Genesis
新商品あり

Genesis (ジェネシス) プロフィール

Genesis | プロフィール | CD、DVD、ブルーレイ(BD)、ゲーム、グッズなどを取り扱う【HMV&BOOKS online】では、コンビニ受け取り送料無料!国内最大級のECサイトです!いずれも、Pontaポイント利用可能!お得なキャンペーンや限定特典アイテムも多数!支払い方法、配送方法もいろいろ選べ、非常に便利です!

初代ヴォーカリストのピーター・ガブリエル在籍時から、 キング・クリムゾンイエスなどとともに英国プログレッシヴ・ロックの黄金時代を築き、のちにフィル・コリンズをヴォーカリストにフィーチャーし、よりポップな音楽性でチャートを賑わす存在となっていったジェネシス。フロントマンの脱退を経てもなお、自らの音楽性をある側面で貫きつつ、より広範なファン層へとアピールするサウンドをものにしていった彼らは、数多いバンドの中でも稀有な個性を持ち、ほかのバンドにはないユニークな軌跡を描きながら音楽シーンの頂点へと昇りつめていった。

ジェネシスの歴史は貴族階級の名門校として知られるサリー州ゴダルミングのチャーターハウス・パブリック・スクールで、ピーター・ガブリエルトニー・バンクスが出会うところから始まった。二人は他クリス・スチュアートとザ・ガーデン・ウォールを結成。その後、ジ・アノンというバンドに居たアンソニー・フィリップスマイク・ラザフォードが合流する形でジェネシスの原型といえるバンドが誕生した。1967年、本格的なスタジオでクオリティの高いデモ・テープを完成させた彼らは、デッカ・レコードと契約、デビューを果すがシングル、ファースト・アルバム From Genesis To Revolution(創世記) (後に In The Beginning のタイトルで再発される)ともに評価を得ることはできなかった(この間にクリスが脱退。代わってジョン・シルヴァーが加入)。1970年新たにカリスマ・レコードと契約したジェネシスは、アンソニーと先頃加入していたジョン・メイヒューの脱退と前後するようにしてセカンド・アルバム侵入(Trespass) を制作(この時期フィル・コリンズ、その後スティーヴ・ハケットが加入)。この後、ラインナップの揃ったジェネシスは1971年のサード・アルバム 怪奇骨董音楽箱(Nursery Cryme)発表時にはプログレ・バンドとしての人気を確立した。またその後、1972年に通算4作目の フォックストロット(Foxtrot) 、1973年に ジェネシス・ライヴ(Genesis Live) 、 月光の騎士(Seling England By The Pound) の二作を発表した頃にはジェネシス人気は英国のトップ・クラスを占めるほどになっていた。しかし人気を定着させていった彼らだったが、1974年発表 眩惑のブロードウェイ(The Lamb Lies Down On Broadway) とその後行われたツアー(1975年まで)を最後にピーター・ガブリエルがバンドを脱退。スターを意識した自分を反省したい、という理由があったとされる彼の脱退劇だが、その後1977年にソロ1stアルバムをリリースし、ピーター・ガブリエルはソロ・アーティストとしての一歩を踏み出すことになる。

ピーター・ガブリエルというバンドの核を失ったジェネシスは、しかしフィル・コリンズがドラムとリード・ヴォーカルを兼任することでバンドを続行させた。ピーターに似た声質を持つフィルをヴォーカルに据えたことで、バンドの音楽性はさほど大きな変動を経ずして人気を継続させたようなところがあった。 それを裏付けるかのように新生ジェネシスの第一弾1976年初頭発表のトリック・オブ・ザ・テイル(A Trick Of The Tail) と、同年末に発表された 静寂の嵐(Wind & Wuthering) はともに全英トップ10入りするヒットとなり、引き続き人気の高さを見せつけたのだった。またこの間1976年には元イエスキング・クリムゾンビル・ブラッフォード、翌1977年にはチェスター・トンプソンをセカンド・ドラマーに迎え、ワールド・ツアーを敢行。その模様を収録した 幻惑のスーパー・ライヴ(Second Out) が1977年暮れに発表されたが、このツアー終了時にスティーヴが脱退(ジェネシス在籍時から行っていたソロ活動により積極的に取り組んでいく)。

とうとう正式メンバーが、フィルマイクトニーの3人となってしまったジェネシスは、サウンド・スタイルやバンドの在り方に少々の変化が加わりながら、存続していくことになった。そんな状況が反映されたトリオとしての初作品 そして3人が残った(And Then There Were Three) (1978年発表)では、過去のプログレッシヴ・ロック感覚を失うことなく、ポップなテイストをも導入。同作からは初の全米トップ30入りする“フォロー・ミー”のヒットも生まれている。またこの後のツアーから準メンバー扱いでチェスター・トンプソンとダリル・スチューマー(g)が参加。同1978年11月には初来日も果たしている。

1980年、アルバム デューク(Duke) を発表。“君のTVショー”のヒットもあり、アルバム自体も全米最高位11位となるベストセラーとなった。またこの時期一方ではメンバー各々がソロ・プロジェクトを始動させたことも付け加えよう。彼らはこの後ジェネシスとソロ・プロジェクトを交互に展開していく、という以前には見られなかったユニークな活動形態をとっていくようになるのだった。

1981年にアルバム アバカブ(Abacab) を発表。と同時にワールド・ツアーに入ったジェネシスは、そのツアーの模様と デューク(Duke) アバカブと同時期に録音された未発表曲とライヴ・テイクをカップリングした作品 スリー・サイド・ライヴ(Three Sides Live) を翌1982年に発表。ここに至り、ジェネシスは既にプログレッシヴ・ロックの枠を飛び越え、ポップ・フィールドでの人気と高いエンターテイメント性を達成。史上最強のトリオなる異名も与えられるようになった。

フィルマイクトニーは、自身のソロ・プロジェクトでも高い支持を得ていく中で、ジェネシスとして1984年にセルフ・タイルとなるアルバム ジェネシス(Genesis) を発表。ここからも“ママ”、“ザッツ・オール”などのヒットが生まれ、さらに続くツアーなどでも人気を博していった。そしてソロ活動がひと段落した1986年にアルバム インヴィジブル・タッチ(Invisible Touch) を発表。ここからは表題曲含め、“混迷の地”、“イン・トゥ・ディープ”など5曲ものヒットが生まれ、アルバム自体も大ヒットとなる人気を見せた。また続く二度目の来日含むワールド・ツアーも大盛況となり、彼らの人気はここで頂点に達したのだった。

その後、個々の活動のため活動を休止していたジェネシスが再び始動するのは1990年のことだった。英ネブワース・フェスティヴァルに参加したもののまたも沈黙した彼らは、しかし翌1991年に、前作から5年ぶりとなるアルバム ウィ・キャント・ダンス(We Can't Dance) を発表。ここからは“ノン・サン・オブ・マイン”や“アイ・キャント・ダンス”の全英トップ10ヒットが生まれた。そして個々の活動のためまたも小休止をとった後、1992年5月からは全公演がスタジアム級という「ウィ・キャント・ダンス・ツアー」を敢行。またこの時のライヴ・テイクは二種に分けられ、リリースされた。ヒット曲中心の ザ・シングル・ヒッツ・コレクション:ライヴ前編(Live - The Way We Walk Vol.1:The Short)を1992年末に、また大作やメドレーが中心の もうひとつのジェネシス:ライヴ後編(Live - The Way We Walk Vol.2:The Long) を1993年初頭にそれぞれリリースしたのだった。

この後もメンバー各々はソロ・プロジェクトへと戻っていったが、不定期になるとはいえ、ジェネシスとしての活動も再び行われると思われた。しかし1995年に入り、フィル・コリンズが自らのソロ活動の幅を広げていく、といった理由でジェネシス脱退を表明。その後のツアーを最後に解散、という噂も流れたが、一方のマイクトニーはこれを否定。新メンバーを加入させジェネシスの活動を継続していく、との声明を出した。

その後、新たにレイ・ウィルソンを加えて再編されたジェネシスは1997年にコーリング・オール・ステーションズ(Calling All Stations)を発表したが、正直なところ、やはりそれほど大きな話題とはならなかった。

冒頭でも触れたようにジェネシスの活動が描いてきた軌跡は他に類をみないユニークなものだった。また、それぞれのメンバーによるソロ・プロジェクトでの成果が逆に彼らの活動を困難にしていったという側面もあるものの、そうした個々の力量が合わさってジェネシスの表現となるときにまた何とも言えない魅力が発揮されたことは特筆に価すべきものだと言える。

%%message%%