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ゲルバー ピアノ・リサイタル

2008年5月15日 (木)

ブルーノ・レオナルド・ゲルバー ピアノ・リサイタル

現代を代表する名ピアニストのひとり、ブルーノ・レオナルド・ゲルバーが1968年に初来日して以来、2008年は彼にとって40年という記念の年。ゲルバーは現在、5月8日〜6月2日にかけて11公演の全国ツアーを行なっています。特に、東京公演は、ゲルバーの最も得意とするベートーヴェンの4大ソナタをプログラムした注目の演奏会です。

《タイアップ公演》
日時:2008年5月29日(木)19:00開演 【Bプログラム】
会場:東京オペラシティコンサートホール 
入場料:S: 6,000円 A: 5,000円 B: 4,000円 
問合せ先:ヒラサ・オフィス(ヴォートル・チケットセンター) 03-5355-1280

<リサイタル B プログラム>
ベートーヴェン
ピアノ・ソナタ第14番 嬰ハ短調Op. 27-2 「月光」
ピアノ・ソナタ第21番 ハ長調Op. 53 「ワルトシュタイン」
ピアノ・ソナタ第 8番 ハ短調Op.13 「悲愴」
ピアノ・ソナタ第23番 へ短調Op.57 「熱情」

主催先のWEB
http://www.hirasaoffice06.com/index.html

《ゲルバー プロフィール》
オーストリア、フランス、イタリアの血を引く音楽家の両親のもとにアルゼンチンに生まれる。3歳半のとき母からピアノの手ほどきを受け、母は彼の生涯を通じて最も重要な音楽的影響を与えることになる。
  ゲルバーは5歳でアルゼンチンでの初めての公開演奏を行い、6歳でヴィンチェンツォ・スカラムッツァに師事した。1年後、ゲルバーは重い小児麻痺にかかり、1年以上まったく寝たきりの生活を送った。しかし、彼にとって音楽はもっとも大切なものだったので、両親はベッドの上でも弾けるようにピアノを改造し、ゲルバー少年は練習を続けることができた。
  15歳の時にはロリン・マゼール指揮の下、シューマンの協奏曲を演奏してゲルバーの名は南米中に知れ渡った。19歳でフランス政府からの奨学金を得てパリに留学。彼の演奏を聴いたマルグリット・ロンは「あなたは私の最後の、しかし最高の生徒になるでしょう」と語った。彼女からロン=ティボー国際コンクールへの出場を勧められたゲルバーは、第3位に入賞したが、彼こそ優勝にふさわしいとする聴衆とマスコミの間で大いに物議を醸した。
  ヨーロッパではこれが国際的な活躍のスタートとなり、以後、ゲルバーはリサイタルやオーケストラとの共演で華やかな活動を繰り広げることとなった。これまでに彼は延べ4500回以上の演奏を行なっている。
 ゲルバーは、アンセルメ、セル、カイベルト、ドラティ、ライトナー、テンシュテット、ラインスドルフ、マズア、チェリビダッケ、コリン・デイヴィス、デュトワ、ハイティンク、マゼール、ロストロポーヴィチ、シャイー、エッシェンバッハ、サロネンなど、多くの名指揮者と共演している。さらに、ザルツブルク、グラナダ、エクサンプロヴァンス、ルツェルン、チューリヒなどの音楽祭にも招かれている。米国ではスタンフォード音楽祭に招かれたほか、ニューヨーク・フィル、フィラデルフィア管、クリーヴランド管等と共演。カーネギーホールでの演奏は、辛口の批評家として知られたショーンバーグから絶賛された。
 ゲルバーのレコーディングはすべて世界的に高い評価を得ており、ACCディスク大賞を2回とADFディスク大賞を受賞している。EMIからはブラームスの協奏曲集、ベートーヴェンの3番と5番のピアノ協奏曲、ロマン派のソナタ集などをリリース。デンオンに録音したベートーヴェンのソナタのうち、最初のものはニューヨーク・タイムズ紙の1989年最優秀録音のひとつに選ばれている。4枚組のこのシリーズについてCDレヴュー・マガジン誌は、「まったく私の聴いた中で最も優れたディスクだ…他にも褒めることは出来るがその必要はない。彼はかけがえのないピアニストであり、まさにこのシリーズは必聴すべきものだ」と述べている。フランスのディアパソン誌は、ブルーノ・レオナルド・ゲルバーを今世紀の最も偉大な百人のピアニストの一人に選んでいる。


ブルーノ・レオナルド・ゲルバー/インタビュー
城所 孝吉(音楽評論)

 来日公演の直前に、ゲルバー氏にモンテカルロの自宅でお話をうかがう機会を得た。ハイソサイエティのメッカとして知られるモナコだが、氏のマンションも港のすぐ上の高台に面し、窓からは絶景が広がる。親日家として知られるだけに、過去のツアーの思い出も多いが、それを語る姿は実に楽しげで、日本への愛情を強く感じさせた。

――ゲルバーさんはオーストリア、イタリア、フランスの血を受けていらっしゃるそうですね。確かお父様がオーストリア人だったと思いますが。
「そうです。私の父は純粋のオーストリア人で、21歳の時にアルゼンチンに来て、そのまま居つきました。母の方はイタリアとフランスの混血です。父は大学でラテン語を学んでいたので、アルゼンチンに来てスペイン語をすぐに習得してしまったといいます。ふたりはずっとスペイン語で話したので、私はドイツ語を学ぶ機会がありませんでした。ちょっと残念ですね。」
――ご家庭は音楽的な環境だったのですね。
「私の父はもともとは化学を勉強した人でした。ですがヴィオラを弾いていて、まずまずの腕前だったのです。彼はアルゼンチンに来てから、良い仕事が見つかるまで室内楽の集まりでヴィオラを弾いてお金を稼いでいました。ピアニストだった母もそうです。彼らは当時裕福ではありませんでしたが、普通に働くことに慣れていなかったので、音楽の仕事をしてお金を稼いでいたのでした。ふたりはそこで知り合ったのです。」
――ゲルバーさんが後にベートーヴェンやブラームスで実力を発揮されたのは、お父さんの血かもしれませんね。
「私は必ずしもそうは思いません。というのは、ドイツ人ならばベートーヴェンが一番上手く弾けて、フランス人ならばドビュッシーが一番上手けるとは考えないからです。もちろん遺伝的なものはあると思いますよ。しかし同時に重要なのは音楽を愛する魂、情熱です。大体、両親は私に才能があると分かっても、音楽家になってほしくはなかったのです。」
――それはどうしてですか。
「音楽家が不安定な職業だからです。彼らはもともと安定した生活を送っていたのに、様々な事情で音楽の仕事をせざるを得なくなりました。その経験から、私には弁護士だとか医者だとか、しっかりした職についてほしかったのです。ですが私は3歳半の時からずっと音楽がやりたくて、駄々をこねました。両親は仕方なくそれを受け入れたというわけです。」
――ゲルバーさんは、子供の頃からピアニストになりたいと決めていらっしゃったのですね。
「そうです。本当に小さい頃、母が生徒に稽古をつけている午後の間、私はずっと彼女の近くにいました。そして生徒が帰ると、練習していた曲を真似て弾いたのです。」
――今年は日本デビュー40年周年ということで、大規模な来日公演をなさいます(最初の訪日は1968年/昭和43年)。海外から演奏家が来て演奏するということは、当時は非常に特別だったと思いますけれども。
「私が日本に招待されたきっかけは吉田秀和さんです。彼は私がベルリン・フィルと共演したのを聴いて、梶本音楽事務所の先代社長、梶本尚靖さんにゲルバーを呼ぶべきだと提案したのです。最初に行ったのは5月でしたが、当時私はパリに住んでいました。しかしまさに旅立つという時になって、なんと例の5月革命(学生運動)が勃発したのです。パリの空港は閉鎖。電車も運休し、私と付き添いの友人は車で一番近い国際空港、つまりブリュッセルへと向かいました。そしてやっとの思いでベルギーへの国境を越えたのですが、私たちのすぐ後ろで国境は完全封鎖されてしまいました。もしあの時ちょっと遅れていたら、私の日本デビューはなかったでしょう。」
――日本に着かれた時の印象はいかがでしたか。
「それは本当に昨日のことのように覚えています。当時は日本行きの飛行機はアンカレッジ経由で、羽田に着いたころには私は疲れきっていました。ところが空港のタラップを降りると、目の前に赤い絨毯がひかれているのです。誰のためかと思って、キョロキョロと見回すと、例の付き添いの女性が“これ、多分あなたのためよ”と言いました。実際、その通りだったのです! カメラマンたちがカシャカシャとシャッターを切り、前方には日本語で書かれた(!)横断幕が掲げられています。私は手を振りましたが、これは私の人生で最も素晴らしいウェルカムでした。夢のような出来事で、本当に心の底から感動しました。」
――国賓のような待遇を受けたのですね。
「この演奏旅行では、そのようなことの連続でした。東京での最初のコンサートの後、札幌に行くことになったのですが、当時そこではホテルにピアノを入れることができませんでした。そのため、ピアノをお持ちの一般のお宅に練習に行くことになったのです。有名なお医者さんの家でしたが、当時私は日本製の絹が素晴らしいと聞いていたので、絹のパジャマがどこで手に入るかとご家族の奥さんに相談しました。奥さんは町中のお店に電話を掛けてくれましたが、在庫がありません。特注になるので、20日掛かるという答えでした。20日も掛かるのでは仕方がないと思い、その件は忘れていたのですが、次の日に練習に行くと、奥さんはなんと子供たちとパジャマを縫うと言ってきたのです。そしてジャケットを脱がせ、寸法を取りだしました。その翌日には、ホールでのリハーサルについて来て、そこで型取り。そして3日目には、お手製の絹のパジャマが出来上がったのです。こんなことが信じられますか。すべて真実です。私はもったいなくて、そのパジャマには袖を通しませんでした。今でも素晴らしい思い出として、大切に保管してあります。」
――それは感動的なお話ですね。今では日本でも物が溢れ、自分で仕立てる人などいなくなってしまいました。当時はそういう時代でもあったんですね。
「日本にはこんな思い出がたくさんあります。実に美しい、そして驚くばかりの思い出です。」
――日本ではマスター・クラスもなさっていますね。
「日本の学生は大変優秀です。技術的には本当に言うことがありません。ただ、自己表現するということについては、自分の殻を抜け出せない傾向もあるようです。しかしそれは、学生だけに限らないのですね。オーケストラと共演しても、演奏は大変正確で完璧なのですが、私に合わせて大きな感情の波を表現するのは得意でない様子でした。それをある楽員に言うと、“ゲルバーさんのおっしゃることはよく分かります。ですが、我々は自分の感情を表に出さないように、子供の頃から教育されているんです”という答えが返ってきました。その時は、そうか、そうなんだと思わず納得しました。」
――ところで今回の来日公演では、すべての公演がベートーヴェンのプログラムとなっています。ゲルバーさんのなかでベートーヴェンは、どのような位置を占めているのしょう。
「もちろんベートーヴェンはお気に入りの作曲家です。もし死ぬまでひとりの作曲家しか弾いてはいけないと言われたら、ベートーヴェンを選びます。私はベートーヴェンの書いたスタイルがよく理解できるのです。それに共感し、同調できるとでも言うのでしょうか。彼の音楽は、非常に人間的です。それとともに、天につながって行くスピリチュアルな部分を持っています。ボンのベートーヴェン記念館に行ったことがあるのですが、そこには彼が音を聞くために使用した様々な補聴器が展示されています。作品で言うと、作品27の頃(1801年)から難聴の傾向が見えはじめるのですが、この機器を見て私は悲惨なことだと思いました。彼は自分が作った作品を聴くことができなかったのですから。」
――ベートーヴェンが素晴らしいのは、あれほど過酷な運命を背負いながら、聴こえてくる音楽がどこかポジティヴな点ですね。
「まったくその通りです。彼は愛することを非常に大切にした人だと思います。同時に自分が書いた音楽に大きな誇りを持っていました。耳が聞こえないということは彼を苦しめましたし、それが音楽に人間的な感情となって表れていると思いますが、それは精神的な、高い世界へと昇華してゆきます。その天と地の垂直的なギャップ、広がりが彼の音楽の最大の特徴ではないでしょうか。」
――哲学的なイメージですね。
「しかし、こういうことを言葉で語るのは難しい。私は彼の音楽のクオリティを強く感じ、自分のものに(=内面化)することで表現しています。子供の時からそうで、ある時ベートーヴェンのシンフォニーのピアノ編曲版を、ひとりで弾いていました。その時両親は、ちょうど食事に出かけていたのですが、帰って来ると私が猛烈な勢いでピアノを弾いているのでびっくりしたのです。私としてはオーケストラの響きを作り出そうとしていただけなのですが、親はこのまま死んでしまうのではないかと、私をピアノから引きはがしました。というわけで私は、ベートーヴェンの音楽を何よりも“心で”弾いていると思います。」
――エモーションは、ゲルバーさんの演奏のトレードマークですね。しかし今日お会いして興味深かったのは、全身全霊を傾けた演奏の一方で、ご本人はとても優しく落ち着いた方だということです。
「普通に話している時は、私はもちろん常識的な人間ですよ(笑)。しかし演奏するというのは、そうした普段の殻を破って感情を出すことですよね。それが音楽家の仕事ですし、使命です。」
――今日の若いピアニストについては、どのように思われますか。
「今日のピアノ演奏は、技術的な点に関しては非常に進歩しています。それは本当に驚くべき水準です。我々の世代のピアニストが今コンクールに行ったら、皆落ちてしまうと思いますよ(笑)。しかし本当の意味で感情を表現し、身を捧げることができる人は希少です。彼らは“弾ける”ということに魅せられているのではないでしょうか。ですがテクニックというのは、曲を表現するための手段にすぎません。私は授業をするのが好きなのですが、そこでは生徒たちに心の奥底を開くように促しています。彼らの内面に一緒に入って行って、感情の波をゆり動かすのです。そこでハッと目を覚まし、表現ができるようになる生徒もいます。しかし感情そのものがない場合は、残念ながら何もできません。」
――そうした演奏は、とりわけベートーヴェンでは退屈なものにならざるを得ませんね。
「ある種のレパートリーでは、テクニックを誇示したり、抑えた感情で表現したりすることが可能かもしれません。しかし私の好きなレパートリーでは駄目だと思います。実は私は、日本の聴衆、そして音楽家に次のことが言いたいのです。私はこの40年間、彼らのことを愛し、その音楽への情熱に常に惹かれてきました。私は彼らに、さらに音楽に心を開き、その声に深く耳を傾けていって欲しいと思います。というのは、音楽を愛し、献身的に接すれば、それに裏切られることはないからです。音楽を一生懸命聴き、演奏する努力は、深い喜びとして必ず報われるものなのです。」

関連情報

コンサート情報
※表示のポイント倍率は、
ブロンズ・ゴールド・プラチナステージの場合です。

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