1973年7月、デッドはオールマン・ブラザーズ・バンド、ザ・バンドらと共にNYワトキンス・グレンのサマー・ジャムに参加。600個以上のスピーカー群がステージに積まれるという巨大PAシステムが話題を呼ぶ中、60万人ものオーディエンスをそのサウンドで酔いしれさせた。またこの時期デッドは自己レーベル、グレイトフル・デッド・レコードとその子会社ラウンドを設立。そこから1973年中に 新しき夜明け(Wake Of The Flood) をリリース。また翌1974年にはワーナーから 火星から来たグレイトフル・デッド(From The Mars Hotel) を発表している。両者とも全米トップ20に入るヒットとなったが、1974年10月になるとデッドはウィンターランドでのコンサートを最後に休業を宣言。同時に解散説も流れた。
1979年になるとゴドショウ夫妻の代わりに元シルヴァーのブレント・ミッドランドが加入し、翌1980年にアルバム ゴー・トゥ・ヘヴン(Go To Heaven) を発表。“アラバマ・ゲッタウェイ”のシングル・ヒットで若いリスナーからの人気を掴んだ一方、同年9月25日〜10月14日にかけて行われたサンフランシスコのウォーフォールド・シアター、そして10月22日〜31日にかけて行われたNYのラジオ・シティ・ミュージック・ホールでのロング・コンサートも話題を呼んだ。結成15年を記念した同コンサートは一日平均5〜6時間、長い場合には8時間にも及ぶデッドならではの演奏を披露。なお、この時の模様はアコースティック・セットを纏めた Reckoning とエレクトリック・セットを纏めた デッド・セット(Dead Set) (共に1981年発表)で聴くことができる。
この後ガルシアやウィアーのソロなどは発表されたが、デッド本体の作品は長い間リリースされなかった。ただこの時期もライヴは年間80本以上という量をこなしてはいたのだが。そして遂にデッドの久々の作品が1987年に発表された。スタジオ作としては7年ぶりとなる イン・ザ・ダーク(In The Dark) 。”タッチ・オブ・グレイ”という全米10位に入るシングル・ヒットも生まれた同作は、アルバム自体も全米6位を記録する、デッド史上最大の成功作となった。また同時期(1986年夏と1987年夏の二回)に行われたボブ・ディランとの全米ツアーも大いに話題となった。
1988年に入っても相当数のライヴをこなしていたデッドは、1989年にディランとのジョイント・コンサートの模様を収録した ディラン&ザ・デッド〜ライヴ(Dylan And The Dead) を3月に発表。その後ガルシアのソロ Almost Acoustic) などを挟み、「イン・コンサート・アゲインスト・ザ・エイズ」にジョン・フォガティ、トレイシー・チャップマン、ロス・ロボスなどと共に参加。また同年8月からは恒例のツアーという予定だったのだが、これは87年頃から問題視されていたデッドの新しいファン層による暴動まがいの行動により、各会場付近の住民を中心とした反対派からの抗議を受け中止となってしまうという出来事も起きている。これはデッドの「スケルトン・マーク」がファッションとしてブームとなるという背景の中、リスナーの世代交替によって、無茶をする若者層が入り込んできた結果、穏やかなヒッピー思想に基づく古くからのファンがデッドから離れていくという弊害が生んだ結果だった。その後同1988年10月にはアルバム ビルト・トゥ・ラスト(Bulit To Last) がリリースされている。
同作品と前後してツアーを開始したデッドは、1990年4月まで継続してライヴを行い、その音源からライヴ作を制作することを企画。しかし、同1990年7月26日にドラッグ禍でブレント・ミッドランドが死去。このため10月にリリースされた前述の企画から生まれたライヴ作 ウィズアウト・ア・ネット(Without A Net) は彼の追悼盤となってしまった。ただデッドはこの後も元チューブスのキーボーディスト、ヴィンス・ウェルニックを加えライヴ活動を継続した。
その後も相変わらず作品発表のないデッドだったが1995年、久々の新作となる Hundred Years Hall をリリース。しかしながらこのリリースと時期を同じくして悲劇は起こった。デッドの中心人物というのみならず、サンフランシスコ・ヒッピー・ムーヴメントの守護神的存在、60年代アメリカの象徴といえたジェリー・ガルシアが8月9日に永眠してしまうのだ。アメリカでは多くの文化人らが大きなカルチャーを生んだジェリー・ガルシアの死を悼み追悼した。