「テンシュテットのライヴはすごすぎ」(許光俊)
2006年8月4日 (金)
連載 許光俊の言いたい放題 第86回「テンシュテットのライヴはすごすぎ」
よけいな前置きは止めよう。1991年に演奏されたテンシュテットのマーラー「さすらう若人の歌」は、超すごい。91年といえば、彼のキャリアの最終局面。テンシュテット最晩年の芸術がどこまで突き進んでいったかをこのCD以上に簡単にわからせる録音はないかもしれない。確かにテンシュテットはそれ以前からいい指揮者だった。しかし、何よりもこの最晩年のすごさによって、大芸術家に仲間入りしたのだと私は思っている。誰もが晩年になって立派な演奏ができるわけではない。むしろそんなことができるのはごく一握りの音楽家に限られるのだ。そんなことを私たちはとっくに思い知らされているが、それにしてもこのテンシュテット晩年様式のすさまじさには今一度驚くほかないのである。
ともかく、あらゆる音、響き、転調、アクセント、リズム、沈黙、そして単語が、極限まで強い意味が与えられ、恐るべき鮮明さで提示されている。全編に渡ってオーケストラが立てる響きの濃いことと言ったら。身震いするようなおぞましい響きがあちこちで鳴っている。テンポは極限まで遅い。その遅さの中で、限界までリアルな心理描写を行うのだ。しかも、明快でありながら説明調ではまったくない。表現の主導権は指揮者にあり、独唱者もオーケストラの楽員と同様、残酷なまでに強烈な表現力を求められている。
ハッキリ言って、ここまで演奏がすごいと、曲がどうでもよくなるとすら言えるかもしれない。「大地の歌」だろうが、「亡き子をしのぶ歌」だろうが、おそらく同じように聞こえるだろう。逆に言うと、マーラーは若いときから死ぬまで、結局同じことを言い続け、歌い続けていたということでもある。
時間にしてわずか20分。だが、この重さはたとえば、マーラーの交響曲第9番とか、ブルックナーの名作とか、ワーグナーの大作に一歩も劣らない。ひたすら暗く、不気味で、孤独で、死の隣り合わせのような音楽。これを自己の内面を吐露するヨーロッパのロマン派芸術の極北と呼ばずしてどうしよう。まさに言葉の真の意味で、震撼させられる演奏だ。
このCDには、「巨人」も入っている。EMIのスタジオ録音とは別物のような、緊張感が強い、振幅の激しい表現だ。さすがに最晩年の「さすらう若人」のあとで聴くと、最初は軽量級に感じられてしまうが、聴き進むうちに、これはこれで非常に立派な演奏であることに気づく。ミステリアスな霧、不気味なうねり、ぶあつい弦楽器の歌、粘り着くようなしつこさ、地の奥底からやってくるような重量感ある熱気。テンシュテットならではのマーラーが満喫できる。特にフィナーレではあらゆるものをなぎ倒すような、すさまじいエネルギーが噴出される。ここまで聴けば大満足間違いなし。
ブルックナーの交響曲第4番も、ライヴならではの異常豪快演奏である。ひとことで言えばキングギドラ。複数の巨大な首がウネウネと動きながら口から光線を出してすべてを焼き払う、そんなイメージがピッタリなのである。
第3楽章の狩りのラッパは、追い込んでいくような突撃調だ。ここに限らず全編を通じてホルンが、「ほんとにロンドン・フィル?」というほどの技を見せる。
瞑想と神秘のブルックナーというイメージからはほど遠い。時々森のような雰囲気は漂うが、それは隠者が住む森と言うより、得体の知れぬ怪物が潜む森といった不気味さをはらむ。
フィナーレは、妙にわくわくするようなリズムの刻みで開始される。そして、これはもはや録音には入らないのではという野太い咆哮。この楽章では「巨人」同様、フィナーレでのクライマックスの築き方が強烈。どんな酷暑も吹っ飛ぶド迫力である。しかも音の物量作戦に終わらない。ホルンからは別世界の風が吹き、チェリビダッケもかくやという吸い込まれそうな巨大さを持つ。
なお、テンシュテットのこの曲に関しては、かつて海賊盤が発売されていた。やはり超強烈な演奏だった。今回の演奏はそれとは異なるようだ。そちらのほうはフィナーレ2分半過ぎで、ものすごいシンバルの一閃、頭の中が白くなるように衝撃的だったが、こちらではそうしたことは行われていない。どうせなら、そっちも発売してもらいたいものだ。細部がかなり異なり、興味深いものがある。おそらく今回のほうがあとの時代の演奏と思われる。
(きょみつとし 音楽評論家、慶応大学教授)
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