、まるでマーラーの交響曲の中でふっと俗っぽい旋律が現れる瞬間みたいな感じがたびたびした。確かに俗っぽくて、安っぽくて、当時の聴衆が驚いたような、でも切実な旋律。単純であるがゆえに、過去を呼び出してくれるような素朴な旋律。

 ところで、前回からのマーラーの続きだけれど、マーラーがユダヤ人であるために不快な思いをし、キリスト教に改宗したことは、どんな伝記にも書いてある。当時のウィーンの市長は反ユダヤ主義者として知られていた。
 もっとも、簡単にユダヤ人と言うけれど、ヨーロッパにおいてユダヤ人でない人々が彼らをどう思っているかはものすごく微妙な問題だ。少し前、私が知り合いのフランス人とパリのフィルハーモニー近辺を歩いていたときのことである。彼女らは声を潜めて、「このあたりにはユダヤ人が多く住んでいる」と教えてくれた。何も差別的なことでもないだろうに、声を潜めるのはなぜか。あるいは、差別的な意味合いがあったのか。歴史的背景があったのか。その場で尋ねることははばかられた。
 戦前の日本でもすでに、「ユダヤ人が世界を牛耳っている」的な陰謀論は知られ、わけがわからない偏見が生まれていた。夢野久作など、そのころの探偵小説作家の本にはいくらでも出てくる。おそらくほとんど誰もユダヤ人を見たことなどなかったろうに。
 実は上原の『路地の子』を読みながら、この小説みたいな感じでマーラーの人生を描いたら、本当におもしろいものになるなあと思ったのである。マーラーの伝記はすでにいくつもある。映画もある。だけれど、もっとマーラーの内面に食い込むようなノンフィクションでありながら小説のような伝記があればなあ。
 それはともかくも、はっきりしているのは、マーラーの中に何らかの屈折があったことだ。私はそれをどうしても感じてしまうので、単純に盛り上がるだけのマーラー演奏に退屈してしまう。昔、レヴァインのマーラー第5番の録音が発売されたとき、ある評論家が、マーラーにまとわりつく情念やイメージから解放されたその演奏を喜んでいたけれど、なるほど、ああいう演奏は最初に登場したときには新鮮だし、おもしろいし、魅力的に感じられるのである。
 今のマーラー演奏は、思い入れが強かったり、全然なかったり、いろいろだ。そんな中、私が心底楽しみにしているのがロトだ。マーラーに限らないが、どんな演奏をしてくれるのだろうとわくわくしながら聴きに行ける。
 ロトはケルンの名門ギュルツェニヒ管弦楽団を率いる立場にいる。あの人があのオケだなんて・・と最初は思ったが、いやいやどうして、立派にシェフを務めている。本拠地で聴いたマーラーの第5番は猛烈におもしろかった。アダージェットは音楽が止まる寸前の極限の遅さと感じられたが、にもかかわらず、止まらない。その手腕に大いに感心した。
 ちなみに私がロトのナマを初めて聴いたのは、彼がベルリン・フィルにデビューしたときである。ベルリン・フィルから本当に古楽オーケストラの音がするのに驚いた。仕事が多いし、振る曲がいろいろすぎて、当たりはずれはあるが、当たったときはすばらしい。
 ロトはレ・シエクルという楽団との活動でも知られているが、実は私はそちらはあまり買わない。作曲家の時代の楽器を用いたり、興味深くはあるのだけれど、オーケストラの技量がギュルツェニヒあたりとは違いすぎる。うまければいいというものではないのは当然だけど、シエクルにはもう一段階か二段階の表現力がほしいと思わされる瞬間がたびたびある。とはいっても、彼らの演奏はできるだけたくさん聴きたい。
 そのシエクルとの新しい録音、「巨人」では第1楽章の展開部がおもしろい。ほとんど進行を止めてしまう。それまで明るく白かった霧が、不気味な暗みを帯びてくる。突然、太陽が陰って、ものの印象が変わってしまうような。時間ではなく、場であるような音楽。そこに再び日が差してくると、まるで虹色のような色彩。ストラヴィンスキーの「火の鳥」のようだ。なるほどねえ。
 ギュルツェニヒとの新録音では第3番がある。第1楽章からして腰を落とし、じっくりと攻めてくる演奏だ。一呼吸待って音がグワーンと鳴りだすようなドイツのオーケストラらしさが、好きな人にはたまらないだろう。しかしまあ、鼓笛隊のような行進曲調がえんえんと続いたり、第3番は変な曲だと改めて思う。こんな曲を聴かされた当時の聴衆が驚いたり呆れたりしたのも当然だ。もし私が当時の聴衆だったら・・・マーラーの作品を理解などできなかったのではないかとも思う。第3番の初演は成功だったとされているけれど、ほんとかな。
 まるで民謡のような第3楽章といい、この作品は素朴さ全開の音楽である。だから名技で押し切ろうとすると、いかにもわざとらしく、おおげさで、インチキ臭くなる。ロトは才人系の人だが、策に溺れる感じは全然しない。フィナーレは、弦楽器をなめらかに溶かし合わせず、ヴィブラート控えめで、あえて絹ではなく木綿か麻のような風合いを出す。かつてノン・ヴィブラートは古楽演奏のシンボルだったが、今はそんな時代ではない。モダン・オーケストラだって、音色や響きのひとつとして利用すればいいし、している。この場合は、ひっそりと小声で囁くような感じがする。そこに重なってくる管楽器も音を揺らさず、素朴な笛の音みたい。こういうの、もっと若い指揮者や現代のオーケストラは研究したほうがいい。単に滑らかできれいな音を出せばよいというものではないのだ。
 そして、圧巻のエンディング。細部クローズアップ型の録音であっても、会場を満たしたであろう響きが想像できる。世界が音で満ち足りているという感じ。


 晩年のアンチェルがトロント交響楽団を指揮した第5番も出た。1969年のトロント響の技量は、最高とは言い難い。それに、この曲に親しんでもいなかっただろう。が、それでも伝わってくる何かがある。録音はモノラルで、これもまた最高の音質とは言えないにもかかわらずだ。アンチェルは、くっきりしたフレージングで、明快な音楽を志向するのが基本。説明的もなければ、アツアツで熱狂的なわけでもない。なのに、これはこれでいい感じがする。全体のバランスの問題だ。すっきり系の指揮者だから、テンポが動いたり、ヴィブラートが大きくなったり、ポルタメントがかかったりすると、どきりとするような効果が生まれる。アダージェットなど、案外濃い口の味だ。アンチェルもこんな演奏をしていたんだな。
 第5楽章の頭、管楽器のやりとり。しみじみ感が濃い。そのあとも、現代の腕力まかせで突っ走るような演奏に比べると、何とものどかだ。現代のオーケストラ、腕に覚えがあるせいか、かえって目がつり上がって余裕がなくなっているのでは。
 わざとか偶然か、トランペットが近い録音なのが、独特だ。結果として、ヤナーチェクのように聞こえもするのがおもしろい。ちなみにヤナーチェクは1854年の生まれ。マーラーは1860年。同時代人で、なんとヤナーチェクのほうが年上。マーラーが生まれた場所は、ヤナーチェクが活動したブルノから150キロあたり。

(きょみつとし 音楽評論家、慶応大学教授)

評論家エッセイ情報
ロト
ケルン・ギュルツェニヒ管弦楽団
レ・シエクル
上原善広
交響曲第5番 カレル・アンチェル&トロント交響楽団

CD輸入盤

交響曲第5番 カレル・アンチェル&トロント交響楽団

マーラー(1860-1911)

(1)

価格(税込) : ¥3,509

会員価格(税込) : ¥3,054

まとめ買い価格(税込) : ¥2,632

発売日: 2019年06月21日

路地の子

路地の子

上原善広

価格(税込) : ¥1,540

発行年月: 2017年06月

注文不可