ネチネチじくじく大賞はこれ!

2023年07月21日 (金) 18:00 - HMV&BOOKS online - クラシック

連載 許光俊の言いたい放題 第307回


 まったくとんでもない暑さである。もともと暑いのが苦手な私にとって、日本の夏のわずかな愉しみは、枝豆がおいしくなるくらいだ。ここまで暑いと酒を飲む気もなくなってくるが・・・。
 そんな時期にネチネチじくじく音楽を推薦しようというわけなのだが・・・大丈夫です、おもしろすぎて夢中になれます。
 私が最初にベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲を聴いたのは中学生のときだったと思うが、とにかく長いのに閉口した。しかも同じメロディの繰り返しばかり。そのメロディがまたいかにものどかで平和なので、異様に眠くなった。何度トライしてもダメ。ええ、そうですよ、当時は大絶賛されていたハイフェッツのLPですけど。
 しかーし、時代は変わったのである。もしかしてヴィヴァルディの「四季」に続いてヴァイオリニストたちの好き放題のエジキになっているのはこの曲では、とすら思う。


 エーベルレ、ラトル、ロンドン響の録音を聴いて、そのやりたい放題のおもしろさ、しつこさ、もしかして悪趣味を大いに楽しんだ。現在のところ、ネチネチじくじく度合い、おもしろさでは、これに勝るものはないだろう。で、いい音楽なの?と尋ねられたら、「いいか悪いかわからないけど、いや、よくないかもしれないのだけど、それを言う気もしないほどおもしろかった」と答えよう。
 冒頭、ラトルがいきなり意味不明のやる気というか、やる気があるふりというか、彼独特の遊びというか、音のひとつひとつに妙なニュアンスを与えている。「あ、いかがわしいときのラトルだ」と思う。必ずしも悪く取らないでください。いかがわしさは、実は本当に個性的な芸術には往々にしてつきまとうものだから。ともかく、こういうことをやられるとオケはたいへん。惰性で弾けなくなる。居眠り運転をさせないために、道がわざと曲がりくねっているようなもの。ちなみにラトルはツィメルマンとのベートーヴェン、ピアノ協奏曲全集ではこんなことしていなかった。
 で、独奏部分になる。好き放題のテンポ、ルバート、レガート・・・局所クローズアップの連続。私がエーベルレの先生なら、「変なことをして遊ぶのはやめなさい」とたしなめるかもしれない。が、なんと52分もこれをやり続けると、「しょうがないねえ、それが君の解釈ならそれでもいいよ」と言うしかなくなる。だって、とにかく細かいところまであまりにも念いりなのだもの。で、指揮者とオーケストラがこれに付き合って、あるいは共犯者になって、ネチネチじくじくのワンダーランドを築き上げるわけだ。


 もしかして、近頃はよほど目立つことをしないと売れっ子になれないので、こういう演奏をした? 私はエーベルレを何度かナマで聴いているが、こんな変ではなかったのだけどな。ことにハンブルクのオペラハウスの「ルル」は、最後エーベルレが舞台上に現れて、ベルクのヴァイオリン協奏曲を全曲演奏するという、実に贅沢な演出で、忘れがたい。ナガノ指揮。
 いや、要するに、難しい遊びを徹底的に遊んでみたということなのだろう。音楽は常に偉大でなければならないのか。そんなことはない。バッハもモーツァルトもベートーヴェンも、案外遊び心は旺盛で、しかも彼らが一番得意な音楽の世界で遊んでみせた。演奏家が遊んで何が悪い。絶対的時間よりも、体感的な時間が長いのは、これが一生懸命の遊びだから。遊んでいるときの充実した1分は、体感的には1時間かもしれない。そういう意味で。
 指揮棒の通りにオケが動いているのが、たまらない。ああ、こうイメージして、こう振って、弦楽器群はこう反応したわけね、と目に見えるような。真善美、そんなものにいっさい関係なく、大人のエロい遊び。弦楽器群のアクセントの付け方とか、強弱とか、すごい。インチキでもいかがわしくても、ここまでやられたら降参というレベル。嫌いなら仕方ありませんが。


 特に第1楽章の最後のほうから、静かなままで第2楽章を終え、気が遠くなるような最弱音のしばしを経て第3楽章に至るまでは、そのときホールにいた全員が固唾の飲んで聴いていたのではないか、否、音楽に呑み込まれていたのではないかと容易に想像できる異常な集中力。ハエが止まるようなテンポでヴァイオリンと木管楽器の濃密な絡み合い。理論や理屈をあれこれは言えるけど、言うだけ野暮。
 これまたおもしろすぎるカデンツァは、近頃ヨーロッパで大人気のヴィトマン作。現代音楽なのだけど、愉しい現代音楽。民族音楽風だったり、ウェーベルンみだいだったり。なので人気。これを聴けばわかります。おもしろいから長くても嬉しい。もっと長くてもいいくらいだ。
 恐ろしいことに、この演奏のあとでムターやコパンチンスカヤの録音を聴くと、おとなしく感じられてしまう。
 ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲の空前の怪演。劇薬みたいな演奏。

(きょみつとし 音楽評論家、慶応大学教授)

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