Ringo Starr

Ringo Starr (リンゴ・スター) プロフィール

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Ringo Starr

リンゴ・スターことリチャード・スターキー・ジュニアは1940年7月7日にリヴァプールに生まれた(「リンゴ」は彼がいつも指輪をたくさんしているのを見て仲間がつけたニックネームで、芸名にもなったもの)。父リチャード・スターキーと母エルシー・グリーヴはふたりが働いていたパン屋で出会って1936年に結婚しており、リヴァプールの労働者階級の中でも特に貧しい人々が暮している地域に家を持った。リンゴが3歳のときに両親が離婚。母エルシーとリンゴはそのまま家に残り、父リチャードは月々の収入からわずかな生活費をこの母子に送っていた。

幼い頃から病弱だったリンゴは、さらに家庭の貧しさも災いしてか、小学校時代に大病を患って長期欠席せざるを得なくなってしまった。そうしてリンゴは「ラザラス(文盲)」とあだ名をつけられるほど勉強のできない子供になってしまったのだった。11歳のときに皆が受ける、中等教育のための共通診断テスト、イレヴン・プラスを受けることもできなかったリンゴは落第生達と一緒にディングル・セカンダリー・スクールに進学。しかし中学生になっても体調を崩してばかりいたリンゴは、再び入院生活を余儀なくされ、出席できなかった中学を15歳で追い出されるはめになってしまった。

その後リンゴは若年者を対象とした職業紹介所で斡旋されたリヴァーサイド技術学校に学籍を置きながら、英国鉄道のメッセンジャー・ボーイとして働くことになるが、職場の健康診断にひっかかってしまった彼は、5週間ほどで英国鉄道を解雇されてしまう。また次に勤めることになった遊覧船内にあるバーのボーイの仕事は、酔っ払ってボスに文句をつけた、というインネンをつけられて2ヶ月で辞めさせられている。やっとまともに職に就くことができたのはその後で、これは母エルシーの再婚相手が紹介してくれた体育館やプールの設備を設置する会社だった。義父のコネでここに就職することになったリンゴは機械工見習いとして働いた。

7〜8歳からアメリカのカントリー・ミュージックが好きだったというリンゴは、1955年秋から1956年春にかけてイギリスで大ヒットしたビル・ヘイリー&ヒズ・コメッツ“ロック・アラウンド・ザ・クロック”、英国版R&Rといえるスキッフルのロニー・ドネガン“ロック・アイランド・ライン”に、同世代の音楽好き同様、強いインパクトを受けた。1956年夏にはそのビル・ヘイリーが主題歌の映画『暴力教室』がイギリスで公開されているが、当時16歳のリンゴはこの映画に出てくるようなテディ・ボーイ(不良少年)を気取るようになっていた。

リンゴ・スターがドラムを本格的に始めたのはそのすぐ後1957年のことだった。職場の仲間とスキッフル・バンドを組もうという話が出たときに、リンゴが立候補したのがドラムだった。リンゴに職を探してきた義父はある種の引け目からか常に息子リンゴの顔色を窺うようなところがあったが、このバンド結成という話を聞いた彼は、すぐさまリンゴのためにドラム・セットを知人から譲り受けてきたという。ただそのドラムはマーチを演奏するブラス・バンドが使いそうな代物で、必ずしもリンゴを納得させるようなものではなかったが、ともあれエディ・クレイトン・スキッフル・グループと名付けられたバンドが結成され、後にビートルズのドラマーとなるリンゴ・スターは音楽活動の一歩を踏み出したのだった。

リンゴ・スターは1959年3月に、ロリー・ストーム&ザ・ハリケーンズの前身であるレイヴィング・テキサンズというバンドに加わった。その後1960年5月にハリケーンズはウェールズにあるバリトン・レジャー・センターと長期出演契約することになるが、もともとこの演奏旅行にはリンゴは参加しないことになっていた。不参加の理由は、リンゴにはその時期に結婚する予定があったので…ということだったが、ところがその結婚話は土壇場で破談となってしまい、結局リンゴはウェールズに向かいハリケーンズに戻ることになった。

リンゴ・スターが、後のビートルたち、ジョン・レノンポール・マッカートニージョージ・ハリスンと出会うのは1959年のことだった。1959年にクォリーメンからシルヴァー・ビートルズへと改名したジョンポールジョージらのバンドは、ハンブルグのインドラ・クラブでの演奏のために同年8月17日にドイツに渡っているが、その際にザ・ビートルズの名前が初めて使われたという。ビートルズはそれから10月3日まで約一時間のステージを毎日4〜6回行っていたが、騒音に対する苦情からインドラでロック・ミュージックが演奏できなくなると、10月4日からはカイザーケラーという別のクラブで演奏するようになる。そこでビートルズは11月30日まで演奏活動を続けるが、その途中からリンゴがドラマーとして在籍したロリー・ストリーム&ザ・ハリケーンズと交互にステージをこなすようになり、そうした中でビートルズリンゴ・スターは親しくなっていったのだった。因みにこのときビートルズのドラムを務めていたのは、そのハンブルグ遠征直前にバンドに加わったピート・ベストだった。

その後ビートルズは幾つかのメンバー交替やポール・マッカートニーがギターからベースに転向する出来事などを経て、またあの有名なブライアン・エプスタインをマネージャーに迎えるなどして、バンドの形態、周辺を整えていく。そしてさんざん落ち続けたレコード会社のオーディションにもついに受かり、レコード契約をモノにする。ビートルズは1961年5月にEMIと契約したが、その直後「最後のメンバー・チェンジ」を敢行することになるのだ。

そのドラム交替が行われる直接的な原因となったのは、同年6月6日のレコーディング・テストでビートルズの演奏を聴いたプロデューサーのジョージ・マーティンが「ドラムが弱い」と指摘をしたことに端を発しているといわれる。しかしジョンポールジョージ側にも、ピート・ベストに対する不満はあったとされるのが通説だ。ピートのコネで彼の母親の経営するクラブでビートルズが演奏できたという因縁や、ピート自身のルックスがハンサムで女性ファン受けすることなどを考えれば、彼を「よくしてもらった」仲間として認めることと、バンドに彼を置いておく利点はあったが、ハンブルグでの熾烈な演奏旅行を経て、またやっとモノに出来たレコード契約によって全国区のアーティストへと売り出されるという状況の中では、ピートは他の3人の成長から取り残されてしまっていた感は否めなかった。

1961年秋頃のこと、リンゴはハリケーンズを辞めアメリカのテキサスへ移住することを計画していたが、ヒューストン商工会議所から送られてきた資料を見て、移住申請のために揃える書類の多さに辟易してあっさりとその計画を断念。その後、ビートルズも務めたことのあるトニー・シェリダンのバック・バンドの仕事をするためシェリダンとハンブルグへ渡ることになるが、リンゴは横暴な振る舞いをするシェリダンと上手くやれず、結局1ヶ月後には再びハリケーンズに戻っている。

翌年に入って1962年2月、ピート・ベストが体調を崩したため、ステージでのビートルズのドラムの代役をリンゴが務めた。これはジョン・レノンリンゴに連絡を取り、代役を依頼したものだったが、リンゴがたまたま仕事が入っていなかったため実現したのだった。この演奏がおそらく直接的なきっかけとなったと思われるが、すっかりリンゴが気に入ったジョンポールは、ハリケーンズの、3度目となるウェールズ、バリトン・レジャー・センターへの長期出演に参加していたリンゴのもとを訪ね、何とかリンゴにバンドへの加入をお願いしている。しかしリンゴは当初、その出演契約が満了になるまでは参加できないと断ったという。だが結果的にはジョン・レノンのアプローチのほうが勝った。8月14日にウェールズのリンゴのもとへ電話をかけたジョンが、リンゴを口説き落としたのだった。結局、ハリケーンズの残り15日分の契約を残してリンゴはリヴァプールに戻り、8月18日のステージから彼はビートルズの正式メンバーとなった。

リンゴ加入後のビートルズは、1962年10月5日にシングル“ラヴ・ミー・ドゥ/P.S.アイ・ラヴ・ユー”でEMIパーロフォン・レーベルからデビューを果たしたが、このデビュー曲“ラヴ・ミー・ドゥ”での逸話は有名だ。9月4日に録音されたリンゴ・スターがドラムを叩いているヴァージョンがシングル盤となったのだが(シングル/EPを纏めた編集盤パスト・マスターズ1(Past Masters1)に収録)、同曲にはもうひとつの完成ヴァージョンがあり、そちらではセッション・ドラマーのアンディ・ホワイトが叩いている。これはデビュー・アルバム、プリーズ・プリーズ・ミー(Please Please Me)のほうに収録された(こちらにはタンバリンの音が入っているが、それは役を退いたリンゴが叩いたものだ)。殆どリヴァプール以外では無名だったビートルズを全国区で売ろうというのだから、ジョージ・マーティンはいろいろな判断のもと、セッション・ドラマーを使うことも試したのだろうか。またリンゴ版“ラヴ・ミー・ドゥ”オリジナル・マスター・テープは、アルバムにアンディ・ホワイト版が収録されるため、廃棄処分にされたという。なおこれに限らず初期のビートルズの録音にはいろいろと混乱が見られる。

ビートルズのデビュー後の快進撃はよく知られたところで、1962年から1970年までの間にあまりにも創造的な活動、レコードを残して解散してしまう。ビートルズでのリンゴのドラムは、バンドに大きなインスピレーションと創造性をもたらした。シンプルなドラム・セットを、もたったりつっこんだりしながら、どこか気の向くままに叩くような彼のプレイ(特にフィルのとぼけた味わいのカッコ良さ)は、厳密さを求めるドラム教則本の類では「ありえない良さ」に貫かれている。またリンゴが左ききであることも彼のプレイをユニークなものとした大きな要因だ。特にビートルズ中期の“レイン(Rain)”(パストマスターズ2(Past Masters Volume2)に収録)やリヴォルヴァー(Revolver)収録曲辺りでの創造的なプレイは、現在でも若いミュージシャンやダンス・クリエイターに再評価されている。また余談になるが、ビートルズが初の主演映画とそのサントラ盤の制作中、タイトルがなかなか決まらなかったという話があり、そのタイトルがリンゴによってもたらされたというのは有名なエピソードとして知られている。その録音セッションの中でリンゴが「あぁ、今日の仕事はキツかったな、やっと辛い一日が終わった」という意味合いで、ぼそっと呟いた「ハード・デイズ・ナイト」という奇妙な言い回しを、面白がったジョン・レノンがタイトルにしてしまったのだった。

ポール・マッカートニーが1970年4月10日に行った脱退声明により、ビートルズ解散が事実化したが、それに先立つ4月3日にリンゴ・スターは有名プロデューサーを12人使ったスタンダード・アルバム、センチメンタル・ジャーニー(Sentimental Journey)を発表していた(全英最高位20位/全米22位)。続いて9月に、ナッシュヴィル録音のアルバム、カントリー・アルバム(Beaucoups Of Blues)を発表(全英65位)。1971年8月、ジョージ・ハリスンの誘いで「バングラディッシュ救済コンサート」に参加。またビートルズ時代から「キャンディ」(1967年)、「マジック・クリスチャン」(1969年)と映画に出演していた彼は、1971年には「ブラインドマン」とフランク・ザッパの「200モテルズ」に出演している。

1973年10月、ジョン・レノンポール・マッカートニージョージ・ハリスンはじめT・レックスマーク・ボランザ・バンドドクター・ジョンニルソンらが参加したアルバム、リンゴ(Ringo)を発表(全英7位/全米2位)。このアルバムからはシングルとして“想い出のフォトグラフ”、“ユア・シックスティーン”がリリースされ、いずれも全米ナンバーワンを獲得している。

1974年にリンゴは自身のレーベル、リングOを設立。11月グッド・ナイト・ウィーン(Goodnight Vienna)を発表(全英30位/全米8位)。ここからはプラターズのカヴァー曲“オンリー・ユー”と“ノー・ノー・ソング”、“グッドナイト・ウィーン”がヒットする。1975年に妻のモーリンと離婚したリンゴは、ベスト盤、想い出を映してをリリース(全米31位)、また映画「リスト・マニア」にも出演する。1976年にポリドールへ移籍しリンゴズ・ロートグラヴィア(Ringo’s Rotogravure)を発表(全米28位)。ここからはジョン・レノンの“ロックは恋の特効薬”が全米28位のヒットを記録する。11月にザ・バンドのラスト・コンサート、ラスト・ワルツに出演。この後1977年11月にウィングス/リンゴVI(Ringo The 4th)を、1978年5月にバッド・ボーイ(Bad Boy)を発表するが、これはどちらもチャートで不調に終わる。

1979年5月、エリック・クラプトンの結婚式で、ポール・マッカートニージョージ・ハリスンと一緒にプレイ。またリンゴ自身は1981年4月には映画「おかしなおかしな石器人」で共演したバーバラ・バックと結婚。同年11月にはボードウォーク・レーベルからポールジョージの提供曲を収めたバラの香りを(Stop And Smell The Roses)を発表(全米98位)。1983年10月発表のオールド・ウェイヴ(Old Wave)は英米ではリリースされず、日本、カナダほかでのみリリースされた。1985年10月、息子のザック・スターキーに子供が生まれ、リンゴは孫のいる初のビートルとなる。1987年6月、ジョージ・ハリスンらと共に「プリンス・トラスト・コンサート」に出演し、リンゴは“ウィズ・ア・リトル・ヘルプ・フロム・マイ・フレンズ”を歌った。

1989年、リンゴ夫妻はアルコール中毒治療のためリハビリ治療を行ったりしていたが、この頃にはビリー・プレストンドクター・ジョンジョー・ウォルシュニルス・ロフグレン、クラレンス・シモンズ、ザ・バンドの二名らと共に、リンゴ・スター&ヒズ・オール・スター・バンドを名乗り、全米ツアーに続き来日公演を行っている。翌1990年にライヴ作、リンゴ・スター&ヒズ・オール・スター・バンド(Ringo Starr & His All Starr Band)を発表。また同年には息子のザックがアイスを結成し、A2Zで日本先行デビューを果たしている。

1992年、ソロ・アルバムとしては9年ぶりのタイム・テイクス・タイム(Time Takes Time)を発表。同作はジェフ・リン、ドン・ウォズによるプロデュース、ブライアン・ウィルソンやジャフ・バクスターらをゲストとして迎えたもので、久しぶりにリンゴの持ち味が発揮された作品に仕上がった。またそれと前後する形でオール・スター・バンドとしてのライヴも行い、その模様は同年にライヴ・フロム・モントルー(Live From Montreux)としてリリースされた。

1996年に日本の清涼飲料水のCMに出演。1997年にThird All-Starr Band, Vol. 1を、翌1998年には自身のソロ作となるヴァーティカル・マン(Virtical Man)とTVショウでのライヴを収めたVH-1 Storytellersを発表。またその後翌1999年秋にはクリスマス・アルバムI Wanna Be Santa Clausをリリースしている。

飄々とした人柄で人気者となったリンゴ・スターは誰からも愛されるキャラクターだ。「あのビートルズ」の最後の1ピースが結果的にリンゴの加入によって実現した。周到なキャラクター戦略もあって、ビートルズのどのアルバムにもリンゴがヴォーカルをとる楽曲がひとつは入っているが、その楽曲の中でもたいていの曲はジョンポールが、リンゴの牧歌的なキャラ、あるいはカントリーや初期ロックンロールが好きな部分を想定した上でチャーミングな曲を書いているし、音域が狭く低い声のリンゴもそれに応えるべく、充分にビートルズ内での役割を「天然」で演じきっている(のちの俳優活動もリンゴの「キャラが強烈に立っていた」という事実があってこそだった)。ビートルズの奥深い魅力はそうしたところにも見受けられるのだ。「友達の手助けがあれば何とかやっていける」という“ウィズ・ア・リトル・ヘルプ・フロム・マイ・フレンズ”は事実、彼のトレードマークであり、心無い音楽ファンから冷笑的に捉えられてしまうことがあるが、事実そうだとしても、それはリンゴの価値を少しも貶めることにはならない。

ジョージ・ハリスンが亡くなった直後に、TV出演しコメントを求められた彼は、愛すべき仲間を失ったことに対して心から辛そうにしていた。もちろん当然といえば当然のことだが、リンゴの裏表のない人柄を知るファンからすれば、彼がTVの出演者といった立場を考えたりせず、憚りなく素顔を見せていたのが印象的だった。

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