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「トリスタン」と「トリスタン」 評論家エッセイへ戻る

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2018年8月23日 (木)

連載 許光俊の言いたい放題 第263回


 そうか、もう30年以上昔なのか。あの時代のことを思い出してしまった。カルロス・クライバーとレナード・バーンスタインの「トリスタンとイゾルデ」がほとんど続けて発売されたときのことだ。実際にはどれくらい隔たっていたか。でも、あんな大作の、しかも大指揮者のセットが2つも出るなんて、当時としては「立て続け」という感じがしたものだ。まさに「トリスタン」と「トリスタン」である。
 当然、世はまだLP時代。「トリスタン」は5枚組が常識だった。これもまた当然のことながら、幕の途中で盤をひっくり返さねばならない。ところが、クライバーは、音楽の流れが途切れるのを嫌って、各面をフェードアウト、フェードインで始まるようにしたのだ。まずこれが人々を驚かせた。テンポは速めのクライバー調。すっきりとした響きに、声が軽めの歌手たち。新しい「トリスタン」演奏だと評判になった。
 他方、バーンスタインは、まず演奏時間の長さで度肝を抜いた。そして、クライバーとは対照的な、重たく、粘っこい音楽の運びで圧倒した。
 レコードが収められている箱の姿も対照的だった。クライバーのほうは黒と銀のすっきりしたもの。バーンスタインのほうは男女の顔がくっついて髪の毛が絡み合っており、おどろおどろしい。
 世の趨勢は、バーンスタインのすごさは認めるけど、クライバーのほうが好き、そんな感じではなかったか。

 さて、そのバーンスタインの録音は、ミュンヘンでのライヴ収録をもとにしていた。オペラハウスではなくコンサートホールで、それも贅沢なことに1幕ずつ演奏して録音した。なるほど、こうすれば歌手は長時間のスタミナ配分を考えずに全力で歌える。練習も行き届く。が、当たり前の話だけど、こんなふうに演奏されることはまずない。経費がかかるからである。客にしても、3回分のチケットを買わないと全曲が聴けない。破格のスーパスターだったバーンスタインだったからこそあり得た計画だったに違いない。
 実は、この上演に関しては、トリスタンを歌ったペーター・ホフマンがのちに非常に辛辣な感想を言っているのを読んだ。歌手たちをフルオーケストラのうしろに立たせ、しかもでかい音量で演奏するなんて信じられないというのだ。そして、カラヤンの名前まで出して、バーンスタインを非難していたのである。インタビューで他の音楽家をこれほどまでに厳しく批判するのは珍しいというくらい。
 このホフマンの発言は、理解できないわけではない。一般的に、オーケストラのピットは、フル編成のオーケストラにとっては狭すぎる。だから、弦楽器の人数を刈り込んだり、管楽器を減らしたり、あれこれやってなんとか限られたスペースに収める。そのうえ、オーケストラは低く位置するから、その点でも音量が抑えられる。穴ぐらに引っ込んでいるバイロイトならなおさらだ。それに慣れたホフマンにとって・・・このミュンヘンでの演奏時、歌手が立つひな壇の上から、むきだしになった大人数のオーケストラを眺めて、彼は不安とプレッシャーを感じたに違いない。しかも、会場のヘルクレスザールは縦が長い長方形だ。こんな状況でホールの端まで声を響かせるなんて、歌手に無理を強いるナンセンスと思っただろう。
 一般的に、コンサート形式のオペラ演奏ではたいがい歌手は舞台の一番前に立たせる。ほんとの目の前で聴くワーグナー歌手、このド迫力はたいへんなものだ。現役の歌手では、至近距離で聴くニーナ・ステンメのイゾルデとか、それはもうすごい。
 ところが、バーンスタインは、オーケストラの後方にかなり高い、ひな壇のような演技空間を作った。「トリスタン」はいろいろな人間がいろいろに動いて効果が上がる芝居とはまったく異なる。簡潔だがそれらしい衣装を着て、最低限の人の出入りがあって、これもまた簡潔な演技があれば、それでもう十分なのだ。だから、演奏会形式とは言っても、事実上、オペラ上演とあまり変わらない。ではあるのだが、歌手には辛い。録音や映像で鑑賞する際には関係ないことだが。

 長々と書いたが、しかし実はそんなことはどうでもよい。この「トリスタン」は本当にすごい演奏だ。陶然として聴き入ってしまう。引き込まれる。
 音だけ聴くと、ここまでしつこくやらなくてもと思われた箇所が、こうやって映像で見ると全然おおげさでない。バーンスタインのテンポは、最初から最後まで遅いのではなく、必要なところだけ遅いのだ。そして、完全に意味がある。納得できる。
 バイエルン放送響もすばらしい。重量感、音色の均一性。それに、随所で聞かれる管楽器のソロの美しさと表現力。ほれぼれさせられる。
 第1幕、ホフマンがほとんど棒立ちである。私はそれを見ながら、そうか、トリスタンは、いったい何が起きているのか、本当のところまったくわかっていないんだな、自分が何を欲しているのか、これから何をするのか、全然自覚がないんだな。そんなことを考えさせられた。今、恐ろしい運命に直面しているのに、若い彼にはまったくわかっていない。本当にそれがよく伝わる映像である。
 イゾルデを歌うベーレンスは1980年代から90年代にあけてワーグナー・ソプラノとして一世を風靡した歌手である。まだ若かったこの時代の歌唱はすばらしい。本来、ブリュンヒルデなどを歌うには若干無理があったのではないか。無理をしたのだろう、このあと、ヴィブラートがきつくなり、まるでヒュードロドロとお化けが歌っているかのようにすら感じられるときがあった。世評ほどいいとは私には思えなくなった。
 最後、「愛の死」が驚くほどゆっくりと奏で始められる。ベーレンスは、まるで囁くように、語り掛けるように歌う。ひとつひとつの言葉が突き刺さる。それを支える弦楽器のハーモニー。最後の浄化の清らかさ。余韻の深さ、長さ。はあ・・・。言葉を失う。肉体も失う。たぶん耳と脳味噌だけ残して。
 今、歌っているこの人は普通の女性、普通の人間である。1時間後には家でくつろいでいるかもしれない。指揮者も、オーケストラの楽員も。しかし、今この瞬間この場所で、その日常とはまったく別の神秘が、奇跡が起きている。それがありありとわかる最上級に貴重な記録だ。
 聴衆がまたよい。第1幕、普通だと終わったとたんにうわっと拍手が起こることが多いが、適度に余韻を味わったのちに始まる。もちろん第3幕のあとも。
 「トリスタン」にはすぐれた録音がいくつもある。フルトヴェングラーもベームもクライバーもみんな好きだ。でも、この映像を見ていると、他の演奏のことは考えたくなくなる。何度聴いたかわからないこの作品にまだまだ発見がある。それに夢中になっていたい。もし誰かが、このバーンスタインの映像こそが最高の「トリスタン」だと言っても、私は反対する気が起きないだろう。

(きょみつとし 音楽評論家、慶応大学教授)

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