CD 輸入盤

小澤征爾へのオマージュ〜マーラー:交響曲第8番『千人の交響曲』(1979年ステレオ)、ブザンソン国際指揮者コンクール本選ライヴ(1959年)(2CD)

マーラー(1860-1911)

基本情報

ジャンル
:
カタログNo
:
CDSMBA184
組み枚数
:
2
レーベル
:
:
International
フォーマット
:
CD
その他
:
輸入盤

商品説明


〜追悼、小澤征爾〜
INA&ラジオ・フランス提供音源
1959年ブザンソン国際指揮者コンクール本選の実況録音と
1979年フランス国立管を振った『千人の交響曲』!


国立視聴覚研究所(INA)およびラジオ・フランスからの提供音源をもとに丁寧な復刻で定評を集めるスペクトラム・サウンドのシリーズ「ベルアーム」から、マエストロ小澤征爾の貴重なドキュメントを初CD化。
 1959年2月、スクーターとギターとともに貨物船で渡仏した小澤。同年パリ滞在中に出場した第9回ブザンソン国際指揮者コンクールで見事第1位を受賞しました。そのときの実況録音が商品化。本選の演目であるドビュッシーの『牧神の午後への前奏曲』、ヨハン・シュトラウスの『春の声』、そしてウジェーヌ・ビゴーが同コンクールために書いた新作をすべて収録しております。また、ラジオ放送のアナウンスおよび演奏後の受賞セレモニー(小澤征爾のみ)も収録。
 カップリングは1979年、パリのサン=ドニ大聖堂で演奏したマーラーの『千人の交響曲』を収録。小澤の同曲録音といえば1980年10月にボストン交響楽団と収録した名盤が知られますが、このたび前年のライヴがCD化されます。オーケストラはフランス国立管弦楽団とフランス放送新管弦楽団ですが、ローナ・マイヤースとケネス・リーゲルは同キャストです。ここではバーバラ・ヘンドリックスら名歌手が独唱をとつめており、豪華な顔ぶれによる名演を聴くことができます。ライヴならではの高揚感とともに聴く圧巻の演奏です。(輸入元情報)

【収録情報】
『小澤征爾へのオマージュ』

『第9回ブザンソン国際指揮者コンクール本選より』
1. アナウンス
2. ドビュッシー:牧神の午後への前奏曲
3. ヨハン・シュトラウス2世:春の声 Op.235
4. ウジェーヌ・ビゴー:ブザンソンのための未発表管弦楽作品
(新作の課題曲)
5. 受賞セレモニー(プレゼンター:ビゴー)

 ブザンソン管弦楽団
 小澤征爾
(指揮)

 録音時期:1959年9月10日
 録音場所:ブザンソン、グラン・テアトル
 録音方式:モノラル(ライヴ)
 Recorded by R.T.F

● マーラー:交響曲第8番変ホ長調『千人の交響曲』

 バーバラ・ヘンドリックス
(ソプラノ)
 テレサ・ツィリス=ガラ(ソプラノ)
 バーバラ・フォーゲル(ソプラノ)
 ナディーヌ・ドゥニーズ(メゾ・ソプラノ)
 ローナ・マイヤース(メゾ・ソプラノ)
 ケネス・リーゲル(テノール)
 ジークムント・ニムスゲルン(バリトン)
 ペーター・メーフェン(バス)
 フランス放送合唱団(音楽監督:ジャック ジュウィノー)
 ロンドン・フィルハーモニー合唱団(音楽監督:ノルベルト・バラチュ)
 パリ児童合唱団(音楽監督:ロジャー・デ・マニェ)

 フランス国立管弦楽団
 フランス放送新管弦楽団
 小澤征爾
(指揮)

 録音時期:1979年6月11日
 録音場所:パリ、サン=ドニ大聖堂
 録音方式:ステレオ(ライヴ)
 Recorded by France Musique of the Radio France

 Licensed by INA & Radio France
 Previously unissued recordings



 小澤征爾 関連情報


父親譲りの度胸と人を惹きつける話術の巧みさに加え、運動神経の良さ、勘の良さを備えた小澤征爾少年は、齋藤秀雄のスパルタ指導と、ストイックな努力によって高度な実力を獲得。戦後14年という困難な時期に単独渡欧して大きな成功を収めています。以下、簡単に流れをまとめておきます。
満州
期間:1920〜1936(小澤開作 約16年間、小澤征爾 約1年間)


1920 小澤開作[1898-1970]、租借地である関東州(満洲)の大連に神戸から日満連絡船で渡航。シベリア鉄道経由でドイツに行き歯科医の勉強を続けるためでしたが、重い中耳炎で入院して旅費が無くなり、大連の日下歯科医院に就職。満鉄勤務の大津隆が英語を指導。

1923 小澤開作、長春(のちの新京)で小澤歯科医院を開業。

1927 小澤開作と若松さくら[1907-2002]、遠距離見合を経て奉天で結婚。さくらは大連で英語を習った満鉄の大津隆の姪。


1928 小澤開作、満鉄(南満洲鉄道)の山口重次[1892-1979]らが「満洲青年連盟」を結成。民族協和を目指して活動。
1931 奉天郊外の柳条湖事件により満洲事変勃発。小澤開作は、嘱託を経て関東軍政治参謀となり、交通委員会の警務担当委員に就任。小澤家は奉天に転居。

1932 満洲国建国。7月、奉天忠霊塔前で「満洲国協和会」結成。メンバーは満洲青年連盟の山口重次、小澤開作、于静遠(奉天自治指導部顧問兼自治訓練処処長)、阮振鐸(長春・吉林・吉敦鉄路医院院長)らで、関東軍参謀の石原莞爾と板垣征四郎が設立準備金2万円を拠出。その後、活動資金として年120万円を日本政府が用意。関東軍と満鉄を中心に日本からの資本により設立された満洲中央銀行発足直後の結成(当時の1円の価値は現在の3千倍から4千倍ほど)。下の画像は奉天忠霊塔に隣接した千代田公園。


1934 奉天‐北平(約700km)の直通列車運行再開。満洲事変以来3年間、中華民国側が満州国の承認に繋がりかねないとして拒否していたものの利用者便益に配慮して東方旅行社を新たに設置することで対応。下の画像は満鉄の奉天駅。


1934 小澤家、奉天駅前の八幡町に移り、その後、同じく駅前の平安通りに土地を購入して家を新築。近くには満洲医科大学や千代田公園がありました。下の画像は平安広場から見た青葉町、春日町方面の様子。


1935 奉天の満洲医科大学付属病院で小澤征爾誕生。征爾という名は、父と親しかった関東軍参謀の2人、板垣征四郎[1885-1948]の「征」と、石原莞爾[1889-1949]の「爾」に由来。満洲国には国籍法が無かったので日本国籍。


北平
期間:1936〜1941(約5年間)


1936 満洲国奉天から、中華民国の北平市新開路に転居。住居は四号院と呼ばれる中庭付きの伝統建築。16部屋もあるため集会も可能で「小澤公館」とも。北平市は、現在の北京市城六区に相当する部分の1928年から1949年にかけての呼称。

1937 12月14日に中華民国臨時政府が成立。その10日後、中華民国臨時政府が出資して父たちが創立委員となり、「新民会(中華民国新民会)」が創設。父は総務部長に就任し、歯科医院は閉鎖。筆名は小澤開策。

1938 父が日系職員の養成機関「新民塾」を開設し塾長に就任。山中湖畔に別荘を建て、ゴルフ場の会員権も取得。「新民会」予算は252万円で、翌1939年には600万円と巨額化。

1940 「新民会」が、日本軍の「宣撫班」と統合されることになり、父は数名の委員とともに辞任。日本語言論誌「華北評論」を編集し創刊号を発行。

1940 クリスマスに母が大通りの王府井でアコーディオンを購入。長兄の克己がすぐに上達し、家族の讃美歌合唱を伴奏。

1941 母、克己[1928-1984]、俊夫[1930- ]、征爾[1935-2024]、幹雄[1937- ]の5名が満洲の大連から日満連絡船で日本に渡航。


立川
期間:1941〜1947(約6年間)


1941 日満連絡船で神戸に到着後、列車で東京に移動(直通で約9時間)。住居は東京府の立川市柴崎町3丁目。小澤征爾は若草幼稚園に入園。

1942 立川市柴崎国民学校に入学。

1946 野球部でピッチャーを務め、東京都大会にも出場していた小澤征爾は、5年生のときに青木キヨ教諭により講堂のピアノを体験。これに刺激され、長兄の克己が在学中の学校で音楽室のピアノを用いて小澤征爾にバイエルのレッスンを開始。さらに横浜の親戚からピアノを購入し、兄たちがリヤカーで立川まで運んで小澤家にピアノが登場。学芸会では「エリーゼのために」を演奏。


金田小学校
期間:1947〜1948 (約1年間)


1947 金田小学校に4月に転入(6年生)。父が友人と白百合ミシン会社を小田原に設立したため、小田原に近く、農業で自活もできる神奈川県足柄上郡金田村金手(現・神奈川県足柄上郡大井町金手)に転居。最寄り駅は新松田駅で、徒歩15分ほど。在学中、兄2人が参加していた小田原の混声合唱団「シグナム」の指揮者、石黒先生の夫人からピアノの指導を受けています。


成城学園中学校
期間:1948〜1951 (約3年間)


1948 成城学園中学校 入学。新松田駅からの距離は約60kmですが、急行が1944年から中止されていたため、徒歩など込みの通学時間は片道2時間強(当時の運行表によれば乗車時間は約1時間40分)。急行は翌1949年10月、2年生の秋に再開されたため、成城学園前には当時は急行は停まらないものの乗車時間は約1時間10分になり、通学時間は約30分短縮。


1950 ラグビーの対抗試合で両手の人差し指を骨折、顔面も蹴られて全治6か月の重傷。

1950 同学年の男子と中学1年の女子生徒たちで賛美歌を歌う合唱グループを作って指揮も担当。兄の俊夫、弟の幹雄も参加。現在もアマチュア合唱団「城の?(しろのね)」の名で活動。成城のアマチュア合唱団「コーロ・カステロ」(1946年創設)に参加。


豊増昇
期間:1948-1950 (約2年間)


1948 成城学園中学校に入学すると、ピアニストの豊増昇[1912-1975]から自宅(世田谷区奥沢)で指導を受けられることになります。これは豊増昇の兄が「中華民国新民会」で小澤開作と一緒だった縁で実現したもので、弟子には舘野泉[1936- ]もいました。舘野泉は小学校5年から高校2年まで指導を受けていたので、小澤征爾とは2年間一緒だったことになります。小澤征爾はバッハばかり弾かされていたとか。

1950 ラグビーで負傷し、ピアニストになることが難しくなった小澤征爾に対し、指揮者になる道もあるとアドバイス。


齋藤秀雄
期間:1950-1952 に師事(約2年間)


1950 ラグビーで負傷し、指揮者になると決めた小澤征爾は、齋藤秀雄[1902-1974]の自宅(千代田区麹町)を1人で訪れ、弟子入りを交渉。齋藤秀雄は、東京都北多摩郡神代村(現・調布市)の桐朋女子高等学校に共学で創設を予定している音楽科に入るよう勧め、それまでは市ヶ谷の東京家政学院内にある「子供のための音楽教室」でソルフェージュなどの基礎を勉強しておくようにアドバイス。

1951 月に2度ほど指導を受けるようになり、また、齋藤秀雄の指示により、山本直純[1932-2002]が小澤征爾の家を週1回訪問し、1年間に渡って指揮を指導しています。


成城学園高等学校
期間:1951-1952(約1年間)


1951 成城学園高等学校に入学しますが、これは桐朋女子高等学校への音楽科併設がまだだったからで、翌年には退学する予定でした。指揮者になると決めた小澤征爾にとっては、齋藤秀雄、山本直純からの指導と、「子供のための音楽教室」での柴田南雄からの作曲、小林福子からの聴音の指導が重要でした。


桐朋女子高等学校音楽科
期間:1952-1955 (約3年間)


1952 新設され4月に開校した男女共学校。初年度入学者は女子42名、男子4名。場所は東京都北多摩郡神代村(じんだいむら。現・調布市)。最寄り駅は京王帝都電鉄の仙川駅。入学当時は小澤家は経堂に住んでおり、直線距離では5km弱でしたが、ほどなく笹塚に転居したため電車通学となっています。また、成城学園までは直線距離で約2kmなので、放課後に合唱の練習に行く際には歩いて通っていました。


桐朋学園短期大学
1955-1957 (約2年間)


1955 新設され4月に入学。翌月にシンフォニー・オブ・ジ・エアの面々が桐朋に見学に来たり小澤征爾がリハーサルを見に行ったりというイベントがあり、海外志向が強まります。同年、父が歯科医院を開業したため、川崎からの通学となり、約10分だった乗車時間が約1時間に拡大。1957年には桐朋学で指揮と作曲で一等賞を獲得し、雑誌音楽の友でも傑出した才能と紹介。しかし3月に卒業式に出席した際には、自分1人だけ単位不足で留年していたことが判明。そのことについて何の連絡も受けていなかったため絶望し、やがて卒業は諦めることにします。


渡航


1959 大学を辞めたあとは、齋藤秀雄の弟子のようなことや、アマチュア合唱団の指揮をしてなんとか生活。しかし1957年12月に日本フィルの「子供と魔法」公演で渡邉暁雄のアシスタントをしたことや、1958年の桐朋学園オーケストラのブリュッセル万博行きが資金不足で頓挫したことも影響しているのか、なんとしてもヨーロッパに行きたくなった小澤征爾は、1958年にフランス政府給費留学生試験を受験するものの不合格。それでも諦めきれなかったため、人脈を頼って渡航資金を調達し、先のことはあまり考えずにとにかく渡欧することにします。滞在資金の大半と渡航手段は、のちに結婚する江戸京子の父が手配。


現地での移動手段としてスクーターも無償で確保。これは父の亡き知人で富士重工の重役だった松尾清秀の未亡人を頼って実現。企業側からは、「日本国籍を明示」、「音楽家であることを示す」、「事故をおこさない」という3つの条件を提示されたため、日章旗を携行し、音楽家であることをわかりやすく示すために兄が買ってきたギターを背負い、安全運転のために白いヘルメットをかぶることで対応。


2月1日に神戸から淡路山丸でマルセイユに向けて出発。船室は船長室のとなりの部屋があてがわれ、食事も充実。約50名の船員とはすぐに仲良くなり、器用な船員がギターケースをつくってくれたり、スクーターに日の丸を描いてくれたり、皆で合唱したりと楽しい船旅でした。途中、ボンベイでは船長の奢りでヴェーグ四重奏団のコンサートを聴いたりもしています。3月23日にはマルセイユ到着。スクーターを走らせ安宿に泊まりながらパリに向かい4月8日、パリに到着。最初の住居はパリ14区、「国際大学都市」のフランコ・ブリタニク館(通称イギリス館)。


ブザンソン国際指揮者コンクール


1959 9月7日の第1次予選には各国から48名が参加。小澤征爾はメンデルスゾーンのルイ・ブラス序曲で大胆にリハーサルして聴衆と楽員の両方から歓声を得て無事通過。
 9月9日の第2次予選の参加者は17人まで絞り込まれ、サン=サーンス:序奏とロンド・カプリチョーゾで伴奏能力のテストと、フォーレのドリー組曲の第4曲で12か所仕込まれたパート譜の間違った音を5分で見つけ出して完全な状態にするというテスト。鋭敏な耳の持ち主である小澤征爾はこれも難なく合格。
 9月10日の本選には6人が出場し、「牧神の午後への前奏曲」と「春の声」、そしてウジェーヌ・ビゴーの新作を初見で演奏するという課題。初見に強く指揮テクニックも高度な小澤征爾は巧みに指揮をし、メインのビゴーの作品では作曲者も感激するほどの出来映えを示して見事に優勝。オケも聴衆も大騒ぎです。

バークシャー音楽センター


1960 期間中におこなわれた指揮講習の実技で、成績優秀と判断された参加者に渡されるクーセヴィツキー賞の奨学金500ドルを獲得。他の参加者と共通の180ドルの奨学金を合わせると680ドル(約120万円相当)になるため、小澤征爾は99ドルで中古車を購入しています。なお、この指揮講習について、よくコンクールと言われていますが、コンクールは開かれていないので間違いです。


ヘルベルト・フォン・カラヤン国際指揮者実習


1960 10月、ベルリンの市立音楽院(旧・シュテルン音楽院、現・ベルリン芸術大学)で開催される「ヘルベルト・フォン・カラヤン国際指揮者実習」の実習生を選ぶための選考会に参加。50人ほどの中から、小澤征爾、ウルリヒ・エックハルト[1934- ]など4人が選ばれてカラヤンの指導を受けています。ちなみにこの「ヘルベルト・フォン・カラヤン国際指揮者実習」について、よく「カラヤン・コンクール」第1位と紹介されていますが間違いです(カラヤン財団主催の指揮者コンクールは1969年開始)。



 小澤征爾と数多く共演した団体(最初に指揮した年の順)

ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
名誉団員:2016〜2024(約8年間)


1961 最初は2月20日におこなわれた日独修好100周年記念演奏会で、石井眞木:小オーケストラのための七章(1960、世界初演)、入野義朗:小オーケストラのためのシンフォニエッタ(1953)、モーツァルト:交響曲第28番(1773)を演奏。フルサイズの公式演奏会を初めて指揮したのは1966年。最後は2016年。その際、「名誉団員」の称号を拝受。通算175回指揮。
ニューヨーク・フィルハーモニック
副指揮者:1961〜1962(約1年間)


1961 4月13日にバーンスタインの演奏会に特別出演して黛敏郎の饗宴(バッカナール)を指揮。単独では1963年4月のスタジアム・コンサートが最初で、幻想交響曲、キャンディード序曲と、アンドレ・ワッツとのサン=サーンス:ピアノ協奏曲第2番を指揮。最後は1971年。通算124回指揮。

サンフランシスコ交響楽団
音楽監督:1970〜1976(約6年間)、音楽顧問:1976〜1977(約1年間)


1962 1月10日の演奏会が最初で単独出演では北米初でした。その後の客演を通じて1970年12月には音楽監督に就任。ヨーロッパ・ツアーやソ連ツアーも成功させ、1973年には合唱団まで創設。しかし当時のアメリカの東高西低といわれる状況から楽員の入れ替えをおこなおうとした小澤征爾に対し、サンフランシスコ響では楽員委員会が強大な権限を持っていたことからトラブルも起きるようになり、当初、約4,300km離れたボストン響と並行して活動するはずだった計画を変更。1976年には音楽顧問として年間滞在期間を9週間に減らし、翌年には退任。最後の客演は2001年。
シカゴ交響楽団(ラヴィニア音楽祭)
音楽監督:1964〜1968(約4年間)、首席指揮者:1969(約1年間)


1963 7月、急病のプレートルの代わりにシカゴ響の夏の音楽祭「ラヴィニア音楽祭」で2公演指揮して成功を収め、2か月後には翌1964年の同音楽祭音楽監督に任命。1970年以降は、ラヴィニア音楽祭中心に、オーケストラ・ホールも含めてシカゴ交響楽団に複数回客演。最後は1985年。通算約80回指揮。

トロント交響楽団
音楽監督:1965〜1969(約4年間)


1964 客演で成功して翌年に音楽監督に就任。小澤征爾の就任に伴い定期会員数も大幅に増加。翌年にはトロント市議会が助成金を37,500ドルから43,500ドルに引き上げ、CBC(カナダ放送協会)も放送料金を5,500ドル値上げするなど小澤征爾の経済効果は明白でした。退任時に名誉音楽監督に任命。最後は1996年。通算約230回指揮。
ボストン交響楽団
音楽顧問:1972〜1973(約1年間)、音楽監督:1973〜2002(約29年間)


1964 最初はタングルウッドで、シンフォニー・ホールでの最初の指揮は1968年。客演を繰り返して実績を積み、スタインバーグの後任として1972年にまず音楽顧問となり(サンフランシスコ響音楽監督、新日本フィル首席指揮者と兼務)、翌1973年に音楽監督に就任。以後、29年間に渡って在任。最後は2004年。通算約2,000回指揮。

ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団


1966 最初はザルツブルク音楽祭。シューベルトの交響曲第5番とブラームスの交響曲第2番に、シューマンのピアノ協奏曲(ブレンデル)。最後は2016年。通算約160回指揮。

新日本フィルハーモニー交響楽団
首席指揮者:1972〜1991(約19年間)、名誉芸術監督:1991〜1999(約8年間)、桂冠名誉指揮者:1999〜2024(約25年間)


1972 最初は9月15日の結成演奏会。ローマの謝肉祭、マ・メール・ロワ、英雄。最後は2016年。通算624回指揮。

サイトウ・キネン・オーケストラ
総監督:1992〜2024(約32年間)


1987 最後は2021年。通算218回指揮。母体となった「桐朋学園齋藤秀雄メモリアル・オーケストラ」は1984年に小澤征爾と秋山和慶を中心に結成。

ウィーン国立歌劇場
音楽監督:2002〜2010(約8年間)


1988 得意のエフゲニー・オネーギンでデビューして成功。
 小澤征爾は1967年と1968年にザルツブルク音楽祭でカラヤン&ウィーン・フィルの「ドン・ジョヴァンニ」でアシスタントを務めて本格的にオペラを学び、また、その際にフレーニからチャイコフスキーのオペラを勧められてもいます。
 翌1969年7月にザルツブルク音楽祭でウィーン・フィルと「コジ・ファン・トゥッテ」を上演する機会が得られたため、5月に日本フィルと演奏会形式で同曲を演奏し、さらにそのためにシカゴ響のラヴィニア音楽祭音楽監督を辞退し首席指揮者として指揮回数を減らすなどして時間をつくって取り組んで成功。
 1974年には「エフゲニー・オネーギン」でロイヤル・オペラにデビューし、1979年には「子供と魔法」でパリ・オペラ座にもデビュー(「子供と魔法」は1957年の日本フィル公演で渡邉暁雄のアシスタントを務めた思い出の作品)。
 1980年にはボストン響と半舞台形式で「トスカ」を上演し、続いて「トスカ」でスカラ座デビューするものの、初日はパヴァロッティの不調もありブーイング。その後は彼の調子が戻って事なきを得ています。
 以後はオペラの指揮機会が増え、2002年にはウィーン国立歌劇場総監督のイオアン・ホレンダーによって音楽監督に任命。2010年に健康問題により辞任。最後は2009年。通算175回指揮。

水戸室内管弦楽団
音楽顧問:1990〜2013(約23年間)、音楽総監督:2013〜2024(約11年間)


1990 水戸芸術館の専属オーケストラ。最後は2017年。通算88回指揮。



 小澤征爾年表

参照資料:、他
1935 1936 1937 1938 1939 1940 1941 1942 1943 1944 1945 1946 1947 1948 1949 1950 1951 1952 1953 1954 1955 1956 1957 1958 1959 1960 1961 1962 1963 1964 1965 1966 1967 1968 1969 1970 1971 1972 1973 1974 1975 1976 1977 1978 1979 1980 1981 1982 1983 1984 1985 1986 1987 1988 1989 1990 1991 1992 1993 1994 1995 1996 1997 1998 1999 2000 2001 2002 2003 2004 2005 2006 2007 2008 2009 2010 2011 2012 2013 2014 2015 2016 2017 2018 2019 2020 2021 2022 2023 2024
 1935年/昭和10年 (0歳)

◆ 9月1日、小澤征爾、満洲国[1932-1945]南部、奉天市(現・中華人民共和国瀋陽市)の医大病院で誕生。征爾という名は、父の知人、板垣征四郎[1885-1948]の「征」、石原莞爾[1889-1949]の「爾」に由来。
 兄弟:長兄の克己[1928-1984]、次兄の俊夫[1930- ]、弟の幹雄[1937- ]。
 父:小澤開作[1898-1970]。山梨出身。歯科医の資格を取得したのち、21歳で日露戦争勝利によりロシア帝国から引き継いだ関東州(満州)の大連に渡り、現地歯科医院で働いたのち、24歳で長春に小澤歯科医院を開業。28歳で19歳の若松さくらと遠距離見合結婚。満州では歯科医業よりも「民族協和」を目指した政治思想運動に熱中して本まで出版。帰国後は実業家として失敗したのち、歯科医として働き、心筋梗塞により川崎で死去。
 母:小澤さくら[旧姓:若松。1907-2002]。仙台出身。母親が齋藤とら(指揮者齋藤秀雄の母)と従姉妹だった縁で、齋藤秀三郎(齋藤秀雄の父)が神田で創設した正則英語学校に入学し、YMCAではタイプライターを勉強。齋藤とらが熱心なキリスト教徒であったことから、さくらも教会に連れて行かれ、そこで賛美歌に夢中になり、やがて、家族で讃美歌を合唱することになります。
◆ 満洲国奉天市平安通り 居住。

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 1936年/昭和11年 (0〜1歳)

◆ 満洲国奉天市平安通り 居住。
◆ 10月、中華民国[1912-1949](現・中華人民共和国)北東部の北平市新開路に転居。住居は四号院と呼ばれる中庭付きの伝統建築。16部屋もある屋敷で集会も可能なため「小澤公館」と呼ばれていました。北平市は、現在の北京市城六区に相当する部分の1928年から1949年にかけての呼称。

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 1937年/昭和12年 (1〜2歳)

◆ 北平市新開路 居住。
◆ 7月、盧溝橋事件発生。北支事変(現呼称・日中戦争)勃発。
◆ 12月14日、中華民国臨時政府成立。
◆ 12月24日、北平で「新民会(中華民国新民会)」が設立。同日、「宣言」と「綱領」を発表し、「まず反共戦線の戦士として新政権と一体化する」こと、次に人民の育成を宣言した。力を高め、友好的な隣人の共同繁栄を達成し、最終的な目標は人類の幸福と世界平和に貢献することです[ 5 ] :254

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 1938年/昭和13年 (2〜3歳)

◆ 北平市新開路 居住。
◆ 4月、国家総動員法制定。

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 1939年/昭和14年 (3〜4歳)

◆ 北平市新開路 居住。
◆ 5月、ノモンハン事件発生。

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 1940年/昭和15年 (4〜5歳)

◆ 北平市新開路 居住。
◆ 3月1日、父開作、「新民会」は「宣撫班」と統合し、日本軍の管理下におくという指示により、辞任を決意。
◆ 9月10日、父開作、数名の委員とともに辞任。
◆ 父開作、日本語言論雑誌「華北評論」を編集し創刊号を発行。
◆ クリスマス、母が大通りの王府井でアコーディオンを購入。すぐに長兄の克己が上達し、家族の讃美歌合唱を伴奏するようになります。

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 1941年/昭和16年 (5〜6歳)

◆ 1〜3月、北平市新開路 居住。
◆ 4月、母、兄らと大連から日満連絡船で日本に渡航。
◆ 5月、母、兄らと帰国。船で神戸に着いたのち、列車で移動。住居は東京府の立川市柴崎町3丁目。


◆ 若草幼稚園 入園。
◆ 12月8日、

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 1942年/昭和17年 (6〜7歳)

◆ 立川市柴崎町 居住。
◆ 若草幼稚園 卒園。
◆ 4月、東京府立川市 立川國民學校 入学。

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 1943年/昭和18年 (7〜8歳)

◆ 立川市柴崎町 居住。
◆ 立川國民學校 在学。
◆ 7月1日、東京都制導入。東京府から東京都に。
◆ 父、日本に向け出発。11月に新設される軍需省の航空兵器総局長官、遠藤三郎(陸軍中将)の招きで軍需省顧問等として活動。遠藤三郎は1939年のノモンハン事件を受け、北進をやめて満洲防衛に徹するよう主張して更迭され、1941年には絨毯爆撃が国際法に触れる恐れがあるとして重慶爆撃無用論を提唱して中止させた人物で、1961年には日中友好元軍人の会を結成し代表を務めていました。

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 1944年/昭和19年 (8〜9歳)

◆ 立川市柴崎町 居住。
◆ 立川國民學校 在学。
◆ 4月、立川國民學校が立川市柴崎国民学校に改称。

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 1945年/昭和20年 (9〜10歳)

◆ 立川市柴崎町 居住。
◆ 立川市柴崎国民学校 在学。
◆ 小澤克己(長兄)によるアコーディオンのレッスンが開始。
◆ 2〜8月、立川空襲。アメリカ軍B29による大規模空爆と戦闘機のロケット弾や機銃掃射による民間人攻撃多数。小澤家は家屋は無事だったものの、9歳の小澤征爾めがけてグラマンF6F戦闘機が機銃掃射するなど危機にも遭遇。F6Fは12.7mm重機関銃を6門搭載しており、もし命中すればバラバラでした。


◆ 8月15日、日本、連合国に対して降伏。
◆ 9月2日、日本の連合国への降伏文書が東京湾の戦艦ミズーリ上で調印され即時発効。8年に及んだ日本の戦争が正式に終結。署名者は日本のほか、アメリカ、中華民国、イギリス、ソ連、オーストラリア、カナダ、フランス、オランダ、ニュージーランドの代表。

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 1946年/昭和21年 (10〜11歳)

◆ 立川市柴崎町 居住。
◆ 立川市柴崎国民学校 在学。
◆ 2月17日、新円切替、預金封鎖、臨時財産調査令、食料緊急措置令、隠匿物資等緊急措置令等、公布施行。
◆ 3月1日、山手線初乗り運賃20銭に変更。
◆ 立川市柴崎国民学校の担任、青木キヨ教諭により講堂のピアノを体験。
◆ 小澤克己(長兄)が在学中の東京都立第二中学校(現・東京都立立川高校)のピアノを用いて小澤征爾にバイエルのレッスン。
◆ 叔父小澤静の妻、英子夫人の横浜市白楽にある実家にあるアップライトピアノ(約150kg)を3,000円で譲り受け、長兄克己と次兄俊夫がリヤカーを学校から借り、横浜から約45kmの道のりを3日がかりで立川まで運搬。途中から父も参加。資金は父が愛用のライカを売って捻出。
◆ 秋、柴崎国民学校の学芸会で「エリーゼのために」を演奏。
◆ 小澤俊夫(次兄)の同級生で、レコードマニアの鈴木次郎宅で頻繁に音楽鑑賞。
◆ 四ツ谷の聖イグナチオ教会でパイプオルガンを聴いて感動。

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 1947年/昭和22年 (11〜12歳)

◆ 立川市柴崎町 居住。
◆ 立川市柴崎国民学校 在学。
◆ 齋藤秀雄が「指揮教室」を開始。場所は東京都北多摩郡久留米町(現・東久留米市)の自由学園内。
◆ 3月1日、山手線初乗り運賃が2.5倍の50銭に変更。前回改訂から1年で値上げ。インフレ期。
◆ 父が友人と白百合ミシン会社を小田原に設立。父は戦後、郷里山梨の味噌の販売や、さつまいもから蜜を作る事業で失敗していました。
◆ 4月、父の会社のある小田原に近く、農業で自活もできる神奈川県足柄上郡金田村金手(現・神奈川県足柄上郡大井町金手)へ転居。最寄り駅は東急小田原線の新松田駅。徒歩15分ほど。
◆ 4月、金田村立金田小学校 転入。
◆ 7月7日、山手線初乗り運賃が2倍の1円に変更。前回値上げから4か月で値上げ。インフレ期。
◆ 2人の兄が参加していた小田原の混声合唱団「シグナム」の指揮者、石黒先生の夫人にピアノを師事。

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 1948年/昭和23年 (12〜13歳)

◆ 金田村 居住。
◆ 齋藤秀雄が「子供のための音楽教室」を開始。場所は東京都新宿区市ヶ谷の東京家政学院高等学校内。
◆ 3月、金田村立金田小学校 卒業。
◆ 4月、成城学園中学校 入学。同校の母体は、牛込区(現・新宿区)の成城中学校(旧制)から分離独立した成城小学校と成城第二中学校で、1925年4月に移転して開校。場所は、2年後の1927年に小田原急行鉄道が運行される予定の北多摩郡砧村(現・世田谷区)喜多見の農村地帯。校長の小原國芳が小田原急行鉄道に働きかけて「成城学園前駅」を開設することが決まったため、行政側も、砧村の大字喜多見、字西之原・東之原の全域と、中之原と八ケ(はっか)の各一部を分割し、大字喜多見成城を新たに設置。地名として「成城」が登場したことで、校長らによる駅前宅地開発もおこないやすくなり、得られた利益で学園も拡大。なお、「成城」の名は、中国の詩篇に由来し、国を成すという意味で、城郭とは無関係です。ちなみに新松田からの距離は60.2kmですが、急行が1944年から中止されていたため、徒歩込みの通学時間は片道約2時間(急行は翌1949年10月に再開)。
◆ 4月、豊増昇[1912-1975]にピアノを師事。豊増昇の兄、秀俊[1902-1987]が、小澤開作が所属していた「新民会」(中華民国臨時政府のもとで結成した組織)で企画部次長を務めていた縁を頼って開作が直接交渉し、世田谷区奥沢の自宅で指導を受けられることに。弟子には舘野泉[1936- ]もおり、小学校5年から高校2年まで指導を受けていたので、小澤征爾とは2年間一緒だったことになります。小澤征爾はバッハばかり弾かされていたとか。


◆ ラグビー部に入部して毎日練習。母にはピアノを習っているのだから指は大切にしないといけないとしてラグビーは禁じられますが、小澤征爾は、成城の銭湯で汚れを洗い流し、ジャージは友人に預けるという方法でラグビーを継続。
◆ 6月、小田急電鉄の名称が復活。1927年に小田原急行鉄道として開業し、1941年に小田急電鉄と改称していた同社は、戦時統制により、東京横浜電鉄(現・東急電鉄)、京浜電気鉄道(現・京急電鉄)、京王電気軌道(現・京王電鉄)等と合併して「大東急」となっていましたが、6年ぶりに元に戻っています(小田急系列だった井の頭線は京王に移管)。これにより小澤家の最寄り駅名称も小田急小田原線の新松田駅となります。
◆ 7月18日、山手線初乗り運賃が3円(前年の3倍)に変更。インフレ期。

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 1949年/昭和24年 (13〜14歳)

◆ 金田村 居住。
◆ 成城学園中学校 在学(1〜2年)。
◆ 豊増昇宅での指導継続。


◆ 成城学園の英会話教師で、日本人と結婚したイギリス人女性、酒井公(コウ)宅に一時下宿。夜になると成城学園の音楽室まで行って練習。
◆ 成城の教会の平出牧師宅の2階に一時下宿。オルガンでバッハを演奏。
◆ この頃、母が「九重織」という方法でネクタイをつくり、銀座の洋品店「モトキ」に卸して家計を支えます。


◆ 5月1日、山手線初乗り運賃が5円(前年の約1.67倍)に変更。インフレ期。
◆ 10月、小田急電鉄で急行の運行が再開。1944年11月に戦況の悪化により中止されていた急行が5年ぶりに復活し、60.2km乗車する小澤征爾の通学時間も大幅に短縮。ただし、成城学園前駅には急行は停まらないので、4.2km手前の稲田多摩川駅(現・登戸駅)で各駅停車か準急に乗り換える必要がありましたが、それでも乗車区間の約93%が急行となったのでかなりの時間短縮です。ちなみに成城学園前駅が急行停車駅となるのは22年後の1971年のことでした。

● 新松田駅
 ↓  6.2km
● 渋沢駅
 ↓  3.9km
● 大秦野駅(現・秦野駅)
 ↓  5.8km
● 鶴巻駅(現・鶴巻温泉駅)
 ↓  3.7km
● 伊勢原駅
 ↓  6.8km
● 本厚木駅
 ↓ 14.6km
● 新原町田駅(現・町田駅)
 ↓ 15.6km
● 稲田多摩川駅(現・登戸駅)
 ↓  0.8km
▲ 和泉多摩川駅
 ↓  0.6km
▲ 狛江駅
 ↓  1.1km
▲ 喜多見駅
 ↓  1.1km
▲ 成城学園前駅


◆ 10月、日比谷公会堂で初のコンサート鑑賞。レオニード・クロイツァー[1884-1953]&日本交響楽団。ベートーヴェン:交響曲第5番、ピアノ協奏曲第5番(弾き振り)。

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 1950年/昭和25年 (14〜15歳)

◆ 金田村 居住。
◆ 成城学園中学校 在学(2〜3年)。
◆ 中学2年の終わりにラグビーの対抗試合(成城、成蹊、学習院、武蔵)に出場。両手の人差し指を骨折、顔面も蹴られて全治6か月の重傷。
◆ 師匠の豊増昇にピアノが弾けなくなった旨を伝えると、指揮者になる道もあると諭され、帰宅後には母から親戚に指揮者がいると教えられます。


◆ 齋藤秀雄[1902-1974]の自宅(千代田区麹町)を1人で訪れ、弟子入りを交渉。齋藤秀雄は、東京都北多摩郡神代村(現・調布市)の桐朋女子高等学校に共学で創設予定の音楽科に入るよう勧め、それまでは市ヶ谷の東京家政学院内にある「子供のための音楽教室」でソルフェージュなどの基礎を勉強しておくようにアドバイス。


◆ 学校で盲腸になり学校前の木下病院に入院。
◆ 成城のアマチュア合唱団「コーロ・カステロ」(1946年創設)に参加。
◆ 同学年の男子と中学1年の??生徒たちで賛美歌を歌う合唱グループを作って指揮も担当。兄の俊夫、弟の幹雄も参加。現在もアマチュア合唱団「城の?(しろのね)」の名で活動。
◆ 世田谷区代田の貸家に転居。近くにはまだ代田連絡線があり、たまに運用もされている頃でした。代田連絡線は東京大空襲で車輛の大半が被害を受けた井の頭線に、小田原線など他の路線から車輛をまわしたり、井の頭線の車輛を小田原線の経堂工場で修理したりする目的で敷設された特殊用途の路線で、距離も644メートルしかありませんでした。翌1952年には役割を終え、1953年10月にすべて撤去されています。下の画像の左側が井の頭線、右側が代田連絡線です。


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 1951年/昭和26年 (15〜16歳)

◆ 世田谷区代田 居住。
◆ 3月、成城学園中学校 卒業。
◆ 4月、成城学園高等学校 入学。
◆ 齋藤秀雄の麹町の自宅で開かれる「指揮教室」に月に2度ほど参加。
◆ 齋藤秀雄の指示により、山本直純[1932-2002]が小澤征爾の家を週1回訪問し、1年間に渡って指揮を指導。
◆ 代田の貸家の家賃が払えなくなり、父のつてで東京農大の空き教室で生活。
◆ 「子供のための音楽教室」(東京家政学院内)で、柴田南雄[1916-1996]に作曲、小林福子[1920-2012]に聴音を師事。
◆ 前年に結成した合唱団の練習は継続。
◆ 11月1日、山手線初乗り運賃が10円(2年前の2倍)に変更。インフレ期。
◆ 桐朋女子高等学校への音楽科併設、桐朋学園理事会で可決。

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 1952年/昭和27年 (16〜17歳)

◆ 世田谷区経堂 居住。
◆ 成城学園高等学校 中退。
◆ 齋藤秀雄の麹町の自宅で開かれる「指揮教室」に月に2度ほど参加。
◆ 齋藤秀雄の指示により、山本直純が小澤征爾の家を週1回訪問し指導。
◆ 4月、桐朋女子高等学校音楽科に入学。男女共学で女子42名、男子4名。場所は東京都北多摩郡神代村(現・調布市)。
◆ 8月、北軽井沢の小学校で、桐朋学園オーケストラの合宿。
◆ 齋藤秀雄から桐朋学園オーケストラの雑務を任され、楽譜、譜面台の手配、パート譜の印刷校正なども担当。
◆ 放課後、30分歩いて成城に行き合唱団の練習を継続。
◆ 渋谷区笹塚に転居。

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 1953年/昭和28年 (17〜18歳)

◆ 渋谷区笹塚 居住。
◆ 桐朋女子高等学校音楽科 在学。
◆ 桐朋女子高等学校、音楽科木造校舎、教室54坪を増築。
◆ 8月、北軽井沢の小学校で、桐朋学園オーケストラの合宿。
◆ 放課後、30分歩いて成城に行き合唱団の練習を継続。

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 1954年/昭和29年 (18〜19歳)

◆ 渋谷区笹塚 居住。
◆ 桐朋女子高等学校音楽科 在学。
◆ 8月、北軽井沢の小学校で、桐朋学園オーケストラの合宿。シャコンヌ、弦セレ、こうもりなど。
◆ 放課後、30分歩いて成城に行き合唱団の練習を継続。

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 1955年/昭和30年 (19〜20歳)

◆ 渋谷区笹塚 居住。
◆ 3月、卒業公演で桐朋学園オーケストラを指揮してシャコンヌを演奏。齋藤秀雄は自身の編曲を半年かけて小澤征爾に指導。
◆ 3月、桐朋女子高等学校音楽科 卒業。
◆ 4月、桐朋学園短期大学 開学。
◆ 4月、桐朋学園短期大学 入学。
◆ 5月、来日中のシンフォニー・オブ・ジ・エアの楽員と指揮者のウォルター・ヘンドルが小澤征爾指揮桐朋学園オーケストラの練習風景を見学。
◆ 5月、シンフォニー・オブ・ジ・エアのリハーサルでブラームスの1番などで響きの違いに衝撃を受けます。本番は吉田秀和が酷評していたので、日比谷公会堂の残響(満席時約1秒・空席時約2秒)の問題か、そもそもリハーサル会場が別で音響条件が異なっていたか、あるいは当時の日本では倍管による大人数演奏が珍しかった影響かもしれません。
◆ 5月、東京交響楽団。日比谷公会堂。公演名は「桐朋学園短期大学設置記念東響特別演奏会」。小澤征爾、齋藤秀雄が指揮。プロ楽団を初めて指揮。
◆ 8月、北軽井沢の小学校で、桐朋学園オーケストラのメンバーが合宿。
◆ 父が川崎で歯科医を開業し、家を建てたため、川崎市幸区戸手町に転居。

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 1956年/昭和31年 (20〜21歳)

◆ 川崎市幸区 居住。
◆ 桐朋学園短期大学 在学。
◆ 齋藤秀雄のレッスンと雑用のストレスで十二指腸潰瘍に。
◆ 2月、文化放送設立。社長は水野成夫。聖パウロ修道会がカトリック布教を目的に1951年に設立した「日本文化放送協会」が前身。
◆ 6月、文化放送が専属楽団として「日本フィルハーモニー交響楽団」を設立。
◆ 8月、北軽井沢の小学校で、桐朋学園オーケストラの合宿。
◆ 桐朋学園オーケストラ。日本青年館。チャイコフスキー:弦楽セレナーデ。
◆ 12月、成城の合唱団「城の音」のクリスマス・コンサートのあと、手にローソクを持って讃美歌を歌いながら歩いて風邪をこじらせて肺炎に。

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 1957年/昭和32年 (21〜22歳)

◆ 川崎市幸区 居住。
◆ 桐朋学園短期大学 在学。
◆ 1月、年末からの肺炎が長引いて長期欠席。
◆ 桐朋学園で指揮と作曲の両方で一等賞を受賞。
◆ NHKと雑誌「音楽の友」により邦楽の「傑出した才能」として紹介。
◆ 3月、卒業式に出席するものの、単位不足で留年していたことが判明。母は泣きながら帰宅。
◆ 声楽の伊藤武雄の紹介で日本橋の三友会合唱団を指揮。
◆ 群馬交響楽団の北海道演奏旅行で指揮。齋藤秀雄の紹介。
◆ 夏まで桐朋学園短期大学で齋藤秀雄に指揮法を師事。
◆ 8月、北軽井沢の小学校で、桐朋学園オーケストラの合宿。
◆ 12月、日本フィル。ラヴェル:子供と魔法。渡邉暁雄のアシスタント。

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 1958年/昭和33年 (22〜23歳)

◆ 川崎市幸区 居住。
◆ フランス政府給費留学生試験を受験して不合格。合格者は慶応の学生でフルート奏者の加藤怒彦[1937-1963]。渡仏後、パリ音楽院に入学して2年間で卒業後、ミュンヘン国際コンクールで第2位を獲得し、モンテカルロ国立歌劇場管弦楽団の首席フルート奏者に就任した人物(26歳でモンブランで遭難死)。
◆ 8月、北軽井沢の小学校で、桐朋学園オーケストラの合宿。
◆ 渡航資金調達。1956年6月に文化放送社長として専属オーケストラ「日本フィルハーモニー交響楽団」を設立した水野成夫からの援助で文化放送から50万円提供。成城学園時代の同級生、水野ルミ子の父親。
◆ 桐朋学園時代の同期、江戸京子の父で三井不動産社長の江戸英雄の紹介により日興証券会長の遠山元一が資金援助。江戸英雄は桐朋の音楽科設立に尽力した人物で、小澤征爾が父の歯科医開業に伴い川崎に転居して通学が大変になったときには下落合の自宅に何度か泊まらせたこともありました。

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 1959年/昭和34年 (23〜24歳)

◆ 川崎市幸区 居住。
◆ 三井不動産社長の江戸英雄の紹介により、三井船舶の貨物船「淡路山丸」に運賃無料、かつ50日分の食費も無料で乗れることになり渡航が実現可能に。
◆ フランスでの移動を安く済ませるためにスクーターかオートバイを使用することにし、各社に無償貸与を交渉するものの難航。しかし父が戦時中に所属していた「新民会」で1938年から中央指導部調査科長を務めていた故松尾清秀[1907-1958]が富士重工の重役だった縁を頼ることで、未亡人の協力が得られ、富士重工が条件付きで無償貸与に応じています。条件は「日本国籍を明示」、「音楽家であることを示す」、「事故をおこさない」の3つで、小澤征爾は、日章旗を携行し、音楽家であることをわかりやすく示すために兄が買ってきたギターを背負い、安全運転のために白いヘルメットをかぶって対応。


◆ 2月1日、神戸から淡路山丸でマルセイユに向けて出発。スクーターは事前に横浜港で積み込み済み。東京駅の見送りには多くの人が訪れ、渡航に反対していた齋藤秀雄も1,000ドル近い現金を餞別として渡しています。財界からの資金援助は50万円ほどなので(現在価値だと10〜16倍ほど)、師匠の餞別は大金でした(当時のフランス・フランは戦後の数次に渡る通貨切り下げ政策により1フラン=約1.4円まで下落)。
◆ 船室は船長室のとなりの部屋があてがわれ、食事も充実。約50名の船員とはすぐに仲良くなり、器用な船員がギターケースをつくってくれたり、スクーターに日の丸を描いてくれたり、皆で合唱したりと楽しい船旅でした。途中、ボンベイでは船長の奢りでヴェーグ四重奏団のコンサートを聴いたりもしています。


◆ 3月23日、マルセイユ到着。スクーターを走らせ安宿に泊まりながらパリに向かいます。
◆ 4月8日、パリに到着。
◆ 4月、パリ14区、「国際大学都市」のフランコ・ブリタニク館(通称イギリス館)に居住。


◆ 6月、パリ音楽院に在学中の江戸京子からブザンソンで指揮者コンクールが開催されると知らされ出場することにして手続きを進めるものの不備があって締切に間に合わずじまい。窮状を見かねたフランコ?ブリタニック館在住のオーストラリア人ピアニスト、ロジャー・ホームズがアメリカ大使館の知人カッサ・ド・フォルテを紹介し、彼女の仲介で事なきを得ています。
◆ 9月10日、ブザンソン国際指揮者コンクールで第1位。

◆ 9月、パリに戻ると「国際大学都市」内のブラジル館の館長から申し出があり無条件で住めることに。同館は、ル・コルビュジエの設計で入居が難しいことで知られる物件。


◆ 9月末、西ベルリンを訪れてベルリン音楽祭を鑑賞。また、まだベルリンの壁が無かったので、東ベルリンの国立歌劇場でも鑑賞。また、西ベルリンでは、齋藤秀雄と親しかったオペラ歌手で女優の田中路子[1909-1988]のもとを訪問。
◆ 10月中旬、ドナウエッシンゲン音楽祭を鑑賞。
◆ 10月、パリでウジェーヌ・ビゴー[1888-1965]に師事。週1回のオーケストラを使ったレッスンで無料でした。ビゴーはコンクール審査員で、小澤征爾は彼の初見課題曲を見事に指揮。
◆ 12月、体調を崩しノルマンディーの修道院で生活。朝4時半に起き修道僧たちとともにグレゴリオ聖歌を歌い、日中は農作業などの労働に精を出し、9時に寝るという生活で体調を回復。
◆ 12月、チロルにスキー旅行。ピアノの江戸京子、ヴァイオリンの石井志都子[1942- ](この年のロン・ティボー・コンクール3位)ほかと。インスブルックのムタース村にクリスマスから新年まで滞在。

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 1960年/昭和35年 (24〜25歳)

◆ パリ14区 居住。
◆ ブラジル館を出てフランス人の家に下宿。
◆ 4月、トゥールーズ市立管弦楽団。3日間の放送録音のために2週間近く指揮をして8万円相当の報酬(現在価値だと10〜16倍ほど)。コンクール優勝後、初の仕事依頼。
◆ 7〜8月、バークシャー音楽センター(現・タングルウッド音楽センター)の指揮者講習に参加。宿舎はホセ・セレブリエール[1938- ]と同室。優秀な学生に与えられるクーセヴィツキー記念基金奨学金500ドルを獲得。
◆ ミュンシュと交流。
◆ クーセヴィツキー記念基金奨学金で99ドルの中古車を買い、桐朋の音楽教室でヴィオラを教えていた河野俊達[1924-2013]と共にニュー・ヘイヴンを経てニューヨークへ。バーンスタインは不在で秋にはベルリンにいると教えられ、パリに戻ります。
◆ 9月末、西ベルリンに行き、田中路子を訪ねると、ベルリンの市立音楽院(旧・シュテルン音楽院、現・ベルリン芸術大学)で開催される「ヘルベルト・フォン・カラヤン国際指揮者実習」の実習生を選ぶための選考会がを開くと教えられ参加。50人ほどの中から、小澤征爾、ウルリヒ・エックハルト[1934- ]など4人が選ばれてカラヤンの指導を受けています。ちなみにこの「ヘルベルト・フォン・カラヤン国際指揮者実習」について、よく「カラヤン・コンクール」第1位と紹介されていますが間違いです(カラヤン財団主催の指揮者コンクールは1969年開始)。


◆ 10月、「ヘルベルト・フォン・カラヤン国際指揮者実習」で、カラヤンによる4日間の指導。シベリウス5番のフィナーレなど。
◆ 12月、「ヘルベルト・フォン・カラヤン国際指揮者実習」で、カラヤンによる4日間の指導。
◆ 12月、フランス国立フィル。放送用録音。モーツァルト:交響曲第28番。他。

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 1961年/昭和36年 (25〜26歳)

◆ 1月、「ヘルベルト・フォン・カラヤン国際指揮者実習」で、カラヤンによる4日間の指導。
◆ 2月20日、ベルリン・フィル。初めての指揮。日独修好100周年記念演奏会。石井眞木、入野義郎、モーツァルトを指揮。
◆ 4月、「ヘルベルト・フォン・カラヤン国際指揮者実習」で、カラヤンによる4日間の指導。
◆ 4月、バーンスタインに招かれ、ニューヨーク・フィル副指揮者に就任。
◆ 4月、ニューヨーク・フィル。カーネギー・ホールでデビュー。黛敏郎:饗宴。
◆ 4月24日、ニューヨーク・フィル。日本公演に同行し、2年3か月ぶりの帰国。
◆ 5月、バーンスタインが川崎の小澤家を訪問。
◆ 6月、日本フィル。チャイコフスキー:交響曲第5番、フォーレ「ペレアスとメリザンド」、他。
◆ 7月、NHK交響楽団。杉並公会堂で放送用録音。
◆ 10月、ニューヨーク・フィル。ヤング・ピープルズ・コンサート。バーンスタインと共演。

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 1962年/昭和37年 (26〜27歳)

◆ 1月、江戸京子と結婚。日比谷三井ビルディングで挙式。
◆ 1月、サンフランシスコ交響楽団。
◆ 4月、著書「ボクの音楽武者修行」を音楽之友社より出版。
◆ 5月、ニューヨーク・フィル 副指揮者退任。
◆ 5月、日本に向けて出発。
◆ 6月、NHK交響楽団。
◆ 7月、NHK交響楽団。メシアン「トゥランガリラ交響曲」。日本初演。
◆ 8〜9月、NHK交響楽団。北海道ツアー。
◆ 10月、NHK交響楽団。2週間のツアー(シンガポール・マレーシア・フィリピン・沖縄)。
◆ 10月、日本フィル、江戸京子。プロコフィエフ:交響曲第5番、モーツァルト:ピアノ協奏曲第20番、他。
◆ 11月、NHK交響楽団。

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 1963年/昭和38年 (27〜28歳)

◆ 1月、日本フィル。「小澤征爾の音楽を聴く会」
◆ 1月、渡米。
◆ 7月、シカゴ交響楽団。ラヴィニア音楽祭で指揮予定のジョルジュ・プレートルが急病のため急遽指揮。16日の公演は予定通りのレオノーレ3番、グリーグ:ピアノ協奏曲(ジャニス)、新世界。18日の公演は変更し、セビリアの理髪師序曲、チャイコフスキー:ヴァイオリン協奏曲(フェラス)、武満徹:弦楽のためのレクイエム、プロコフィエフ「ロメオとジュリエット」抜粋。
◆ 7月、コロンビア・アーティスツと契約。
◆ 7〜9月、ニューヨーク・フィル。
◆ 9月、ラヴィニア音楽祭は、翌年の音楽監督に小澤征爾を任命。

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 1964年/昭和39年 (28〜29歳)

◆ 1月、トロント交響楽団。
◆ ラヴィニア音楽祭(シカゴ交響楽団) 音楽監督に就任。
◆ 4〜5月、日本フィル、石井志都子。
◆ 8月、ニューヨーク・フィル。
◆ 8月、ボストン交響楽団。タングルウッド。
◆ 9月、日本フィル。
◆ 10〜11月、日本フィル。北米ツアー。

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 1965年/昭和40年 (29〜30歳)

◆ ラヴィニア音楽祭(シカゴ交響楽団) 音楽監督 在任。
◆ 1月、トロント交響楽団。
◆ 3月、ロンドン交響楽団。
◆ 3月、トロント交響楽団、江戸京子。
◆ 3月、ニューヨーク・フィル。
◆ 6月、トロント交響楽団 音楽監督に任命。トロント響のマネージャー、ウォルター・ハンバーガーが、小澤征爾のマネージャー、ロナルド・ウィルフォードに打診。バーンスタインは当初反対したものの、小澤征爾はレパートリーを増やしたいことと指揮者としての様々な仕事(曲目決定や楽員人事、客演指揮者選定等)を学びたいとして引き受けます。この発表により定期会員数も大幅に増加。また、翌年にはトロント市議会が助成金を37,500ドルから43,500ドルに引き上げ、CBC(カナダ放送協会)も放送料金を5,500ドル値上げするなど小澤征爾の経済効果は明白でした。
◆ 7月、ボストン交響楽団。タングルウッド。
◆ 8月、ニューヨーク・フィル。
◆ 9月、トロント交響楽団 音楽監督に就任。
◆ 9〜10月、トロント交響楽団。イギリス、フランス・ツアー。
◆ 12月、フィラデルフィア管弦楽団。
◆ 12月、日本フィル。文化会館(22〜24日)、武道館(25日)。

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 1966年/昭和41年 (30〜31歳)

◆ ラヴィニア音楽祭(シカゴ交響楽団) 音楽監督 在任。
◆ トロント交響楽団 音楽監督 在任。
◆ ベルリン・フィル公式公演デビュー。
◆ 3月5日、山手線初乗り運賃が20円(15年前の2倍)に変更。
◆ 4月、日本フィル。オネゲル:火刑台上のジャンヌ・ダルク。
◆ 5月、読売日本交響楽団、若杉弘。武満徹「弧」第1部、一柳慧「ライフ・ミュージック」、リゲティ「アトモスフェール」、クセナキス「ストラテジー」。
◆ 7月、ボストン交響楽団。タングルウッド。
◆ ウィーン交響楽団。
◆ 8月、ウィーン・フィル、ブレンデル。ザルツブルク音楽祭。シューベルト:交響曲第5番、ブラームス:同2番、シューマン:ピアノ協奏曲。
◆ 8月、離婚。
◆ 9月、ベルリン・フィル。定期演奏会デビュー。
◆ ミラノ・スカラ座管弦楽団、シェリング。ベルリオーズ:レクイエム。ベルリオーズ、チャイコフスキー、ブラームス。
◆ 12月、トロント交響楽団。米Columbia録音。幻想交響曲。IBMの助成金により実現した録音で、同時期に制作されたマクミラン指揮トロント響のカナダ人作品集のLPと共に、IBMの好意でカナダの3千の学校に無料配布されています。IBMは当時、50億ドルの開発費を投じて完成させたメインフレーム・コンピューター「System/360」が世界的ヒット(リース)となって文化助成にも寛大でした。
◆ 12月、日本フィル。ベルリオーズ:レクイエム。

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 1967年/昭和42年 (31〜32歳)

◆ ラヴィニア音楽祭(シカゴ交響楽団) 音楽監督 在任。
◆ トロント交響楽団 音楽監督 在任。
◆ 4月、トロント交響楽団。北米ツアー。
◆ 4月、トロント交響楽団。モントリオール万博開幕演奏会。
◆ 7月、ニューヨーク・フィル。
◆ 7月、ボストン交響楽団。タングルウッド。
◆ 8月、ニューヨーク・フィル。
◆ 9月、トロント交響楽団のシーズンが30週から42週に延長。
◆ 9月、日本フィル。
◆ 11月、ニューヨーク・フィル。武満徹「ノヴェンバー・ステップス」を世界初演。
◆ 12月、日本フィル。ブラームス:交響曲第2番、エルガー「エニグマ変奏曲」、武満徹「樹の曲」。ハイドン:四季(成城学園創立50周年記念音楽会)

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 1968年/昭和43年 (32〜33歳)

◆ ラヴィニア音楽祭(シカゴ交響楽団) 音楽監督 在任。音楽監督はこの年までで翌年は首席指揮者。
◆ トロント交響楽団 音楽監督 在任。
◆ 1〜2月、ボストン交響楽団。
◆ 日本フィル 首席指揮者兼ミュージカル・アドヴァイザーに就任。
◆ 8月、ザルツブルク音楽祭の「ドン・ジョヴァンニ」でカラヤンのアシスタントに任命。
◆ 9月、入江美樹(ヴェラ)と結婚。東京復活大聖堂(ニコライ堂)で挙式。
◆ 9月、日本フィル、松浦豊明。ベートーヴェン:交響曲第4番、合唱幻想曲、ピアノ協奏曲第3番。
◆ 12月、日本フィル。ベートーヴェン:交響曲第9番。

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 1969年/昭和44年 (33〜34歳)

◆ 日本フィル 首席指揮者兼ミュージカル・アドヴァイザー 在任。
◆ ラヴィニア音楽祭(シカゴ交響楽団) 首席指揮者。
◆ 2、3月、ニューヨーク・フィル。
◆ 4月、トロント交響楽団。日本ツアー。
◆ 5月、トロント交響楽団 音楽監督 退任。名誉音楽監督に任命。
◆ 5月、日本フィル。モーツァルト「コジ・ファン・トゥッテ」(演奏会形式)、マーラー:交響曲第1番、G.ガブリエリ:ピアノとフォルテのソナタ、高橋悠治「オルフィカ」。
◆ 7月、ウィーン・フィル。ザルツブルク音楽祭。モーツァルト「コジ・ファン・トゥッテ」。アバドからアドヴァイス。
◆ 8月、パリ管弦楽団。ザルツブルク音楽祭。ベルリオーズ:レクイエム。ミュンシュの思い出に。
◆ 8〜10月、ニューヨーク・フィル。9月に楽員たちと野球をした際に首を負傷。
◆ 11月、ボストン交響楽団。
◆ 11月、クリーヴランド管弦楽団。
◆ 12月、日本フィル。ベートーヴェン:ミサ・ソレムニス、チャイコフスキー:交響曲第1番、武満徹「グリーン」、バルトーク:管弦楽のための協奏曲。
◆ 5月10日、山手線初乗り運賃が30円(3年前の1.5倍)に変更。

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 1970年/昭和45年 (34〜35歳)

◆ 日本フィル 首席指揮者兼ミュージカル・アドヴァイザー 在任。
◆ タングルウッド音楽祭 芸術監督に就任。
◆ 1月、日本フィル。バーンスタイン:交響曲第2番、第3番、チチェスター詩篇、ストラヴィンスキー:祝賀前奏曲、兵士の物語、春の祭典。
◆ 6月、日本フィル。マーラー:交響曲第8番、ブルックナー:交響曲第4番、篠原 眞「ヴィジョンU」、ヤナーチェク:シンフォニエッタ。
◆ 6月、ベルリン・フィル。定期演奏会。
◆ 7月、ウィーン・フィル。ザルツブルク音楽祭。モーツァルト「コジ・ファン・トゥッテ」。
◆ 7〜8月、ボストン交響楽団。タングルウッド。
◆ 8月、ベルリン・フィル、シェリング。ザルツブルク音楽祭。フィンガルの洞窟、バルトーク:ヴァイオリン協奏曲第2番、ベートーヴェン:交響曲第7番。
◆ 8〜9月、ニューヨーク・フィル。日本公演に同行。バーンスタインと。
◆ 11月、ボストン交響楽団。
◆ 11月21日、父開作、歯科業務後、川崎の自宅で心筋梗塞により死去。71歳。12月1日におこなわれる小澤征爾のサンフランシスコ交響楽団音楽監督就任記念コンサートに夫婦で出席するため渡航準備をしていたところでした。
◆ 12月、サンフランシスコ交響楽団 音楽監督に就任。定期会員数は1911年の楽団創設以来最高を記録し、総支配人はキャデラックのナンバー・プレートの文字を「OZAWA」と変更。

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 1971年/昭和46年 (35〜36歳)

◆ 日本フィル 首席指揮者兼ミュージカル・アドヴァイザー 在任。
◆ タングルウッド音楽祭 芸術監督 在任。
◆ サンフランシスコ交響楽団 音楽監督 在任。
◆ サンフランシスコ大学より芸術博士名誉学位授与。
◆ 1〜2月、ニューヨーク・フィル。
◆ 6月、日本フィル。ヴェルディ:レクイエム、石井眞木:雅楽とオーケストラのための「遭遇U番」、ベルリオーズ:イタリアのハロルド、他。
◆ 7〜8月、ボストン交響楽団。タングルウッド。
◆ 9月、日本フィル。ベルリオーズ:ファウストの劫罰、幻想交響曲、レリオ(日本初演)。
◆ 11月、ボストン交響楽団。

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 1972年/昭和47年 (36〜37歳)

◆ タングルウッド音楽祭 芸術監督 在任。
◆ サンフランシスコ交響楽団 音楽監督 在任。
◆ 2月、日本フィル。ベルリオーズ:テ・デウム(日本初演)、モーツァルト:グラン・パルティータ。
◆ 3月、日本フィル。バルトーク:中国の不思議な役人、ハイドン:交響曲第47番 (日本初演)、チェロ協奏曲第1番、チャイコフスキー:ロココ風の主題による変奏曲。
◆ 3月、日本フィルに対しフジテレビと文化放送が放送契約の打ち切りを通告。
◆ 6月、日本芸術院賞受賞。受賞式で、小澤征爾が天皇陛下に日本のオーケストラの経済的苦境について直訴。その後、佐藤栄作首相が動いて植村甲午郎経団連会長に協力を要請、経団連は交響楽の普及と交響楽団の支援などを目的とする団体を立ち上げることを決定し、翌1973年3月に財団法人「日本交響楽振興財団」を設立。
◆ 6月、日本フィル。マーラー:交響曲第2番、ベルリオーズ:ロメオとジュリエット。
◆ 6月、日本フィルに対して、フジテレビと文化放送が放送が、オーケストラの解散と楽団員全員の解雇を通告。楽団員の3分の2は残留し、自主公演をおこないながら、解雇不当として東京地裁に提訴(12年後に解決金2億3千万円で和解)。
◆ 6月、日本フィル 首席指揮者兼ミュージカル・アドヴァイザー 辞任。
◆ 6〜8月、ボストン交響楽団。タングルウッド。
◆ 7月、山本直純と日本フィル退団楽員を中心に、新日本フィルハーモニー交響楽団を設立。生涯に624回指揮。
◆ 8月、シュターツカペレ・ドレスデン、チェルカスキー。ザルツブルク音楽祭。リスト:ピアノ協奏曲第1番、メンデルスゾーン「イタリア」、バルトーク:管弦楽のための協奏曲。
◆ 9月、ボストン交響楽団 音楽顧問に就任。
◆ 新日本フィルハーモニー交響楽団 首席指揮者に就任。
◆ 10月、ベルリン・フィル、エッシェンバッハ。バルトーク:ピアノ協奏曲第2番、他。
◆ サンフランシスコ交響楽団 ヨーロッパ・ツアー(パリ、ザルツブルク、フィレンツェ、サンクトペテルブルク等)。モスクワでは小澤征爾が、ソルジェニーツィン問題で不遇だったロストロポーヴィチの出演を要請して共演。翌年のバーンスタインらの要請によるエドワード・ケネディ上院議員の働きかけでロストロポーヴィチ夫妻の出国が実現するきっかけにもなっています。

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 1973年/昭和48年 (37〜38歳)

◆ タングルウッド音楽祭 芸術監督 在任。
◆ サンフランシスコ交響楽団 音楽監督 在任。
◆ 新日本フィル 首席指揮者 在任。
◆ サンフランシスコ交響楽団に合唱団創設を要請し実現。
◆ 2月、新日本フィル。
◆ 2月、新日本フィル。第1回香港フェスティヴァル参加。
◆ 5〜6月、サンフランシスコ交響楽団。ヨーロッパ&ソ連ツアー(フランス、スイス、ドイツ、オーストリア、ソ連)。ヨーロッパ18公演、ソ連12公演。
◆ 7〜8月、ボストン交響楽団。タングルウッド。
◆ 8月、ロンドン交響楽団、コーガン。ザルツブルク音楽祭。ショスタコーヴィチ:ヴァイオリン協奏曲第1番、ストラヴィンスキー「火の鳥」全曲。
◆ 9月、ボストン交響楽団 音楽監督に就任。
◆ 10月、ベルリン・フィル。ラヴェル:ダフニスとクロエ。
◆ 10〜11月、ボストン交響楽団。
◆ 12月、桐朋学園オーケストラ。

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 1974年/昭和49年 (38〜39歳)

◆ タングルウッド音楽祭 芸術監督 在任。
◆ サンフランシスコ交響楽団 音楽監督 在任。
◆ 新日本フィル 首席指揮者 在任。
◆ ボストン交響楽団 音楽監督 在任。
◆ ボストン響の新テレビ番組シリーズ「イヴニング・アット・シンフォニー」の放映が開始。ボストンの教育放送局WGBHが制作し、PBSが全国に放送。WGBHによるボストン交響楽団のテレビ放送は1957年に始められていました。
◆ 3〜4月、ボストン交響楽団。
◆ 4〜6月、サンフランシスコ交響楽団。マタイ受難曲、グレの歌、他。
◆ 7月、コヴェント・ガーデン王立歌劇場にデビュー(チャイコフスキー「エフゲニー・オネーギン」)。
◆ 8月、ボストン交響楽団。タングルウッド。
◆ 9〜11月、ボストン交響楽団。
◆ 10月24日、新日フィル。ニューヨーク国連本部で国連デー・コンサート。続いてアメリカとヨーロッパをツアー。

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 1975年/昭和50年 (39〜40歳)

◆ タングルウッド音楽祭 芸術監督 在任。
◆ サンフランシスコ交響楽団 音楽監督 在任。
◆ 新日本フィル 首席指揮者 在任。
◆ ボストン交響楽団 音楽監督 在任。
◆ 1月、サンフランシスコ交響楽団。リゲティ「サンフランシスコ・ポリフォニー」初演。1972年に同楽団が小澤征爾と演奏していた「メロディーエン」の続編で、同楽団支援者ドーフマンからの委嘱作。
◆ 2〜4月、ボストン交響楽団。アメリカ・ツアー。
◆ 6月、サンフランシスコ交響楽団。日本ツアー。
◆ 7月、ボストン交響楽団。タングルウッド。
◆ 7月、サンフランシスコ交響楽団 音楽監督を1976年に辞任すると発表。ただし、1977年まで音楽顧問として、1976年から1977年まで9週間滞在する予定としています。
◆ 8月、ロンドン交響楽団。ザルツブルク音楽祭。ハイドン「ホルン信号」、チャイコフスキー第4番、ラヴェル「ラ・ヴァルス」。
◆ 9月、ベルリン・フィル。アイヴズ:の交響曲第4番、ベートーヴェン:交響曲第7番、ベルリオーズ:レクイエム、マーラー:交響曲第8番。
◆ 8月、ボストン交響楽団。タングルウッド。
◆ 9〜11月、ボストン交響楽団。

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 1976年/昭和51年 (40〜41歳)

◆ タングルウッド音楽祭 芸術監督 在任。
◆ 新日本フィル 首席指揮者 在任。
◆ ボストン交響楽団 音楽監督 在任。
◆ サンフランシスコ交響楽団 音楽監督 辞任。
◆ ボストン響のテレビ番組「イヴニング・アット・シンフォニー」の「夕闇のセントラルパーク/英雄の生涯」のエピソードがエミー賞を受賞。音楽監督小澤征爾の業績が称えられてのプライムタイム・エミー賞。
◆ 2月、ボストン交響楽団。
◆ 2〜3月、ボストン交響楽団。ヨーロッパ・ツアー
◆ 3月、サンフランシスコ交響楽団が1977年からエド・デ・ワールトが音楽監督に就任すると発表。
◆ 4月、ボストン交響楽団。
◆ 6月、新日本フィル。モーツァルト:レクイエム、ストラヴィンスキー:詩篇交響曲。
◆ 7〜8月、ボストン交響楽団。タングルウッド。
◆ 8月、シュターツカペレ・ドレスデン、チェルカスキー。ザルツブルク音楽祭。モーツァルト「リンツ」、ペンデレツキ「広島の犠牲者に捧げる哀歌」、ブラームス:交響曲第1番。
◆ サンフランシスコ交響楽団 音楽顧問 就任。
◆ 9月、新日本フィル。ペンデレツキ「広島の犠牲者に捧げる哀歌」、メノッティ:チェロ協奏曲、チャイコフスキー:交響曲第2番。
◆ 12月、新日本フィル。ベートーヴェン:交響曲第9番。
◆ 9月9日、毛沢東死去。
◆ 9〜11月、ボストン交響楽団。
◆ 11月、中国政府の公式招待により母とともに北京を訪問。文化大革命終結により。
◆ 11月、中央楽団(現・中国国家交響楽団)を指揮。
◆ 11月6日、山手線初乗り運賃が60円(7年前の2倍)に変更。

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 1977年/昭和52年 (41〜42歳)

◆ ボストン交響楽団 音楽監督 在任。
◆ タングルウッド音楽祭 芸術監督 在任。
◆ 新日本フィル 首席指揮者 在任。
◆ 2〜4月、ボストン交響楽団。
◆ 4月、ベルリン・フィル。チャイコフスキー:交響曲第2番、他。
◆ サンフランシスコ交響楽団 音楽顧問 退任。
◆ 7〜8月、ボストン交響楽団。タングルウッド。
◆ 8月、ロンドン交響楽団。ザルツブルク音楽祭。バッハ:ブランデンブルク協奏曲第6番、フンメル:トランペット協奏曲、ファリャ「三角帽子」。
◆ 9〜11月、ボストン交響楽団。
◆ 11月、新日本フィル。

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 1978年/昭和53年 (42〜43歳)

◆ ボストン交響楽団 音楽監督 在任。
◆ タングルウッド音楽祭 芸術監督 在任。
◆ 新日本フィル 首席指揮者 在任。
◆ 2月、ボストン交響楽団。
◆ 3月、ボストン交響楽団。日本ツアー。
◆ 4月、ボストン交響楽団。
◆ 6月、新日本フィル。
◆ 6月、中央楽団(現・中国国家交響楽団)。12日の北京体育館公演は聴衆18,000人。
◆ 7月8日、山手線初乗り運賃が約1.33倍の80円に変更。
◆ 7〜8月、ボストン交響楽団。タングルウッド。
◆ 9月、新日本フィル。
◆ サンフランシスコ交響楽団。
◆ 9〜12月、ボストン交響楽団。

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 1979年/昭和54年 (43〜44歳)

◆ ボストン交響楽団 音楽監督 在任。
◆ タングルウッド音楽祭 芸術監督 在任。
◆ 新日本フィル 首席指揮者 在任。
◆ 1〜2月、ボストン交響楽団。
◆ 3月、ボストン交響楽団。中国ツアー。
◆ 3〜4月、ボストン交響楽団。
◆ 6月、パリ・オペラ座。ラヴェル「子供と魔法」、ストラヴィンスキー「エディプス王」)。
◆ 6月、新日本フィル。
◆ 7月、関西歌劇団、関西二期会。プッチーニ:トスカ。
◆ 7月、新日本フィル。
◆ 7〜8月、ボストン交響楽団。タングルウッド。
◆ 8月、ボストン交響楽団。ザルツブルク音楽祭。ベルリオーズ:ファウストの劫罰、バルトーク:中国の不思議な役人、ブラームス:交響曲第1番。
◆ 8〜9月、ボストン交響楽団。ヨーロッパ・ツアー。
◆ 10月、ボストン交響楽団。
◆ 11月、ベルリン・フィル。チャイコフスキー:交響曲第6番、他。
◆ 11〜12月、ボストン交響楽団。
◆ 5月20日、山手線初乗り運賃が1.25倍の100円に変更。

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 1980年/昭和55年 (44〜45歳)

◆ ボストン交響楽団 音楽監督 在任。
◆ タングルウッド音楽祭 芸術監督 在任。
◆ 新日本フィル 首席指揮者 在任。
◆ 「ボストン・ゴーズ・トゥ・チャイナ」がエミー賞受賞。ボストン交響楽団の中国ツアーを記録したCBSのドキュメンタリー番組。
◆ 1月、ボストン交響楽団。北米ツアー。
◆ 2月、ベルリン・フィル。マーラー:交響曲第1番、春の祭典、他。
◆ 4月、ボストン交響楽団。
◆ 7〜8月、ボストン交響楽団。タングルウッド。
◆ 10〜11月、ボストン交響楽団。
◆ ミラノ・スカラ座、マルトン、パヴァロッティ。プッチーニ「トスカ」。
◆ 12月、フィラデルフィア管弦楽団。

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 1981年/昭和56年 (45〜46歳)

◆ ボストン交響楽団 音楽監督 在任。
◆ タングルウッド音楽祭 芸術監督 在任。
◆ 新日本フィル 首席指揮者 在任。
◆ 1〜2月、ボストン交響楽団。
◆ 3月、ボストン交響楽団。北米ツアー。
◆ 4月、ボストン交響楽団。
◆ 7〜8月、ボストン交響楽団。タングルウッド。
◆ 9〜10月、ボストン交響楽団。
◆ 10〜11月、ボストン交響楽団。日本、ヨーロッパ・ツアー。
◆ 12月、ボストン交響楽団。
◆ 4月20日、山手線初乗り運賃が1.1倍の110円に変更。

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 1982年/昭和57年 (46〜47歳)

◆ ボストン交響楽団 音楽監督 在任。
◆ タングルウッド音楽祭 芸術監督 在任。
◆ 新日本フィル 首席指揮者 在任。
◆ 1月、ボストン交響楽団。
◆ 4〜5月、ボストン交響楽団。北米ツアーも。
◆ 5〜6月、ベルリン・フィル。ベートーヴェン:交響曲第7番、他。
◆ 7〜8月、ボストン交響楽団。タングルウッド。
◆ 8月、ウィーン・フィル。ザルツブルク音楽祭。ハイドン:チェロ協奏曲第1番、チャイコフスキー:交響曲第4番。
◆ 10月、ボストン交響楽団。北米ツアーも。
◆ 10月、ベルリン・フィル創立100周年記念コンサート。。
◆ 4月20日、山手線初乗り運賃が約1.09倍の120円に変更。

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 1983年/昭和58年 (47〜48歳)

◆ ボストン交響楽団 音楽監督 在任。
◆ タングルウッド音楽祭 芸術監督 在任。
◆ 新日本フィル 首席指揮者 在任。
◆ 1〜4月、ボストン交響楽団。北米ツアーも。
◆ 6月、ベルリン・フィル。ブラームス:交響曲第4番、他。
◆ 7〜8月、ボストン交響楽団。タングルウッド。
◆ 10月、ボストン交響楽団。北米ツアーも。
◆ パリ・オペラ座。メシアン「アッシジの聖フランチェスコ」。世界初演。
◆ 8月、ウィーン・フィル、ワイセンベルク。ザルツブルク音楽祭。プロコフィエフ:ピアノ協奏曲第3番、ベートーヴェン:交響曲第7番。
◆ ミラノ・スカラ座管弦楽団。ベルリオーズ:ファウストの劫罰。
◆ 12月、ベルリン・フィル。グラン・パルティータ、他。

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 1984年/昭和59年 (48〜49歳)

◆ ボストン交響楽団 音楽監督 在任。
◆ タングルウッド音楽祭 芸術監督 在任。
◆ 新日本フィル 首席指揮者 在任。
◆ 齋藤秀雄没後10周年メモリアル・コンサートで、特別に編成された「桐朋学園齋藤秀雄メモリアル・オーケストラ」を指揮。SKOのルーツ。
◆ 1〜4月、ボストン交響楽団。北米ツアーも。
◆ 7〜8月、ボストン交響楽団。タングルウッド。
◆ 8月、ボストン交響楽団、ヨーヨー・マ。ザルツブルク音楽祭。マーラー:交響曲第2番、ドヴォルザーク:チェロ協奏曲、ベートーヴェン:交響曲第4番。
◆ 9〜12月、ボストン交響楽団。ヨーロッパ・ツアー。

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 1985年/昭和60年 (49〜50歳)

◆ ボストン交響楽団 音楽監督 在任。
◆ タングルウッド音楽祭 芸術監督 在任。
◆ 新日本フィル 首席指揮者 在任。
◆ 2月、新日本フィル。ヨーロッパ・ツアー。
◆ 1〜2月、ボストン交響楽団。北米ツアーも。
◆ 4月、ボストン交響楽団。
◆ 6〜9月、ボストン交響楽団。タングルウッド。
◆ 10〜12月、ボストン交響楽団。北米ツアーも。
◆ 11月、ベルリン・フィル。ブルックナー2番。

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 1986年/昭和61年 (50〜51歳)

◆ ボストン交響楽団 音楽監督 在任。
◆ タングルウッド音楽祭 芸術監督 在任。
◆ 新日本フィル 首席指揮者 在任。
◆ 1〜4月、ボストン交響楽団。日本、北米ツアーも。
◆ 3月、新日本フィル。メシアン「アッシジの聖フランチェスコ」日本初演(オラトリオ形式抜粋版)。作曲者臨席。
◆ 5月、新日本フィル。
◆ 8月、ボストン交響楽団。タングルウッド。
◆ 8月、ウィーン・フィル、ツィマーマン。ザルツブルク音楽祭。R.シュトラウス:英雄の生涯、リスト:ピアノ協奏曲第1番、他。
◆ 10月、ベルリン・フィル。サントリーホールのオープニング・シリーズ。カラヤンの代役。
◆ 10月、ボストン交響楽団。
◆ 11月、サンフランシスコ交響楽団。
◆ 11〜12月、ボストン交響楽団。
◆ ミラノ・スカラ座。チャイコフスキー:エフゲニー・オネーギン。

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 1987年/昭和62年 (51〜52歳)

◆ ボストン交響楽団 音楽監督 在任。
◆ タングルウッド音楽祭 芸術監督 在任。
◆ 新日本フィル 首席指揮者 在任。
◆ 1〜5月、ボストン交響楽団。北米ツアーも。
◆ 6月、ベルリン・フィル。ベートーヴェン:交響曲第8番、他。
◆ 7〜8月、ボストン交響楽団。タングルウッド。
◆ SKO。ヨーロッパ公演(ウィーン、ベルリン、フランクフルト、パリ、ロンドン)。
◆ 9〜12月、ボストン交響楽団。

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 1988年/昭和63年 (52〜53歳)

◆ ボストン交響楽団 音楽監督 在任。
◆ タングルウッド音楽祭 芸術監督 在任。
◆ 新日本フィル 首席指揮者 在任。
◆ 3〜4月、ボストン交響楽団。北米ツアーも。
◆ 5月、ベルリン・フィル。チャイコフスキー:交響曲第4番、他。
◆ 7〜8月、ボストン交響楽団。タングルウッド。
◆ 8月、ウィーン・フィル。ザルツブルク音楽祭。オネゲル:火刑台上のジャンヌ・ダルク。
◆ ウィーン国立歌劇場にデビュー(チャイコフスキー「エフゲニー・オネーギン」)。
◆ 9〜12月、ボストン交響楽団。ヨーロッパ・ツアーも。

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 1989年/昭和64年/平成元年 (53〜54歳)

◆ ボストン交響楽団 音楽監督 在任。
◆ タングルウッド音楽祭 芸術監督 在任。
◆ 新日本フィル 首席指揮者 在任。
◆ 2〜4月、ボストン交響楽団。
◆ SKO。ヨーロッパ公演(ウィーン、フランクフルト、ミュンヘン、ベルリン、ブリュッセル)。
◆ 7月、ウィーン・フィル。ザルツブルク音楽祭。カラヤン追悼公演。レヴァイン、ショルティと。
◆ 7〜8月、ボストン交響楽団。タングルウッド。
◆ 9月、ベルリン・フィル。ベートーヴェン:交響曲第2番、他。
◆ 9〜12月、ボストン交響楽団。北米ツアー、日本ツアーも。
◆ 12月31日、ベルリン・フィル、晋友会合唱団。ジルヴェスター・コンサート。オルフ「カルミナ・ブラーナ」。
◆ ミラノ・スカラ座。ウェーバー:オベロン。
◆ 4月1日、山手線初乗り運賃が約1.08倍の130円に変更。7年ぶりの値上げ。

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 1990年/平成2年 (54〜55歳)

◆ ボストン交響楽団 音楽監督 在任。
◆ タングルウッド音楽祭 芸術監督 在任。
◆ 新日本フィル 首席指揮者 在任。
◆ 1〜2月、ボストン交響楽団。
◆ 1月、ウィーン・フィル。
◆ 4月、ボストン交響楽団。
◆ 5月、新日本フィル「ヘネシー・オペラ・シリーズ」開始。モーツァルト:イドメネオ。
◆ 7月、ウィーン・フィル。ザルツブルク音楽祭。モーツァルト:イドメネオ。
◆ 7〜8月、ボストン交響楽団。タングルウッド。
◆ ミラノ・スカラ座。チャイコフスキー:スペードの女王。
◆ SKO。ヨーロッパ公演(ザルツブルク音楽祭、シュレスヴィヒ・ホルシュタイン音楽祭、プロムス音楽祭、エディンバラ国際フェスティバル、ベルリン・ヴァルトビューネ)。
◆ 水戸室内管弦楽団 音楽顧問に就任。
◆ 9〜12月、ボストン交響楽団。

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 1991年/平成3年 (55〜56歳)

◆ ボストン交響楽団 音楽監督 在任。
◆ タングルウッド音楽祭 芸術監督 在任。
◆ 新日本フィル 名誉芸術監督。
◆ SKO。世界1周ツアー(ロンドン、デュッセルドルフ、アムステルダム、ニューヨーク)。
◆ ウィーン・フィルとの初録音。
◆ 水戸室内管弦楽団 音楽顧問在任。
◆ 1〜2月、ボストン交響楽団。北米ツアーも。
◆ 3月、新日本フィル「ヘネシー・オペラ・シリーズ」。プッチーニ「マノン・レスコー」。
◆ 4〜5月、ボストン交響楽団。北米ツアーも。
◆ 7月、ウィーン・フィル。ザルツブルク音楽祭。モーツァルト:イドメネオ。
◆ 7〜8月、ボストン交響楽団。タングルウッド。
◆ 8月、ボストン交響楽団。ザルツブルク音楽祭。アイヴズ:夕闇のセントラルパーク、バルトーク:管弦楽のための協奏曲、ベートーヴェン:交響曲第8番、バーンスタイン:交響曲第2番、ベルリオーズ:幻想交響曲。
◆ 9〜12月、ボストン交響楽団。北米、ヨーロッパ・ツアーも。

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 1992年/平成4年 (56〜57歳)

◆ ボストン交響楽団 音楽監督 在任。
◆ タングルウッド音楽祭 芸術監督 在任。
◆ 新日本フィル 名誉芸術監督。
◆ 水戸室内管弦楽団 音楽顧問在任。
◆ 1〜2月、ボストン交響楽団。北米ツアーも。
◆ 3月、新日本フィル「ヘネシー・オペラ・シリーズ」。ワーグナー「さまよえるオランダ人」。
◆ 4月、ボストン交響楽団。北米ツアーも。
◆ 7〜8月、ボストン交響楽団。タングルウッド。
◆ 「サイトウ・キネン・フェスティバル松本」開始。総監督就任。ストラヴィンスキー:エディプス王、武満徹:セレモニアル、チャイコフスキー:弦楽セレナーデ、ブラームス:交響曲第1番。
◆ 9月、ベルリン・フィル。チャイコフスキー:交響曲第1番、他。
◆ ベルリン・フィルよりハンス・フォン・ビューロー・メダル授与。
◆ 10月、ボストン交響楽団。南北アメリカ・ツアーも。
◆ 12月、ボストン交響楽団。。
◆ 12月、メトロポリタン・オペラ。チャイコフスキー「エフゲニー・オネーギン」。

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 1993年/平成5年 (57〜58歳)

◆ ボストン交響楽団 音楽監督 在任。
◆ タングルウッド音楽祭 芸術監督 在任。
◆ 新日本フィル 名誉芸術監督。
◆ 水戸室内管弦楽団 音楽顧問在任。
◆ 1〜2月、ボストン交響楽団。
◆ 2月、サンフランシスコ交響楽団。
◆ 4月、ボストン交響楽団。北米ツアーも。
◆ 5月、新日本フィル「ヘネシー・オペラ・シリーズ」。ヴェルディ「ファルスタッフ」。
◆ 6月、ベルリン・フィル。
◆ 7〜8月、ボストン交響楽団。タングルウッド。
◆ 「サイトウ・キネン・フェスティバル松本」。オネゲル:火刑台上のジャンヌ・ダルク、シェーンベルク:浄夜、シューベルト:未完成、ベートーヴェン:交響曲第7番。
◆ 9〜10月、ボストン交響楽団。北米ツアーも。
◆ 11月、ウィーン・フィル。日本ツアー。
◆ 12月、ボストン交響楽団。ヨーロッパ・ツアーも。

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 1994年/平成6年 (58〜59 歳)

◆ ボストン交響楽団 音楽監督 在任。
◆ タングルウッド音楽祭 芸術監督 在任。
◆ 新日本フィル 名誉芸術監督。
◆ 水戸室内管弦楽団 音楽顧問在任。
◆ ボストン響のテレビ番組「ドヴォルザーク・イン・プラハ」で小澤征爾がエミー賞を受賞。
◆ 2月、サンフランシスコ交響楽団。
◆ 2〜3月、ボストン交響楽団。
◆ 3月、新日本フィル「ヘネシー・オペラ・シリーズ」。プッチーニ:トスカ。
◆ 3〜4月、ボストン交響楽団。
◆ 5月、生地の瀋陽(旧称:奉天)を母と訪問。同地の遼寧交響楽団を指揮。
◆ 7月、タングルウッド(マサチューセッツ州バークシャー郡レノックス)に「セイジ・オザワ・ホール」(1,200席)完成。
◆ 7〜8月、ボストン交響楽団。タングルウッド。
◆ 8月、SKO。ヨーロッパ公演(ザルツブルク音楽祭、アテネ、ケルン)。
◆ 「サイトウ・キネン・フェスティバル松本」。ヴェルディ:レクイエム、ストラヴィンスキー:ミューズを司るアポロ、チャイコフスキー:交響曲第4番、他。
◆ 9〜12月、ボストン交響楽団。香港、日本ツアーも。「ベルリオーズ・フェスティヴァル」開催。

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 1995年/平成7年 (59〜60歳)

◆ ボストン交響楽団 音楽監督 在任。
◆ タングルウッド音楽祭 芸術監督 在任。
◆ 新日本フィル 名誉芸術監督。
◆ 水戸室内管弦楽団 音楽顧問在任。
◆ 1月、NHK交響楽団、ロストロポーヴィチ。32年ぶりに指揮。
◆ 2月、ボストン交響楽団。
◆ 3月、新日本フィル「ヘネシー・オペラ・シリーズ」。ロッシーニ「セビリアの理髪師」。
◆ 4月、ボストン交響楽団。
◆ 5月、ミラノ・スカラ座。ベルリオーズ:ファウストの劫罰。舞台上演。
◆ 7〜8月、ボストン交響楽団。タングルウッド。
◆ 「サイトウ・キネン・フェスティバル松本」。ストラヴィンスキー:道楽者のなりゆき。
◆ 10月、ボストン交響楽団。
◆ 12月、ボストン交響楽団。

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 1996年/平成8年 (60〜61歳)

◆ ボストン交響楽団 音楽監督 在任。
◆ タングルウッド音楽祭 芸術監督 在任。
◆ 新日本フィル 名誉芸術監督。
◆ 水戸室内管弦楽団 音楽顧問在任。
◆ 1〜2月、ボストン交響楽団。
◆ 4月、ボストン交響楽団。
◆ 5月、新日本フィル「ヘネシー・オペラ・シリーズ」。プッチーニ「蝶々夫人」。
◆ 7〜8月、ボストン交響楽団。タングルウッド。
◆ 「サイトウ・キネン・フェスティバル松本」。プーランク:ティレジアスの乳房、武満徹:マイ・ウェイ・オブ・ライフ〜マイケル・ヴァイナーの追憶に〜、シューベルト:グレート。
◆ 9〜12月、ボストン交響楽団。

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 1997年/平成9年 (61〜62歳)

◆ ボストン交響楽団 音楽監督 在任。
◆ タングルウッド音楽祭 芸術監督 在任。
◆ 新日本フィル 名誉芸術監督。
◆ 水戸室内管弦楽団 音楽顧問在任。
◆ 1月、ボストン交響楽団。
◆ 4月、ボストン交響楽団。
◆ 4月、SKO。ヨーロッパ公演(フィレンツェ、パリ、ベルリン、ロンドン、ウィーン)。
◆ 5月、新日本フィル「ヘネシー・オペラ・シリーズ」。モーツァルト:魔笛。
◆ 6〜7月、ボストン交響楽団。タングルウッド。
◆ 7月、ウィーン・フィル。ザルツブルク音楽祭。ベルリオーズ:夏の夜、シューマン:交響曲第2番。
◆ 8月、ボストン交響楽団。タングルウッド。
◆ 「サイトウ・キネン・フェスティバル松本」。オネゲル:火刑台上のジャンヌ・ダルク。シェーンベルク:浄夜、ベートーヴェン:交響曲第3番。
◆ 9月10日、SKO。バッハ:マタイ受難曲。東京オペラシティ コンサートホール:タケミツ・メモリアル(1,632席)?落とし公演。
◆ 9〜10月、ボストン交響楽団。
◆ 10月、新日本フィル。マーラー:交響曲第3番。すみだトリフォニーホール(1,801席)?落とし公演。
◆ 12月、ボストン交響楽団。

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 1998年/平成10年 (62〜63歳)

◆ ボストン交響楽団 音楽監督 在任。
◆ タングルウッド音楽祭 芸術監督 在任。
◆ 新日本フィル 名誉芸術監督。
◆ 水戸室内管弦楽団 音楽顧問在任。
◆ 2月、長野冬季オリンピック開会式で世界5大陸を結ぶイベントとして、ベートーヴェン:交響曲弟9番「合唱」の一部を指揮。
◆ 3〜4月、ボストン交響楽団。ヨーロッパ・ツアーも。
◆ 5月、新日本フィル「ヘネシー・オペラ・シリーズ」。ドビュッシー「ペレアスとメリザンド」。
◆ 6〜8月、ボストン交響楽団。タングルウッド。
◆ 「サイトウ・キネン・フェスティバル松本」。プーランク:カルメル会修道女の対話(パリ・オペラ座との共同制作)、ベートーヴェン:レオノーレ第3番、交響曲第6番、バーバー:ノックスヴィル〜1915年の夏。
◆ 9月、新日本フィル。ロシア・ツアー。
◆ 9〜11月、ボストン交響楽団。

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 1999年/平成11年 (63〜64歳)

◆ ボストン交響楽団 音楽監督 在任。
◆ タングルウッド音楽祭 芸術監督 在任。
◆ 新日本フィル 桂冠名誉指揮者。
◆ 水戸室内管弦楽団 音楽顧問在任。
◆ 2月、ボストン交響楽団。
◆ 4〜5月、ボストン交響楽団。日本ツアーも。
◆ 6〜8月、ボストン交響楽団。タングルウッド。
◆ 8月、ウィーン・フィル。ザルツブルク音楽祭。カラヤン没後10周年演奏会。バッハ:アリア、ワーグナー:トリスタンとイゾルデ前奏曲と愛の死、ブルックナー:交響曲第9番。
◆ 「サイトウ・キネン・フェスティバル松本」。ベルリオーズ:ファウストの劫罰、ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第3番(内田光子)、交響曲第1番、マーラー:交響曲第2番。
◆ 9〜10月、ボストン交響楽団。
◆ 12月、ボストン交響楽団。
◆ パリ・オペラ座。プーランク「カルメル会修道女の対話」(サイトウ・キネン・フェスティバル松本との共同制作)。
◆ ボストンの住宅「ニュートン・ハウス」を購入(2010年に売却)。

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 2000年/平成12年 (64〜65歳)

◆ ボストン交響楽団 音楽監督 在任。
◆ タングルウッド音楽祭 芸術監督 在任。
◆ 新日本フィル 桂冠名誉指揮者。
◆ 水戸室内管弦楽団 音楽顧問在任。
◆ 2〜5月、ボストン交響楽団。ヨーロッパ・ツアーも。
◆ 6月、「小澤征爾音楽塾 オペラ・プロジェクト」開始。モーツァルト:フィガロの結婚。
◆ 7〜8月、ボストン交響楽団。タングルウッド。
◆ 「サイトウ・キネン・フェスティバル松本」。バッハ:ミサ曲ロ短調、ベートーヴェン:フィデリオ序曲、交響曲第2番、交響曲第5番、マーラー:交響曲第9番。
◆ ハーヴァード大学より名誉博士号を授与。
◆ 9〜10月、ボストン交響楽団。
◆ 11月、ウィーン・フィル。日本公演。
◆ 11〜12月、ボストン交響楽団。
◆ SKO。冬の特別公演。

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 2001年/平成13年 (65〜66歳)

◆ ボストン交響楽団 音楽監督 在任。
◆ タングルウッド音楽祭 芸術監督 在任。
◆ 新日本フィル 桂冠名誉指揮者。
◆ 水戸室内管弦楽団 音楽顧問在任。
◆ 1月、SKO。冬の特別公演。
◆ 1月、サンフランシスコ交響楽団。
◆ 2月、ボストン交響楽団。
◆ 3月、水戸室内管弦楽団。ヨーロッパ・ツアー。
◆ 4月、「小澤征爾音楽塾 オペラ・プロジェクト」。モーツァルト:コジ・ファン・トゥッテ。
◆ 4〜5月、ボストン交響楽団。
◆ 7〜8月、ボストン交響楽団。タングルウッド。
◆ SKO。アメリカ公演。
◆ 「サイトウ・キネン・フェスティバル松本」。ヤナーチェク:イェヌーファ、ベートーヴェン:交響曲第4番、第8番。
◆ 日本政府より文化功労者(終身年金制度)として顕彰。
◆ 10月、ボストン交響楽団。
◆ 10月、サンフランシスコ交響楽団。
◆ 12月、ボストン交響楽団。

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 2002年/平成14年 (66〜67歳)

◆ ボストン交響楽団 音楽監督 退任。
◆ タングルウッド音楽祭 芸術監督 退任。
◆ 新日本フィル 桂冠名誉指揮者。
◆ 水戸室内管弦楽団 音楽顧問在任。
◆ ウィーン・フィル。ニューイヤー・コンサート。
◆ 新日本フィル。中国オペラ公演。
◆ 4月、ボストン交響楽団。
◆ 5月、「小澤征爾音楽塾 オペラ・プロジェクト」。モーツァルト:ドン・ジョヴァンニ。
◆ 7〜8月、ボストン交響楽団。タングルウッド。
◆ 「サイトウ・キネン・フェスティバル松本」。ブリテン:ピーター・グライムズ、ベートーヴェン:交響曲第9番、R.シュトラウス:ドン・キホーテ(ロストロポーヴィチ、店村眞積)。
◆ ウィーン国立歌劇場 音楽監督に就任。クレネク「ジョニーは演奏する」。
◆ オーストリア政府より勲一等十字勲章を授与。
◆ ボストン響の音楽監督として最後の定期公演を指揮(マーラーの交響曲第9番)。
◆ 9月23日、母さくら、川崎市多摩区の自宅で死去。94歳。

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 2003年/平成15年 (67〜68歳)

◆ ウィーン国立歌劇場 音楽監督在任。
◆ 新日本フィル 桂冠名誉指揮者。
◆ 水戸室内管弦楽団 音楽顧問在任。
◆ 毎日芸術賞、サントリー音楽賞を受賞。
◆ 6月、ベルリン・フィル。
◆ 7月、「小澤征爾音楽塾 オペラ・プロジェクト」。J.シュトラウス:こうもり。
◆ 「サイトウ・キネン・フェスティバル松本」。ヴェルディ:ファルスタッフ、マルタン:7つの管楽器とティンパニ、打楽器と弦楽合奏のための協奏曲、ブルックナー:交響曲第7番。

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 2004年/平成16年 (68〜69歳)

◆ ウィーン国立歌劇場 音楽監督在任。
◆ 新日本フィル 桂冠名誉指揮者。
◆ 水戸室内管弦楽団 音楽顧問在任。
◆ 4〜5月、「小澤征爾音楽塾 オペラ・プロジェクト」。プッチーニ:ラ・ボエーム。
◆ 7月、ウィーン・フィル、シュミット。ザルツブルク音楽祭。アイヴズ:夕闇のセントラルパーク、コルンゴルト:ヴァイオリン協奏曲、ドヴォルザーク:交響曲第9番。
◆ ウィーン国立歌劇場。日本公演。モーツァルト「フィガロの結婚」、「ドン・ジョヴァンニ」。
◆ ソルボンヌ大学より名誉博士号授与。
◆ 「サイトウ・キネン・フェスティバル松本」。ベルク:ヴォツェック、武満徹:弦楽のためのレクイエム、バルトーク:弦楽器、打楽器とチェレスタのための音楽、チャイコフスキー:交響曲第6番、バルトーク:管弦楽のための協奏曲。

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 2005年/平成17年 (69〜70歳)

◆ ウィーン国立歌劇場 音楽監督在任。
◆ 新日本フィル 桂冠名誉指揮者。
◆ 水戸室内管弦楽団 音楽顧問在任。
◆ 3月、「東京のオペラの森」が開始。音楽監督に就任(2008年まで)。R.シュトラウス「エレクトラ」(フィレンツェ歌劇場との共同制作)。
◆ 「サイトウ・キネン・フェスティバル松本」。シェーンベルク:グレの歌、ガーシュウィン:ピアノ協奏曲。
◆ 10月、「小澤征爾音楽塾 オペラ・プロジェクト」。ロッシーニ:セビリアの理髪師。
◆ 10月、「小澤征爾音楽塾 オペラ・プロジェクト」初の中国公演。
◆ 10月、NHK交響楽団、「こどものためのプログラム」。

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 2006年/平成18年 (70〜71歳)

◆ ウィーン国立歌劇場 音楽監督在任。
◆ 新日本フィル 桂冠名誉指揮者。
◆ 「東京のオペラの森」音楽監督在任。
◆ 水戸室内管弦楽団 音楽顧問在任。
◆ 7月、小澤征爾音楽塾オーケストラ。マーラー:交響曲第2番。
◆ 「サイトウ・キネン・フェスティバル松本」。メンデルスゾーン:エリア、ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第5番(内田光子)、ショスタコーヴィチ:交響曲第5番。

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 2007年/平成19年 (71〜72歳)

◆ ウィーン国立歌劇場 音楽監督在任。
◆ 新日本フィル 桂冠名誉指揮者。
◆ 「東京のオペラの森」音楽監督在任。
◆ 水戸室内管弦楽団 音楽顧問在任。
◆ 4月、ベルリン・フィル。
◆ ウィーン国立歌劇場「名誉会員」称号授与。
◆ 7月、小澤征爾音楽塾オーケストラ。ビゼー:カルメン(原語)。
◆ 「サイトウ・キネン・フェスティバル松本」。チャイコフスキー:スペードの女王、ベルリオーズ:幻想交響曲。
◆ ブザンソン国際指揮者コンクールの閉会演奏会でフランス国立管弦楽団と幻想交響曲を演奏。開場は7,256席のミクロポリス。

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 2008年/平成20年 (72〜73歳)

◆ ウィーン国立歌劇場 音楽監督在任。
◆ 新日本フィル 桂冠名誉指揮者。
◆ 「東京のオペラの森」音楽監督在任。
◆ 1月、ベルリン・フィル。カラヤン生誕100年コンサート。
◆ 水戸室内管弦楽団 音楽顧問在任。ヤナーチェク:利口な女狐の物語、モーツァルト:交響曲第32番、武満徹:ヴィジョンズ、マーラー:交響曲第1番。
◆ 7〜8月、小澤征爾音楽塾オーケストラ。J.シュトラウス:こうもり(原語)。
◆ 「サイトウ・キネン・フェスティバル松本」。
◆ フランス政府よりレジオン・ドヌール勲章オフィシエを授与。
◆ フランス芸術アカデミー外国人正会員に選出。
◆ 日本政府より文化勲章を授与。

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 2009年/平成21年 (73〜74歳)

◆ ウィーン国立歌劇場 音楽監督在任
◆ 新日本フィル 桂冠名誉指揮者。
◆ 水戸室内管弦楽団 音楽顧問在任。
◆ 5月、ベルリン・フィル。
◆ 6月、椎間板ヘルニアをパリで治療。
◆ 「サイトウ・キネン・フェスティバル松本」。ブリテン:戦争レクイエム、ブラームス:交響曲第2番。
◆ 4月、小澤征爾音楽塾オーケストラ。京都、東京、天津、北京、上海。ラヴェル:マ・メール・ロワ、ベートーヴェン:交響曲第7番。
◆ 7〜8月、小澤征爾音楽塾オーケストラ。フンパーディンク:ヘンゼルとグレーテル(原語)。
◆ 12月、食道癌と診断。

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 2010年/平成22年 (74〜75歳)

◆ ウィーン国立歌劇場 音楽監督辞任。
◆ 新日本フィル 桂冠名誉指揮者。
◆ 水戸室内管弦楽団 音楽顧問在任。
◆ 1月7日、病気療養のため音楽活動休止を発表。
◆ 食道癌の手術により食道を全摘出。
◆ 10月、ボストンの自宅「ニュートン・ハウス」を500万ドルで売却(1999年に購入)。
◆ 11月2日、ウィーン・フィルより「名誉団員」称号授与。
◆ 12月、SKO。カーネギーホール。約1年ぶりに現場復帰。ベルリオーズ:幻想交響曲、ブリテン:戦争レクイエム。

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 2011年/平成23年 (75〜76歳)

◆ 新日本フィル 桂冠名誉指揮者。
◆ 水戸室内管弦楽団 音楽顧問在任。
◆ 9月、SKOの北京公演での指揮を体調不良でキャンセル。
◆ 高松宮殿下記念世界文化賞を受賞。

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 2012年/平成24年 (76〜77歳)

◆ 新日本フィル 桂冠名誉指揮者。
◆ 水戸室内管弦楽団 音楽顧問在任。
◆ 3月、小澤征爾音楽塾オーケストラ。プッチーニ:蝶々夫人。

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 2013年/平成25年 (77〜78歳)

◆ 新日本フィル 桂冠名誉指揮者。
◆ 4月、水戸芸術館館長、水戸室内管弦楽団 総監督就任。
◆ 「サイトウ・キネン・フェスティバル松本」。ラヴェル「子供と魔法」、ガーシュウィン「ラプソディ・イン・ブルー」。

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 2014年/平成26年 (78〜79歳)

◆ 新日本フィル 桂冠名誉指揮者。
◆ 水戸芸術館館長、水戸室内管弦楽団 総監督在任。
◆ 3月、「小澤征爾音楽塾 オペラ・プロジェクト」。モーツァルト:フィガロの結婚。一部指揮。
◆ 6〜7月、「小澤征爾スイス国際アカデミー」塾生を率いてジュネーヴとパリで演奏。約3年ぶりの海外公演。
◆ 「サイトウ・キネン・フェスティバル松本」。モーツァルト:グラン・パルティータ、ベルリオーズ:幻想交響曲、ガーシュウィン:ラプソディ・イン・ブルー。
◆ 4月1日、山手線初乗りきっぷ運賃が約1.08倍の140円に変更(新たにICカード運賃が133円に設定)。25年ぶりの値上げ。

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 2015年/平成27年 (79〜80歳)

◆ 新日本フィル 桂冠名誉指揮者。
◆ 水戸芸術館館長、水戸室内管弦楽団 総監督在任。
◆ 「セイジ・オザワ松本フェスティバル」。ベートーヴェン:交響曲第2番、ベートーヴェン:合唱幻想曲(アルゲリッチ)。
◆ ケネディ・センターより名誉賞授与。

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 2016年/平成28年 (80〜81歳)

◆ 新日本フィル 桂冠名誉指揮者。
◆ 水戸芸術館館長、水戸室内管弦楽団 総監督在任。
◆ 4月、ベルリン・フィルより「名誉団員」称号授与。
◆ 4月、ベルリン・フィル。ベートーヴェン:エグモント序曲、合唱幻想曲。
◆ 「セイジ・オザワ松本フェスティバル」。ベートーヴェン:交響曲第7番、ガーシュウィン:ラプソディ・イン・ブルー。
◆ 成城大学より名誉博士号授与。
◆ 東京都より「名誉都民」称号授与。

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 2017年/平成29年 (81〜82歳)

◆ 新日本フィル 桂冠名誉指揮者。
◆ 水戸芸術館館長、水戸室内管弦楽団 総監督在任。
◆ 「セイジ・オザワ松本フェスティバル」。ベートーヴェン:レオノーレ序曲第3番、ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第3番(内田光子)。

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 2018年/平成30年 (82〜83歳)

◆ 新日本フィル 桂冠名誉指揮者。
◆ 水戸芸術館館長、水戸室内管弦楽団 総監督在任。
◆ 3月、大動脈弁狭窄症手術のため入院。翌月退院。
◆ 「セイジ・オザワ松本フェスティバル」。サン?サーンス:序奏とロンド・カプリチオーソ(ムター)。

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 2019年/平成31年/令和元年 (83〜84歳)

◆ 新日本フィル 桂冠名誉指揮者。
◆ 水戸芸術館館長、水戸室内管弦楽団 総監督在任。
◆ 「セイジ・オザワ松本フェスティバル」。ふれあいコンサートに出演。
◆ 10月1日、山手線初乗りきっぷ運賃は据え置きで、ICカード運賃が約1.02倍の136円に変更。ICカード運賃は5年ぶりの値上げ。

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 2020年/令和2年 (84〜85歳)

◆ 新日本フィル 桂冠名誉指揮者。
◆ 水戸芸術館館長、水戸室内管弦楽団 総監督在任。

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 2021年/令和3年 (85〜86歳)

◆ 新日本フィル 桂冠名誉指揮者。
◆ 水戸芸術館館長、水戸室内管弦楽団 総監督在任。

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 2022年/令和4年 (86〜87歳)

◆ 新日本フィル 桂冠名誉指揮者。
◆ 水戸芸術館館長、水戸室内管弦楽団 総監督在任。
◆ 日本芸術院会員に選出。
◆ 「セイジ・オザワ松本フェスティバル」。ベートーヴェン:エグモント序曲。

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 2023年/令和5年 (87〜88歳)

◆ 新日本フィル 桂冠名誉指揮者。
◆ 水戸芸術館館長、水戸室内管弦楽団 総監督在任。
◆ 3月18日、山手線初乗りきっぷ運賃が約1.07倍の150円、ICカード運賃が約1.07倍の146円に変更。きっぷ運賃が9年ぶり、ICカード運賃が4年ぶりの値上げ。

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 2024年/令和6年 (88〜89歳)

◆ 新日本フィル 桂冠名誉指揮者。
◆ 水戸芸術館館長、水戸室内管弦楽団 総監督在任。
◆ 1月23日、元妻の江戸京子、心不全により死去。88歳。
◆ 2月6日、小澤征爾、心不全により死去。88歳。

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人物・団体紹介

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マーラー(1860-1911)

1860年:オーストリア領ボヘミア、イーグラウ近郊のカリシュト村で、グスタフ・マーラー誕生。 1875年:ウィーン楽友協会音楽院に入学。 1877年:ウィーン大学にてアントン・ブルックナーの対位法の講義を受講。 1883年:カッセル王立劇場の副指揮者に就任。 1885年:『さすらう若人の歌』を完成。プラハのドイツ劇場の

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