バッハ、C.P.E.(1714-1788)

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CD 輸入盤

チェロ協奏曲集、シンフォニア集、ソナタ集 オフェリー・ガイヤール、プルチネッラ・オーケストラ、フランチェスコ・コルティ、他(2CD)

バッハ、C.P.E.(1714-1788)

基本情報

ジャンル
:
カタログNo
:
AP141
組み枚数
:
2
レーベル
:
:
Europe
フォーマット
:
CD
その他
:
輸入盤

商品説明


C.P.E.バッハ:チェロ協奏曲集、シンフォニア集、ソナタ集(2CD)
オフェリー・ガイヤール、プルチネッラ・オーケストラ、フランチェスコ・コルティ、他


気品としなやかさを兼ね備えたフランスの女性チェロ奏者、オフェリー・ガイヤール。1998年ライプツィヒ国際バッハ・コンクール第3位、また自ら創設したアンサンブル・アマリリスを率いて国際コンクールで優勝しており、モダンからバロックまで、幅広く活躍しています。フルニエ、トルトゥリエらフランス・チェロ楽派の正当な継承者ともいえる存在です。
 彼女のC.P.E.バッハの録音が2枚組お買い得価格で登場。ディスク1は2014年のディアパソン・ドール・オブ・ザ・イヤーを受賞しました。バロックから古典への重要な橋渡し役であったC.P.Eバッハ。新しい時代を切り開く勢いが感じられる作品を、ガイヤール率いる力強くも気品あふれる演奏でたのしめるセットです。(輸入元情報)

【収録情報】
Disc1 (AP080)
C.P.E.バッハ:
1. チェロ協奏曲イ短調 Wq.170(H.432)
2. シンフォニア第5番ロ短調 Wq.182(H.661)
3. チェロ協奏曲イ長調 Wq.172(H.439)
4. トリオ・ソナタ ハ短調 Wq.161((H.579)『多血質と憂鬱質(Sanguineus & Melancholicus)』〜2つのヴァイオリンと通奏低音のための

 オフェリー・ガイヤール(チェロ/フランチェスコ・ゴフリラー1737年製、指揮)
 フランチェスコ・コルティ(フォルテピアノ/Johann Andreas Stein, 1785:1-3, Franz Baumbach, Vienne 1790:4)
 ティボー・ノアリ(ヴァイオリン:4)
 プルチネッラ・オーケストラ

 録音時期:2013年9月17-19日、12月19日
 録音場所:パリ、ボン・セクール教会
 録音方式:ステレオ(デジタル/セッション)

Disc2 (AP118)
1. シンフォニア第3番ハ長調 Wq.182/3(H.659)
2. チェロ協奏曲第2番変ロ長調 Wq.171(H.436)
3. シンフォニア ホ短調 Wq.178(H.653)
4. ピッコロ・チェロとチェンバロのためのソナタ ニ長調 Wq.137(H.559)
5. チェンバロ協奏曲ニ短調 Wq.17(H.420)

 オフェリー・ガイヤール(チェロ/フランチェスコ・ゴフリラー1737年製、ピッコロ・チェロ、指揮)
 フランチェスコ・コルティ(フォルテピアノ/F.ブランシェ1733年製、フランツ・バウムバッハ1780年製)
 プルチネッラ・オーケストラ

 録音時期:2015年9月7-10日
 録音場所:パリ
 録音方式:ステレオ(デジタル/セッション)
【カール・フィリップ・エマヌエル・バッハ】
1714年3月8日、バッハが28歳の時にその最初の妻であるマリア・バルバラとの間にヴァイマールで誕生。セカンド・ネームのフィリップは、父バッハの友人であったゲオルク・フィリップ・テレマンが付けたものでした。
 父バッハがライプツィヒのトーマス教会のカントールとなった翌年、カール・フィリップ・エマヌエルは、トーマス教会の付属学校に入学し、やがてライプツィヒ大学に進学、その後、フランクフルトの大学に移って法学の学位を取得するものの、司法の道には進まず音楽の世界に戻ることを決意、父バッハと親交のあった作曲家レオポルト・ヴァイスの推薦もあってプロイセン皇太子フリードリヒのルピーン宮廷にチェンバロ奏者として迎えられ、その後、1740年に皇太子がフリードリヒ2世(フリードリヒ大王)として国王になると、ベルリンの宮廷楽団のメンバーに昇格、1746年には王室楽団員となり、以後、1768年まで同地で活躍、通算30年近い滞在から「ベルリンのバッハ」と呼ばれるようになります。
 その間、フリードリヒ大王が大変な音楽愛好家だったこともあり、コンサートが頻繁に開かれ、作品発表の機会にも恵まれたカール・フィリップ・エマヌエルは、交響曲や協奏曲、室内楽にチェンバロ曲、カンタータにマニフィカトなど多くのジャンルの作品を書き上げています。また、王室楽団員となった翌年の1747年には父バッハをフリードリヒ大王に引き合わせ、『音楽の捧げ物』作曲のきっかけを作ってもいました。
 しかしそのベルリンも七年戦争の影響で荒廃し、宮廷での音楽活動も以前のように活発なものではなくなってきたところに、恩師で名付け親のテレマンの死去によりハンブルク市の音楽監督が空席になったため、カール・フィリップ・エマヌエルは、その後任として当時のプロイセン最大の都市だった人口15万人ほどのベルリンから、半分ほどの人口のハンブルクへ移り住むことになります(ちなみに当時のロンドンは60万人、パリは70万人、江戸は100万人でした)。
 しかし自由都市のハンブルクでは、音楽家の活動も多岐に渡り、カール・フィリップ・エマヌエルは、教会のカントールや、コレギウム・ムジクムの指揮者、チェンバロ奏者として活躍する一方、楽譜の出版も積極的におこない、交響曲に協奏曲、室内楽曲、チェンバロ曲、オラトリオなどを作曲・出版し、ヨーロッパ中にその名を知られることとなります。結局、亡くなるまでの20年間をこの地で過ごしたカール・フィリップ・エマヌエルは、ハンブルクへの大きな功績から「ハンブルクのバッハ」とも呼ばれていました。
 その名声は父バッハを凌ぐもので、ハイドン、モーツァルトは自分の作品に、カール・フィリップ・エマヌエルの音楽を取り入れ、さらにベートーヴェンやクレメンティも賛辞を惜しみませんでした。没後の影響としては、メンデルスゾーンが大作『エリヤ』に多くの素材を使用していたほか、ブラームスがその音楽を高く評価していたのが目立ちます。
 カール・フィリップ・エマヌエルの音楽は、父バッハに続いて、名付け親テレマンの影響を強く受けるようになり、師の作曲様式を受け継いでギャラント様式(ロココ様式)や多感様式を追究、疾風怒濤様式や古典派音楽の基礎を築くことになります。(HMV)

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