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2009年10月21日 (水)

ドイツ銀行 ベルリン・フィル
ベルリン・フィル&HMV提携サイト
 ベルリン・フィル関係ニュース

朗報!バレンボイムのショパンがアーカイヴにアップ
 10月4日に予定されていた定期演奏会(フィッシュ/バレンボイム)のライヴ中継は、バレンボイム自身の希望により中止されましたが、幸いなことに収録映像の公開が許可され、デジタル・コンサートホール(アーカイヴ・コーナー)にアップされることになりました。ライヴをご覧になれなかった方には、まさに朗報です。
 当日は、ショパンのピアノ協奏曲第1&2番が演奏されましたが、解釈は濃厚でロマン的香りに溢れ、バレンボイムの器量の大きさを感じさせます。その風格、奥行きの深さは、まぎれもない「巨匠の芸」と呼べるでしょう。ショパン演奏の新次元を開く内容とも言え、ショパン・ファン、ピアノ・ファンのみならず、広く聴いていただきたいコンサートです。
 ライヴ当日、バレンボイムは熱狂的な喝采に応え、4〜5曲のアンコールを日替わりで(!)演奏。アーカイヴでもそのなかから、《子犬のワルツ》と夜想曲第8番作品27-2をお聴きいただけます。なお、フィッシュ指揮のシマノフスキ「演奏会用序曲」も、後期ロマン派的名曲です。演奏もたいへん優れ、R・シュトラウス・ファンには嬉しい発見となるでしょう(写真:©Sheila Rock)。

この演奏会の予告編映像を観る(無料)
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デジタル・コンサートホールに学割導入!
 デジタル・コンサートホールでは、26歳までの 青少年(生徒・学生)を対象に、学生割引を導入することになりました。学生証・生徒手帳等の身分証明をスキャンしてお送りいただくと、30%の割引が適用 されます。手続きは以下の通り。Eメールに英文で住所・氏名・年齢・生年月日・学校名を記入、身分証明(できれば英文で書かれたもの。国際学生証でも可) のファイルを添付した上で、Please send me a student discount code.と書いてdch@berliner-philharmoniker.deま でお送りください。折り返し割引コードが送られてきますので、これをチケット支払いの際に入力します(日本語による登録・ログインの手引き7頁参照)。コードを入力すると、シーズン会員券は149ユーロから104.30ユーロ、30日券は39ユーロから27.30ユーロ、1回券は9.90ユー ロから6.93ユーロに値引きされます。
 なお割引は、学校や大学で授業用にデジタル・コンサートホールを使用する教員の方々にも適用されます。所属団体の身分証明か、担当学科が分かる学校のウェブサイト・リン ク等をお送りください。

 次回のデジタル・コンサートホール演奏会

イヴァン・フィッシャーのハンガリー・プログラム
(日本時間10月24〜25日深夜)
 イヴァン・フィッシャー指揮による次回の演奏会は、オール・ハンガリーものの興味深いプログラムです。より正確には、「ハプスブルク帝国のハンガリー音楽」をたどるコンセプトと言えます。エステルハージ家に仕えたハイドンは神聖ローマ帝国末期を、リストとブラームスはジプシー音楽がハンガリー音楽と同一視されたロマン派時代を、バルトークとコダーイは独自の音楽語法が確立された近現代を代表するものです。
 イヴァン・フィッシャーは、1997、1998、2001、2007年と、比較的頻繁にベルリン・フィルに客演している指揮者です。地味ながら着実に評価を獲得し、前回はR・シュトラウスの《ヨーゼフ伝説》という異色作を取り上げて強い印象を残しました。今回のプログラムでは自身の編曲も披露するなど、音楽家としての幅の広さを示します(写真:©Budapest Festival Orchestra)。

【演奏曲目】
ハイドン:交響曲第88番
バルトーク:合唱と室内オーケストラのための7つの小品
リスト:ハンガリー狂詩曲第1番
ブラームス:ハンガリー舞曲第11&15番(I・フィッシャー編曲)
コダーイ:ガランタ舞曲

合唱:オランダ・ユース合唱団
指揮:イヴァン・フィッシャー


放送日時:10月25日(日)午前3 時(日本時間・生中継)

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 アーティスト・インタビュー

サー・サイモン・ラトル
「ナチス的なものの起源がロマン派にあるというのは、ドイツ的な発想です」
ラトル、社会学者ヴォルフ・レペニースとロマン派の概念について語る(第3回)

聞き手:ユルゲン・オッテン(音楽評論家)

 ラトル&レペニースの対談・最終回では、両者の議論が佳境を迎えます。ドイツ人のレペニースが、ナチス的なものの根源をロマン主義に見る見解を示し、ラトルがそれにイギリス人の立場から答えています。ロマンティック/ニヒリスティックなワーグナーの終末観が、ナチスに影響を与えたというのは、我々日本人にも納得のできる理論です。同時にラトルが、「イギリスには音楽が存在しなかった」と認めていることにも驚かされます。ドイツとイギリスの文化的差は、彼にとって大きな意味を持っているようです(映像は今年5月28日に収録された《神々のたそがれ》の最終場面。写真は©Markus Weidmann)。

オッテン 「パテーティッシュといえば、ルートヴィヒ・ティークが1800年頃に宣言した“世界を芸術作品に変えようではないか!”という呼びかけもそうですね。この言葉は、今日の目からしてユートピア的な発想だと言えるでしょうか」

レペニース 「その言葉は、後のドイツ史において問題となる例の精神的態度を反映しています。ただしこれは、ティーク自身に当てはまることではありませんが(注:レペニースはここで、“美しいドイツ人”を理想としてユダヤ人排斥を行ったナチスのアーリア主義を指している)。世界は美的思想の対象となるような芸術作品ではあり得ません。そうではなく、政治的な姿勢を持って対処すべき場所なのです。芸術は自らの力を過信し、より良き政治の形態であろうとすべきではありません。政治と芸術と取り違えると、たいへんな間違いが起こります。芸術においては、熱狂と妥協のなさが必要とされるでしょう。しかし政治はある意味で俗物的でなければならないのです。つまりそこでは、妥協点を見つけることが重要となってきます。政治、とりわけ民主主義というのは、大抵の状況において退屈なものです。パトスと政治は調和しないのです」

ラトル 「あなたが仰ることに100パーセント賛成したいと思います。そこで私はさらに、偉大な芸術家が優れた政治家になることはない、と言うことにしましょう。というのは政治では、“可能ななかで何をするのか”が問われます。これに対して芸術では、常に不可能なことに挑戦してゆかなければならないからです。典型的な例はワーグナーでしょう。彼は数十年にわたって、あの革命的な《ニーベルングの指輪》を作曲し続けたのでした」

オッテン 「《リング》は、あなたにとってロマン的な作品でしょうか?」

ラトル 「そうです。ただそこには、ニヒリズムも混ざっていると思います。しかし《ワルキューレ》の第1幕フィナーレなどは、まさにロマン的ですね」

オッテン 「そういったロマンティシズムは、キッチュだとも言えませんか」

ラトル 「そんなことはありません。いつも不思議に思うのですが、ドイツ人は素晴らしい個所になると、すぐにキッチュという言葉を口にしますね。ドイツでは、美しい音楽をそのまま楽しむことに恐れを抱いている人が多いようです。これには本当に驚かされます。ワーグナーに戻って言いますと、彼の音楽はある社会の終焉を描いています。我々は、理想の社会を近親相姦の上に打ち立てることはできないのです。またこの作品において特異なのは、何が許されていて、何が許されていないのかが意識的に問われていることです。これは非常にロマンティックな考え方だと思います。そしてすべてが破壊され、廃墟となったなかで幕切れを迎えるという発想。この終焉のイメージは、あなたにはロマンティックな世界観と映りますか?」

レペニース 「ある程度はそうですね。しかしワーグナーは、ロマンティックという概念だけでは括ることができません。そこにニヒリズムが加わってくると思います。例えばヨアヒム・フェストは、ヒトラーが破壊的・自滅的な政治を築き上げた背景には、ワーグナー的な終末観があったと論じています(注:レペニースは、《神々のたそがれ》フィナーレに表れている破壊と再生〔=死と生〕の生成論が、ナチスのイデオロギーに影響を与えたことを示唆している)」

ラトル 「一般論になりますが、政治を演劇的なものとして演出することは、最も危険な発想であるように思われます。ヒトラーとナチス・ドイツが、政治集会を完璧なショーとして演出したことには、本当に身の毛がよだちます」

レペニース 「このコリオグラフィー(振り付け)こそが、大衆だけでなく、知識人をも魅了したのでした。それはドイツに限った現象ではありません。キッチュな(悪趣味な)ものをお読みになりたいのであれば、ニュルンベルクにおけるナチス集会を観たフランス人ファシストたちの報告を読まれるといいでしょう。彼らはイデオロギーに魅了されたのではなく、コリオグラフィー、演出に魅了されたのです」

ラトル 「お話を聞いていてつくづく思うのですが、ナチス的なものがロマン派に根源を持つというのは、興味深い発想ですね。イギリスでロマン派とその影響を論じた場合、ヒトラーの名前は絶対に出てきません。ワーグナーに関しても、彼の作品に影の部分があるとは誰も言わないでしょう。ロマン主義はもちろん次の世代に大きな影響を与えたわけですが、それはどこへ流れていったのか。我々イギリス人はあなた方とは別の教育を受けていて、芸術がきわめて高い社会的意味を持っている国々を羨ましいと思うものです。我々は、ドイツで音楽がこれほどまでの意味を持っていることに感嘆せざるを得ません」

レペニース 「我々は、“なぜナチスという歴史が起こり得たのか”ということを理解できないでいます。それゆえに、それを説明する歴史的・文化的背景を見つけようとするのです。“ロマン主義はどこへ流れていったのか?”これはきわめてドイツ的な問いです。ここでイギリスのロマン主義の展開をお聞きすることは、あまり意味を成さないでしょうね」

ラトル 「我々は、ポスト・ロマン派の発展をごく普通の芸術的プロセスと理解しています。同時にイギリスでは、ロマン派こそが皮肉な状況と結びついているのです。というのはロマン派は、まさに産業革命がすべてを破壊した時期に起こったからです。こう言ってよければ、我々がヨーロッパで最初に起こしたのは、産業革命だけでした。もちろん優れたロマン派イギリス人画家はいますが、音楽は存在しなかったのです」

オッテン 「それは誰が言いだしたのでしょう?」

ラトル 「我々自身がそう言いだしたのですよ。要するにこれは事実なのです。パーセルとエルガーの間には何もありません。少なくとも傾聴に値するような音楽は存在しませんでした。しかしなぜそうなのかは、私には分かりません。どうして同じ時期には、優れた画家がいたのでしょう?答えられない質問です」

オッテン 「しかしなぜドイツに限って、これほど多くのロマン主義作曲家が生まれたのでしょうか。フランスには、少なくともベルリオーズとショパンがいます」

ラトル 「その質問は答えなし、ということにしませんか?」

レペニース 「その問いについては、すでに答えている人がいますよ。トーマス・マンが第1次世界大戦最後の年に書いた、ユートピアについての論考です。そこで彼は自問しています。“ドイツ人であることなしに、音楽家であることは可能だろうか”と。答えはもちろんノーなのですが、これには続きがあります。というのは当時のトーマス・マンは、“音楽の国”としてのドイツを、“民主主義の国”としての西ヨーロッパ諸国に対置していたからです。思索的で音楽的なドイツ人は、民主主義のような俗っぽい事柄に関心を持つことなどできない、というわけです」

オッテン 「それはどうしようもなく国粋主義的ですね」

ラトル 「当時はまだそのような言い方をすることが、許されていたのですね。(ドイツ人としてドイツ人の優位性を語ってはならない)アドルノ的状況にはなかったわけですから。しかし少なくとも次のことは言えます。我々は民主主義においても、ロマンティックであってよいのです(笑)」

《神々のたそがれ》の演奏会をデジタル・コンサートホールで聴く!

 ベルリン・フィル演奏会批評(現地新聞抜粋)

定期演奏会(2008年10月8〜10日)
曲目:モーツァルト:交響曲第25・40番
ピアノ協奏曲第9番(ピアノ:マリア・ジョアン・ピリス)
指揮:トレヴァー・ピノック


 昨年秋のトレヴァー・ピノックのベルリン・フィル・デビューは、現地の音楽評論家にはあまり好意的にとらえられていません。文章には先入観が見え隠れし、ピノックを最初から否定的に扱う姿勢が感じられます。ところが実際のヴィデオを観ると、彼の演奏は決して悪くありません。それどころか第25番は、作品の陰影とパッションを描き出して、なかなかの出来と思わせます。批評を鵜呑みにしてはいけないのは、いずこも同じのようです。

「今シーズン、ベルリン・フィルでは、デビュー指揮者はひとりしか招待されていない。それがよりによってトレヴァー・ピノックであるのは、正直言って驚きである。古楽演奏のエキスパートである彼は、80年代初頭に中庸なバッハ、ヘンデルを録音して知られたが、その後すぐに第1線から消えてしまった。今回の演奏も、こじんまりとしたルーチンワークの域を越えるものではないように思われる(2008年10月10日付け『ターゲスシュピーゲル』、イェルク・ケーニヒスドルフ)」

「ピノックは、古楽運動の先駆者であるにもかかわらず、解釈の上では放恣なまでにリベラルであった。つまり弦は、ビブラートを付けて弾いてよいのである。彼は小ト短調交響曲で自ら通奏低音(チェンバロ)を弾いたが、これは音楽的にも指揮法的にも意味があるとは思われなかった。いずれにしても、チェンバロはほとんど聞こえなかったのである。サウンドは多くの古楽アンサンブルのように過剰さを狙ったものではなく、柔らかさと厚みを意図している。それでも細部はよく聞き取れるので、ピノックは部分と全体のバランスを計ったと言える。しかしそれは、作品にふさわしい響きだっただろうか?(2008年10月10日付け『ベルリナー・ツァイトゥング』、ヴォルフガング・フーアマン)」

「モーツァルトは優美であるだけでなく、ある種の粗野さも備えている。これは一見相反するようだが、実際には作品内でお互いのバランスを図っている。同じことは、トレヴァー・ピノックによる2つの交響曲の解釈についても当てはまる。ここで彼は、独自性のある、変化に富んだ解釈を打ち出すことに成功していた。そこでは深遠を覗かせるような、メランコリックな緩徐楽章が、決然とした弦の激しいアンサンブルと鮮やかな対照を成していたのである(2008年10月12日付け『ベルリナー・モルゲンポスト』、ザビーナ・ベビエ)」

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 ドイツ発最新音楽ニュース

本コーナーでは、ドイツおよび欧米の音楽シーンから、最新の情報をお届けします。

ブッセートでヴェルディ国立博物館が開館
 10月10日、ヴェルディの生地レ・ロンコレに近いブッセートで、ヴェルディ国立博物館が会館された。建物は市内の貴族の館「ヴィッラ・パラヴィチーノ」で、展示内容はヴェルディの26のオペラを絵画と音楽で辿ったものである。19世紀風の豪華な内装は、演出家・装置家のピエル=ルイジ・ピッツィがデザインしたもの。開会式ではソプラノのイネス・サラザール、バリトンのパオロ・コーニがヴェルディ作品を歌い、オープニングを飾った(写真:コンサート後、「黄金の白鳥賞」を受けるコーニ)。

チェチーリア・バルトリがカストラートのアリアによるツアーをスタート
 チェチーリア・バルトリが、カストラートのアリアをテーマにコンサート・ツアーを開始した。ベルリンでの演奏会(10月18日。ベルリン・フィル招聘)では、男性用のマントをはおって登場した後、羽飾りの付いた黄金の衣装で歌い、カストラート時代の栄光を讃えている。声楽的にも絶好調で、1720年から50年の間に書かれたナポリ派オペラのアリアを、眼を剝くような超絶技巧で歌った。バルトリは、来年3月までにドイツの10都市でこのコンサートを行うという。

ヤノフスキ、ベルリン放送響との契約を2016年まで延長
 マレク・ヤノフスキが、ベルリン放送交響楽団との契約を2016年まで延長することになった。2002年より現職のヤノフスキは、オケから終身首席指揮者職を提案されているが、今回の延長年数は運営母体ROCと合意で決められたものである。ヤノフスキとベルリン放送響は、現在ベルリン音楽界で特に進境著しいコンビとされている。

ティーレマン指揮ミュンヘン・フィルの演奏会で、オケに大ブー
 ティーレマンの契約非延長後最初のミュンヘン・フィル演奏会(10月15日)で、オケが聴衆から大ブーを受けている。これは開演直前に起こったアクシデントで、コンサートマスターが入場すると、少なからざる聴衆が楽団に怒声を浴びせた。逆にティーレマン本人が登場すると、絶大なブラヴォーが起こっている(しかしこれには、ブーも混ざっていたという)。なおティーレマンは、2012年よりドレスデン・シュターツカペレの首席指揮者になることが決まっている。


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