Beach Boys (ビーチ・ボーイズ) プロフィール

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ロック/ポップス史に名を残す偉大なるバンドたちの中でも、特にビーチ・ボーイズの評価といったものほど、やっかいなものはないかもしれない。20世紀最後になってある種、シリアスに受けとめられるようになったアイドル、ビートルズの評価以上に、ビーチ・ボーイズの偉大なる業績に対する評価には現在も困難さがつきまとっているかのようだ。一方でオールディーズ的なポップスとしてのビーチ・ボーイズの評価、片や名作 ペット・サウンズ や幻の作品 スマイル を巡る物語に代表されるソングライター/音楽家、ブライアン・ウィルソンの才能を軸としたビーチ・ボーイズ再評価。奇しくも現在は袂を別ってツアーに出るこの両者の評価の分裂具合こそが、ビーチ・ボーイズのユニークさを決定付けている、あるいは別の言い方でいえば、そうしたものによって新たな世代のリスナーは彼らが解り辛くなっている、という面もあることは否定できない事実となっているのではないだろうか。

勿論彼らのファンを自認する者は、すべからくこうした彼らの特性を完全に理解した上で、その時々によってどの面からもビーチ・ボーイズを愛する術を心得ているように見える。しかし極端なことを言えば、一般のリスナーにとっては、ブライアン・ウィルソンの物語はかなりロック/シンガーソングライター寄りのリスナー体験を強いるであろうし、一方の「能天気な」ビーチ・ボーイズの個性は、好事家ポップス・ファン内の愛し方に留まってしまう、あるいは逆説的にポップスの「薄さ」アメリカ大衆にとっての懐メロ的風情をこそ愛する、といった形に収まっていきがちなように思える。要は現在のビーチ・ボーイズ評価は(特に若いブライアン・ウィルソン信奉者の間では)、マイク・ラヴ対ブライアンといった形で分裂しがちだ(勿論そうした側面を本人達の活動が証明しているのだから、そう思う人を責めることはできないが…)。ただそれが何かビーチ・ボーイズ全体としての評価を妨げている気がしてしまうのが残念だ。そんなに単純化できた話ではないのかもしれないが、実感的にはどうしてもそう思えてしまう。ただ彼らの魅力のひとつには、彼ら自身がそうした一面的に捉えられない複雑さと逆にものすごく明快なポップ性の両者を持ち合わせているという部分にあるということが、どちらかのイメージだけを好むようなリスナーに伝われば幸いかと思う。

ブライアン・ダグラス・ウィルソンは1942年6月20日、カリフォルニア州ホーソンで生まれた。ブライアンマレー&オードリー・ネヴァ・ウィルソン夫妻の長男で、デニスとカールという兄弟がいた。彼らは後にビーチ・ボーイズのメンバーとなる。父マレーは作曲家として働いており、ウィルソン家はいわゆる音楽一家だった。ブライアン・ウィルソンの自叙伝によれば、彼が音楽に目覚めたのは、生後間もなくのことであったという。生後11ヶ月のときに両親の歌う“マリーン・コープス・ヒム”という歌に合わせて、ブライアンはハミングし両親を喜ばせたといわれている。もっと意識的に音楽の素晴らしさを受けとったのは、ブライアンが二歳のとき。祖母の家で聴いたジョージ・ガーシュインの“ラプソディ・イン・ブルー”で、ブライアンは音楽に開眼したのだと本人は回想している。しかしこのころまでは比較的音楽に対して純粋な喜びを見出していたブライアンだが、彼の悲劇的なところは思春期を迎えた頃には、音楽は逃避の手段とも裏合わせだったところだ。父マレーは今でいうところの虐待の気のある父親であった。マレーは子供達、特にブライアンに精神的、肉体的なダメージを加えたりもした。そんなブライアンの心が幸せになれるときがピアノを弾いているとき。彼はくる日もくる日もそんな父親、現実から逃避するかのようにピアノを弾き続けていった。

そんな中、ブライアンは自分の人生を変える啓示のようなレコードに巡り遭う。カー・ラジオから何気なく流れてきたフォー・フレッシュメンの“デイ・バイ・デイ”。その曲がすごく気に入ったブライアン は フォー・フレッシュメン&ファイヴ・トロンボーンズ を買い、その音楽からたいへんな影響を受けたのだった。高校に入る頃になると、ブライアンはいとこのマイク・ラヴ、クラスメイトのアル・ジャーディン、弟のカールとともに自宅でリハーサルを行うようになる。4パート・ハーモニーを重ねた彼らの歌は当時から特別なものだったとブライアンは回想する。

1961年10月3日、ケニー&カデッツ、ペンデルトンズなどと名乗って活動していた(デニスを加えた)5人組の彼らは、ハイト&ドリンダ・モーガン夫妻の経営するレーベルに、ブライアンとマイクが書いたオリジナル曲“サーフィン”を吹き込んだ。ハイト・モーガンはキャンディックス・レーベルにこの録音を持ち込み、リリースが決定。名前はこのとき会社の提案で「ビーチ・ボーイズ」となった(既に録音時のテスト盤に書いてあったともいわれる)。“サーフィン”はローカル・ヒットに終わったが、マネージャーとしてグループを支えた(プレッシャーをかけた)父マレー・ウィルソンの働きかけもあって、ビーチ・ボーイズは1962年4月、大手のキャピトル・レコードと契約を結んだのだった。

アル・ジャーディンは“サーフィン”の録音後、歯科学を学ぶためグループを離れた。その代わりに加入したのが、ウィルソン家の近所に住んでいたデヴィッド・マークスだった。その後、キャピトルからのファースト・シングル“サーフィン・サファリ/409“をリリース。チャック・ベリーのロックンロール・ビートとフォー・フレッシュメン・スタイルのコーラスをミクスチャーしたビーチ・ボーイズの斬新な音楽はこの時点から、既に確立されており、全米14位のヒットを記録。そして1962年11月にデビュー・アルバム サーフィン・サファリ(Surfin’ Safari) を発表。同作は全米32位とまずまずのヒットとなった。

翌1963年には早くも彼らをトップ・グループにのし上げる名曲がリリースされている。チャック・ベリーの“スウィート・リトル・シックスティーン”のサウンドを本歌取りしたその曲は永遠のビーチ・ソング“サーフィン・USA”。同曲は全米最高位3位を記録。いわばわずか3枚目のシングルにしてビーチ・ボーイズはサーフィン・ソングの決定盤をものにしたのだった。また同曲を収録した サーフィン・USA(Surfin’ U.S.A.) も全米2位を記録し、ビーチ・ボーイズは「ナンバー・ワン・サーフィン・グループ」となったのだった。

しかしこの頃のバンドはアルバムを年に二枚から三枚くらい出していて凄い。前作発表と同年の1963年にブライアン・ウィルソンが初めてプロデュースを手掛けた サーファー・ガール(Surfer Girl) を発表。同作は、以前よりもメロウなトーンの楽曲が増えたり、初のオーケストラ導入曲があったりと、ブライアン・ウィルソンの非凡な才能が早くも垣間みられる作品となっている。その後リリースされた リトル・デュース・クーペ(Little Deuce Coupe) は、サーフィンと並んで当時の西海岸の若者に人気のあった「車」をテーマにしたホット・ロッド・ソングを中心にまとめあげられたアルバムで、これまた同年の1963年中に発表されている。

1964年2月にホット・ロッド・サウンドの代表的なヒット曲“ファン・ファン・ファン”(全米5位)、3月にアルバム シャット・ダウンVol.2(Shut Down Volume 2) を発表(このアルバムからデヴィッド・マークスに代わりアル・ジャーディンが復帰)。同作はフィル・スペクターの音を意識した“気にしないで(Don’t Worry Baby)”をフィーチャーしていたが、この曲をB面としてリリースされたのが、“アイ・ゲット・アラウンド”。これは彼らにとって初の全米ナンバーワン・ソングとなった。その後同1964年中に、“アイ・ゲット・アラウンド”を収めた オール・サマー・ロング(All Summer Long) 、クリスマス・ソング集 ビーチ・ボーイズ・クリスマス・パーティー!(Beach Boys’ Christmas Party)、さらには初の全米ナンバーワン・アルバムとなった ビーチ・ボーイズ・コンサート(Beach Boys Concert) と精力的にアルバムを発表していった。

デビューから二年という短期間に8枚のアルバム、という現在では考えられないペースで作品を発表していったビーチ・ボーイズだが、この頃、レコーディング、ツアーという繰り返しの中で、作曲、プロデュースやアレンジまでも行っていたグループの要、ブライアン・ウィルソンがとうとう精神的疲労から、1964年12月23日、飛行機の機内で神経衰弱に陥ってしまった。医師から肉体的にも精神的にもダメージを与えるツアーを中止するように言われたブライアンは以降、スタジオでのレコーディング作業に専念していくことになる。

この後、ブライアンの後任に収まったのはグレン・キャンベルだったが、キャンベルはグループに馴染めず、また病気を理由に脱退。そしてその代わりにグループに加入したのが6人目のビーチ・ボーイズといわれたブルース・ジョンストンだった。ブルース・ジョンストンはリッチー・ヴァレンスサンディ・ネルソンらとともに仕事をし、友人のテリー・メルチャーブルース&テリーというデュオを組んで活動していたこともあるミュージシャンだった。

1965年3月に通算9作目となるアルバム ビーチ・ボーイズ・トゥデイ(Beach Boys Today!) を発表。また7月にはブルース・ジョンストンを迎えて制作された初のアルバム サマー・デイズ(Summer Days) を発表。後者からはアル・ジャーディンのリード・ヴォーカルによる“ヘルプ・ミー・ロンダ”が二枚目のナンバーワン・シングルに輝いたが、作品全体としてはスペクター・サウンドからの影響濃い、脱・サーフィン&ホット・ロッド志向が端的に示された作風となっていた。また同年10月にはロック界初ともいわれるスタジオ・ライヴ・アルバム ビーチ・ボーイズ・。パーティ(Beach Boys Party)を発表。シングル“バーバラ・アン”のヒットを経て、翌1966年になるとワールド・ツアーの一環として初来日公演が実現。そして5月。問題作といわれたペット・サウンズ(Pet Sounds)の発表となる。

この辺りの話は近年有名なようなので触れるに留めるが、ペット・サウンズ は、ビートルズラバー・ソウル に衝撃を受けたブライアン・ウィルソンがこれからは「トータル・アルバム」の時代だということを察したことから、ツアー中のメンバーが居ない間に独りスタジオに篭り、ハル・ブレイン、ラリー・ネクテルといった一流のスタジオ・ミュージシャンを使って作り上げた「実験的」なアルバムだった。ツアーから戻ったメンバーはこのブライアンが作った音を聴いて、その全く新しいサウンドを理解できず「何だ、この音は。犬にでも聴かせる気か」といった反応を示したという。ともあれ、強く反発したマイク・ラヴに対して、アル・ジャーディンがブライアンに理解を示したことがきっかけとなり、残りのヴォーカル・パートもメンバーの協力により無事録音が済まされた。結果7万ドルを費やされたペット・サウンズ は1966年5月にリリースされたが、3枚のヒットを生み、評論家やDJには評判が良かったものの、同作はセールス的にそれほどの成功を収めるには至らなかったのである。ビートルズにも負けない、いやひょっとするとそれ以上の創造力を発揮したブライアンはこの結果に落胆した。世間はやはりサーフィンとストライプ・シャツのビーチ・ボーイズを求め続けていたのだった。さらに直後、ブライアンの傷を深くするような出来事が起きたのも有名な話だ。キャピトル・レコードはペット・サウンズ の「失敗」を打ち消そうとするかのように直後にベスト盤をリリース。サーフィン、海、車、女の子というビーチ・ボーイズのベスト盤は好セールスを記録した。

ペット・サウンズ の完成後、ブライアン・ウィルソンは“グッド・ヴァイブレイション”の制作に入った。1万6千ドルが費やされたという同シングルは、1966年10月に発表され、同年12月10日付で全米ナンバーワンを獲得。これは発表されていればビートルズサージェント・ペッパーズ を凌ぐ壮大なコンセプト・アルバムとなったであろうといわれる未完の作品 スマイル(Smile) から派生した作品だった。

結局ビーチ・ボーイズはこの後、 ペット・サウンズ を巡るごたごたや、 スマイル の発売中止を巡る問題などが発端となり、 スマイリー・スマイル(Smily Smile) (1967年)、ワイルド・ハニー(Wild Honey) (1967年)、 フレンズ(Friends) (1968年)の三枚のアルバムを遺して古巣キャピトルを離れた。

ビーチ・ボーイズは自身のレーベル、ブラザーを立ち上げ、1970年8月に サンフラワー(Sunflower) を発表。その後、1971年 サーフズ・アップ(Surf’s Up) 、1972年 カールとパッションズ(Carl And The Passions ? So Tough) 、1973年 オランダ(Holland) とリリースを重ね、同時期に積極的なライヴ活動を行っていくも、レコードのセールスは伸び悩み、低迷期に差し掛かっていく。また同時期にブルース・ジョンストンがグループを離れ、リッキー・ファター、ブロンディ・チャプリンらがバンドに加わっている。

1973年に発表された ビーチ・ボーイズ・イン・コンサート(Beach Boys In Concert) は1969年のライヴ音源を収めたものだった。そして、その後1974年に古巣キャピトルからリリースされたベスト盤 終わりなき夏(Endless Summer) 。これはビーチ・ボーイズのパブリック・イメージである、海、車、女の娘、といったものを音楽ファンに再度アピールするに充分であり、またセールス的にも珠玉のポップ・ソング集とはいえ、全米ナンバーワンを獲得するというヒット作となった。このヒットに勇気づけられたか、ビーチ・ボーイズはデビュー15周年を記念したアルバム 偉大なる15年(15 Big Ones) をオリジナル・メンバーによる制作で1976年にリリース。全米5位まで上がった“ロックンロール・ミュージック”はじめ、オールディーズ・ナンバーを取り上げた同作は、久々にトップ10ヒットとなるオリジナル・アルバムとなったのだった。またこの時期、一時期ドラッグによる廃人同然とまでいわれたブライアンが、カリフォルニアのアナハイムでのコンサートで11年ぶりのステージ復帰を果たしていることも忘れてはならない。

1977年に ビーチ・ボーイズ・ラヴ・ユー(Beach Boys Love You) を、翌1978年に M.I.U.アルバム(M.I.U. Album) を発表。その後、1979年にCBS傘下のカリブー・レコードに移籍したビーチ・ボーイズは、同年 L.A.(ライト・アルバム)(L.A.(Light Album) を発表。またこの年には江ノ島「ジャパン・ジャム」参加のための来日もあった。

ややあって1983年12月18日、グループで唯一の「本物のサーファー」だったデニス・ウィルソンが、泥酔状態でマリーナ・デル・レイの沖合いで水死。ファンには悲しい出来事となった。

デニスの死やソロ活動を経て、ビーチ・ボーイズのオリジナル・アルバムが発表されたのは1985年になってからのことだった。 ザ・ビーチ・ボーイズ(The Beach Boys) と題されたその作品では、かつての雰囲気を彷彿とさせるシングル“ゲッチャ・バック”などが話題となった。

1986年になるとグループ結成25周年、その記念ベスト盤 メイド・イン・USA(Made In U.S.A.) のリリース、そして全米100都市を廻るツアーを敢行、とビーチ・ボーイズ周辺はにわかに騒がしくなった。そしてその決定打となったのが1988年にトム・クルーズ主演の映画 カクテル の主題歌“ココモ”の大ヒット。これは“グッド・ヴァイブレイション”以来22年ぶりの全米ナンバーワン・ヒットだった。また一方でブライアン・ウィルソンの初ソロ・アルバム ブライアン・ウィルソン が発表され、こちらも巨匠復活と話題となっている。そして1989年9月、20年ぶりとなるキャピトルからのオリジナル・アルバム スティル・クルージン(Still Crusin’) を発表し、90年代に突入。

90年代に入ると、ビーチ・ボーイズは、エルトン・ジョン・トリビュート トゥ・ルームス〜エルトン・ソングス への参加、三度目の来日公演(1991年11月)を経て、1992年には前作から7年ぶりのオリジナル・アルバム サマー・イン・パラダイス(Summer In Paradise) を発表。同作は環境破壊に対するメッセージとしてジャケットにエコ・パックというものが使用されたことも話題となった。

90年代以降はビーチ・ボーイズ関連の編集盤や再発盤など多数なリリースがあったが、とりあえずオリジナル・アルバムとブライアン・ウィルソンのソロ作品に絞ってその後の動きを追うと、1994年にドン・ウォズ・プロデュースによるブライアン・ウィルソンに関するフィルムのサントラ 駄目な僕(IJust Wasn't Made For These Time) 、1995年に旧友ヴァン・ダイク・パークスのソロにブライアンが参加する形が発展して共演盤となった オレンジ・クレイト・アート(Orange Crate Art) というブライアン関連盤が登場。その後ブライアン・ウィルソンは1998年にソロ作品 イマジネイション(Imagination) を発表、1999年の来日公演、そしてその後ツアーに出掛けるようにもなり、2002年に再来日。現在に至っている。一方のビーチ・ボーイズのほうは、オリジナル・アルバムは企画色濃い1996年 Stars & Stripes, Vol. 1 の発表のみに留まっている(ビーチ・ボーイズの名を名乗る複数のバンドが存在し、ライヴ・ツアーは行ってはいるが)。

前段のほうで触れたマイク・ラヴ対ブライアン…といった評価の分裂と同様のことが、彼らの諸作の間にもある。極端に言ってしまえば、サーフィン・サウンド時代は単なるお気楽ポップス、対してペット・サウンズ サーフズ・アップ 辺りはブライアンの芸術的な側面が出た永遠の名作、といった具合に。若いファンや精神的なものを強く求めるロック信者のリスナーほどそう考える傾向があるように思えるが、実際はどうなのだろうか。ともあれ、そうした考えは「サーフィン」時代のビーチ・ボーイズがいかに「プログレッシヴ」であったのか、という点を見失うことになるだろうと思う。

今でこそアメリカン・オールディーズの定番といった風に映るビーチ・ボーイズの初期楽曲は、実は当時かなりの斬新さを持って響いたのだから。インストが大半だったサーフィン・ミュージックに、フォー・フレッシュメン・スタイルのコーラスを持ち込んだ画期性、ガレージっぽいコンボ編成の演奏にいきなり美しいコーラスが被さるという異端ぶり。長いリスナー経験を持つ大瀧詠一氏、山下達郎氏らが指摘するような、そうした彼らのオリジナリティは、現在では見えにくくなっているが、これはもうとんでもなく凄いアイディアだった。同時期にビートルズが黒人音楽をギター中心の白人コンボ演奏に置き換えて、自身のオリジナリティを作り出したのと同等の「コロンブスの卵」的発見だ(ビートルズのスタイルほどコピーし易いものではないのがフォロワーを多く生まなかった原因かもしれないが)。

ビーチ・ボーイズに限らず、いわゆるごりごりのロック的な価値軸では比較的、ポップスという枠内での発見やアイディアよりも、精神性や表現の深み、アーティスト本人による赤裸々な表現といったことが重視されるのだが、逆にポップスという枠がこうした発見やアイディアを生み出す原動力となっていったことをビーチ・ボーイズ(やビートルズ)の初期作品から感じ取ってみるのも面白いのではないだろうか。

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