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ロ短調ミサは官能大作? 評論家エッセイへ戻る

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2018年3月26日 (月)

連載 許光俊の言いたい放題 第259回


 バッハのロ短調ミサは、言うまでもなくクラシックの世界における指折りの傑作である。そして、実際、さまざまな演奏家が手掛けている。バロックの専門家ばかりでなく、クレンペラー、カラヤン、チェリビダッケ、ケーゲルといったきわめて個性的な指揮者の演奏も録音で楽しめるのである。
 しかし、この曲の成立に関しては大きな謎がある。教会で実用的に用いるには、あまりにも巨大すぎるのだ。それにそもそもバッハはプロテスタントの作曲家であり、カトリックのためにラテン語のミサ曲を作る必要などない。そのため、バッハが純然たる創作意欲に駆り立てられて作曲したのだと説明されることが多いようだ。
 私もこの曲が好きで、録音でも実演でもあれこれ聴いてきたが、今回発売されたクリスティの演奏は、官能美という点では随一ではないか。とにかく声の絡み合い、重なりあいがあまりにも艶っぽい。妖しいまでに美しい。もはや信仰など無関係に、感覚的な美に陶酔するような演奏なのだ。このハーモニー感は、バロックというよりルネサンス音楽だ。トリルの優雅な色香はまさにクリスティ節炸裂。
 ロ短調ミサの主役は声である。ミサ曲なのだから本来当たり前なのだが、それを改めて痛感させる。冒頭楽章のキリエからして、楽器はうしろに引き、前景で声がくねくねとくねる。合唱や独唱の溶け合い、フレーズの重なり方、言葉の交差、聴いていて実に気持ちがよい。
 クリステ・エレイソンに端的な艶やかな歌。これはもうベルカント・オペラも真っ青だ。これを歌っている人たち、気持ちよかっただろうなあ。こんなに歌の快楽に満ちたロ短調ミサの演奏は聴いたことがない。
 トラック4から5にかけて、つまりグロリアからエト・イン・テラ・パクスにかけて、神の栄光を讃える力強い音楽から、穏やかな地の平和へと変わるところ、さっと静まったときの声の響きの艶めかしさには身がよじれそうだ。
 ラウダムス・テ(われら主を誉め)は、ほとんど若者の恋の歌みたい、小鳥のさえずりみたい。軽やかかつ色っぽい。ほんとにこれでいいんでしょうか。たぶんよくないでしょう。でもきれい。
 この録音が行われた2016年頃、クリスティは集中的にこの曲を演奏したが、私はヴェルサイユで聴くことができた。特に王室礼拝堂で聴くそれは、最初から最後までとろけるように美しかった。現世的な幸福の追求だった。あっという間に2時間が過ぎてしまった。今、こうして録音で再び聴けるのが嬉しい。実はこのCDの音はやや地味で、本当はもっとエロティックな印象だったので、最初は当惑したのだが、聴き進めるうちにその音質への不満も薄らいだ。このCDでもクリスティならではの官能美は十分楽しめるのだ。SACDならもっとよいのだけど。
 ロ短調ミサというと、リヒターをはじめとして、いかにも禁欲的で深刻な演奏が多い。それはそれでいい。私はリヒターも大好きだ。それに、おそらくバッハ自身は、クリスティのような快楽的演奏など期待していなかっただろう。が、それはそれとして、クリスティは自分の美の世界を見事に展開している。次から次へと新たなバロック演奏家が登場するが、個性と完成度でクリスティの域に達する人はなかなかいない。それは間違いなく断言できる。
 ついでに言うと、クリスティは、こんなに快楽的な音楽をするくせに、聴衆が咳をしたり物音を立てると、いかにも不満そうな顔をして指揮の最中でもにらみつけるのである。それは快楽の瞬間にひとすじの傷をつけられたがゆえの怒りか。そして、このうえない快楽とは、不完全さの中にではなく、厳格な完全主義の中にこそあるのか、そんなことを考えさせられるのである。
 これまたついでに言うと、クリスティは声色に対する好みがはっきりしていて、どんな歌手が出てきても、基本的にはクリスティの音色、響きになる。彼にとって理想的な声のアンサンブルができる。


 ところで、厳粛なプロテスタント風ではなく、カトリック的、地中海的バッハ演奏といえば、やはりサヴァールが無視できない。かつてバルセロナで「マタイ受難曲」を聴いたとき、嫌でも緊張を強いる(それがなんとも楽しいのだが)この曲が、驚くほど明るく、やわらかく聞こえて驚いたのだった。そうか、もう人間は救われるということが約束されている(新約)から、こうやって明るくやれるのかと思った。リヒターにしても、ラトルとセラーズの舞台つき上演にしても、ノイマイヤーのバレエにしても、今ここ目の前でキリストの受難が起きていると錯覚させるような、それゆえ肺腑をえぐるような痛切さが出てくるのだけど、サヴァールはまったく違う視点から演奏しているようだった。それはそれで、別種の感銘があった。
 そのサヴァールのロ短調ミサも、軽やかだ。ひとつひとつの音に祈りがこもっている・・・なんて感じはまったくしない。煮詰めないゆるさが快適だ。ロ短調ミサの最高の演奏だからまずはこれを聴け、そんなことは言わない。が、通り過ぎていく音の素朴な美しさが新鮮だ。巨大なカテドラルで渾身の演奏というより、日常的な生活の中にはめ込まれたような何気なさ。
 それにしても、近年サヴァールの録音はALIAVOXからSACDハイブリッドで発売されるのがありがたい。ひとつひとつ細かく見れば、もっともいい音質にできるのではと思う場合もあるけれど、基本的にはまずまずなのだ。先ほどヴェルサイユの王室礼拝堂に触れたが、サヴァールがそこで演奏したシャルパンティエのアルバムを聴けば、その甘美な音響がわかるだろう。色で言うなら黄金のような音色。その片鱗が伝わる。

(きょみつとし 音楽評論家、慶応大学教授)

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