Santana
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Santana (サンタナ) プロフィール

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Santana

1999年に発表されたサンタナのアルバム スーパーナチュラル は、第42回グラミー賞にてあのマイケル・ジャクソンと並ぶという史上最多の全8部門受賞を果たしました。この快挙により世代を越えて支持されるようになったアーティスト、サンタナ。リーダー、カルロス・サンタナを中心に、その30余年に渡る活動の歴史を振り返ってみましょう。

カルロス・サンタナは1947年7月20日、メキシコ:オウトランに生まれました。バイオリニストであったという父、ホセ・サンタナからカルロスはバイオリンの英才教育を受けます。しかし、彼曰く「そのサウンドと匂いが嫌いで・・・」との理由と、ブルースに大きな影響を受けたため、彼はギタリストへの道を選んでいました。

カルロスは1960年代前半にサンフランシスコに移り住みました。その頃、さまざまなブルースマンやジャズ・ミュージシャンたちに影響を受けたといいます。ジャム・セッションを続けるうちに知り合ったグレッグ・ローリー(Key)、友人であったロッド・ハーパー(Ds.)、ガス・ロドリゲス(B.)、マイク・カラベロ(Per.)、トム・ブレイズル(G.)らとサンタナ・ブルース・バンドを結成しました。

1967年、フィルモアで演奏していた彼らは、オーナーのビル・グレアムから認められる存在となり、メネージメントを委ねることとなります。当初、ブルースのカバーをメインに演奏するサンタナ・ブルース・バンドでしたが、この頃からラテンのテイストを取り入れるようになり、サウンドは徐々に変化していきました。そしてメンバー・チェンジが行われ、カルロスとグレッグ、マーカス・マーロン(Per.)、デヴィッド・ブラウン(B.)、ボブ・ソヴィングストン(Ds.)の5人で「サンタナ」として正式にスタートすることになります。同年暮れにCBSと契約するも、マーカスとボブが脱退、ブルース・バンド時代のメンバー、マイク・カラベロが再び加入、さらにマイク・シュリーヴ(Ds.)とホセ・チュピート・アリアス(Per.)が加わり、あのメンバー構成となりました。

1969年ウッド・ストック・フェスティバル、そのメンバーでの出演が決定しました。アルバム・デビュー直前のまだ無名な彼らであったのですが、フィルムを見れば一目瞭然、その強烈なパフォーマンスはオーディエンスからは熱狂的に受け入れられたのでした。ラテン・ロック。それ以外まさに例えようの無いサウンドは、ファースト・アルバム サンタナ で人々に知られるようになり、ウッドストックでの成功はこのアルバムを全米最高位4位を記録するなどトータル約180万枚のセールスに導きます。

そんな彼らの名を不動のものにしたのがセカンド・アルバム 天の守護神 で、6週全米連続No.1を記録することとなります。アルバムに収録されていたフリート・ウッド・マックのカバー”ブラック・マジック・ウーマン”は、シングル・カットもされヒットを記録、サンタナの代表曲として人気の高い、カルロスの「泣きのギター」が有名な楽曲です。

3枚目 サンタナV も全米No.1に輝きました。しかしそのような状況に甘んじることもなく、彼らはサウンドを更に強化するため、当時16歳であったというニール・ショーン(G.)と4人のパーカッショニストを加えることになります。ジャーニーニール・ショーンであります。彼の早弾きにはカルロスも驚いたとか。

1972年に発表された キャラバンサライ は、インストゥルメンタル中心のジャズ的なアプローチを見せており、カルロスの宗教への傾倒などから精神性の部分で語られることの多いアルバムです。結果“ラテン・ロック”サウンドは変化し、セールス的には芳しくないものでした。カルロスはその後、ジョン・マクラフリンらジャズ系ミュージシャンとの交流が深まっていきました。しかし、ニールとグレッグはジャーニーを結成する為に脱退という、自身のバンドにはあまり良い影響を与えたとは言えない結果となっていました。

1973年、ボーカルにレオン・トーマスを迎えて来日した彼らは、そのステージを収録したLP3枚組のライヴ・アルバム ロータスの伝説 をリリースします。横尾忠則が手掛けたというその豪華な22面体ジャケットは、後にマイルス・デイビスからの製作依頼が来るほどの見事な力作で、当時大きな話題となりました。

バディ・マイルス・バンドとの共演あたりから始まったサンタナのたフュージョン寄りのサウンドはその後も続き、スタンリー・クラークらを迎えた 不死蝶 (1974年)にも現れているものの、自身が追求しているサウンドと、ファンが求めているものと隙間を感じたサンタナは、1976年にリリースされた アミーゴ でダンサブルなサウンドへと変化、この傾向はファンに受け入れられることとなりました。名バラード”哀愁のヨーロッパ”は、日本でも大変なヒットを記録、“泣きのカルロス”を定着させました。

後にサンタナのサウンドは、コマーシャル色の強い方向性を示すものの、カルロスのソロではやはりフュージョン寄りのサウンドでした。1980年代以降、バンドでのアルバムはそれなりにヒットを記録していましたが、ソロ作品は・・・。

1991年、カルロスにとっては心に大きな穴をあけられてしまった年でした。ウッドストックにサンタナを売り込んだ張本人、偉大なるプロモーター、ビル・グラハムと巨匠マイルス・デイビスがこの年に逝ってしまいました。1992年、このふたりに捧げられたアルバム ミラグロ は、かつての「ラテン・ロック」サウンドが見事に復活した驚異的なアルバムでした。そして次のアルバム スーパーナチュラル がリリースされたのは7年後の1999年でした。このアルバムは前記のとおり、世界を制したアルバムでした。

2002年には再び豪華ゲストを招きいれたシャーマン を発表。ファースト・シングル“ゲーム・オブ・ラヴ”は新進気鋭の女性シンガーソングラーター、サンタナをフィーチャーしたキャッチーなナンバーでいきなりの大ヒットを記録しました。アルバム自体もスーパーナチュラル 以上の反響を受けることは間違いないでしょう。サンタナの快進撃はこれからもしばらく止みそうにありません。

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