CD 輸入盤

ヨーゼフ・クリップスの芸術〜ステレオ・レコーディングス 1956〜1965年(14CD)

基本情報

ジャンル
:
カタログNo
:
SC834
組み枚数
:
14
レーベル
:
:
Europe
フォーマット
:
CD
その他
:
輸入盤

商品説明


 ヨーゼフ・クリップスの芸術〜1956〜1965ステレオレコーディングス(14CD)

ヨーゼフ・クリップスのコレクションがイギリスのヒストリカル系レーベル、スクリベンダムから登場。
  温厚そうな外見のクリップスは、実際にはかなり豪快な人物で、数々の武勇伝の持ち主でもありますが、指揮者としての技量にも凄いものがあり、ベオグラード国立劇場では、オペラ監督のマタチッチに嫉妬され「あなたは素晴らしい、あなたはすべてについて正しい、しかし、ここには2人分の居場所は無いのです。私はここで生まれた、私はユーゴスラヴィア人だ、あなたは外国人だ。」と退職を迫られ、1939年にウィーンに戻ることになったほどでした。
  このセットでは、傑作として有名なウィーン・フィルとのチャイコフスキー交響曲第5番など、クリップスのコンサート指揮者としての魅力に迫るべく、代表的な演奏からCD14枚分が収められています。


 収録情報

Disc1
●ハイドン:交響曲第94番ト長調「驚愕」
●ハイドン:交響曲第99番変ホ長調
●モーツァルト:交響曲第40番 ト短調 KV 550 *

 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
 フランス国立管弦楽団*
 録音: 1957年9月(ハイドン),1965年11月2日(モーツァルト)

Disc2
●ヨハン・シュトラウス2世:ワルツ「美しく青きドナウ」Op.314
●ヨハン・シュトラウス2世&ヨーゼフ・シュトラウス:「ピチカート・ポルカ」Op.447
●ヨハン・シュトラウス2世:皇帝円舞曲 Op.437
●ヨハン・シュトラウス2世:ワルツ「南国のバラ」Op.338
●ヨハン・シュトラウス2世:ワルツ「加速度」Op.234
●ヨーゼフ・シュトラウス:ワルツ「オーストリアの村つばめ」Op.164
●ヨハン・シュトラウス2世:ワルツ「春の声」Op.410

  ヒルデ・ギューデン(ソプラノ)(6-7)
  ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
  録音: 1956〜1957年

Disc3
●チャイコフスキー:交響曲第5番ホ短調 Op.64
●シューベルト:交響曲第8番ロ短調 D.759「未完成」*

  ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
  ウィーン交響楽団*
  録音:1958年9月(チャイコフスキー),1962年6月3日(シューベルト)

Disc4
●ブラームス:交響曲第1番ハ短調 Op.68*
●シューマン:交響曲第1番変ロ長調 Op.38『春』

  ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団*
  ロンドン交響楽団
  録音:1956年10月(ブラームス),1957年5月(シューマン)

Disc5
●ベートーヴェン:「フィデリオ」序曲 Op.72
●ベートーヴェン:「エグモント」序曲 Op.84
●ベートーヴェン:「コリオラン」序曲 Op.62
●ベートーヴェン:「レオノーレ序曲第3番」 Op.72a
●ベートーヴェン:「献堂式」序曲 Op.124

  ウィーン祝祭管弦楽団
  録音: 1962年

Disc6
●ベートーヴェン:交響曲第1番ハ長調 Op.21
●ベートーヴェン:交響曲第3番変ホ長調 Op.55「英雄」

  ロンドン交響楽団
  録音: 1960年1月

Disc7
●ベートーヴェン:交響曲第2番ニ長調 Op.36
●ベートーヴェン:交響曲第6番ヘ長調 Op.68「田園」

  ロンドン交響楽団
  録音: 1960年1月

Disc8
●ベートーヴェン:交響曲第5番ハ短調 Op.67「運命」
●ベートーヴェン:交響曲第7番イ長調 Op.92

  ロンドン交響楽団
  録音: 1960年1月

Disc9
●ベートーヴェン:交響曲第4番変ロ長調 Op.60
●ベートーヴェン:交響曲第8番ヘ長調 Op.93
●ベートーヴェン:「エグモント」序曲 Op.84

  ロンドン交響楽団
  録音: 1960年1月

Disc10
●ベートーヴェン:交響曲第9番ニ短調 Op.125「合唱」

  ジェニファー・ヴィヴィアン(ソプラノ)
  シャーリー・ヴァーレット(メゾ・ソプラノ)
  ルドルフ・ペトラーク(テノール)
  ドナルド・ベル(バス)
  BBC合唱団
  ロンドン交響楽団
  録音: 1960年1月

Disc11
●シューマン:交響曲第4番ニ短調 Op.120
●シューベルト:交響曲第9番ハ長調 D.944「グレート」

  ロンドン交響楽団
  録音: 1956年10月(シューマン),1958年5月(シューベルト)

Disc12
●モーツァルト:交響曲第35番ニ長調 K.385「ハフナー」
●ハイドン:交響曲第104番ニ長調「ロンドン」
●モーツァルト:交響曲第41番ハ長調 K.551「ジュピター」*

  ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団
  イスラエル・フィルハーモニー管弦楽団*
  録音:1962年9月28-29日(ハフナー、ロンドン),1957年4月(ジュピター)

Disc13
●ブラームス:大学祝典序曲 Op.80
●ブラームス:ハイドンの主題による変奏曲 Op.56a
●ブラームス:悲劇的序曲 Op.81
●R.シュトラウス:組曲「ばらの騎士」

  フィルハーモニア管弦楽団
  録音: 1963年6月

Disc14
●ブラームス:交響曲第2番 ロ短調 Op.73 *
●R.シュトラウス:「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」Op.28

  チューリッヒ・トーンハレ管弦楽団*
  ウィーン交響楽団
  録音: 1960年5-6月(ブラームス),1972年8月(シュトラウス)


 各種リンク

【トピック】
●モーツァルト解釈
●愛煙家で酒豪
●クリンク大佐のドイツ語訛り英語
●笑撃の舞台デビュー
●ウィーン国立音楽舞台芸術アカデミー
●恩師ワインガルトナー
●指揮者デビュー
●ウィーン・フォルクスオーパー
●アウシヒ市立劇場
●ドルトムント市立劇場
●バーデン州立劇場


【年表】
1902190319041905190619071908190919101911191219131914191519161917191819191920192119221923192419251926192719281929193019311932193319341935193619371938193919401941194219431944194519461947194819491950195119521953195419551956195719581959196019611962196319641965196619671968196919701971197219731974


【その他】
●商品説明:年表シリーズ一覧


 モーツァルト解釈

クリップスの指揮するモーツァルトのオペラや交響曲は、ヨーロッパでもアメリカでも高い評価を得ていましたが、その解釈の規範となったのは、意外にもアレクサンダー・フォン・ツェムリンスキーでした。

プラハ・ドイツ劇場のツェムリンスキー
ウィーンから拠点を移し、アウシヒ市立劇場の指揮者となっていた22歳のクリップスは、60kmほど南にあるプラハ・ドイツ劇場に列車で通い、アレクサンダー・フォン・ツェムリンスキーの指揮するオペラをよく鑑賞しましたが、その際にモーツァルトの公演も5、6回経験し、少なからぬ影響を受けています。

クリップス本人の弁
「私がモーツァルトを解釈する方法は、ブルーノ・ワルターではなく、ツェムリンスキーから得たものです。彼の指揮はもっとシンプルで、オーケストラの柔軟な音色と、歌手の軽やかな歌声という私の理想に近いものでした。私はそれを追求するために生涯をかけて努力しました。」


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 愛煙家で酒豪

クリップスはたばこも葉巻も酒も大好きで、ナチの禁煙運動にもめげずに戦時中も吸い続けていましたし、戦時中に特別労働許可を得て働いていたのはワインの会社でもありました。

豪快伝説
クリップスは最初の一服でタバコのほとんどを吸ってしまう(?)とか、ジョッキのビールを一気に飲んでしまうといった話が伝えられています。その肩幅や胸板が印象を補強していた可能性もありますが、吸いっぷりも飲みっぷりも豪快だったことは確かなようです。そして葉巻は、楽員を𠮟責した際に、仲直りの贈り物として使ったりもしています。


飲み会大好き
クリップスは若い頃には朝まで賑やかに飲むのが好きだったようで、クレメンス・クラウスの代役としてザルツブルク音楽祭にデビューした1935年夏には、オペラ歌手のパーティーに出席し、夜8時から朝4時半まで続いた宴のあと、酔っぱらい12人(!)が座ったりしがみついたりした愛車アドラーを運転し、ザルツブルクまで十数キロの道を走行、到着後、全員バーになだれ込んでさらに飲み続けるなどと無茶なこともしていました。


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 クリンク大佐のドイツ語訛り英語

きついアクセント
高地ドイツ語圏であるウィーン出身のクリップスは、英語は得意でしたが、アクセントの非常にきついドイツ語訛りだったということで、バッファロー・フィルでもサンフランシスコ響でも発言の意味を誤解されることがあり、たとえば「evaporate(消えるように)」と指示したつもりが、「Have a parade(パレードをやって)」と受け取られるなど、リハーサルの混乱を招くこともあったのだとか。

人気テレビ・ドラマの巻き添え
クリップスがサンフランシスコ響の音楽監督を務めていたのは1963年から1970年にかけてのことでしたが、1965年から、ドイツ語訛りの英語を喋る人物が登場するテレビ・ドラマが始まり、それが人気を博して1971年まで続いていたため、クリップスの英語も巻き添え被害を受けることがありました。
  クリップスの英語は、そのコメディ・ドラマの重要人物、クリンク大佐のドイツ語訛りの英語を想起させるということで、ユース・オーケストラのリハーサルをしたときは、クリップスが喋るたびに子供たちが笑うため、怒って途中で降りてしまったほどです。
  ちなみにそのドラマは全168話が放映された「Hogan's Heroes」で、日本でも「OK捕虜収容所」という、有名な西部劇にあやかったような妙なタイトルが付けられて放映されています(ガッツ石松の決めゼリフ「OK牧場」は1990年から)。

クレンペラーの息子
クリップスと喋りが似ていると言われたのは、捕虜収容所の所長、ヴィルヘルム・クリンク大佐の役で、演じていたのはオットー・クレンペラーの息子、ワーナー(ヴェルナー)・クレンペラーで、す。
  「捕虜収容所は爆撃されない」という不文律から、要人の会議にも使われたりしたという設定で、騙されやすいクリンク所長を相手に米兵たちが繰り広げるコメディでした。


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 笑撃の新聞批評デビュー

マルチな才能
1920年10月、18歳のクリップスは、ウィーン・フォルクスオーパー「トスカ」の舞台で、本番直前にキャンセルになったアンジェロッティ役の代わりに出演する一方、ハルモニウムの演奏や、鐘の打ち鳴らしもおこない、舞台裏合唱団の指揮まで担当。

ずっこけ脱獄囚
しかし、オペラの冒頭、アンジェロッティの登場の場面で、うっかり外套の裾を踏んで転んでから、「ああ、うまくいった!」と歌ったため、場内は爆笑の渦。新聞評にも「サンタンジェロ城の囚人たちがうらやましい、あそこの食事はさぞかし美味しいのだろう。」などと書かれてしまいます。これは大柄で太めのクリップス少年を揶揄したものでした。ちなみに問題の最初の歌詞は、元はイタリア語で"Ah! Finalmente!"ですが、ドイツ語訳詞上演では"Ha, das gelang mir!"となっていました。

童顔で老け役
ほかにクリップスは「リゴレット」では、モンテローネ伯爵を演じていますが、恐ろしい形相で激高し、呪いの言葉を吐く老人の容貌に仕上げるために4人がかりでメイクしても、少年のふくよかな顔のイメージを消すことができなかったのだとか。また、オベールの「フラ・ディアヴォロ」でも、旅館の亭主マッテオという老け役を任されていました。


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 ウィーン国立音楽舞台芸術アカデミー 1920-1921

1920年、18歳のクリップスは、ウィーン国立音楽舞台芸術アカデミーに入学。

名物教授マンディチェフスキー
オイゼビウス・マンディチェフスキー[1857-1929]教授に、和声、対位法、作曲を師事。マンディチェフスキーは、ブラームスと親交があったほか、ベートーヴェン、ハイドン、シューベルトの作品の研究でも有名でした。

クリップスの記憶力とマンディチェフスキーの慧眼
ある日、モーツァルトのオペラの講義で、スザンヌのばらのアリアをピアノで弾ける人がいないかマンディチェフスキーが学生たちに問いかけたところ、クリップスだけが実演。
  当時のクリップスは、多くの歌手との交流から、端役に至るまで研究しており、オペラの隅々までよく知っていました。18歳の時には、少なくとも12〜15曲のオペラで、楽譜無しで、歌手の間違った音を修正することができました。
  マンディチェフスキーは楽友協会のアーキヴィストもしていた関係でクリップスの父のことも知っており、「あなたの息子は必ず指揮者になるでしょう」と伝えてもいました。


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 恩師ワインガルトナー

ワインガルトナーとの偶然の出会い
1921年、19歳のクリップスはワインガルトナー監督からスカウトされています。ウィーン国立音楽舞台芸術アカデミー入学後もフォルクスオーパーに出入りしていたクリップスは、ある日20人ほどの歌手のオーディションの現場でワインガルトナーと遭遇。たまたまオーディションのピアノ伴奏をするはずだったコレペティトアが急病でキャンセルとなったため、伴奏できる者がいないか呼びかけたワインガルトナーに対し、クリップスが自分にやらせて欲しいと申し出て、カルメンやワルキューレなどのさまざまなアリアを楽譜なしで伴奏。感銘を受けたワインガルトナーは、クリップスにフォルクスオーパーで働くよう提案。クリップスは「私が最も興味を持ったのは、あなたが私と少しでも一緒に仕事をしてくれることです」と大喜びで承諾しています。

ワインガルトナーの現場での指導
当時58歳のワインガルトナーは、フォルクスオーパーとウィーン・フィル首席指揮者を兼任しており、ほかに海外・国内でも多くの公演があって多忙でしたが、時間の許すときは、自宅や監督室でクリップスと話をし、さらにクリップスに対して、セミナーのようなものも開催、スコアについて研究し、議論を重ねていました。また、リハーサルについても、見学だけでなく、実際にクリップスに任せてくれるようになり、多くのことを現場で習得する手助けをしています。
  プライヴェートでも、2人で演劇を観に行ったり、ワインガルトナーが得意の料理を振舞ってくれたりと親切で、クリップスがカールスルーエの監督になってからも、時々公演を聴きに訪れ、感想を伝えてくれたのが、クリップスにとっては貴重なアドヴァイスになってもいました。クリップスにとってワインガルトナーは、生涯最大の恩師でした。


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 指揮者デビュー 1921

1921年9月3日、19歳のクリップスは、ウィーンの労働会館「ファヴォリーテン」の大ホール(1,117席)で、ヴェルディ「仮面舞踏会」を指揮。

指揮者の急病キャンセル
この公演はもともとウィーン国立歌劇場のコレペティトアであるフィクトア・ボシェッティ[1871-1933]が指揮するはずでしたが、公演前日に狭心症の発作でキャンセルとなり、通常ルートでの代役は手配できないという状況でした。

出演者たちの指名により代演決定
しかし、公演に出演するメンバーたちが、フォルクスオーパーに17歳の時から雑用係として出入りしているクリップスのことを思い出し、彼ならきっとできるはずだとその名を挙げたため、急遽連絡され、ごく短時間の準備で実現したものです。


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 ウィーン・フォルクスオーパー 1917-1924

オペレッタ専門ではなかったフォルクスオーパー
世界大恐慌以前のフォルクスオーパーはオペレッタ専門ではなく、通常のレパートリーの歌劇場でした。ウィーン国立歌劇場に次ぐ、ウィーン第2の歌劇場という位置づけで、「ニーベルングの指環」や「悪魔のロベール」など、多彩な演目を50曲以上、年間300を超える上演をおこなっていました。

15歳からヴァイオリン奏者として参加
クリップスは、ウェーリンガー・ギムナジウム在学中の1917年からフォルクスオーパー管弦楽団の代理ヴァイオリン奏者として公演に時々参加し、オペラの世界に入って行きます。

17歳から雑用係として出入り
1919年、17歳のクリップスは、ウェーリンガー・ギムナジウムにまだ在学中でしたが、フォルクスオーパーに雑用係として出入りするようになり、歌手の稽古につきあったりもしています。

18歳で端役デビュー
第1次大戦後の人手不足もあって、声楽も学んでいたクリップスは端役に重用され、18歳の時に「椿姫」の舞台で、端役のグランヴィル医師、ドゥフォール男爵、フローラの使用人の3役を兼務したのをきっかけに、いろいろな端役で出演するようになりますが、「トスカ」のアンジェロッティ役では転倒したことで新聞批評デビューを飾ってもいます。

19歳でコレペティトアとして契約
1921年9月1日、19歳のクリップスは、ウィーン・フォルクスオーパーのコレペティトアとして正式に契約。年間300を超える公演のはほぼすべてに何らかの形で参加し、オペラ上演のノウハウを細部に至るまで身につけ、1922年4月の上シレジアでのオペラ・フェスティヴァルでは「こうもり」と「密猟者」の本番公演を指揮しています。

20歳で合唱指揮者
1922年11月に任命。合唱が難しい「ボリス・ゴドゥノフ」上演の直前に前任の合唱指揮者が急死、クリップスがうまくリハーサルをこなしたことで公演も成功。後任として認められたというものです。

21歳で指揮者
経験豊富なクリップスだけに、運営陣の評価も高く、指揮者昇格にもあまり時間はかかりませんでした。1923年に入ると、「美しきヘレナ」「蝶々夫人」「千夜一夜物語」「ジプシー男爵」「皇帝と船大工」「伝道師」「ミニョン」「リゴレット」「トリスタンとイゾルデ」「ジークフリート」「後宮からの誘拐」「ドン・ジョヴァンニ」「ローマの謝肉祭」「ウィンザーの陽気な女房たち」「フィデリオ」などを指揮。

オーケストラ・コンサート
1923年11月には、フォルクスオーパー管弦楽団を指揮してオーケストラ・コンサートを開催。場所はウィーン郊外のシェーンブルン宮です。

22歳で退任
隣国ドイツのハイパーインフレほどではないものの、オーストリアも戦中戦後のインフレがひどく、1924年にはフォルクスオーパーの財政難がさらに深刻になり、4月にワインガルトナーなど多くの指揮者が退任。クリップスは5月のオペラ・フェスティヴァルで指揮したのち、監督のフリッツ・シュティードリーから第1楽長という条件で残ってくれるよう懇願されるものの断り、フォルクスオーパーを去る道を選んでいます。この時点でクリップスはすでに38曲のオペラをレパートリーとしていました。



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 アウシヒ市立劇場 1924-1925

スカウト
1924年、フォルクスオーパー退任後、劇場代理店の仕事で、歌手の伴奏をしているときに、クリップスは、アウシヒ市立劇場監督アルフレート・フッティヒ[1882-1952]からスカウトされ、アウシヒ市立劇場のオペラ指揮者の仕事を引き受けます。

小都市の小劇場
アウシヒ市立劇場は、1,000席の劇場で、1シーズンは9か月間で、有給休暇は1か月間という条件。アウシヒ市は人口約6万人の小都市で、オーケストラは36人、合唱団は38人という規模。そのままでは演奏できない作品も多かったので、クリップスはここで、臨機応変にさまざまな編曲をおこなう技術を習得。また、劇場の楽団によるオーケストラ・コンサートも何度か指揮してもいます。

ドイツ各地の劇場関係者から注目
すでに経験豊富なクリップスの公演は水準が高く、すぐにドイツの劇場関係者から注目されるようになります。アウシヒ着任の6週間後にはドイツ各地から8つのオファーが舞い込んでいます。

結婚
翌1925年8月12日には、クリップスは、マリア・ヘラー未亡人と結婚もしています(5年後に自動車事故で死去)。


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 ドルトムント市立劇場 1925-1926

シェーファー監督からのスカウト
アウシヒ市立劇場の上演がドイツ各地の劇場関係者から注目される中、ドルトムント市立劇場のカール・シェーファー監督はクリップスに対して年俸12,000マルクという高額な条件を提示、クリップスは喜び、1924年12月にはさっそくドルトムントに客演して、「ボエーム」と「カルメン」を指揮して実力を披露しています。

ドルトムント市立劇場第1楽長に就任
1925年、クリップスは、ドルトムント市立劇場(1,400席)の第1楽長に就任。当時のドルトムント市は人口約32万人の主要都市で、オーケストラは94人、合唱団は80人という規模。

「エレクトラ」のモトネタ(?)、「カッサンドラ」上演
着任後まもなく、クリップスは、ヴィットーリオ・ニェッキの「カッサンドラ」を作曲家同席で上演。この「カッサンドラ」は、1903年に27歳で作品を完成させたニェッキが、リヒャルト・シュトラウスに楽譜を送って意見を求めたのち、1905年にトスカニーニが初演した作品。
  シュトラウスは翌1906年から1908年にかけて似た題材の「エレクトラ」を作曲し、1909年に初演していますが、冒頭部分をはじめとして少なからず「カッサンドラ」の音楽と似ているところがあるということで、イタリアでは盗作騒ぎになったことでも知られています(確かに似ていますが、大先輩に気を使ってかニェッキ本人は何も語らなかったということです)。
  クリップスも当然この話は知っていたはずですし、その問題作を作曲者同席で上演するとは、なかなかの肝のすわりぶりですが、注目を集める効果は十分にあったようです。


「影の無い女」の楽譜使用料値引き交渉
翌1926同年には、ウィーン国立歌劇場取締役会のカール・リオンがクリップスの「さまよえるオランダ人」を聴くためにドルトムントを訪問。その際にリオンはクリップスにレパートリーなど質問し、クリップスは「影の無い女」をとりあげたいが、楽譜使用料の1万マルクが高すぎてドルトムントでは支払うことができないと訴えたところ、リオンはシュトラウスに話して割引できるようにすると約束。

シェーファー監督を侮辱して契約期間短縮
値引き交渉から3週間後、劇場内の監督室の前の廊下で、年長の同僚指揮者、カール・ヴォルフラムが、監督から「影の無い女」を出版社が特別価格で提供してくれることになったので指揮するように言われたと、小躍りしながら嬉しそうにクリップスに伝えてきました。
  自分が手配した案件を奪われ頭に血がのぼったクリップスが、「だから何だというんですか、あの老いぼれの愚か者はいったい何をしているんでしょうか。」と怒鳴ってしまうと、監督室からカール・シェーファーがとび出てきて「それは私のことか」と詰問、クリップスが認めたため、評議会に召喚されることとなり、シーズン終了と共に辞めることで合意しています。
  それまでの数か月間、指揮をこなす一方で、別の劇場の仕事を探しますが、どこからも断られています。
  最後の日、楽員たちは道路にまで出て別れを惜しんでくれました。


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 バーデン州立劇場 1926-1933

カイルベルトがコレペティトアとして契約
1925年、クリップスより6歳若いヨーゼフ・カイルベルトが、バーデン州立劇場のコレペティトアとして契約。カイルベルトの父親は同劇場管弦楽団のソロ・チェロ奏者でした。カイルベルトは、翌年に音楽総監督に就任したクリップスのお気に入りとなり、数多くのリハーサルに参加しています。また、カトリックの行事「灰の水曜日」の直前におこなわれるカーニヴァル週間では、毎年のように、クリップス、ルドルフ・シュワルツ、カイルベルトのほか、多くの劇場人が集まり(時にはクリップスの弟も)、愉快な音楽を演奏するなどして聴衆を喜ばせ、そのあとは町に繰り出して、カールスルーエの人々と一緒に朝まであちこちでパーティという状態でした。


ベルリンのエージェントから電報
1926年7月、ウィーンに戻ったクリップスは、仕事は見つからなかったものの、ドルトムントで貯めた5,000マルクで暫くはやっていけそうだったので、14歳の弟ハインリヒ(のちのヘンリー・クリップス)と共に、山間のアッター湖近くに滞在していました。そこにベルリンのエージェントから電報が到着。
  バーデン州立劇場の音楽監督フェルディナント・ワーグナー[1898-1926]が急死したので、すぐにその上司のハンス・ヴァーク総監督のところに行って欲しいという内容でした。
  クリップスはすぐに総監督が滞在中のバーデン・バーデンに向かい2日かけて到着。総監督との面談を無事に終え、2週間後に「さまよえるオランダ人」とオーケストラ・コンサートを指揮することも決まると、40キロほど離れたカールスルーエまで総監督の車で同行、カールスルーエ市長やバーデン・バーデン市長、市議会議員らを紹介されています。
  2週間後におこなわれた「さまよえるオランダ人」上演と、ベートーヴェン5番、モーツァルト40番、「タンホイザー」序曲のコンサートでは大成功を収めます。

80人を超える指揮者が応募
1926年8月、カールスルーエ市の音楽総監督が公募され、80人を超える指揮者が応募。ウィーン、ベルリン、ドレスデンの各国立歌劇場に楽長として在籍中の指揮者も多く、中には、ワインガルトナー(ウィーン・フィル首席指揮者)、クレンペラー(ヴィースバーデン歌劇場音楽総監督)、ベーム(バイエルン国立歌劇場第1楽長)、セル(ベルリン国立歌劇場第1楽長)といった名もありましたが、就任後の実務が専任か兼任かということも検討され、最終選考には、クリップスと、8歳年長のベームが残っています。

バイエルン国立歌劇場訪問
クリップスはベームに決まった場合に備えてか、ミュンヘンを訪問。その際にバイエルン国立歌劇場総監督のフランケンシュタインから、カールスルーエと同じ金額でバイエルンに来て欲しいと請われ、38歳の音楽総監督クナッパーツブッシュにも、新しい第1楽長として紹介されてもいました。

ベームに勝利
そして、フランケンシュタイン総監督の動きがカールスルーエの委員会を刺激することになり、ベームの選考追加演目「魔笛」の評判が冴えなかったこともあって、カールスルーエ市の音楽総監督はクリップスに決定することになります。ちなみにベームは翌年、バイエルンを出てヘッセンのダルムシュタット市立劇場の音楽総監督に就任しています。

カールスルーエ市音楽総監督就任
クリップス、カールスルーエ市の音楽総監督となり、歴史あるバーデン州立劇場の音楽総監督に就任。ドイツで最年少の音楽総監督として注目されます。


名称変遷
この劇場では、1918年の「バーデン大公国」の終焉まで「宮廷劇場」の名が継続していました。
  しかし、1918年のドイツ革命により君主制が廃止され、ドイツ帝国がヴァイマル共和政になり、連邦制のもと、ドイツの国々が「州」に移行すると、「バーデン大公国」も、ドイツ国の州のひとつになります。もっとも、名前は「バーデン州」ではなく「レプブリーク・バーデン(バーデン共和国)」としており、ドイツの州で唯一、国を名乗っていました。そのため劇場名も、「シュターツテアター」を採用せず、より広い意味合いを持つ「ランデステアター」へと変更しています(ここでは州立劇場と訳)。
  15年後の1933年、ナチ政権が誕生すると劇場は国の組織「国立劇場」となり、「ランデステアター」から「シュターツテアター」に名称が変更、現在に至っていますが、戦後は同じ名称でも、意味合いは州立劇場となっています。
  なお、「バーデン大公国」は、1866年の普墺戦争の際には、バイエルンやザクセン、ヘッセン諸国と共にオーストリア側で参戦し、プロイセン、イタリアなどの陣営に敗北しています。

1シーズンの指揮回数100回以上
クリップスは、7年間の在任中、モーツァルト、ワーグナー、リヒャルト・シュトラウスなどをレパートリーの柱として、現代作品なども上演、その作品数は126という凄いもので、1シーズンの指揮回数も100回以上と膨大でした。
  さらに、バーデン州立劇場は、2〜3週間に1度の頻度で、周辺のプファルツ、ランダウ、ノイシュタット、バーデン・バーデン、ストラスブールなどに客演もしていたので、クリップスの劇場生活は、多忙かつ変化に富むものとなっていました。

オペラ以外も1シーズン25回以上指揮
カールスルーエ市の音楽総監督だったクリップスは、オペラだけでなく、オーケストラなどのコンサートも数多く指揮しています。1シーズンの内訳は、定期演奏会が10回、大衆向けコンサートが6〜8回、オラトリオなどの合唱コンサートが4〜5回、ユース・コンサートが5回といったもので、ブルックナーの交響曲第1・3・4・5・6・7・8・9番、テ・デウム、ヘ短調ミサ、マーラーの交響曲第2・3・5・9番、「大地の歌」、歌曲集など、当時一般的では無かった作品もどんどん取り上げていました。

シュワルツが第1楽長に就任
バーデン州立劇場第1楽長に、ルドルフ・シュワルツ[1905-1994]が就任。ウィーンに生まれて17歳でウィーン国立歌劇場とウィーン・フィルでヴィオラを弾いていたシュワルツは、19歳でデュッセルドルフ歌劇場のジョージ・セルのもとでコレペティトアになり、ほどなく指揮者デビューしていました。シュワルツは、ユダヤ人だったため公務員法により1933年4月に解雇。1936年から1938年にスウェーデンのイェーテボリ響の指揮者、1936年から1941年までベルリンのユダヤ文化協会オーケストラの音楽監督を務め、1939年に逮捕され1940年まで投獄、1941年にユダヤ文化協会オーケストラが解散するとアウシュヴィッツ強制収容所に送られていますが、フルトヴェングラーの最初の妻ツィートラの尽力で釈放。しかし1943年にはザクセンハウゼン強制収容所に送られ、1945年にはベルゲン・ベルゼン強制収容所に移送。同収容所のアンネ・フランクと同じく腸チフスに罹患し、38キロまで体重が減りますが、イギリス軍によって解放・治療されてなんとか助かり、スウェーデンで引き続き療養して回復。翌1946年にはベルリン市立歌劇場(現ベルリン・ドイツ・オペラ)から指揮者就任要請がありますがシュワルツは拒否。1947年ボーンマス響音楽監督、1951年バーミンガム市響音楽監督、1957年BBC響首席指揮者を歴任、1964年から1973年まではノーザン・シンフォニア音楽監督を務め、その間、1973年には大英帝国勲章コマンダー(CBE)に列せられています。また、同じくユダヤ系のサイモン・ラトルに影響を与えてもいました。


フランクフルト歌劇場と往復
1929年2〜5月、クリップスはフランクフルト歌劇場とカールスルーエを忙しく往復する生活を送ります。クレメンス・クラウスが4か月間、南米テアトロ・コロンに出かけたため、友人でもあるクリップスが代演、フランクフルトで46公演を指揮。バーデン州立劇場での仕事も多かったので、しばらくカールスルーエとフランクフルトを列車で往復し、週に4回のオペラ上演をおこなうという非常に多忙な生活が続きます。中には「マクロプロス事件」のドイツ初演など重要な公演もありました。クラウスはこれでクリップスに全幅の信頼を寄せ、以後は頻繁に連絡を取り合うようになり、「自分は間違いなくウィーンに行きます。そしてあなたをウィーンに連れて行きます。」と約束。



バロック時代の紛争でコンサート
1929年、ブルッフザール城で、クリップスはチェンバロ弾き振りで、バーデン州立劇場の楽員16名と、バロック作品のほか、当時未発表のハイドン作品などを演奏。


バーデン・ブルックナー・フェスティヴァル
1929年、バーデン州立劇場のオーケストラと出演。この音楽祭には、音楽好きなユリウス・フィンター市長の計らいでカールスルーエ市から3万マルクが助成され、オーケストラ・コンサートだけでなく、レクチャーや、室内楽、声楽曲、ピアノ編曲版による交響曲第5番の演奏などもおこなわれていました。クリップスは目玉となる交響曲第1、5番などを指揮。3,000人収容の大ホールでの演奏でしたがチケットは完売しています。

メトロポリタン歌劇場から誘い
1930年、アルトゥール・ボダンツキーからメトロポリタン歌劇場の指揮者になるよう誘われます。しかし、クリップスは自分が若すぎることを理由に断っています(実際には大恐慌下のアメリカには行きたくなかったものと思われます)。


サンフランシスコ交響楽団から首席指揮者就任要請
1930年、クリップスは、サンフランシスコ交響楽団の首席指揮者への就任要請を断っています。大恐慌下のアメリカには行きたくなかったものと考えられます。クリップスの辞退により、ベイジル・キャメロン[1884-1975]とイサイ・ドブロウェン[1891-1953]が共同で音楽監督権首席指揮者を務めています。

ショルティ、コレペティトアとして契約
1932年12月にクリップスがハンガリー王立劇場に客演した際、フバイが20歳のコレペティトア、ショルティを紹介し、ショルティはクリップスの前で、気合の入った演奏で歌手の伴奏をしてみせました。気に入ったクリップスは自分のところに来ないか誘ったところ、ショルティは大喜びで承諾。翌1月1日からバーデン州立劇場のコレペティトアとして契約しています(当時のハンガリー王立歌劇場は大恐慌の影響で深刻な財政難でした)。しかし、ヒトラー政権誕生が誕生したため、ユダヤ人で外国人だったショルティは、2月10日に解雇されています。


クリップス、シーズン終了まで指揮
1933年2月、クリップス、バーデン州議会議長のもとへ出向き、自分の父親がカトリックのユダヤ人であったことを告げ、判断を仰ぎます。結果は、シーズンの終わる8月31日まで働いて欲しいというもので、クリップスはそれまでと同じように仕事をすることができました。


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 年表
 1902年
(0歳)

●4月8日、ヨーゼフ・アロイス・クリップス、ウィーン19区デーブリングのアパートで誕生。クリップスは5人兄弟のうちの第1子で、出生時の体重は6.3kg。末の弟ハインリヒ[1912-1987]は、のちに指揮者のヘンリー・クリップスとして知られるようになります。
  父は外科医・産科医でカトリック。ウィーン楽友協会合唱団のメンバーで、オペラやコンサートにもよく通っていました。父方の祖父はウィーンで眼鏡店を経営。
  母ルイーゼ[1879-1971]もカトリック。ウィーンの裕福な材木商の娘で、実家はデーブリングのビルロートシュトラーセの18室ある邸宅。
  父は母に求婚するときに自分の両親がユダヤ人であることを告げていますが、母とその家族は受け入れて1901年7月2日に結婚。父と母は穏やかな人柄で、クリップスが実家にいた22年間、喧嘩するのを見たことが無かったのだとか。

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 1903年(0〜1歳)

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 1904年(1〜2歳)

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 1905年(2〜3歳)

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 1906年(3〜4歳)

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 1907年(4〜5歳)

●クリップス家、デーブリング、ジルバーガッセのザールプラッツに庭付きの家を買って転居。庭では、ヤギ、ニワトリ、ウサギ、ブタも飼育していました。
●クリップス、妹のルイーゼ、乳母、料理人による歌を小さな棒を使って指揮のまねごと。
●クリップス、この頃から、音楽シーズンでは毎週のようにウィーン楽友協会合唱団のリハーサルに父に連れていかれるようになります。リハーサル会場のブラームスザールではフランツ・シャルクの指揮で、マタイ受難曲、ヨハネ受難曲、モーツァルトのレクイエム、ブラームスのドイツ・レクイエム、ヴェルディのレクイエム、ヘンデルのオラトリオなどに接しています。

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 1908年(5〜6歳)

●クリップス家、デーブリングのカースグラーベンに農地を購入し、母と調理人が多くの種類の野菜や果物を栽培、ジャガイモの収穫量は年に2トンに達していました。この畑は第1次大戦の食糧難の際に役立ちました。
●クリップス、この頃から、近所にあるカルメル会教会のレーゲンス合唱団に所属。少年期はアルトで、変声期後はバリトンでした。
●クリップス、ピアノの勉強を本格化。師はレーゲンス合唱団の指揮者で、ブルックナーの弟子だったアロイス・ブラシュケ教授。
●クリップス、この頃から、音楽シーズンでは毎週のようにウィーン楽友協会合唱団のリハーサルに父に連れていかれるようになります。リハーサル会場のブラームスザールではフランツ・シャルクの指揮で、マタイ受難曲、ヨハネ受難曲、モーツァルトのレクイエム、ブラームスのドイツ・レクイエム、ヴェルディのレクイエム、ヘンデルのオラトリオなどに接しています。

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 1909年(6〜7歳)

●クリップス、フォルクスオーパーで「ローエングリン」を鑑賞。初のオペラ体験でした。フォルクスオーパーは、もともと「皇帝記念市立劇場」として1898年に開場し、1905年に「皇帝記念市立劇場フォルクスオーパー」、1908年に「フォルクスオーパー」と改名しています。


●クリップス、ウィーン宮廷歌劇場でマスネの「ノートルダムの曲芸師」を鑑賞。

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 1910年(7〜8歳)

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 1911年(8〜9歳)

●5月、クリップス、家の近くのグリンツィングに友達といたところ、マーラーの葬列に遭遇。6頭立ての霊柩車など多くの馬車に膨大な数の人々が参列していました。

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 1912年(9〜10歳)

●クリップス、デブリンガー・ギムナジウム入学。
●クリップス、ヴァーザ・ギムナジウム転入。

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 1913年(10〜11歳)

●クリップス、ヴァーザ・ギムナジウムに在学。

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 1914年(11〜12歳)

●クリップス、ヴァーザ・ギムナジウム在学。
●クリップス、ヴァイオリンの勉強を本格化。師はフォルクスオーパー管弦楽団のコンサートマスター、フリッツ・ブルナー。
●クリップス、ウィーン宮廷歌劇場で「パルジファル」を母らと共に鑑賞。朝から忙しい一日で、疲れ切って劇場に到着したこともあって、母もクリップスも睡魔に勝てず、第2幕が終わると劇場を退出。
●父親、政府からの戦時国債購入要請を引き受け、手持ちの現金すべてを購入に充てますが、戦時・戦後の激しいインフレにより失っています。

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 1915年(12〜13歳)

●クリップス、ヴァーザ・ギムナジウム在学。
●クリップス、ウェーリンガー・ギムナジウム転入。同級生には、2歳年長のエルンスト・クレネク[1900-1991]がおり、室内楽や歌曲でコンサートをおこなったりもしています。

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 1916年(13〜14歳)

●クリップス、ウェーリンガー・ギムナジウム在学。

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 1917年(14〜15歳)

●クリップス、ウェーリンガー・ギムナジウム在学。
●クリップス、ウィーン楽友協会合唱団のリハーサルを終えたワインガルトナーの前でヴァイオリンを演奏(ベートーヴェン:ロマンス2曲)、ユリウス・エックハルト[1858-1935]教授に推薦してくれます。エックハルトはロゼー四重奏団、ヘルメスベルガー四重奏団、ウィーン・フィル楽員としての活躍で知られ、この頃にはウィーン音楽舞台芸術アカデミーで教えていました。
●クリップス、フォルクスオーパー管弦楽団の代理奏者として、公演に時々参加するようになります。


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 1918年(15〜16歳)

●クリップス、ウェーリンガー・ギムナジウム在学。
●10月、クリップス、カルメル会教会のレーゲンス合唱団のモーツァルトのレクイエムの公演で、バリトン独唱を担当。テノール独唱は父親でした。
●クリップス、フォルクスオーパー管弦楽団の代理奏者として、公演に時々参加。


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 1919年(16〜17歳)

●クリップス、ウェーリンガー・ギムナジウム在学。宗教学担当のフランツ・グマイナーの指揮により、ヴァインハウス教区教会でたびたびオラトリオなど演奏。
●父親が家庭医を務めていた近所のツェルフ家の娘が、セルブ=クロアート=スロヴェーヌ王国(1929年にユーゴスラヴィア王国に改名)の医師のもとに嫁ぎ、2年後にセーナ・ユリナッチ[1921−2011]が誕生。ユリナッチとクリップスは数多く共演。
●クリップス、フォルクスオーパー管弦楽団の代理奏者として、公演に時々参加。


●クリップス、声楽教師オットー・イーロ[1890-1971]のもとで歌の勉強を始めます。父はクリップスが音楽家になることに反対で、このときは学費を与えてくれなかったため、クリップスは、イーロの助手を務めることになります。
●クリップス、ウィーン国立歌劇場のフランツ・シャルクのオーディションを受け、ヴォルフラム役のアリアを歌ったところ、シャルクが「歌劇場の費用でイタリア留学をしたらどうか」と言ってくれたものの、クリップスは指揮者になりたかったため辞退しています。
●クリップス、カルメル会教会のレーゲンス合唱団のメンデルスゾーン「エリヤ」の公演で、主役エリヤを2日連続で担当。このときの大きな負担により、クリップスは歌手の道に進まないことを決意。
●クリップス、フォルクスオーパーに、雑用係として出入りするようになります。これは当時のワインガルトナー監督の代理であった若いカール・ルスティヒ=プレアン[1892-1965]の采配によるもので、通常の手続きを経ずに雇われていました。ルスティヒ=プレアンは15年後の1934年にフォルクスオーパー監督として舞い戻り1年間在職。ちなみにインフレで財政が逼迫していたフォルクスオーパーは、1925年に「新ウィーン・シャウシュピールハウス」と改名、1927年の財政破綻を経て、オーストリア併合の1938年に「国立フォルクスオーパー」と改名、1945年に「フォルクスオーパー」に戻っています。なお、フォルクスオーパーはギムナジウムのすぐ近くでした。


●クリップス、のちに有名になるバス歌手、ヨーゼフ・フォン・マノヴァルダ[1890-1942]の練習にピアノ伴奏で協力。ウィーン国立歌劇場での「影の無い女」の伝令使の役を歌う準備のため、クリップスが自宅を提供して一緒に練習します。マノヴァルダとはブラームスの歌曲の練習などもしていました。

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 1920年(17〜18歳)

●クリップス、ウェーリンガー・ギムナジウム卒業。
●クリップス、フォルクスオーパー「椿姫」の舞台で、脇役のグランヴィル医師、ドゥフォール男爵、フローラの使用人の3役を兼務。


●10月、クリップス、フォルクスオーパー「トスカ」の舞台で、本番直前にキャンセルになったアンジェロッティ役の代わりに出演する一方、ハルモニウムの演奏や、鐘の打ち鳴らしもおこない、舞台裏合唱団の指揮まで担当。


●クリップス、ウィーン国立音楽舞台芸術アカデミーに入学。


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 1921年(18〜19歳)

●クリップス、ワインガルトナー監督からスカウト。


●クリップス、、ウィーン国立音楽舞台芸術アカデミーを退学。
●7月、クリップス、オーバーシュレージエン(上シレジア)で開催されたウィーン・オペラ・フェスティヴァルに同行。
●9月1日、クリップス、フォルクスオーパーのコレペティトアとして契約。


●9月3日、クリップス、19歳で指揮者デビュー。ウィーンの労働会館「ファヴォリーテン」の大ホール(1,117席)。


●12月、クリップス、フォルクスオーパー管。「未完成」ほか。ホーフグルクのツェレモニエンザール。

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 1922年(19〜20歳)

●クリップス、フォルクスオーパー在職。


●4月、クリップス、フォルクスオーパー。「カルメン」。ウィーン、ノイシュタット公演。
●4月、クリップス、オーバーシュレージエン(上シレジア)で開催されたウィーン・オペラ・フェスティヴァルに同行。舞台監督、コレペティトア、合唱指揮者のほか、「密猟者」「こうもり」では指揮も担当。
●11月、クリップス、フォルクスオーパーの合唱指揮者に任命。合唱が難しい「ボリス・ゴドゥノフ」の直前に前任の合唱指揮者が急死、クリップスがうまくリハーサルをこなしたことで公演も成功。後任として認められます。

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 1923年(20〜21歳)

●クリップス、フォルクスオーパー在職。「美しきヘレナ」「蝶々夫人」「千夜一夜物語」「ジプシー男爵」「皇帝と船大工」「伝道師」など指揮。


●クリップス、フォルクスオーパーのリンツ市立劇場公演。「ミニョン」「リゴレット」「トリスタンとイゾルデ」「ジークフリート」「後宮からの誘拐」「ドン・ジョヴァンニ」。
●3月、クリップス、J.シュトラウス「ローマの謝肉祭」のマリー役の歌手が拒んだため、ルーマニアから来た新人ヴィオリカ・ウルスレアク[1894-1985]と入念にリハーサル。公演は大成功となり、ウルスレアクの名を高めました。ウルスレアクはのちにクレメンス・クラウスの妻となります。
●3月、クリップス、フォルクスオーパーのリンツ市立劇場公演。「ウィンザーの陽気な女房たち」「フィデリオ」。
●11月、クリップス、フォルクスオーパー管。シェーンブルン宮。


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 1924年(21〜22歳)

●3月、クリップス、フォルクスオーパー管。フォルクスガルテン。
●4月、ワインガルトナー、フォルクスオーパー監督を退任。カール・アウデリート、レオ・クラウスら多くの指揮者も同時に退任。ハイパーインフレによる財政難が原因でした。
●5月、フォルクスオーパー監督に、マーラーの弟子で指揮者のフリッツ・シュティドリー[1883-1968]と、歌手のアウグスト・マリア・マルコウスキー[1880-1939]が就任(翌年、「フォルクスオーパー」が「新ウィーン・シャウシュピールハウス」となって退任)。
●5月、クリップス、オーバーシュレージエン(上シレジア)で開催されたウィーン・オペラ・フェスティヴァルに同行。「伝道師」「トロヴァトーレ」「ホフマン物語」「ボエーム」「低地」など指揮。
●クリップス、ウィーン・フォルクスオーパーの指揮者を退任。クリップスはシュティードリー監督から、第1楽長として残ってくれるよう請われますが辞退。この時点でクリップスはすでに38曲のオペラをレパートリーとしていました。


●クリップス、劇場代理店の仕事で、歌手の伴奏をしているときに、アウシヒ市立劇場監督アルフレート・フッティヒ[1882-1952]からスカウトされ、アウシヒ市立劇場のオペラ指揮者の仕事を引き受けます。
●クリップス、アウシヒ市立劇場(1,000席)のオペラ指揮者として契約。


●12月、クリップス、ドルトムント市立劇場に客演。「ボエーム」と「カルメン」を指揮。

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 1925年(22〜23歳)

●8月12日、クリップス、最初の結婚。相手はマリア・ヘラー未亡人(5年後に自動車事故で死去)。
●クリップス、アウシヒ市立劇場のオペラ監督を退任。


●クリップス、ドルトムント市立劇場(1,400席)の第1楽長に就任。当時のドルトムント市は人口約32万人の主要都市で、オーケストラは94人、合唱団は80人という規模。


●ヨーゼフ・カイルベルト[1908-1968]がバーデン州立劇場のコレペティトアとして契約。


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 1926年(23〜24歳)

●7月、クリップス、ドルトムント市立劇場の第1楽長を退任。最後の日、楽員たちは道路にまで出て別れを惜しんでくれました。


●7月、クリップス、ウィーンに帰還。仕事は見つかりませんでしたが、ドルトムントで貯めた5,000マルクで暫くはやっていけそうでした。
●7月、クリップス、14歳の弟ハインリヒ(のちのヘンリー・クリップス)と共に山間のアッター湖近くに滞在していたところ、ベルリンのエージェントから電報が到着。
  バーデン州立劇場の音楽監督フェルディナント・ワーグナー[1898-1926]が急死したので、すぐにその上司のハンス・ヴァーク総監督のところに行って欲しいという内容でした。
  クリップスはすぐに総監督が滞在中のバーデン・バーデンに向かい2日かけて到着。総監督との面談を無事に終え、2週間後に「さまよえるオランダ人」とオーケストラ・コンサートを指揮することも決まると、40キロほど離れたカールスルーエまで総監督の車で同行、カールスルーエ市長やバーデン・バーデン市長、市議会議員らを紹介されています。
●8月、クリップス、バーデン・バーデンで「さまよえるオランダ人」を指揮したのち、カールスルーエで、ベートーヴェン5番、モーツァルト40番、「タンホイザー」序曲を指揮。どちらも大成功を収めます。
●8月、カールスルーエ市の音楽総監督が公募され、80人を超える指揮者が応募。ウィーン、ベルリン、ドレスデンの各国立歌劇場に楽長として在籍中の指揮者も多く、中には、ワインガルトナー(ウィーン・フィル首席指揮者)、クレンペラー(ヴィースバーデン歌劇場音楽総監督)、ベーム(バイエルン国立歌劇場第1楽長)、セル(ベルリン国立歌劇場第1楽長)といった名もありましたが、就任後の兼務状況なども検討され、最終選考には、クリップスと、8歳年長のベームが残っています。
  クリップスはベームに決まった場合に備えてか、ミュンヘンを訪問。その際にバイエルン国立歌劇場総監督のフランケンシュタインから、カールスルーエと同じ金額で来て欲しいと請われ、38歳の音楽総監督クナッパーツブッシュにも新しい第1楽長として紹介されてもいました。
  そして、このフランケンシュタイン総監督の動きがカールスルーエの委員会を刺激することになり、ベームの選考追加演目「魔笛」の評判が冴えなかったこともあって、カールスルーエ市の音楽総監督はクリップスに決定することになります。
●クリップス、カールスルーエ市の音楽総監督となり、歴史あるバーデン州立劇場の音楽総監督に就任。ドイツで最年少の音楽総監督として注目されます。
  この劇場では、1918年の「バーデン大公国」の終焉まで「宮廷劇場」の名が継続していました。
  しかし、1918年のドイツ革命により君主制が廃止され、ドイツ帝国がヴァイマル共和政になり、連邦制のもと、ドイツの国々が「州」に移行すると、「バーデン大公国」も、ドイツ国の州のひとつになります。もっとも、名前は「バーデン州」ではなく「レプブリーク・バーデン(バーデン共和国)」としており、ドイツの州で唯一、国を名乗っていました。そのため劇場名も、「シュターツテアター」を採用せず、より広い意味合いを持つ「ランデステアター」へと変更しています(ここでは州立劇場と訳)。
  15年後の1933年、ナチ政権が誕生すると劇場は国の組織「国立劇場」となり、「ランデステアター」から「シュターツテアター」に名称が変更、現在に至っていますが、戦後は同じ名称でも州立劇場となっています。
  なお、「バーデン大公国」は、1866年の普墺戦争の際には、バイエルンやザクセン、ヘッセン諸国と共にオーストリア側で参戦し、プロイセン、イタリアなどの陣営に敗北しています。
  クリップスは、7年間の在任中、モーツァルト、ワーグナー、リヒャルト・シュトラウスなどをレパートリーの柱として、現代作品なども上演、その作品数は126という凄いもので、1シーズンの指揮回数も100回以上と膨大でした。
  さらに、バーデン州立劇場は、2〜3週間に1度の頻度で、周辺のプファルツ、ランダウ、ノイシュタット、バーデン・バーデン、ストラスブールなどに客演もしていたので、クリップスの劇場生活は、多忙かつ変化に富むものとなっていました。


また、カールスルーエ市の音楽総監督だったクリップスは、オペラだけでなく、オーケストラなどのコンサートも数多く指揮しています。1シーズンの内訳は、定期演奏会が10回、大衆向けコンサートが6〜8回、オラトリオなどの合唱コンサートが4〜5回、ユース・コンサートが5回といったもので、ブルックナーの交響曲第1・3・4・5・6・7・8・9番、テ・デウム、ヘ短調ミサ、マーラーの交響曲第2・3・5・9番、「大地の歌」、歌曲集など、当時一般的では無かった作品もどんどん取り上げていました。


●10月、クリップス、エリー・ナイ、バーデン州立劇場管。ブラームス:ピアノ協奏曲第1番。
●12月、クリップス、バーデン州立劇場。「トゥーランドット」。

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 1927年(24〜25歳)

●クリップス、バーデン州立劇場に在職。


●父死去。1917年からの10年間で癌の手術を5回受けていました。
●クリップス、ハイデルベルク音楽祭音楽監督。前年に開始された夏の音楽祭で、初年度の音楽監督はジョージ・セルでした。
●バーデン州立劇場第1楽長に、ルドルフ・シュワルツ[1905-1994]が就任。


●10月、クリップス、バーデン州立劇場管。ブルックナー9番、テ・デウム。
●11月、クリップス、エトヴィン・フィッシャー、バーデン州立劇場管。皇帝。以後、フィッシャーは毎年登場。
●11月、クリップス、ベルリン交響楽団(現ベルリン・コンツェルトハウス管弦楽団)のドイツ・ツアーを指揮。ドルトムント、ケルン、ゾーリンゲン、ベルリンで演奏。

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 1928年(25〜26歳)

●クリップス、バーデン州立劇場に在職。


●2月、クリップス、バーデン州立劇場。ヘンデル「サムソン」。高い評価を獲得し、合唱のリハーサルをおこなった19歳のカイルベルトも称えられています。クリップスも25歳でした。
●クリップス、自動車を購入。12日後には夫人と一緒に運転免許試験を受けています。
●クリップス、ハイデルベルク音楽祭音楽監督。前年に続く任命。
●11月、クリップス、バーデン州立劇場管。シュナーベルとブラームスのピアノ協奏曲2曲を演奏。クリップスはシュナーベルの演奏に感銘を受けます。
●11月、クリップス、ミュンヘン・フィル。シューベルト没後100周年記念演奏会。交響曲第6番と「グレート」、「ロザムンデ」序曲を演奏。高評価。

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 1929年(26〜27歳)

●クリップス、バーデン州立劇場に在職。


●2〜5月、クリップス、フランクフルト歌劇場。クレメンス・クラウスが4か月間、南米に出かけたため、代役としてフランクフルトで46公演を指揮。バーデン州立劇場での仕事も多かったので、しばらくカールスルーエとフランクフルトを列車で往復し、週に4回のオペラ上演をおこなうという非常に多忙な生活が続きます。中には「マクロプロス事件」のドイツ初演など重要な公演もありました。クラウスはこれでクリップスに全幅の信頼を寄せ、以後は頻繁に連絡を取り合うようになり、「自分は間違いなくウィーンに行きます。そしてあなたをウィーンに連れて行きます。」と約束。


●クリップス、バーデン州立劇場管。ブルッフザール城。クリップスはチェンバロを弾いて16名の楽団員を指揮。全員、バロック時代の扮装で、バロック作品のほか、当時未発表のハイドン作品などを演奏。


●クリップス、バーデン・ブルックナー・フェスティヴァルに出演。
●クリップス、ミルシテイン、バーデン州立劇場管。250マルクでゴルトマルクを演奏してもらったところ素晴らしかったので、1,000マルクでブラームスの追加公演を実施。

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 1930年(27〜28歳)

●クリップス、バーデン州立劇場に在職。


●2月、クリップス、デンマーク放送交響楽団。シューベルト、モーツァルト、J.シュトラウスなど。
●クリップス、バーデン州立劇場管。ブルッフザール城。クリップスはチェンバロを弾いて16名の楽団員を指揮。


●クリップス、バーデン・バーデンで療養中のフリッツ・ブッシュ[1890-1951]に招かれ会食。クリップスが暗譜で指揮をしていた事から、ブッシュがふざけて伴奏部分を6小節書いてテストをするものの、クリップスはすぐに回答しています。
●6月、クリップスの妻マリア、自動車事故により死去。夫人は自動車運転が好きで、クリップスの母の誕生日祝いにウィーンに行く途中、手前のメルクでスピードの出し過ぎによりカーヴで車体が横転、夫人は道路脇の斜面に投げ出され、頭蓋骨骨折により即死。クリップスはJ.シュトラウスの「愉快な戦争」の新演出上演のためウィーンに行けなかったので、夫人には列車を使うよう言っていた矢先のことでした。なお、同乗していたボクサー犬「ヴォータン」は無事でした。
●クリップス、アルトゥール・ボダンツキーからメトロポリタン歌劇場の指揮者になるよう誘われます。しかし、クリップスは自分が若すぎることを理由に断っています(実際には大恐慌下のアメリカには行きたくなかったものと思われます)。ボダンツキーは、1915年からメトロポリタン歌劇場のドイツ・オペラ部門首席指揮者でしたが、1928年に辞任、1929年にヨーゼフ・ローゼンシュトック[1895-1985]が後任になるものの酷い批評に怒ってすぐに辞任したため、再びボダンツキーがドイツ・オペラ部門首席指揮者に就任、1939年に亡くなるまで、通算で四半世紀近く在任しています。


●クリップス、サンフランシスコ交響楽団の首席指揮者への就任要請を断っています。大恐慌下のアメリカには行きたくなかったものと考えられます。
●クリップス、バイロイト音楽祭に参加。トスカニーニの「タンホイザー」と「トリスタンとイゾルデ」のリハーサルで、ティンパニの隣に座らせてもらって持参した楽譜で勉強。ワーグナーがカールスルーエで指揮したことがあったという事実の影響か、バイロイトとカールスルーエの劇場には長い交流の歴史があり、クリップスも毎年のようにバイロイトを訪れていました。


●クリップス、ヘンデル音楽祭に出演。

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 1931年(28〜29歳)

●クリップス、バーデン州立劇場に在職。


●クリップス、スイスのバーデン(バーデン・バーデンの140キロほど南に位置)で療養中のR.シュトラウスのもとを訪ね、クナッパーツブッシュとカードに興じていたシュトラウスとさまざまなことを話し合います。その際、シュトラウスに、高額な報酬は払えないものの、ぜひカールスルーエで指揮して欲しいと伝えたところ、1回は無報酬で良いという返事を貰ってクリップスは大喜びでした。
●クリップス、バーデン州立劇場。「ばらの騎士」が大成功で8回上演。
●カールスルーエに滞在中のR.シュトラウスが、カードの上手い人とゲームをしたいと言ってきたので、クリップスは知人の銀行役員などを紹介。翌朝8時、シュトラウスの運転手がクリップス家を訪れ、シュトラウスがカードで600マルク負けたことを伝えます。クリップスは驚き、慌ててストラスブール市立劇場の友人に電話をして、シュトラウスがすぐに客演して報酬を得られるか尋ねたところ、大喜びで引き受けてくれ「エレクトラ」を3,000マルクで指揮する話がまとまり、事なきを得ています。
●11月、クリップス、バーデン州立劇場。フバイ「仮面」。2月に初演の模様をラジオ中継で聞いて感銘を受けたクリップスが上演を実現。73歳のフバイも喜び、クリップスとの交流が始まります。クリップスはフバイの大きな城のあるスロヴァキアの広大な地所に毎年のように4〜6週間も滞在。毎晩のように室内楽が演奏されたりする環境で、クリップスも演奏に参加。多くの音楽家や要人を紹介されたりし、ときにはイノシシ狩りまでしたこともありました。


●12月31日、クリップス、ウィーン国立歌劇場デビュー。新演出の「ジプシー男爵」。クラウスの招きでした。


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 1932年(29〜30歳)

●クリップス、バーデン州立劇場に在職。


●4月、クリップス、ハンガリー王立劇場。フバイ「仮面」、「マイスタージンガー」。フバイの招きによる客演で、公演は大成功となり、「マイスタージンガー」終演後のレセプションは翌朝まで続き、そのまま7時15分の寝台列車に乗車、ストラスブールの「マイスタージンガー」に間に合わせることができました。


●4月、クリップス、バーデン州立劇場、ストラスブール公演。「マイスタージンガー」。フランスで初めて「ドイツのマイスターたちを讃えなさい」という歌詞を、変更無しでそのままで演奏。強く反対されますが、歌詞を変えるなら帰るとクリップスが脅して強行。結果的に聴衆はドイツ系が大半だったので成功しています。また、作曲家のオイゲン・ダルベールが3月に亡くなっていたため、追悼公演として代表作の「低地」を上演。


●夏、クリップス、フバイの城に滞在。


●12月、クリップス、ハンガリー王立劇場。「神々の黄昏」。公演はまたしても大成功。


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 1933年(30〜31歳)

●1月1日、ショルティ、バーデン州立劇場のコレペティトアとして契約。


◆1月30日、ヒンデンブルク大統領がヒトラーを首相に任命。ヒトラー政権誕生。「ドイツ国(Deutsches Reich)」の体制は、14年間続いた「ヴァイマル共和政」(通称:ヴァイマル共和国)から「国家社会主義ドイツ労働者党独裁体制」(通称:ナチス・ドイツ)に移行(1945年まで)。
●2月10日、ショルティ、ユダヤ人で外国人だったためバーデン州立劇場のコレペティトアを解雇。


●2月、クリップス、バーデン州立劇場管。フバイ「ダンテ交響曲」。
●2月、クリップス、バーデン州議会議長のもとへ出向き、自分の父親がカトリックのユダヤ人であったことを告げ、判断を仰ぎます。結果は、シーズンの終わる8月31日まで働いて欲しいというもので、クリップスはそれまでと同じように仕事をすることができました。
◆2月27日、ベルリンの国会議事堂が放火され炎上。これを受けて、「国民と国家の保護のための大統領令」と「ドイツ国民への裏切りと反逆的策動に対する大統領令」が発令され、犯人がオランダ共産党員だったことから、ドイツ共産党・社会民主党なども活動禁止措置。
◆3月5日、ドイツ総選挙でナチ党が43.9%を獲得。
◆3月、ドイツの国民啓蒙・宣伝省大臣にヨーゼフ・ゲッベルスが就任。プロパガンダのほか、新聞・雑誌・放送・音楽・映画・演劇・文学・絵画・観光・旅行などの「管理・検閲」を実施。当初の予算は1,400万マルクでしたが、1944年には13倍以上の1億8700万マルクにまで規模を拡大、下部組織に「帝国文化院」も設置して各分野への統制をおこなっていました。
◆3月23日、ドイツで全権委任法が成立。
◆3月、オーストリア、キリスト教社会党のドルフース首相が、警察を動員して議会を閉鎖。緊急令により独裁的な運営を開始。
◆4月7日、世界恐慌の影響で約600万人に急増していた失業者の就業対策の目玉として「職業官吏再建法」が施行。公務員から非アーリア人を追放する法律で、ドイツの全公務員、および新政権により新たに「国有化」された膨大な数の企業・団体の職員が対象。同時に国外に出るユダヤ人の財産を奪って国庫に収める政策も実施され、公共事業財源などに利用されます。
●4月11日、ウィーン・フォルクスオーパーの従業員たちが、「半ユダヤ人のクリプスはなぜドイツから追い出されないのか?」という州立劇場総監督宛ての匿名広告を掲載。早くウィーンに帰ってきて欲しいという意味合いでした。
◆4月19日、ナチ党、新規の入党希望者の制限を開始。1月末の内閣成立、3月の総選挙という人気過熱イベントを経て、4月7日には、失業対策の目玉ともいわれる「職業官吏再建法」が施行され、爆発的な数の失業者が、求職目的、あるいは待遇向上目的で入党手続きに殺到したため、新規の入党希望者の制限を実施。以後、1939年5月10日に新規入党制限が完全に撤廃されるまでの6年間は、再入党や縁故のほか、数回の例外期間を除いて新規入党を基本的に受け付けませんでした。
●5月、クリップス、ギーゼキング、バーデン国立劇場管。ブルックナー8番、他。
●5〜12月、クリップス、ウィーン国立歌劇場。「神々の黄昏」「カルメン」「魔弾の射手」「蝶々夫人」「リエンツィ」「ナクソス島のアリアドネ」「さまよえるオランダ人」「フィデリオ」「ばらの騎士」「パルジファル」「仮面舞踏会」「魔笛」「マクベス」「ローエングリン」「ユダヤの女」「後宮からの誘拐」「刀鍛冶」「ドン・ジョヴァンニ」「ジークフリート」「ユグノー教徒」「アラベラ」「こうもり」


◆5月10日、ドイツ学生協会の主宰で、大規模な「焚書」が実施。以後、6月末までに大量の「非ドイツ的」な書物を焼却。ドイツの34の大学都市で、学生たちによって実施された「非ドイツ的精神への抵抗」は成功し、新聞や放送を通じて全ドイツ国民に向けて成果を報道。なお、ナチは、教員・役人・劇場人などの公務員のほか、学生など若年層に特に人気がありました。
◆5月26日、ドイツで共産主義者の財産没収に関する法律が成立。
◆5月26日、ドルフース政権、オーストリア共産党を非合法政党と認定し活動禁止措置。
◆6月1日、ドイツ政府により、オーストリアに入国するドイツ人旅行者に対し1,000マルクが課金される禁止令が発動。 これにより、たとえばザルツブルク音楽祭では、前年15,681人だったドイツ人聴衆が94%も減少、わずか874人となってしまいます。
●6月、クリップス、音楽総監督を探していたグラーツ市立歌劇場から連絡があり、試験的な上演として「アイーダ」を指揮して欲しいということで、クリップスは了承。車で劇場に向かい、到着後すぐにリハーサルを開始、公演を大成功に導いており、ほどなく全員一致でクリップスを音楽総監督に任命したいという決定の連絡を受け、クリップスも検討に入ります。


●6月、ウィーン国立歌劇場では、コヴェント・ガーデン王立歌劇場の指揮者と兼務していた第1楽長のロベルト・ヘーガー[1886-1978]が、ベルリン国立歌劇場の常任指揮者として転出することが決まっていたため後任を探していました。
  前年にウィーン国立歌劇場で数多く指揮して実績のあったベテラン指揮者エゴン・ポラク[1879-1933]とクリップスが有力候補でしたが、ポラクが6月14日に客演先のプラハで「フィデリオ」の指揮中に心臓発作で急死したという知らせが届き、クリップスはグラーツ市立歌劇場音楽総監督の話を辞退し、9月1日からウィーン国立歌劇場の第1楽長として働くことに決めています。


◆6月19日、ドルフース政権、オーストリア・ナチ党を非合法政党と認定し活動禁止措置。これによりオーストリア・ファシズム政権による独裁体制が確立し、ローマ・カトリックを国教として認定。
◆6〜7月、ドイツで多くの政党が自主解散。
◆7月14日、ドイツで政党新設禁止法が成立。
●夏、クリップス、フバイの城に滞在。


●8月、クリップス、バイロイト音楽祭に参加。R.シュトラウス指揮「パルジファル」には、ムックのような感動が無かったと述懐。また、ユダヤ人歌手がまだ主役級を歌っていたことも確認。


●8月31日、クリップス、バーデン州立劇場音楽総監督を解雇。国家社会主義政府の規定により、10年間の年金受給契約も無効とされます。


●9月1日、クリップス、ウィーン国立歌劇場第1楽長に就任。1938年に解雇されるまで、毎シーズン100回もの公演を指揮して、ウィーン国立歌劇場を支える指揮者となっていました。演目もワーグナーからヴェリズモ・オペラ、バレエまで幅広く70種類に達しています。


◆11月、ドイツ国会選挙。ナチ党への反対票(と無効票)が3,398,249票(7.89%)で、賛成票が39,655,224票(92.11%)と賛成が圧倒的多数でした。投票率も非常に高く95.3%の有権者が選挙に参加。
●12月20日、クリップス、ウィーン国立歌劇場。本番当日に決まったクラウスの代演で、3時間で楽譜を読み切って「アラベラ」を指揮。公演はうまく行き、契約が3年延長されています。


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 1934年(31〜32歳)

●クリップス、ウィーン国立歌劇場。「カルメン」「すみれ」「魔弾の射手」「ばらの騎士」「後宮からの誘拐」「こうもり」「マイスタージンガー」「4人の田舎者」「魔笛」「ファルスタッフ」「ファニー・エルスラー(バレエ)」「フィデリオ」「トロヴァトーレ」「ボエーム」「椿姫」「ローエングリン」「マクベス」「蝶々夫人」「パルジファル」「リエンツィ」「リゴレット」「ジークフリート」「シモン・ボッカネグラ」「仮面舞踏会」


●5月、クリップス、ウィーン・フィル。ブルックナー4番、「未完成」。RAVAGの放送コンサート。


◆オーストリアの実質賃金は1929年に較べて44%も減少、失業率も1928年の8.3%に対し、1934年は38.5%と凄まじい景気の悪化ぶりで、政治・社会も大きく混乱。
◆2月、ウィーンで内戦が勃発。オーストリア・ファシズム政権と、オーストリア社会民主党の支援する「防衛同盟」戦闘員が衝突、4日間で2,000人前後の死傷者が出て戒厳令も布告。
●夏、クリップス、フバイの城に滞在。


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 1935年(32〜33歳)

●クリップス、ウィーン国立歌劇場。「アイーダ」「美しく青きドナウ(バレエ)」「アンドレア・シェニエ」「ナクソス島のアリアドネ」「バスティアンとバスティエンヌ」「カヴァレリア・ルスティカーナ」「すみれ」「さまよえるオランダ人」「ソロチンスクの市」「ばらの騎士」「夢の中の女」「後宮からの誘拐」「こうもり」「ウィンザーの陽気な女房たち」「マイスタージンガー」「売られた花嫁」「4人の田舎者」「魔笛」「ドン・ジョヴァンニ」「ファルスタッフ」「ファニー・エルスラー(バレエ)」「フィデリオ」「スペインの時」「ボエーム」「椿姫」「レ・プティ・リアン(バレエ)」「蝶々夫人」「パルジファル」「スペードの女王」「リゴレット」「仮面舞踏会」「皇帝と船大工」


◆3月、ドイツ、再軍備宣言と共に徴兵制も復活。
●3月、クリップス、ローマで「ナクソス島のアリアドネ」をイタリア初演。歌手はウィーン国立歌劇場のメンバー。


●7月30日、クリップス、ザルツブルク音楽祭デビュー。「ばらの騎士」。演出はヴァラーシュタイン、装置はロラー。南米テアトロ・コロンに出演することになったクレメンス・クラウスから代演を依頼されたものでした。7月30日、8月9日、8月27日の3公演。


●8月、クリップス、マリア・オルシェフスカ[1892-1969]のパーティーに出席。ドイツの歌手オルシェフスカは、ラテン・アメリカ・ツアーで大成功をおさめ、その報酬でザルツブルク近郊のグロースグマインの家を購入したことを祝うパーティーでした。夜8時から朝4時半まで続いたパーティーのあと、クリップスは、酔客12人(!)が座ったりしがみついたりした愛車アドラーを運転し、ザルツブルクまで十数キロの道を無事に走行。到着後、全員バーになだれ込んでいます。


●8月、クリップス、コネツニ姉妹と共に温泉保養地マリーエンバートに休暇滞在。アニー・コネツニは、ザルツブルク音楽祭の初日(7月27日)に、ワルター指揮「トリスタンとイゾルデ」のイゾルデ役に出演。クリップスの目的はダイエットで、ウォーキングと泉の水を飲むことで7キロほど減量に成功。クリップスはカールスルーエ時代からマリーエンバートをよく訪れていました。


●クリップス、国立音楽舞台芸術アカデミーの教授に就任。クリップスがアカデミーで教えるときは、月曜午前は弦楽器、火曜午前は管楽器、水曜午前はオーケストラ全体、午後は歌手たちと仕事をするといったスケジュールでした。


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 1936年(33〜34歳)

●クリップス、国立音楽舞台芸術アカデミーに在職。


●クリップス、ウィーン国立歌劇場。「アイーダ」「アンナ・カレーニナ」「カルメン」「乞食学生」「ばらの騎士」「夢の中の女」「後宮からの誘拐」「こうもり」「ウィンザーの陽気な女房たち」「マイスタージンガー」「売られた花嫁」「4人の田舎者」「魔笛」「ドン・ジョヴァンニ」「ファニー・エルスラー(バレエ)」「ボエーム」「椿姫」「フィガロの結婚」「ローエングリン」「蝶々夫人」「道化師」「低地」「皇帝と船大工」


●2月、クリップス、ハンガリー王立劇場。フバイ「アンナ・カレーニナ」。他に、オーケストラ・コンサートでフバイの交響曲2曲と序曲を演奏。クリップスはフバイが大好きでした。


●3月、クリップス、ウィーン・フィル。オドノポゾフとのモーツァルト、ブラームス、ドヴォルザークのヴァイオリン協奏曲集。ティボーとのモーツァルトではレーガーの「モーツァルト変奏曲」、ブラームス第4番も指揮。


◆ドイツ経済が大恐慌前の水準に回復。
◆2月、仏ソ相互援助条約を締結。ヒトラーはロカルノ条約違反と批判し、自衛のためという理由で、翌月、国境沿いの非武装地帯に軍を進めます。
◆3月、ドイツ、ラインラントへ進駐。
●5月、クリップス、ウィーン国立歌劇場。「フィガロの結婚」初演150周年記念公演。同じ夜にヴィクトル・デ・サーバタがウィーン・フィルを指揮した「新世界より」などの演奏会があり、サーバタは108人の団員を要求したため、「フィガロ」に使えるウィーン国立歌劇場の楽員は僅か9人という状況に陥り、困ったケルバー総監督は、クリップスに相談、クリップスは自分が教授を務めるアカデミーの学生たちにオーケストラ・ピットで演奏させ、公演を大成功に導いています。そのときのメンバーは、ヴァイオリンにフランツ・バルトロメイ、クルト・ヴェス、ルドルフ・シュトレング、ファゴットにカール・エールベルガー、ルドルフ・ハンツル、エルンスト・パンパール、クラリネットにアルフレート・ボスコフスキー、カール・ポラック、ホルンにヨーゼフ・フェレバ、ヨーゼフ・ラックナー、トランペットにヘルムート・ウォビッシュ、カール・ゲヴァンダ、コントラバスにルートヴィヒ・シュトライヒャーなどがいたほか、アルノルト・ロゼ教授も出演するというなんともすごいオーケストラでした。


●夏、クリップス、フバイの城に滞在。


●11月、クリップス、ウィーン・フィル。シェーンブルン宮コンサート。モーツァルト、J.シュトラウス


●12月、クリップス、ウィーン・フィル。シューマン第4番、シューベルト第6番、他。RAVAGの放送コンサート。


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 1937年(34〜35歳)

●クリップス、ウィーン国立歌劇場。「アイーダ」「ナクソス島のアリアドネ」「乞食学生」「さまよえるオランダ人」「ばらの騎士」「後宮からの誘拐」「こうもり」「見知らぬ女」「ウィンザーの陽気な女房たち」「マイスタージンガー」「売られた花嫁」「4人の田舎者」「魔笛」「ドン・ジョヴァンニ」「フィデリオ」「ジュディッタ」「トロヴァトーレ」「ボエーム」「椿姫」「フィガロの結婚」「ナポリのロッシーニ」「ジークフリート」「低地」「トスカ」「仮面舞踏会」


●クリップス、国立音楽舞台芸術アカデミーに在職。


●夏、クリップス、フバイの城に滞在。


●クリップス、ウィーン国立歌劇場。「セヴィリアの理髪師」。同じ日に同じ演目を弟のハインリヒ・クリップスがフォルクスオーパーで指揮。
◆ゲッベルスにより「批評禁止令」布告。

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 1938年(35〜36歳)

●クリップス、ウィーン国立歌劇場。「カヴァレリア・ルスティカーナ」「ばらの騎士」「こうもり」「売られた花嫁」「魔笛」「ジャミレー」「ドン・ジョヴァンニ」「フィデリオ」「イワン・セルゲイエヴィチ・タラセンコ」「ボエーム」「道化師」「タンホイザー」


●クリップス、ウィーン・フィル。レーガー:モーツァルト変奏曲、ブラームス第4番


◆3月12日、オーストリア併合。当時のドイツは失業率が劇的に改善し、国民の貯蓄額も急伸、公債も大規模に運営されて景気も過熱気味となる一方、アメリカなどへの莫大な負債も抱える債務国でもありました。オーストリア併合の理由も、国境線拡大に加え、オーストリアの保有していた金資産や外貨、鉱物資源、そして何よりもユダヤ人の財産などが目当てだったとされています。実際、ドイツが手にしたオーストリアの金・外貨・財産は14億ライヒスマルクに達し、これはドイツのライヒスバンクの資産7,600万マルクの実に18倍以上という凄いものでした。
  しかし、景気回復の途上だった人口約650万人のオーストリアの一般市民の生活水準はまだ満足な状態には無く、約60万人も失業者がおり、自国経済の改善に期待する市民の思いは、併合に関して4月10日に行われた国民投票の結果にも反映、賛成99.75%という数字にも表れていました。
  併合後は、1925年に「クローネ」から変更されたばかりのオーストリア通貨「シリング」を廃止してマルクを導入。ライヒスバンクは当初、オーストリア経済の実態に即して「2シリング=1マルク」という交換レートを想定していたものの、市民感情にも配慮し、「1.5シリング=1マルク」という交換レートを設定、民間組織の国有化など経済再建を進めます。


●3月、クリップス、ウィーン国立歌劇場のメンバーとボルドーのモーツァルト音楽祭に出演。オケも含む引っ越し公演で、「フィガロの結婚」と「後宮からの誘拐」を上演。初日は3月13日でした。
●クリップス、ウィーン国立歌劇場第1楽長を解雇。ケルバー総監督はドイツ政府に特別許可を得るべく動きますが、クリップスは父親がユダヤ系ということで認められませんでした。


●クリップス、国立音楽舞台芸術アカデミーの教授を解雇。


●弟のハインリヒ・クリップス、オーストラリアに移住。オペラ・カンパニーを興したりして活動。1944年に帰化し、ヘンリーと改名。1948年から1972年まで西オーストラリア交響楽団首席指揮者を務め、1949年から1972年までは南オーストラリア交響楽団の首席指揮者も兼務していました。
●ハリエッタ・プロハースカ誕生。
●8月、クリップス、フランスの温泉保養地ヴィシーにあるグラン・カジノのオーケストラ指揮して、モーツァルト、シューベルト、ヨハン・シュトラウスの曲を集めたコンサートを開催。
●11月、クリップス、ユーゴスラヴィア王国の首都にあるベオグラード国立劇場と契約。ウィーン国立歌劇場のケルバー総監督の推薦を得たクリップスは、10月にセルビアのベオグラードに到着し、名前だけ豪華な「ホテル・マジェスティック」に滞在を開始。
  オペラ監督は、クリップスより3歳年長のクロアチア人指揮者、ロヴロ・フォン・マタチッチ[1899-1985]。9歳から10年ほどウィーンで学んでいたマタチッチは、クロアチアのザグレブ国立劇場からセルビアのベオグラード国立劇場に転任して間もない状態で、2人は打ち合わせの上で役割を分担。上演言語はセルボ・クロアチア語で、楽員や歌手も基本的にセルビア人でセルボ・クロアチア語を喋るため、通訳兼秘書が付いていました。
  クリップスは最初の「さまよえるオランダ人」で成功を収めたのち、12月には第1楽長に任命されるなど幸先の良いスタートを切っています。以後も「ばらの騎士」「フィガロの結婚」「ボリス・ゴドゥノフ」「売られた花嫁」「セヴィリアの理髪師」のほか、「仮面舞踏会」などヴェルディ作品もいくつか指揮して成功。また、大きな劇場でバレエ団も充実していたため、「白鳥の湖」も指揮。さらにオーケストラ・コンサートも指揮していたほか、ハンガリーやイタリアへの客演活動でも成功しており、上司のマタチッチには面白くない状態が続くことになります。
  なお、当時のユーゴスラヴィアの経済状態は貧しく、クリップスもなかなか報酬が貰えず、時には金時計を処分して生活費に充てるというような状態でしたが、それでも批評は絶賛に次ぐ絶賛で、劇場の歌手や楽員との関係も良く、クリップスにとっては心地よいといえる環境でしたが、それも長くは続きませんでした。


1938/1939シーズン終わりの1939年6月、マタチッチはクリップスに対して、「あなたは素晴らしい、あなたはすべてについて正しい、しかし、ここには2人分の居場所は無いのです。私はここで生まれた、私はユーゴスラヴィア人だ、あなたは外国人だ。」と退職を勧告し、契約期間半年を残しながらもクリップスはウィーンに帰ることになります。
  ちなみにマタチッチは親ドイツ&親ナチとして有名で、戦時中はクロアチア独立国軍の将校として軍楽隊で活動。クロアチアの民族主義団体「ウスタシャ」とも交流しており、戦後は死刑を宣告されたりもしていました。しかしマタチッチの戦時中の行動は、単に音楽家としての身分を守るための保身ゆえのことだったと思われます。下の画像は「ウスタシャ」の軍服を着て、クロアチア独立国軍とウスタシャの混成バンドを指揮しているところです。


◆11月7日、パリでユダヤ人によるドイツ外交官暗殺事件発生。
◆11月9日、「水晶の夜」事件発生。ドイツ各地でユダヤ人への一連の弾圧行為へと発展。

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 1939年(36〜37歳)

●6月、クリップス、ベオグラード国立劇場の第1楽長を退任。マタチッチの要請によるものでした。


●6月、クリップス、ウィーンに帰還。母の暮らす大きな実家に戻り、貯蓄と家庭菜園からの収穫で食料を得る生活を始めます。
  もっとも、音楽家として直接金銭を得る仕事へのドイツ国内での就労は禁じられていたものの、直接金銭を得なければ問題ないということで、クリップスは、得意の歌手指導力を生かすことになります。ピアノを弾きながら親しい歌手たちのトレーニングをおこない、返礼として、食糧配給券や、食糧、コーヒーなどを手に入れることで生活を維持しています。
  指導した歌手は錚々たるもので、コネツニ姉妹やアルダ・ノーニ、マリア・ライニング、マックス・ローレンツ、マルタ・ロース、マリア・グッゲンベルク、そしてセーナ・ユリナッチなどが名を連ねており、アルダ・ノーニなど、クリップスからの徹底した指導によってツェルビネッタ歌手として大きな名声を得ることにもなっています。
◆9月1日、ドイツがポーランドに侵攻。第2次大戦開戦。
◆9月3日、イギリスとフランスがドイツに宣戦布告。
◆9月17日、ソ連がポーランドに侵攻。

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 1940年(37〜38歳)

◆4月9日、午前4時、ドイツ軍が不可侵条約を破ってデンマークに侵攻。国王は午前6時に降伏を決定。占領統治は3年後の1943年8月に開始されます。
◆5月11日、チャーチルがイギリスの首相に就任。市街地空爆など民間人攻撃を推進し、最終的にドイツの民間人約41万人を殺害、500万人分以上の住居を破壊しています。
◆5月11〜12日、イギリス空軍、ドイツ西部のメンヒェングラートバッハ空爆。両国の間で最初の空爆はイギリス側が実施。
◆6月、フランス、ドイツと46日間戦ったのち休戦協定を締結。大枠で見るとフランス北部がドイツの占領統治、南部が「ヴィシー政権」による統治で、例外が長年の係争地であるエルザス=ロートリンゲン(アルザス=ロレーヌ)地方となります。
 同地方はドイツに割譲という形になったため、1938年に併合したオーストリアと同様、ドイツ政府による統治とし、他のドイツ・オーストリア地域と同じく「大管区」に組み込まれ、徴兵なども実施されることとなります(エルザス=ロートリンゲン地域からの徴兵数は約10万人)。
◆6月14日、ドイツ軍、パリに無血入城。
◆8月25日〜9月4日、イギリス空軍、ベルリン空爆。
◆9月7日、ドイツ空軍、ロンドン空爆(死者約300人)。
◆11月14日、ドイツ空軍、コヴェントリー空爆(死者568人)。

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 1941年(38〜39歳)

◆3月25日、ユーゴスラヴィア王国、日独伊三国軍事同盟に加盟。
◆3月27日、ドイツ国防会議により法令布告。闇取引および買い溜めに関する取り締まりを強化。最高刑は死刑。
◆3月29日、ドイツ財務省が法人税増税について発表。前年度利益が3万マルクを超えた場合、利益の25〜30%を徴税。
●3月末、クリップス、ドイツの同盟国となったユーゴスラヴィアのベオグラード国立劇場の招きでウィーンの空港から出発。多くのオペラとコンサートを指揮する予定でした。
 しかし、親ドイツのセルビア人首相ストヤディノヴィッチの失脚により、ユーゴスラヴィア国内のドイツ人は慌てて出国、ホテルに到着後間もないクリップスのもとにも、翌日夜9時に、ウィーンに向かうドナウ川の船が出航するという連絡があり、急遽、3日3晩かけて戻ることになります。現金を得られる貴重な機会が潰れてしまいました。
◆4月6日、ドイツ軍がユーゴスラヴィアに侵攻。これは親ドイツ政権が倒されたことによるもので、わずか11日後の4月17日にはユーゴスラヴィアは降伏。


●4月、クリップス、フバイ協会の招きでブダペストでコンサートを指揮。フバイの交響曲第1番とリストの「タッソー」などを指揮して高評価を獲得。滞在中に、シューリヒトがキャンセルしたコンサートを指揮して欲しいという依頼もあり、そちらについてもドイツ政府の許可が出て指揮しています。「悲愴」とモーツァルトの協奏曲で独奏はシャーンドル・ヴェーグでした。市内にはワインガルトナーも滞在中でした。
●クリップス、ブダペストで知り合ったデ・レウス農務大臣のウィーン人の妻の娘で、ウィーン在住の既婚者ミッツィー・ワインリンガーの声楽トレーニングを開始。戦時中にとりあげた曲は歌曲からオペラ全曲まで含む膨大なもので400曲に達していました。ミッツィーはのちにクリップスの妻となります。
◆6月、独ソ戦開戦。
●10月、クリップス、急速にうまくなったミッツィーの歌唱により、ミッツィーの家でハウスコンサートを実施。

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 1942年(39〜40歳)

◆イギリス空軍、リューベック空爆により民間人約320人を殺害。
◆5月30〜31日、イギリス空軍、ケルン空爆により民間人約480人を殺害。

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 1943年(40〜41歳)

●クリップス、地雷除去や戦闘地域での架橋など、極度に死亡率の高い危険任務のために前線に送られそうになりますが、知人のベーシュ農学博士が、専門性のある人材だと報告し、ファイルを消したおかげで命拾いします。
 混血ユダヤ人の場合、市民権は維持されていたものの、兵役については不適格とされて対象外に認定。しかし、ドイツの敗色が濃くなると、混血ユダヤ人を特攻的な任務に起用する計画が考案され、徴兵もおこなわれるようになっていました。
●8月、クリップス、ワイン卸売業者でワイナリーも運営していた「ハインリヒ・レーゼレ」で働くようになります。クリップスを徴兵から救ったベーシュによる紹介でした。クリップスはここで、1944年1月までの5か月ほど働いています。
◆5月16〜17日、イギリス空軍、ドイツのダムを空爆する洪水作戦を展開し、約1,300人を殺害。
◆6月19日、ベルリンでユダヤ人ゼロ宣言。
◆7月27〜28日、連合国軍、ハンブルク空爆により民間人約41,000人を殺害。
◆8月、連合国軍、ベルリン空爆開始。翌年3月までに民間人約9,400人を殺害。
◆11月1日、モスクワ宣言。3回モスクワ会議でのソ連・アメリカ・イギリスの外相らにより取り決められた内容で、オーストリアについては、ヒトラーの侵略政策の犠牲となった最初の国であるとされる一方、ドイツへの戦争協力にも言及し、今後、オーストリアそのものがドイツからの解放にどのくらい関与したかで戦争責任の追及が変わってくるなどと指摘。以後、オーストリア国内でのレジスタンスは数を増すこととなり、1944年の終わりには、臨時オーストリア国民委員会も結成して抵抗運動を本格化していました。

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 1944年(41〜42歳)

●1月、クリップス、ワイン卸売業者「ハインリヒ・レーゼレ」を退職。
●1月、クリップス、ワインとスパークリングワイン、デリカテッセンの缶詰などを製造する会社「エッティ」で仕事を始めます。クリップスは給与計算室の仕事や郵便物の運搬をし、ごく一部の人間からの嫌がらせはあったものの、ほとんどの従業員とは良好な関係を築けました。しかし、郵便物を運ぶために長い距離を1日に2往復する仕事は、徒歩6時間ということで負担が大きかったということです。もっとも、それでも夜には歌手の指導をおこなうことが多かったといいますから、クリップスの体力は相当なものでした。結局、戦争末期までクリップスのこうした生活は継続することになります。
◆2月、イギリス空軍、ボンへの空爆開始。ボンは小さな文教都市で軍事施設はありませんでしたが、連合国軍による民間人大虐殺戦略の一環として、1945年2月までに計72回爆撃、約6,400人を殺害、旧市街の建物約70%を破壊する成果を上げていました。
◆4月、連合国軍、ベルギーとフランスの交通機関へ空爆開始。11月までにベルギーとフランスの民間人など約15,000人を殺害。
◆9月1日、ゲッベルスにより、全ドイツの劇場(歌劇場)閉鎖令が布告。これは7月20日に発生したヒトラー暗殺未遂事件とクーデーターを収拾させたゲッベルスが、国家総力戦総監に任命され、国家総力戦の一環として劇場を閉鎖することを策定したもの。立案は7月末におこなわれ、一部の劇場では早期の運用がおこなわれていました。
◆9月11〜12日、連合国軍、ダルムシュタット空爆により約12,300人を殺害。
◆9月25日、総統命令により、民兵組織「国民突撃隊」の編成が開始。対象者は16歳から60歳の一般市民。約600万人の組織を目指したものの、兵器や軍服の極端な不足や、様々な理由による拒否などにより計画にはまったく満たない状態で、戦果の方も限定的でした。
◆10月18日、連合国軍、ドイツに対して24時間体制で空爆を開始。

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 1945年(42〜43歳)

◆2月13〜14日、連合国軍、ドレスデン空爆により3万人から15万人を殺害。
●2月28日、クリップス、「エッティ」を退職。
●3月12日、ウィーン国立歌劇場、爆撃により破壊。
◆2月23〜24日、連合国軍、プフォルツハイム空爆により2万人以上を殺害。
●4月3日、クリップス、実家の隣にあった党本部に呼び出され、民兵組織「国民突撃隊」の一員としてソ連軍と戦うよう、宣誓させられます。敗戦はもはや誰の目にも明らかだったので、クリップスは母と一緒に、宮廷歌手フリッツ・クレン[1887-1963]の屋敷の地下室に隠れる道を選びます。
●4月8日、クリップス達の潜む地下室に、ソ連兵が下りてきて、まず腕時計を盗みます。クリップスは構わず、ピアノでボリス・ゴドゥノフの旋律を弾いて喜びを伝えます。
●4月9日、クリップス、解放。実家はすでにソ連兵に略奪されており、1年ほど働いた会社「エッティ」も襲われ、ワインの樽の中身が流されて池のようになっていました。
◆4月13日、ソ連軍がウィーンに侵攻。
◆4月16日、赤軍のジューコフ元帥によりベルリン砲撃開始。ベルリンの戦いは3週間続き、ドイツ側死者約32万人、ソ連側死者約8万人という激戦となります。
●4月16日、クリップス、臨時政府から呼び出され、音楽顧問のフリードリヒ・ウィルトガンス[1913-1965]から、ウィーンの音楽生活を立て直すように依頼されます。ウィルトガンスは、元ウィーン国立歌劇場管弦楽団首席クラリネット奏者で、共産主義者だったことから6年間投獄されていた人物。ウィルトガンスは、ウィーン・フィルの楽員のうちナチ党員52名の名前が記載されたリストをクリップスに渡し、予告なしに解雇するよう要求。しかし、クリップスは、実際に悪事に関わったのでなければ解雇する必要は無いと反論し、断っています。
  その後もナチ党員だった楽員や歌手、教授たちの連行や解任が続きますが、クリップスはその都度介入して助け出し、やがてその人数は100人を超えることになります。
●4月16日、クリップス、臨時政府の芸術全権大使、レヴィタス少佐から、5月1日のメーデーを祝うためにフォルクスオーパーでオペラを上演するよう要求され、できなかった場合は、5月2日に建物を賃貸に出すと通告されます。
●4月17日、クリップス、ウィーン国立歌劇場と「フィガロの結婚」のリハーサルを開始。
●4月27日、クレメンス・クラウス、ウィーン・フィルとコンサート。
◆4月30日、ヒトラー自殺。ヒトラーはデーニッツ元帥を後継に指名していたため。同日、臨時政府「フレンスブルク政府」が発足。デーニッツが大統領に就任して降伏のための準備を進めます。また、1月からデーニッツの指示で実施中の海軍による市民と兵士の搬送作戦も5月中旬まで継続され約200万人を救出。
●5月1日、クリップス、ウィーン国立歌劇場。フォルクスオーパーで「フィガロの結婚」を上演。


●5月4日、クリップス、ウィーン・フィル、ウィーン国立歌劇場。チャイコフスキームソルグスキー、モーツァルト、ベートーヴェンなどのオペラ・ガラ・コンサート。


◆5月9日、ドイツ降伏。2週間後、デーニッツ逮捕により臨時政府解散。
●5月13日、クリップス、ホーフムジークカペレとハイドンの「ネルソン・ミサ」を演奏。会場のホーフブルク宮殿の礼拝堂はソ連軍が占拠していましたが、クリップスは宗教施設ではなくコンサート施設であると説得して退去させ、コンサートを実施可能としています。これにより、クリップスはホーフムジークカペレの音楽監督となり、1950年にウィーンを離れるまで多くの公演を指揮しています。


●5〜12月、クリップス、ウィーン国立歌劇場(会場:フォルクスオーパー)。「売られた花嫁」「セヴィリアの理髪師」「フィガロの結婚」「蝶々夫人」


●5〜12月、クリップス、ウィーン国立歌劇場(会場:アン・デア・ウィーン劇場)。「ボリス・ゴドゥノフ」「コジ・ファン・トゥッテ」「フィデリオ」「セヴィリアの理髪師」「フィガロの結婚」「ホフマン物語」「オテロ」


●7月、クリップス、ウィーン・フィル。カゼッラ交響組曲「甕」、コダーイ「マロシュセーク舞曲」、他。労働者コンサート。


●7月、クリップス、ウィーン・フィル。ベートーヴェン第9番。ウィーン国立歌劇場再建資金集めコンサート3回。


●7月、クリップス、ウィーン・フィル。ブルックナー8番。シュテファン大聖堂修復資金集めコンサート。


●7月、クリップス、ウィーン・フィル。モスクワの歌手によるコンサート。


●8〜9月、クリップス、ウィーン国立歌劇場(会場:ホーフブルク宮、レドゥーテンザール)。「コジ・ファン・トゥッテ」「フィガロの結婚」


●9月、クリップス、ホーフムジークカペレ。ウィーンの西約56kmのところにあるザンクト・ペルテンに演奏旅行し、午前中にハイドンの「ネルソン・ミサ」、午後にブルックナーのミサ曲第3番を演奏。豊かな食事にありつけたほか、リュックサックに5sのジャガイモを詰め込んで帰路についています。


●9月、クリップス、ウィーン響。チャイコフスキー第6番、他


●9月、クリップス、ウィーン・フィル。ベートーヴェン第5番、他


●9月、クリップス、ウィーン・フィル。ブルックナー第7番、「未完成」


●10月、クリップス、ウィーン・フィル。ブルックナー:ミサ曲第3番、ベートーヴェン第7番、ヴァイオリン協奏曲集(シュナイダーハン)、他 計5回のコンサート。


●11月、クリップス、ウィーン・フィル。ショスタコーヴィチ「レニングラード」、「1812年」、ブルックナー第8番、「亡き子を偲ぶ歌」(ヘンゲン)、ソ連国歌、ヴァイオリン協奏曲集(ボスコフスキー)、他 計4回のコンサート。


●12月、クリップス、ウィーン・フィル。ブルックナー第8番、「亡き子を偲ぶ歌」(ヘンゲン)


●12月、クリップス、ウィーン響。ベートーヴェン第9番、他


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 1946年(43〜44歳)

◆1月、アメリカ占領軍政府を中心に非ナチ化裁判が開始(1949年まで)。10万人以上のドイツ人が裁判にかけられ、音楽界でもナチ関連疑惑のあった人物が続々と法廷に送られることになったため、連合国軍側の作成したブラックリストに載っていなかった(=知名度が高くない)音楽家たちや、外国人、ユダヤ人たちには大きなチャンスが訪れることになります。
  なお、この各国占領軍政府によって実施された非ナチ化裁判については、アメリカだけが熱心で、ソ連やイギリスの占領軍政府はあまりおこなわないなど、国によって温度差が大きかったのですが、その後のアメリカ人音楽家やユダヤ人音楽家のドイツでの躍進ぶりを考えると、最初からそれが目的だったとも考えられます。
  実際、外国人が入り込めないような公的機関などについては、非ナチ化の追求はほとんど実施されなかったようですし、弁護士の約90%が元ナチ党員ということもあって裁きようがないため処罰を免れた約800万人以上の元ナチ党員や党友が普通に生活、占領統治下ながら、行政機構も戦時中からほぼそのまま継続していたため、役人はほとんどが元ナチ党員で、たとえば性的マイノリティの作曲家・指揮者のヘンツェ
が、西側にも関わらず自殺未遂寸前まで追い込まれたりもしていました。1957年の調査でも、西ドイツ司法省上級職員の元ナチ党員率が約77%、裁判長で約70%となっています。
  ちなみに、ソ連はまず占領地行政の抜本的な変更を最優先し、行政機関の主要な役職は共産主義者に総入れ替えしていました。
  また、フランスは、まず約4年間占領下にあった「自国民の非ナチ化」が喫緊の課題ということで、全教師の4分の3を入れ替えたり、ヴィシー政権で要職にあったコルトーを厳しく断罪したりしています。
◆1月、イギリス占領軍政府は、管轄地域の非ナチ化をドイツに委ねます。しかし自治体の整備もままならない状態だったので、音楽家など、凶悪な戦争犯罪とは無縁の職種については追及無し、もしくは後回しでうやむやにされたため、アメリカ管轄地域からイギリス管轄地域に移る人が続出し(オイゲン・ヨッフムなど)、イギリスの方針はアメリカから非難されることになります。イギリスも戦後間もなくの時期は、重度の戦争犯罪人訴追には熱心でしたが、その後、英独双方の経済復興を優先させています。
●1月、クリップス、ウィーン・フィル。ニューイヤー・コンサート、ブラームス第2番、モーツァルト第39番


●2月、クリップス、ウィーン・フィル。チャイコフスキー第6番、他


●3月、クリップス、ウィーン・フィル。シューマン第4番、ブラームス第4番、「シャクンタラ」序曲、ヴァイオリン協奏曲集(ボスコフスキー)、「ワルキューレ」第1幕、他 計5回のコンサート。


●4月、クリップス、ウィーン・フィル。オーストリア解放1周年記念コンサート。ロシア革命の葬送行進曲、ベートーヴェン第9番


●5月、クリップス、ウィーン・フィル。ブリス「チェックメイト」、同:ピアノ協奏曲(シュラミット・シャフィール)、ベートーヴェン第7番。シャフィールはソ連生まれのユダヤ人ピアニストでシュナーベルの弟子。1944年11月にロンドンのアルバート・ホールでおこなわれた感謝祭イヴェントで、チャーチルやアメリカ大使の挨拶とともに、ブリスの指揮でピアノ協奏曲を演奏して話題になった人物です。


●5月、クリップス、ウィーン響。ザルムホーファー「解放の讃歌」、他


●6月、クリップス、ウィーン・フィル。「オベロン」序曲、マルクス「秋の交響曲」、ベートーヴェン第5番。グラーツ・フェスティヴァルで、カジノも入っているコングレス・グラーツのシュテファニーエンザールでの演奏。ヨーロッパのカジノは文化施設でもあります。


●クリップス、ウィーン国立歌劇場。「アイーダ」「コジ・ファン・トゥッテ」「ドン・ジョヴァンニ」「フィデリオ」「セヴィリアの理髪師」「フィガロの結婚」「ホフマン物語」「蝶々夫人」「オテロ」「スペードの女王」「トリスタンとイゾルデ」
●8月、クリップス、ザルツブルク音楽祭。「ドン・ジョヴァンニ」。主演はホッター。


●9月、クリップス、ウィーン・フィル。「コリオラン」、ブルックナー第7番アダージョ。8月25日に亡くなった元コンサートマスターのアルノルト・ロゼを偲ぶメモリアル・コンサート。曲間に、コンサートマスターのセドラックがロゼの思い出を話しています。


●9月、クリップス、ウィーン響。ザルムホーファー「解放の讃歌」、他


●10月、クリップス、ウィーン・フィル。ブルックナー第7番。ブルックナー没後50周年記念公演。冒頭に、ケルドルファー指揮するブルックナーのオルガン伴奏男声合唱曲「追悼」が演奏されています。


●10月、クリップス、ウィーン・フィル。シューベルト第6番、他。オーストリア建国950周年記念コンサート。


●12月、クリップス、ウィーン・フィル。ベートーヴェン第7番、他。


●12月、クリップス、ウィーン・フィル。J.シュトラウス・コンサート。


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 1947年(44〜45歳)

●クリップス、ウィーン国立歌劇場。「アイーダ」「ナクソス島のアリアドネ」「ボリス・ゴドゥノフ」「コジ・ファン・トゥッテ」「ドン・ジョヴァンニ」「フィデリオ」「イーゴリ公」「セヴィリアの理髪師」「椿姫」「フィガロの結婚」「ホフマン物語」
●クリップス、ミッツィー(マリアンネ)・ワインリンガーと結婚(1969年に死去)。


●1月、クリップス、ウィーン・フィル。ニューイヤー・コンサート


●2月、クリップス、ウィーン・フィル。ショスタコーヴィチ第5番、他


●2月、クリップス、ウィーン・フィル。J.シュトラウス・コンサート。


●3月、クリップス、ウィーン国立歌劇場、パリ公演。「ドン・ジョヴァンニ」「コジ・ファン・トゥッテ」
●3月、クリップス、ウィーン・フィル。フランス、ドイツ、オーストリア、スイス・ツアー。
●6月、クリップス、シュナイダーハン、ウィーン・フィル。エルガー、チャイコフスキー:Vn協


●9月、クリップス、ウィーン国立歌劇場、ロンドン公演。「フィガロの結婚」,「コジ・ファン・トゥッテ」,「ドン・ジョヴァンニ」。ロンドンの「アングロ=オーストリア音楽協会」の招聘によって実現したウィーン国立歌劇場引っ越し公演。ほかにクラウス指揮する「フィデリオ」と「サロメ」に、クリップスとクラウスの指揮する慈善コンサートを開催。
  「アングロ=オーストリア音楽協会」は、オーストリアから亡命してきたユダヤ系アーティストらの生活のために演奏会を開催することなどを目的として、彼らとイギリスの支援者たちによって1942年に結成されたものですが、1946年になるとソ連によるオーストリアの共産化を阻止すべく活動していた政府系団体「アングロ=オーストリア民主化協会」と一緒になったため、資金にも余裕が生まれ、こうした引っ越し公演もおこなえるようになりました。協会のもともとの性格上、戦時中に反ユダヤ的な人物が呼ばれることはありませんでした。


●8月、クリップス、ザルツブルク音楽祭。「フィガロの結婚」(祝祭劇場)、「コジ・ファン・トゥッテ」(州立劇場)。


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 1948年(45〜46歳)

●クリップス、ウィーン国立歌劇場。「アイーダ」「ボリス・ゴドゥノフ」「カルメン」「コジ・ファン・トゥッテ」「さまよえるオランダ人」「ばらの騎士」「後宮からの誘拐」「魔笛」「ドン・ジョヴァンニ」「フラ・ディアヴォロ」「イーゴリ公」「イワン・セルゲイエヴィチ・タラセンコ」「フィガロの結婚」「ホフマン物語」「ローエングリン」「スペードの女王」
●1月、クリップス、ホーフムジークカペレ。「戴冠式ミサ」


●3月、クリップス、ウィーン響。「未完成」、他


●4月、クリップス、ウィーン・フィル&ウィーン響。ベートーヴェン第9番


●6月、クリップス、マイナルディ、ウィーン響。ヴェレス交響曲第1番、ヒンデミット:チェロ協奏曲、ベートーヴェン第5番


●6月、クリップス、ホーフムジークカペレ。「ミサ・ソレムニス」


●8月、クリップス、ザルツブルク音楽祭。「後宮からの誘拐」(州立劇場)。


●11月、クリップス、ホーフムジークカペレ。モーツァルト:レクイエム


●12月、クリップス、アルバート・ホールで、ロンドン交響楽団と初共演(2公演)。ロンドン響は、1930年代なかばから十数年も低迷状態にあり、楽団再建のためにそれまでのいわゆる協会方式の利益分配スタイルを改め、政府の支援も受けられるよう、法人組織として定款を刷新したばかりでした。そこで委員会は、この2公演でクリップスが示した高度な実力に注目し交渉、クリップスのウィーンでの契約仕事が終わり次第、ロンドン響首席指揮者に着任するということで話をつけています。


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 1949年(46〜47歳)

●クリップス、ウィーン国立歌劇場。「アイーダ」「ナクソス島のアリアドネ」「カルメン」「コジ・ファン・トゥッテ」「ばらの騎士」「後宮からの誘拐」「魔笛」「ドン・ジョヴァンニ」「フラ・ディアヴォロ」「イーゴリ公」「イワン・セルゲイエヴィチ・タラセンコ」「皇帝ティートの慈悲」「フィガロの結婚」「ホフマン物語」「オテロ」「パレストリーナ」「トスカ」
●1月、クリップス、ホーフムジークカペレ。「戴冠式ミサ」


●3月、クリップス、ウィーン響。「オルフェウス」、ブラームス2番、他


●5月、クリップス、ホーフムジークカペレ。「ミサ・ソレムニス」


●7月、クリップス、ウィーン国立歌劇場引越公演。アムステルダム市立劇場(900席)。「後宮からの誘拐」、「ドン・ジョヴァンニ」。


●8月、クリップス、ザルツブルク音楽祭。VPOとベト7ほか、「オルフェオとエウリディーチェ」(祝祭劇場)、「皇帝ティートの慈悲」(州立劇場)。


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 1950年(47〜48歳)

●クリップス、ウィーン国立歌劇場。「ボリス・ゴドゥノフ」「カルメン」「ばらの騎士」「魔笛」「ドン・ジョヴァンニ」「フィデリオ」「フィガロの結婚」「ホフマン物語」「マルタ」「オテロ」「トスカ」
●3月、クリップス、グリュミオー、ウィーン響。「ジュピター」、バルトーク:ヴァイオリン協奏曲第2番、シューマン第4番


●8月、クリップス、ザルツブルク音楽祭。VPOと「シュミット:7つの封印を有する書」(祝祭劇場)、ウィーン少年合唱団とブルックナー:ミサ曲第3番(モーツァルテウム)、「ルクレシアの凌辱」、「ブラッハー:ロメオとジュリエット」(州立劇場)


●10月、クリップス、アムステルダム市立劇場。「フィデリオ」。ネーデルラント・オペラ公演。


●クリップス、ロンドン交響楽団の首席指揮者に就任。
●クリップス、渡米。

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 1951年(48〜49歳)

●2月、クリップス、コンセルトヘボウ管に初の客演。4公演。


●7月、クリップス、ハーグ芸術科学館(2,088席)。「フィデリオ」。ネーデルラント・オペラ公演。


●クリップス、ロンドン響首席指揮者。ロイヤル・フェスティヴァル・ホール(2,900席)の完成により本拠地が誕生。但しほかのオーケストラも本拠地としていました。


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 1952年(49〜50歳)

●クリップス、ロンドン響首席指揮者。


●3,5,6,10,11月、クリップス、コンセルトヘボウ管。14公演。


●3,10月、クリップス、アムステルダム市立劇場。「ドン・ジョヴァンニ」。ネーデルラント・オペラ公演。


●6,9,10月、クリップス、ハーグ芸術科学館。「フィデリオ」、「フィガロの結婚」。ネーデルラント・オペラ公演。


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 1953年(50〜51歳)

●クリップス、ロンドン響首席指揮者。


●5,6,9月、クリップス、アムステルダム市立劇場。「オテロ」、「仮面舞踏会」。ネーデルラント・オペラ公演。


●6,11,12月、クリップス、コンセルトヘボウ管。21公演。


●7月、クリップス、ハーグ王立劇場。「フィガロの結婚」。ネーデルラント・オペラ公演。


●8月、クリップス、シカゴ交響楽団。ラヴィニア音楽祭。


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 1954年(51〜52歳)

●1月、クリップス、アムステルダム市立劇場。「魔笛」。ネーデルラント・オペラ公演。


●4月、クリップス、モントリオール交響楽団。
●6月、クリップス、アムステルダム市立劇場。「オテロ」。ネーデルラント・オペラ公演。


●7月、クリップス、コンセルトヘボウ管。「天地創造」を2公演。


●7月、クリップス、ハーグ芸術科学館。「魔笛」。ネーデルラント・オペラ公演。


●クリップス、ロンドン響首席指揮者退任。


●クリップス、バッファロー・フィルハーモニー管弦楽団の音楽監督に就任。本拠地は、1940年に完成したクラインハンス・ミュージック・ホールの大ホール(2,839席)。ニューヨーク州西部にあるバッファロー市は、1850年に約4万人だった人口が、多くの移民を受け入れて、製粉ハブ港や工業などで栄えた結果、100年後の1950年には、15倍近い約58万人にまで増加していました(現在は半分以下に減少)。それだけ服の需要も多かったということなのか、同地で当時全米最大と言われた紳士服店を経営していた音楽好きのエドワード・クラインハンスが、死後、100万ドルを市に寄贈し、その資金をもとに建設されたのがこのクラインハンス・ミュージック・ホール。23年後に完成したベルリンのホールと角度によってはそっくりなのも面白いところです。


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 1955年(52〜53歳)

●8月、クリップス、アムステルダム市立劇場。「魔笛」。ネーデルラント・オペラ公演。


●クリップス、バッファロー・フィル音楽監督。


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 1956年(53〜54歳)

●クリップス、バッファロー・フィル音楽監督。


●10月、クリップス、アムステルダム市立劇場。「フィガロの結婚」。ネーデルラント・オペラ公演。


●12月、クリップス、シンフォニー・オブ・ジ・エア。


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 1957年(54〜55歳)

●クリップス、ウィーン国立歌劇場。「フィデリオ」


●クリップス、ウィーン国立歌劇場(会場:レドゥーテンザール)。「後宮からの誘拐」


●クリップス、バッファロー・フィル音楽監督。


●6月、クリップス、カサドシュ、ウィーン響。モーツァルト:ピアノ協奏曲第24番、ウォルトン交響曲第1番、他


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 1958年(55〜56歳)

●クリップス、ウィーン国立歌劇場。「魔笛」「フィデリオ」


●クリップス、ウィーン国立歌劇場(会場:レドゥーテンザール)。「後宮からの誘拐」


●クリップス、バッファロー・フィル音楽監督。


●1月、クリップス、ロサンジェルス・フィル。
●7月、クリップス、アラウ、モリーニ、NYP。スタジアム・コンサート。「皇帝」、Vn協、ベートーヴェン第3、7、8、9番、J.シュトラウス名曲集、他


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 1959年(56〜57歳)

●クリップス、ウィーン国立歌劇場。「フィデリオ」


●クリップス、ウィーン国立歌劇場(会場:レドゥーテンザール)。「後宮からの誘拐」


●クリップス、バッファロー・フィル音楽監督。


●クリップス、シカゴ・リリック・オペラ。


●7月、クリップス、エルマン、バッカウアー、NYP。「皇帝」、Vn協、ベートーヴェン第1、2、3、5、7、9番、J.シュトラウス名曲集、他


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 1960年(57〜58歳)

●クリップス、バッファロー・フィル音楽監督。


●クリップス、シカゴ・リリック・オペラ。


●2月、クリップス、モントリオール交響楽団に客演。
●6月、クリップス、ウィーン国立歌劇場(会場:レドゥーテンザール)。「コジ・ファン・トゥッテ」「後宮からの誘拐」「フィガロの結婚」


●7月、クリップス、エルマン、NYP。Vn協、ベートーヴェン第2、3、5、8、9番、他


●10月、クリップス、イスラエル・フィル。


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 1961年(58〜59歳)

●クリップス、バッファロー・フィル音楽監督。


●6月、クリップス、ハーグ・レジデンティ管。マーラー1番、他。


●7月、クリップス、エルマン、NYP。ベートーヴェン第1、4、5、7、9番、ブラームス第1、2、4番、他


●11,12月、クリップス、NYP。


●クリップス、バイロイト音楽祭。「マイスタージンガー」。


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 1962年(59〜60歳)

●クリップス、バッファロー・フィル音楽監督。


●クリップス、シカゴ・リリック・オペラ。


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 1963年(60〜61歳)

●クリップス、ウィーン国立歌劇場。「ばらの騎士」「ドン・ジョヴァンニ」「オテロ」「仮面舞踏会」


●クリップス、ウィーン国立歌劇場(会場:レドゥーテンザール)。「コジ・ファン・トゥッテ」「フィガロの結婚」


●クリップス、ウィーン国立歌劇場(会場:アン・デア・ウィーン劇場)。「魔笛」


●クリップス、ロイヤル・オペラ。


●クリップス、シカゴ交響楽団。


●クリップス夫妻、ハリエッタ・プロハースカと知り合います。ハリエッタ・プロハースカは夫妻と一緒にアメリカに行き、その後も行動を共にしていました。ハリエッタ・プロハースカはウィーン大学と音楽アカデミーで学び、教員免許試験、哲学修士号を取得しています。
●クリップス、バッファロー・フィル音楽監督を退任。


●クリップス、サンフランシスコ交響楽団の音楽監督に就任。当時の本拠地は、1932年に完成した戦争記念歌劇場(3,146席)。第1次大戦に従軍した人々を記念する大型施設として、隣の退役軍人ビル(美術館、中ホールなど)や中庭公園と共に「サンフランシスコ戦争記念舞台芸術センター」として、サンフランシスコ市が建設・所有。隣接するサンフランシスコ市役所と同じくボザール様式で設計され、費用は地方債400万ドル発行で賄われています。なお、戦争記念歌劇場では、サンフランシスコ歌劇場(9〜11月が中心)とサンフランシスコ・バレエ団(1〜5月が中心)も公演をおこなうため、サンフランシスコ交響楽団は、シヴィック・オーディトリアムなどほかの会場を使うことも多かったようです。


●11月、クリップス、サンフランシスコ交響楽団のシーズン中の金曜日のコンサートなどを、地元放送局のKKHIが放送することを許可。


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 1964年(61〜62歳)

●クリップス、ウィーン国立歌劇場。「ばらの騎士」「ドン・ジョヴァンニ」「マイスタージンガー」「さまよえるオランダ人」「仮面舞踏会」「フィガロの結婚」


●クリップス、ウィーン国立歌劇場(会場:レドゥーテンザール)。「コジ・ファン・トゥッテ」「フィガロの結婚」「後宮からの誘拐」


●クリップス、ウィーン国立歌劇場(会場:アン・デア・ウィーン劇場)。「魔笛」


●クリップス、サンフランシスコ響音楽監督。


●ジェイコブ、クラクマルニック[1922-2001]、サンフランシスコ交響楽団コンサートマスターに就任。クラクマルニックのオーケストラ・キャリアは、以下のように華麗なものです。

1946-1951 クリーヴランド管弦楽団 準コンサートマスター
1951-1958 フィラデルフィア管弦楽団 コンサートマスター
1958-1960 コンセルトヘボウ管弦楽団 コンサートマスター
1960-1961 クリーヴランド管弦楽団 準コンサートマスター
1961-1963 NYP ゲスト・コンサートマスター
1963-1964 ダラス交響楽団 コンサートマスター
1964-1970 サンフランシスコ交響楽団 コンサートマスター

ただし腕前は抜群だったものの、妥協しらずで気難しいという評判で、ベイヌムやセルとはうまくいっていたものの、オーマンディとは揉めて辞任していたほか、多くのオケで楽員とトラブルを起こしています。しかし、クリップスは自分なら何とかできると判断して採用に踏み切っており、実際に多くの権限を与えて楽団のレヴェル・アップに成功してもいました。


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 1965年(62〜63歳)

●クリップス、ウィーン国立歌劇場。「ファウスト」「ばらの騎士」「ドン・ジョヴァンニ」「マイスタージンガー」「さまよえるオランダ人」「仮面舞踏会」「フィガロの結婚」「魔笛」「後宮からの誘拐」


●クリップス、サンフランシスコ響音楽監督。


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 1966年(63〜64歳)

●クリップス、ウィーン国立歌劇場。「ホフマン物語」「ばらの騎士」「ドン・ジョヴァンニ」「フィガロの結婚」「魔笛」「後宮からの誘拐」「ファウスト」「フィデリオ」


●クリップス、サンフランシスコ響音楽監督。


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 1967年(64〜65歳)

●クリップス、ウィーン国立歌劇場。「ダントンの死」「アイーダ」「ばらの騎士」「トスカ」「ホフマン物語」「ドン・ジョヴァンニ」「フィガロの結婚」「魔笛」「後宮からの誘拐」「ファウスト」「フィデリオ」


●クリップス、サンフランシスコ響音楽監督。


●2,3,4,9月、クリップス、メトロポリタン歌劇場。「魔笛」。


●7月、クリップス、イスラエル・フィル。
●サンフランシスコ交響楽団楽員、ストライキを実施。賃金体系、契約日数のほか、クリップスとコンサートマスターへの不満から引き起こされた争議です。
  当時クリップスはオーケストラのレヴェルを一気に引き上げるべく、約30人の解雇を検討しており、コンサートマスターのクラクマルニックは、他の楽員に対して、技術優先の判断をおこない、座席指定などにも反映させたおかげで団内は険悪な雰囲気になっていました。
弁護士や市長も巻き込んでなんとか解決。

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 1968年(65〜66歳)

●クリップス、ウィーン国立歌劇場。「ダントンの死」「コジ・ファン・トゥッテ」「ばらの騎士」「さまよえるオランダ人」「ホフマン物語」「ドン・ジョヴァンニ」「フィガロの結婚」「魔笛」「オテロ」「フィデリオ」


●クリップス、サンフランシスコ響音楽監督。


●4月、クリップス、サンフランシスコ響、日本ツアー。第11回大阪国際フェスティバルへの招聘を機に、6都市をまわる17日間のツアー中に12回のコンサートを実施。9日に日本航空のダグラス DC-8スーパー62に搭乗。羽田に到着後、バスで移動し大阪で、ブルックナー7番やブラームス1番、チャイコフスキー5番などukkuna-7bannya 5公演、その後、広島、名古屋、長野、千葉で各1公演、最後に東京で3公演というスケジュール。
  広島では、クリップスとサンフランシスコ交響楽団協会会長のフィリップ・ブーンが原爆犠牲者の為に献花し、セレモニーがおこなわれています。クリップスは戦時中のウィーンで、連合国軍による猛爆撃の中を生き延びており、楽員たちは資料館で衝撃を受け、その晩の追悼コンサートでのベートーヴェン交響曲第3番「英雄」は真情のこもったものになったということです。


●7月、クリップス、ボストン響、タングルウッド音楽祭に出演。「田園」「ドン・ファン」「火の鳥」


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 1969年(66〜67歳)

●クリップス、ウィーン国立歌劇場。「ダリボル」「コジ・ファン・トゥッテ」「ばらの騎士」「後宮からの誘拐」「シモン・ボッカネグラ」「ドン・ジョヴァンニ」「フィガロの結婚」「魔笛」「オテロ」「フィデリオ」「ファウスト」


●クリップス、サンフランシスコ響音楽監督。


●2代目の妻、ミッツィー(マリアンネ・ワインリンガー)死去。
●6月、クリップス、ウィーン響。「グレの歌」


●8月、クリップス、ザルツブルク音楽祭。「パリ」、「ジュピター」、他(モーツァルテウム)。


●8月、クリップス、ボストン響、タングルウッド音楽祭に出演。「驚愕」「ティル」「グレート」


●10月9日、ハリエッタ・プロハースカ[1938-2015]と結婚。住居はスイスのモントルー。



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 1970年(67〜68歳)

●クリップス、ウィーン国立歌劇場。「ダリボル」「エジプトのヘレナ」「後宮からの誘拐」「ドン・ジョヴァンニ」「フィガロの結婚」「魔笛」「トスカ」


●3,4月、クリップス、メトロポリタン歌劇場。「フィガロの結婚」。


●7月、クリップス、ロサンジェルス・フィル。ハリウッドボウル。


●クリップス、ベルリン・ドイツ・オペラ。


●クリップス、サンフランシスコ響音楽監督を退任。名誉指揮者の称号を授与されます。7年間の在任中に指揮した作品は215曲で、うち91曲が20世紀の作品でした。


●クリップス、ウィーン交響楽団の芸術顧問に就任。事実上の首席指揮者でした。


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 1971年(68〜69歳)

●クリップス、ウィーン国立歌劇場。「ばらの騎士」「ドン・ジョヴァンニ」「フィデリオ」「魔笛」「フィガロの結婚」「椿姫」「ホフマン物語」


●3,4月、クリップス、メトロポリタン歌劇場。「ドン・ジョヴァンニ」。


●クリップス、ウィーン響芸術顧問。


●クリップス、ウィーン・フィル。フィラッハのコングレスハウス開館記念コンサート。「ジュピター」「未完成」


●10月、クリップス、ウィーン・フィル。モスクワ公演。「ばらの騎士」


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 1972年(69〜70歳)

●クリップス、ウィーン国立歌劇場。「ばらの騎士」「ドン・ジョヴァンニ」「フィデリオ」「魔笛」「こうもり」「椿姫」「後宮からの誘拐」


●1月、クリップス、コンセルトヘボウ管。6公演。


●2月、クリップス、ウィーン響。アメリカ・ツアー


●4月、クリップス、サンフランシスコ響より、70歳の誕生日記念演奏会の為に招聘されます。地元放送局KKHIによって放送もされました。


●クリップス、ウィーン響芸術顧問。


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 1973年(70〜71歳)

●クリップス、ウィーン国立歌劇場。「ばらの騎士」「ドン・ジョヴァンニ」「フィデリオ」「椿姫」


●クリップス、ウィーン交響楽団の芸術顧問を退任。


●クリップス、ウィーン・フィル。楽友協会コンサート。モーツァルト第40番、レクイエム


●6,7月、クリップス、コンセルトヘボウ管。モーツァルト後期3大交響曲を3公演。


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 1974年(71〜72歳)

●6月8日、クリップス、パリ・オペラ座。「コジ・ファン・トゥッテ」。最後の指揮。


●10月13日、クリップス、ジュネーヴで癌により死去。
●10月、クリップス、故郷ウィーンのデーブリングにあるノイシュティフト・アム・ヴァルデ墓地に埋葬。41年後にはハリエッタ未亡人も同所に埋葬されます。
●10月17〜22日、ニューヨーク・フィルの定期公演が、クリップスの思い出に捧げられます。指揮はジュリーニ、曲目はモーツァルト39番とブルックナー9番。クリップスは1958年から1969年までニューヨーク・フィルを120回以上指揮していました。

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商品説明:年表シリーズ

指揮者
アルヘンタ
アンセルメ
オッテルロー
ガウク
カラヤン
クイケン
クーセヴィツキー
クチャル
クナッパーツブッシュ&ウィーン・フィル
クナッパーツブッシュ&ベルリン・フィル
クナッパーツブッシュ&ミュンヘン・フィル
クナッパーツブッシュ&国立歌劇場管
クナッパーツブッシュ&レジェンダリー・オーケストラ
クラウス
クリップス
クレツキ
クレンペラー
ゴロワノフ
サヴァリッシュ
シューリヒト
スイトナー(ドヴォルザーク)
スイトナー(レジェンダリー)
スラトキン(父)
ターリヒ
チェリビダッケ
トスカニーニ
ドラゴン
ドラティ
バルビローリ
バーンスタイン
パレー
フェネル
フルトヴェングラー
ベイヌム
マルケヴィチ
メルツェンドルファー
メンゲルベルク
モントゥー
ライトナー
ラインスドルフ
レーグナー(ブルックナー)
レーグナー(マーラー)
ロスバウト

鍵盤楽器
ヴァレンティ
ヴェデルニコフ
カークパトリック
カサドシュ
グリンベルク
シュナーベル
ソフロニツキー
タマルキナ
タリアフェロ
ティッサン=ヴァランタン
デムス
ナイ
ニコラーエワ
ネイガウス父子
ノヴァエス
ハスキル
フェインベルク
ユージナ
ランドフスカ
ロン

弦楽器
カサド
コーガン
シュタルケル
スポールディング
バルヒェット
フランチェスカッティ
ヤニグロ
リッチ
レビン

室内アンサンブル
グリラー弦楽四重奏団
シェッファー四重奏団
シュナイダー四重奏団
パスカル弦楽四重奏団
パスキエ・トリオ
ハリウッド弦楽四重奏団
バルヒェット四重奏団
ブダペスト弦楽四重奏団
伝説のフランスの弦楽四重奏団
レナー弦楽四重奏団

作曲家
アンダーソン
ベートーヴェン
ヘンツェ
坂本龍一

シリーズ
テスタメント国内盤

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ユーザーレビュー

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持っている盤がかなりあるが、何故か最近入...

投稿日:2021/11/23 (火)

持っている盤がかなりあるが、何故か最近入手困難なハイドン99番目当てで、思い切って購入した。近年復刻されたSACDを中古で1枚だけ購入した田園が素晴らしかったので、ある程度は期待していたが、聴き始めると全て期待以上!全然古さを感じさせず、生命力に溢れた音楽から耳が離せなくなって一気に聴いてしまった。存在を初めて知った音源もあって、本当に有難いBOXセットだ。ただ一つ残念なのは、ライヴのモーツアルト40番が左右逆になっていることだけ。う〜ん、以前から欲しくて迷っている、左右リバーススイッチが付いた中古のマッキンC26をやっぱり買おうかなと余分な欲望に火が着いちゃうじゃないか。

ビアだる太郎 さん | 愛知県 | 不明

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フォアグラさんに賛同します。何故か、日本...

投稿日:2021/11/07 (日)

フォアグラさんに賛同します。何故か、日本の評論家に不当評価された音楽家の一人だと思います。「ドン・ジョヴァンニ」もステレオ録音のはずですが、今回のセットには、含まれていません、、残念、カタログ復活を期待しています。でも、魅力的なセットなので購入。

toku さん | 埼玉県 | 不明

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毎度のことながらHMVの年表が素晴らしい。...

投稿日:2021/10/02 (土)

毎度のことながらHMVの年表が素晴らしい。これを見ると、戦前、戦後の混乱期にクリップスがウィーンでいかに奔走したかがわかる。リヒャルト・シュトラウスやフバイとのエピソードも興味深い。欲を言えば英国米国での活動記述をもうちょっと濃くしてほしいところだが、これだけの情報を見れて文句を言うのも大人げない。全て持っている音源だが、年表の読み応えに感謝し購入させていただく。クリップスといえば、高崎保男氏が「ドン・ジョヴァンニ」を酷評したり、ウィーン・フィルが非協力的でクリップスが泣いた、とかあまり好意的な記事が日本では出ず、評価はいまいちな人に甘んじている。しかし、私はクリップスの「ドン・ジョヴァンニ」が大好きだし、ウィーン・フィルやLSOの録音にも逸品が多いと思う。この人も偏った批評の犠牲者と一人といっていいだろう。それにしても、得意としたブルックナーのステレオ録音がひとつもないのは惜しい。残っていないのだろうか。

フォアグラ さん | 愛知県 | 不明

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