1942年、今度は“Night And Day”でソロ・ヒットを飛ばし、ソロ歌手としての独立の自信を深めていく。その後、40年代は、いわゆる「ティンパン・アレイ」の作品を次々とバンドで歌いヒットを続けて行った。戦争も終わり、シナトラはラジオ番組も持ち順風満帆に見えた。このころから映画出演と歌手活動でシナトラは絶好調を維持し、飛ぶ鳥を落とす勢いだった。
1960年、それまでの定番を打ち破った「ミディアム・スイング」の作品『Nice 'N' Easy』を発表、大ヒットを飾るが、次第に大きくなっていた「キャピトル・レコード」との契約問題での溝は埋められず、結局、シナトラは自己のレコード会社「リプリーズ・レコード」を設立、その結果、1961年、2つのレコード会社の5枚のアルバムがレコード店を埋めた。『Sinatra's Swingin' Session!!!』『Ring-a-Ding Ding!』『Sinatra Swings』『Come Swing with Me!』『I Remember Tommy..., 』にコンピレイション作品『All the Way』を入れて7枚のアルバムが次々と発売された。そして、この年のグラミー賞「レコード・オブ・ジ・イヤー」を“"The Second Time Around"で受賞、売り上げ、実績でトップに君臨する。
1962年には「キャピトル」最終作品『Point Of No Retrurn』が発売される。1963年、「時代」の流れが押し寄せる中発売された3枚の作品の中、唯一『Sinatra & Strings』のみがトップテンに達するのみで、ビートルズ時代が到来する。
シナトラは“Days of Wine and Roses”“Moon River”といった作品をヒットさせ、「ソフト・バラードの帝王」としての路線を確保、相変わらずヒットを続けていく。1966年シナトラのTV戦略の遺憾として発売された2枚組み作品『A Man and His Music』がグラミー賞年度アルバム賞を獲得、さらにミリオン・セラーを突破するシングルヒット“ストレンジャー・イン・ザ・ナイト”をスマッシュする。順調にヒット街道を走るシナトラが1969年発売したのが、ポール・アンカ作曲の生涯の代表作“My Way"だった。そして、1971年、55歳のシナトラは引退を発表する。
しかし、わずか一年半で、TVスペシャル番組作品『Ol' Blue Eyes Is Back』を抱えてカムバック、帝王健在振りどころか更なるステージアップを見せ付けた。“レッツ・ミー・トライ・アゲイン”こそは、シナトラが歌ったソフト・バラード中、最高最良、さらに最上の一曲だろう。シナトラはその後6年間で6枚のアルバムを制作、1980年には晩年の最高傑作『Trilogy』を発表する。“ニューヨーク・ニューヨーク”は、NYのテーマソングとして長く歌われ、当地ソングとして“シカゴ”と共にシナトラの代表作となる。
その後、活動は持続しながらも『L.A.Is My Lady』以来、録音をしなかったシナトラは、1993年、古巣「キャピトル」と再契約、時代と空間を越えた作品『Duets』を発表、300万枚の大ヒットとなる。翌年、続作『DuetsU』を発表、1995年度グラミー賞を受賞した。