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ハンブルクの隊長のための祝典音楽〜テレマン、CPEバッハ

2014年10月27日 (月)

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ハンブルクの隊長のための祝典音楽〜テレマン、CPEバッハ
ミヒャエル・シュナイダー&ラ・スタジオーネ


18世紀のハンブルクは、人口約7万人ほどの町でしたが、自由都市ということで、軍隊はもっておらず、そのため周辺の海賊や強盗たちから市民を守るために、自警団のようなものをつくっていました(のちのハンブルク市民軍とは異なります)。
 その市民グループの隊長を任命する年次式典のために、市の音楽監督であったテレマンは祝典音楽をいくつも書いており、また、後任のカール・フィリップ・エマヌエル・バッハも同様に作品を提供していました。
 この「ビュルガーカピテンスムジーケン」、直訳すると市民隊長の音楽集というタイトルの付されたアルバムでは、その儀式のために書かれた1736年と1780年の祝典音楽が収めてあり、師弟関係で名づけ親子関係でもあった二人の音楽の個性の違いを楽しむこともできます。
 演奏は1988年に結成されたドイツの古楽器アンサンブル、「ラ・スタジオーネ・フランクフルト(LSF)」と、ドイツで活躍中の歌手たちによるもので、指揮はアンサンブルの創設者でもあるミヒャエル・シュナイダーがおこなっています。シュナイダーは「カメラータ・ケルン」の創設者でもあり、指揮だけでなく、リコーダー奏者、トラヴェルソ奏者としてもテレマン作品に深く通じており、2000年にテレマン賞を受賞した実績の持ち主でもあります。

【収録情報】
● C.P.E.バッハ:オラトリオ『Hebt an, ihr Chore der Freuden』 H.822a
● テレマン:セレナータ『So kommt die kuhne Tapferkeit』 TWV.15:9b

 カテリーナ・カスパー(ソプラノ)
 アンネ・ビーアヴィルト(アルト)
 クリスティアン・ローアバッハ(カウンターテノール)
 クリスティアン・ツェンカー(テノール)
 ゴットホルト・シュヴァルツ(バス)
 アンドレアス・ヴォルフ(バス)、他
 ラ・スタジオーネ・フランクフルト
 ミヒャエル・シュナイダー(指揮)

 録音時期:2014年3月
 録音場所:ドイツ、マクデブルク、G.P.テレマン・コンツェルトハレ
 録音方式:ステレオ(デジタル/ライヴ)

【ゲオルク・フィリップ・テレマン】
ドイツ・バロック期最大の人気を誇った作曲家、ゲオルク・フィリップ・テレマン[1681-1767]の音楽の明快さは、その実生活の多彩をきわめた華やかさと密接に関わっているとはよく指摘されるところです。
 テレマンは12歳でオペラを作曲するほどの早熟な天才でしたが、ライプツィヒ大学では法学を学び、同時に聖トマス教会では礼拝用の音楽も作曲、さらにはオペラの作曲もおこない、学内ではオケを組織し、新教会のオルガニスト兼音楽監督に就任するなど、キャリアの最初から実に多面的な活躍ぶりでした。
 さらにテレマンは、通常もちいられる楽器のほとんどすべてを演奏することができたというほどのマルチ・プレーヤーでもあり、特に木管楽器については名人級の腕前だったことはよく知られるところです。
 テレマンは、23歳のときにはプロムニッツ伯爵の宮廷楽長に就任し、伯爵の好みでもあるフランス風な管弦楽組曲を数多く作曲、伯爵の避暑地ではポーランド系の民俗音楽やジプシー音楽に接して大いに刺激を受けます。
 27歳の時にはアイゼナハの宮廷楽長に赴任し、宮廷礼拝堂楽団を組織、カンタータ・チクルスなどで君主の厚遇を得ますが、31歳の年にはこうした宮廷生活に別れを告げ、帝国自由都市フランクフルト・アム・マインの教会の楽長に就任。
 さらに9年後、40歳の年には、終生の活動の地となるハンザ自由都市ハンブルクに移って、その後46年間に渡って、都市音楽監督兼ヨハネスカントールとして、オペラに公開コンサート、教会音楽や自作の出版にと縦横無尽に活躍したということです。
 つまりテレマンの創作の背景にあったのは、当初は宮廷であり、やがてそれが市民社会に置き換えられてゆくということですが、そうした市民社会の豊かな音楽環境があればこそ、『ターフェルムジーク』(1733)のような画期的な作品も登場したのでしょう。
 作風も変化しています。宮廷では対位法やフランス趣味を意識していたテレマンも、ハンブルクの市民社会に出てからは、より自由な音楽を志向するようになります。

【カール・フィリップ・エマヌエル・バッハ】
1714年3月8日、バッハが28歳の時にその最初の妻であるマリア・バルバラとの間にヴァイマールで誕生。セカンド・ネームのフィリップは、父バッハの友人であったゲオルク・フィリップ・テレマンが付けたものでした。
 父バッハがライプツィヒのトーマス教会のカントールとなった翌年、カール・フィリップ・エマヌエルは、トーマス教会の付属学校に入学し、やがてライプツィヒ大学に進学、その後、フランクフルトの大学に移って法学の学位を取得するものの、司法の道には進まず音楽の世界に戻ることを決意、父バッハと親交のあった作曲家レオポルト・ヴァイスの推薦もあってプロイセン皇太子フリードリヒのルピーン宮廷にチェンバロ奏者として迎えられ、その後、1740年に皇太子がフリードリヒ2世(フリードリヒ大王)として国王になると、ベルリンの宮廷楽団のメンバーに昇格、1746年には王室楽団員となり、以後、1768年まで同地で活躍、通算30年近い滞在から「ベルリンのバッハ」と呼ばれるようになります。
 その間、フリードリヒ大王が大変な音楽愛好家だったこともあり、コンサートが頻繁に開かれ、作品発表の機会にも恵まれたカール・フィリップ・エマヌエルは、交響曲や協奏曲、室内楽にチェンバロ曲、カンタータにマニフィカトなど多くのジャンルの作品を書き上げています。また、王室楽団員となった翌年の1747年には父バッハをフリードリヒ大王に引き合わせ、『音楽の捧げ物』作曲のきっかけを作ってもいました。
 しかしそのベルリンも七年戦争の影響で荒廃し、宮廷での音楽活動も以前のように活発なものではなくなってきたところに、恩師で名付け親のテレマンの死去によりハンブルク市の音楽監督が空席になったため、カール・フィリップ・エマヌエルは、その後任として当時のプロイセン最大の都市だった人口15万人ほどのベルリンから、半分ほどの人口のハンブルクへ移り住むことになります(ちなみに当時のロンドンは60万人、パリは70万人、江戸は100万人でした)。
 しかし自由都市のハンブルクでは、音楽家の活動も多岐に渡り、カール・フィリップ・エマヌエルは、教会のカントールや、コレギウム・ムジクムの指揮者、チェンバロ奏者として活躍する一方、楽譜の出版も積極的におこない、交響曲に協奏曲、室内楽曲、チェンバロ曲、オラトリオなどを作曲・出版し、ヨーロッパ中にその名を知られることとなります。結局、亡くなるまでの20年間をこの地で過ごしたカール・フィリップ・エマヌエルは、ハンブルクへの大きな功績から「ハンブルクのバッハ」とも呼ばれていました。
 その名声は父バッハを凌ぐもので、ハイドン、モーツァルトは自分の作品に、カール・フィリップ・エマヌエルの音楽を取り入れ、さらにベートーヴェンやクレメンティも賛辞を惜しみませんでした。没後の影響としては、メンデルスゾーンが大作『エリヤ』に多くの素材を使用していたほか、ブラームスがその音楽を高く評価していたのが目立ちます。
 カール・フィリップ・エマヌエルの音楽は、父バッハに続いて、名付け親テレマンの影響を強く受けるようになり、師の作曲様式を受け継いでギャラント様式(ロココ様式)や多感様式を追究、疾風怒濤様式や古典派音楽の基礎を築くことになります。(HMV)
※表示のポイント倍率は、
ブロンズ・ゴールド・プラチナステージの場合です。

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『ハンブルクのための祝典作品〜テレマン、C.P.E.バッハ:カンタータ』 M.シュナイダー&ラ・スタジオーネ

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