絶望すら美しい!
アラン・ペッテション:交響曲全集(12CD)
苦悩や怨念が渦巻き、身悶えするほど凶暴で情け容赦の無い闘争的な音楽が続くかと思えば、今度は絶望の涙に濡れる悲痛な美しさに満たされた音楽が延々続くといった具合に、とにかく「喜怒哀楽」から「喜」と「楽」が抜けてしまった恐ろしいほど独特な音楽が繰り広げられるのがペッテションの残した交響曲の世界です。
ペッテションは全部で15曲の交響曲を残しましたが(第1番は破棄、第17番は未完)、大半が長大な一楽章形式で、どれも深刻ヘヴィー級の相貌を呈するというとんでもない代物ですが、前衛的な要素があまり無いということもあってか、その語法に慣れてくると、闇の中に訪れる抒情美が実に素晴らしいものに感じられてくるから不思議です。
グスタフ・アラン・ペッテション[1911-1980]はストックホルム郊外のスラムに育ちます。鍛冶職人の父親はアルコール中毒で、粗暴な人物であり、一方、母は暴力に無抵抗を貫いた信心深い女性で、この母がときおり歌う賛美歌の美しさがアラン少年に与えた影響にはかなり深いものがあったと思われます。アラン少年はアルバイトでこつこつ貯めたお金でヴァイオリンを購入、独学でヴァイオリンの演奏をなんとか習得すると、15歳のときにストックホルム王立音楽院を受験、しかしハードルは高く、4年連続で試験に落ち、ようやく5年目にして入学が叶うことになります。
ペッテションはここで苦学を重ねながらヴァイオリンとヴィオラ、作曲を学び、卒業後、1940年から1950年にかけてストックホルム・コンサート協会管弦楽団とスウェーデン放送のアンサンブルでヴィオラ奏者として活動する一方、ブロムダールやオルソンに作曲を師事、1949年に、「弦楽四重奏とヴァイオリンのための協奏曲」で作曲家として本格的にデビューします。
この間、1943年にはグードルン・グスタフソンと結婚し、以後約30年に渡って住むこととなった南ストックホルムの小さなアパートに転居します。
その後、1950年にパリに留学し、オネゲル、ミヨー、メシアンらに作曲を師事するほか、レイボヴィッツからは12音技法を学びますが、ペッテションは結局12音技法には否定的でした。
2年の留学の後、スウェーデンに戻った41歳のペッテションは、多発性関節症を発病。ヴィオラの演奏に支障を来たすようになってしまい、オーケストラを辞した彼は演奏家としての活動を停止、作曲に専念する道を選びます。
以後のペッテションは常に関節の痛みに悩まされるようになりますが、1950年代はまだそれほど重くは無かったようで、交響曲第2番、第3番、第4番といった作品や、「弦楽四重奏とヴァイオリンのための協奏曲」など、身につけた技法を率直に作品に反映した曲が多くなっているのが特徴的。
しかし1960年代に入ると状況は一変します。関節の痛みはもはや尋常ではなく、交響曲第5番は、その後のペッテションを特徴づける異様なまでの激しさ・暗さに彩られるようになり、第6番、第7番、第8番と、連続していわゆる「ペッテション的」な傑作を書き上げてゆくことになるのです。
特にドラティが注目して初演した第7番と第8番、第10番は評判となり、国際的にもペッテションの名が知られるようになります(余談ながらドラティの見出した現代モノというとジェラルドの『ペスト』が思い出されますが、あれも同じ頃の出来事でした)。
こうした成功を受けてか、1970年にはペッテションはスウェーデン音楽アカデミーの会員に選ばれるという栄誉に浴しますが、しかし、この頃、多発性関節症のほかに腎臓病を併発、いっそう悪化する健康状態の中で、巨大な交響曲第9番を書き上げ、引き続き今度は入院先で双生児的作品とも呼ばれる交響曲第10番と第11番を完成させます。
まさに鬼気迫る作曲人生ですが、1973年になると、ウプサラ大学創立500年記念祝典のために「深遠な感覚の中で現代の社会性を持った」作品を書くよう委嘱され、ペッテションはこれに彼にとって初の試みとなるカンタータ的な交響曲を書いて応えます。大学の記念祝典に、南米チリのサンチャゴで起こった労働者の虐殺事件を題材とするあたり、ペッテションならではといった印象ですが、力強く悲劇的な作品はわかりやすさも兼ね備え、「現代の社会性」を見事に織り込んだ「深遠な感覚」をよく伝えているものと思われます。
晩年のペッテションは、長年に渡って住み続けた騒々しいアパートから、閑静な住居へと引っ越したこともあってか、健康状態に反比例して創作意欲が増しているのに驚かされますが、しかし、すでにペッテションは癌に蝕まれており、1980年6月20日、帰らぬ人となってしまいます。
今回、ドイツのCPOレーベルから登場するペッテション交響曲全集は、長年に渡って国際的な評価を獲得してきた一連のペッテション交響曲シリーズをまとめたもので、演奏・録音共に文句なしの高水準に達しているのがポイントとなっています。
マーラー、ブルックナー、ショスタコーヴィチなどに食傷気味な交響曲好きの方には特にお薦めできる肝だめし的な面白さもあるセットの登場です。(HMV)
【収録情報】
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・交響曲第2番
・交響的断章
BBCスコティッシュ交響楽団
アラン・フランシス(指揮)
交響曲第1番を破棄してしまったペッテションにとって、交響曲第2番(1952〜53年作曲)が最初に世に問うた交響曲でした。後年のような身を捩る悲痛さはまだまだ薄めで、普通の無調っぽい近代音楽が奏でられて行きます。ただ、途中で突然、モーツァルトの「フリーメーソンのための葬送音楽K.477」が、かき鳴らされたりするのは、なかなか興味深いところです。
『交響的断章』は、交響曲第11番と同じ1973年に作曲された作品で、ペッテションならではの身悶え悲痛系の音楽となっています。元来、スウェーデンのテレビ局の番組用音楽として書かれたものですが、ペッテションは遠慮会釈なく、痛恨の涙を絞り上げていきます。
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・交響曲第3番 [39:38]
・交響曲第4番 [38:25]
ザールブリュッケン放送交響楽団
アラン・ フランシス(指揮)
1994年録音。ペッテションの初期の交響曲は高く評価されてなかった分、再発見の価値があります。ここに収録された交響曲第3番(1954〜55年作曲)と第4番(1958〜59年作曲)は、これまでによく聴かれてきた悲痛なペッテションとは全く違ったものです。よりコンパクトですが、万華鏡のごとく絶えず変化する曲調で、より実験的色彩の強いものになっています。
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・交響曲第5番 [40:51]
・交響曲第16番 [24:23]
ジョン=エドワード・ケリー(アルトサックス)
ザールブリュッケン放送交響楽団
アラン・ フランシス(指揮)
1995年録音。自らの運命への絶望か、はたまた呪詛か。ペッテションの名を高めた中期の“悲痛”交響曲シリーズの開始を告げる第5交響曲(1960〜62年作曲)です。ヴィオラ奏者でもあったペッテションの演奏家生命を絶ち、作曲をするためのペンを握る事すら不可能にした病苦に襲われる直前に作られたため、第6番以降のような透徹した悲しみよりは“脅迫的な程の不安感”が全曲を支配しています。
一方、完成した最後の交響曲となった第16番(1979年作曲)は、アルトサックスとオーケストラのために書かれた協奏曲風の作品です。初演はアーロノヴィチ指揮ストックホルム・フィルがおこなっています。癌に冒されながらも、精神的には安定していたといわれる晩年の作品だけに、音楽は不屈の推進力を秘め、敢然と奏でられていきます。なお、この曲のサックス独奏部は異様な超絶技巧が要求される難曲としても知られています。
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・交響曲第6番
ベルリン・ドイツ交響楽団
マンフレート・トロヤーン(指揮)
ペッテションの作品はトラウマとの闘いの所産であり、悲劇的人生への絶望的な叫びです。交響曲第6番(1963〜66年作曲)は、自虐的なまでの厭世観の示された音楽が60分に渡って展開する独特の傑作です。
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・交響曲第7番 [45:00]
ハンブルク州立フィルハーモニー管弦楽団
ゲルト・アルブレヒト(指揮)
1991年録音。交響曲第7番(1966〜67年作曲)は初演当時から高い評価を勝ち得たペッテションの代表的作品。初演はドラティ指揮ストックホルム・フィルがおこなっています。第6交響曲では「傷ついた心の哀しみ」程度だったのが、ここではすでに「心を蝕むような肉体の苦しみ」の境地にまで作曲者の魂が追いつめられている感すらします。実際、彼はペンも持てぬほどの強度の関節炎に苦しめられていました。ペッテションの交響曲は、悲しみを自覚するしか道はないと説き、予定調和的な救いは皆無です。
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・交響曲第8番[50:00]
ベルリン放送交響楽団
トーマス・ザンデルリング(指揮)
1984年録音。20世紀最後の交響曲作家といわれるペッテションの17曲の交響曲中、最高傑作の第8番(1968〜69年作曲)の登場です。初演はドラティ指揮ストックホルム・フィルがおこなっています。彼は悲惨な子供時代のトラウマを生涯引きずった上に、50年代半ばから作曲のペンも握れなくなった多発性関節症との闘いも余儀なくされました。第8交響曲は、悲劇的な人生に立ち向かう精神が透明な抒情の中で描かれた奇跡的作品です。ただ悲しい事にこの曲以降、彼の肉体的精神的重圧はその音楽すら歪めて行ってしまうのですが・・・
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・交響曲第9番 [69:52]
ベルリン・ドイツ交響楽団
アラン・フランシス(指揮)
1993年録音。第7番と並んでペッテションの最も成功した作品といわれる第9交響曲(1970年作曲)です。初演はコミッショーナ指揮ヨーテボリ響がおこなっています。この曲は当初90分かかる空前の単一楽章交響曲と考えられていましたが、今回の録音で作曲者の指示通りにやると70分で済む事が判明しました。さて曲はまさに「苦悩の嵐」。自らの凄絶な人生への巨大な戦闘宣言(第6・7交響曲では「怨み節」)であり、その戦いに対する勝利感は一切なく、ただ曲の最後に一瞬だけ諦観的安寧が幻のように提示されるのみです。
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・交響曲第10番
・交響曲第11番
ハノーファー北ドイツ放送フィルハーモニー管弦楽団
アラン・フランシス(指揮)
第10番が1994年、第11番が1993年の録音。1970年から71年にかけて、ペッテションは重い腎臓病を患い、9か月に渡る入院生活を送ります。この入院期間中に書かれた(スケッチされた)のが第10番(1972年作曲)と第11番(1973年作曲)の交響曲です。ただ、この双子とも言える交響曲は、性格的には対照的なものを持っていると言われます。第10番は、病苦に苛まれ続ける自分の運命を嘆き悲しみ、外に向かって吐露した作品。一方の第11番は、世界中の抑圧され苦しんでいる人への想いを自己の内面に向かって昇華させた作品なのだそうです。確かに、第10番は呪わしい運命への嫌悪感が攻撃的なパワーに変じたような作品です。しかし、第11番がそう内省的かといえば、曲の冒頭となぜかイ短調の主和音で力なく終わるラストくらいなもので、あとは自己嫌悪的悲憤にあふれた仕上がりとなっています。
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・交響曲第12番『広場の死者』
スウェーデン放送合唱団
エリック・エリクソン室内合唱団
スウェーデン放送交響楽団
マンフレート・ホーネック(指揮)
1973年、ウプサラ大学創立500年記念祝典のために「深遠な感覚の中で現代の社会性を持った」作品を書くよう委嘱され、ペッテションはこれに彼にとって初の試みとなるカンタータ的な交響曲を書いて応えます。大学の記念祝典に、南米チリのサンチャゴで起こった労働者の虐殺事件を題材とするあたり、ペッテションならではといった印象ですが、力強く悲劇的な作品はわかりやすさも兼ね備え、「現代の社会性」を見事に織り込んだ「深遠な感覚」をよく伝えているものと思われます。初演はラーション指揮ストックホルム・フィルがおこなっています。
999224-2
・交響曲第13番 [67:03]
BBCスコティッシュ交響楽団
アラン・ フランシス(指揮)
1993年録音。交響曲第13番(1976年作曲)は、単一楽章67分間休みなしの大曲。初演はトラヴィス指揮ハルモニーエン・アンサンブルがおこなっています。聞き手に莫大な緊張と労力を要求するこの曲は、真のペッテション・ファンにのみ門戸を開く音の修験道なような感すらあります。53分過ぎから始まるエレジー的展開は胸を打つものがあります。しかしそこに至るまでの、そして最後には再び帰って行く苦闘は凄絶すぎます。
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・交響曲第14番 [47:00]
ベルリン放送交響楽団
ヨハン・アルネル(指揮)
1988年録音。ペッテションは、晩年、癌との闘いを余儀なくさせられますが、生活環境的には極めて幸福な状況に至ります。自然にあふれた家で、愛する妻と、生活への不安なしに暮らすことができたのです。その中で彼が書いた交響曲第14番(1978年作曲)は枯れかかる闘志を奮い立たせる悲痛さが目立つ悲しい作品です。初演はコミッショーナ指揮ストックホルム・フィルがおこなっています。ここでペッテションは安息さえ提示しながら、人生の苦しみと闘う事を描きます。作曲者の叫びは、かすれたフォルテとなって全曲を覆いつくしているのです。
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・交響曲第15番 [38:18]
・ルジツカ:『ペッテションのオマージュ』 [13:44]
ベルリン・ドイツ交響楽団
ペーター・ルジツカ(指揮)
ペッテションが1993年、ルジツカが1992年の録音。ペッテションの創作意欲が旺盛だった1978年には、交響曲第14番、ヴァイオリン協奏曲第2番と、交響曲第15番が書かれています。初演はコミッショーナ指揮スウェーデン放送響がおこなっています。この作品は、それ以前の交響曲に比べてずっと穏やかで、調和のとれたものになっています。このことは、"Cantando"と冠されたミドル・セクションに如実に現れています。
組み合わせは、モーツァルト生誕250周年のザルツブルク音楽祭で芸術監督を務めてもいた作曲家ペーター・ルジツカが、1991年に作曲したペッテションに捧げたレクイエムともいうべき作品で、演奏者と聴衆を、偉大なるペッテションとの対話の世界へといざなってくれます。