フォーレに圧倒された

2022年09月13日 (火) 05:30 - HMV&BOOKS online - クラシック

連載 許光俊の言いたい放題 第302回


 チェリビダッケが死んだのは1996年の夏だった。もう26年も前のことなのだ。ため息をつくしかない。
 私がフルトヴェングラーの名前を知り、聴きはじめたのは、1978年あたりだと思う。1954年にフルトヴェングラーが死んでから24年くらいあと。約20年という歳月は、中学生の私にとっては途方もないほど長く、ものすごく昔の人だという感じがした。フルトヴェングラーの話となると、どうしてもナチだのヒトラーだのということにもなるので、それがまた時代の隔たりを際立てたわけだが。
 つまり、今の若い人にとって、チェリビダッケはだいぶ昔の人ということになる。ちなみにそのころは、コンサートのチケットをインターネットで買うということはまだできなかった。みんな徹夜で並んで買っていた。ホテルも飛行機も、旅行会社などで予約するしかなかった。もちろん、スマホもなければ、グーグルマップもLINEもなかった。今の若者なら、不安で死んでしまうかもしれない。
 それからさらに二十年近く前、1980年前後に行われたコンサートの記録が、今回のロンドン響のセット。昔からいろいろな形で伝えられ、聴かれてきた演奏も含まれている。
 チェリビダッケとロンドン響。これくらい似合わない組み合わせもないかもしれない。チェリビダッケはいくらでも練習を積み重ねて理想の音楽を作り出そうとした人。いや、練習自体が音楽であり、本番のための準備ではない。哲学者にとって、結論だけが大事なのではない。思考の道筋や時間も大事。それと同じ。
 他方、ロンドン響は、てきぱきと仕事をこなすタイプのプロ。うまい。反応が早い。そつなくこなす。だけど、すべてがその枠内で留まる。また留めないと、生活者としてプロをやっていられない。理想という霞を食っても腹は膨らまない。それはロンドンという世界きっての大都市のひとつで獲得されたひとつの真実。
 水と油である、本来は。その両者が短い間だけ集中的に演奏会を行っていた。その結果は? 必ずしもすべての演奏が最高にすばらしいというわけではない。チェリビダッケが志向するものを、オーケストラは必ずしも理解、納得して演奏はしていないだろうという感じがする。言われたからやってみたという何だか白けた感じがするところがある。
 にもかかわらず、やはりおもしろい。1枚聴くと、もう1枚聴きたくなる。
 シューマンの交響曲第2番は、一部の指揮者が妙に好きな曲である。そういう人の演奏は、どうしても思い入れたっぷりに熱くなる傾向がある。不器用というか変なところを、そこがいいんだと言わんばかりに演奏するから、ますます変に聞こえる。だが、チェリビダッケの演奏はたいへん風通しがよくて、透明感がある。すがすがしいくらい。全体的に、バス声部がしっかり土台になっているドイツの楽団とはかなり風合いが違うせいでもある。ロンドンのオケは、上から下まで均一な感じのハーモニー感、バランス感なのである。
ブラームスもシューマン同様だ。当たり前に力むところで力まない。バスが薄めのハーモニー感でするすると前に進む。だから、交響曲第1番でもうんうんうなったりしない。特に第3楽章から第4楽章前半までを、和声的変化で聴かせてくれるのが耳に新鮮。ロンドンの楽団とはいえ、ブラームスのどこで力むかは、もうさんざん弾いて熟知している。ところが、そういう個所でもさらりと通り過ぎるのだ。第3番の頭も軽い。
そして、あれ?と思うのである。ブラームスがシューマンを尊敬し、シューマンもブラームスの才能を大いに認めていた。そのふたりの作品が、案外、すんなりとつながるのである。
 意外に美しいのがヒンデミットの「画家マティス」である。ヒンデミットというと、アンチ・ロマン主義で、パサパサ、ザクザク、みたいな演奏が多いが、チェリビダッケだと詩的な雰囲気が漂っている。この作曲家にこういう独特の抒情美があったのか。それも驚きなのだけれど、終わったあとの喝采がすごい。ロンドン市民はヒンデミットが大好きなのか?

「牧神の午後への前奏曲」は文句なくすばらしい。陶酔的というのは、つまりは頭や感覚がぼうっとして陶酔するわけだが、ここではすべてが明晰の極みである。それなのに陶酔的という不思議。チェリビダッケはこの曲を最晩年にもミュンヘン・フィルとやっていたけれど、そちらのほうがにじみがある美しさ。こちらのほうは全部ピントが合っている感じ。ドビュッシー自身が聴いたら・・・あまりすごくて面食らうのではないだろうか。
「ガランタ舞曲」は、オケが上手だけど味が薄いなあという感じがずっとするのだけれど、最後、速くなってくると、すごいことになる。その快速がぷっつりと切れた静寂にはどきりとさせられる。そして、再び猛然と快速に。たぶんナマで聴いていたら、何これ?と思っているうちに終わってしまうような。いったい何がチェリビダッケをここまで駆り立てたのか。整然とした狂気。恐ろしくリアルで鮮明なのだけれど、夢のように手でつかめない。あのゆっくりした晩年のブルックナーもチェリビダッケ。これもチェリビダッケ。不思議な人だった。
「マ・メール・ロワ」はチェリビダッケのこの曲が好きな人にとっては、まさにそれ。解釈が完全にできあがっていたことがわかる。
それにしても、チェリビダッケは、北欧から南欧までほぼまんべんなくいいオーケストラを指揮をしていたのだ。ただ、彼が妥協してまでそういうところに居続けようとはしなかっただけのこと。

「魔法使いの弟子」には、まるでワーグナーそのものといった感じのレーグナーの怪演があるが、チェリビダッケのこちらも常識離れしている。魔法が自分の手に負えなくなってからあとのパニックは、尋常でない不安に満ちていて怖いほどだ。一時流行したパニック映画(飛行機が墜落するとか、高層ビルが火事になるとか)みたい。
 今回のセットでは、フォーレの「レクイエム」が圧巻だ。イギリスの合唱は響きがきれいでなめらかなのだが、ここではそういう音楽の範囲を完全にはみ出している。まるで中世の修道士たちの合唱のように化けている。いつもいつもきれいなハーモニーを響かせることだけが音楽ではない。いや、それでは音楽にならない。暗く陰鬱な響きがあるから、サンクトゥスの白い光のような響きが生きる。
この合唱に引きずられたか、オーケストラもロンドン響とは思えない深刻さで、きわめて彫りが深い。始まって10秒で、これがどんな音楽なのか完全にわかる。何か付け足すのも減らすのも不可能なギリギリの世界を作り上げている。
 ピエ・イェズも恐ろしく辛口だ。甘ったれた慈愛のかけらもない。もし本当に困っている人、絶望している人が神に慈悲を祈るとしたら、甘ったれた、媚びたような祈りにはならないだろう。
 そして最後は、もはや喜怒哀楽、きれい汚いなどを超越した、つまり人間的な感情など突き抜けた救済。
 音楽を聴くとは、何かを経験することである。あまりにも当たり前だが、その当たり前を思い知らすような演奏はそうはあるものではない。これを聴いている間、まさにコンサート会場にいるような気持ちになった。四十年以上前にロンドンのホールにいた人たちの気持ちが、遠く離れた私の部屋にやってきた。
 クラシック音楽の、ひとつの極致。
近頃の演奏家もいろいろ聴いているのだが、こういうのを知ってしまうと・・・。

(きょみつとし 音楽評論家、慶応大学教授)

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