チバスとロジェストヴェンスキー
2019年11月07日 (木) 17:30 - HMV&BOOKS online - クラシック
連載 許光俊の言いたい放題 第273回
エドゥアルト・チバス。南米のフルトヴェングラー。
この売り文句を見た私は、ついニヤニヤしてしまった。
南米人って、どうしてフルトヴェングラーが好きなんだろう。かつてのバレンボイム。それにあの狂気のパイタ。
そのチバスのベートーヴェン交響曲全集のジャケット写真では、本人のうしろにCD棚が見える。珍しい光景だ。本や楽譜ならともかくCDとは。あんた、きっとマニアだね?
で、まずはなんとなく「田園」が聴いてみて、期待以上のできばえに驚いた。ゆったりと豊麗。音色は明るいが、落ち着いていてかつ流麗。これ、前に聴いたことがある。そう、フルトヴェングラー指揮ウィーン・フィルみたいだ。しかし、不思議なことにインチキっぽさがないのだ。取ってつけたような白々しさがないのだ。
第2楽章はとろりと甘い楽園の情景。官能性さえ漂う。そして、曲の一番最後。実にすばらしくしみじみと美しい。夢のようだ。
「第9」は第1楽章が一番おもしろい。まさに彼方から聞こえてくるような冒頭部分。深遠にして巨大だ。もし生で聴いてもこれと同じだとしたら、こんなことをする指揮者、できる指揮者は、そうは多くはないはずだ。
第5番がおとなしいのは意外だが、第7番はいかにも楽しそう、嬉しそう。だから、あらはあるが不快ではない。まるでハイドンのユーモラスな交響曲のような雰囲気。こういう第7番の演奏はいまだかつて聴いたことがない。
「英雄」は、堂々とした進め方。特に第2楽章など、いにしえの「名演」が大好きな人にはたまらないだろう。まねっこをするとどうしても偽物くさくなるのだが、ここではオーケストラが納得して弾いているせいか、その感じがない。フルトヴェングラーをステレオにするとこういう感じだ、とまで言うとおおげさだろうが・・・。長い息遣いでじわじわとやるところなど、昨今の古楽に慣れた耳にはかえって新鮮だ。荘厳美、悲愴美なんて言葉は、古楽風の演奏には使えないが、この演奏には使える。
スケルツォは一転してにぎやかな笑い。明らかにベートーヴェンは第1〜2〜3楽章の強烈なコントラストを狙っていたわけで、これでいい。だけど、中間部になっても同じ調子で突っ走るのはなぜだろう。
フィナーレは、ぎゅるぎゅると始めておいて、大きくテンポを落とし、あっと仰天のノロノロで主題を出す。これは生で聴いていたら引き込まれただろう。ホールの聴衆が思わず微笑む様子が想像できる。ここに限らず、この楽章でチバスは振幅を大きく取って、音楽を揺らすのだ。
ちなみにチバスは実業家でもあるという。そういう人が自分のやりたい音楽をやる、それもいいじゃないか。それでいいじゃないか。
チバスはブルックナー集も出している。最初から最後までむらがない名演奏というものではないが、ところどころで、えっ、おっ、と引き込まれる瞬間がある。たとえば、この箇所は聴いていていったいどうなるのかと思わず手に汗握ってしまったのであえて書かないが、第8番の最後。
第9番冒頭の巨大スケールにも驚いた。ほんとにほんと、名前を伏せて聴かせたら、これが南米の楽団だなんて当てられる人は誰もいまい。第2楽章のせわしなさはショスタコーヴィチのようだ。続くフィナーレはいきなり熱い。
ブルックナーといえば、最晩年のロジェストヴェンスキーが読響を指揮した第5番が発売された。マニアが泣いて喜ぶ、いや泣いて悲しむシャルク版だ。
だが、この録音を聴いた人は、ギラギラ、ヌラヌラしていないので拍子抜けするかもしれない。
あの色彩感あふれる演奏をしていたロジェストヴェンスキーが人生の最後にたどりついたとき、その音楽もまた恐ろしくしみじみした、おだやかなものになっていたのだ。
特にフィナーレに漂うやさしさは強烈だ。やさしさが強烈だなんて、言葉としておかしいのだが、そう言いたくなるくらい、昔からこの指揮者を聴いてきた者にとってはショッキングなくらいのやさしさなのだ。例のフーガの箇所も、何の力みもない。音を積み上げていこうという意志すらないようだ。淡々と進んでいく。
そこから改訂版ならではで、いきなりカット、びゅんとおしまいに飛ぶ。これには唖然とさせられるが、さらにびっくりなのは、演奏がスイッチを切り替えるようにがらりと変わること。青い色を見ていたら、いつの間にか赤になっていたかのような。魔法にかけられたみたいだ。
音質はクリアで、かつ非常に音色が美しい。ダイナミックレンジを欲張らない分、細部やバランスを楽しむという傾向。ただし、最後の最後は、せっかく金管楽器を追加しているのだし、もっと突き抜けて鳴ってほしいが・・・。ここは、ナマでは、共産党大会の最後の大讃歌みたいで、思わずニンマリさせられたことを思い出す。
ロジェストヴェンスキーが読響に出演した最後の3つのプログラム、幸い、私は全部聴けたけど、一番感銘を受けたのは、「白鳥の湖」だった。その最後、あまりにも思いがけない遅いテンポで、まるでショスタコーヴィチの交響曲第5番みたいな終わりがやって来たときには、息をのんだ。勝利にして敗北。敗北にして勝利。絶望の果ての、破滅ゆえの浄化。その恐ろしい矛盾に打ちのめされたのだった。同時に、それはブルックナーのようでもあった。そうだ、普段、私たちはこんなことは全然考えないけれど、チャイコフスキーはブルックナーの完全な同時代人でもあったのだ。ぜひとも、この録音で、その圧倒的な事実を聴いてほしい。
なお、生では「白鳥の湖」の印象がもっとも強烈な印象を残したのだけれど、録音で聴くと、「眠りの森の美女」のやわらかな美しさがことに胸にしみる。
チバス
ロジェストヴェンスキー
エドゥアルト・チバス。南米のフルトヴェングラー。
この売り文句を見た私は、ついニヤニヤしてしまった。
南米人って、どうしてフルトヴェングラーが好きなんだろう。かつてのバレンボイム。それにあの狂気のパイタ。
そのチバスのベートーヴェン交響曲全集のジャケット写真では、本人のうしろにCD棚が見える。珍しい光景だ。本や楽譜ならともかくCDとは。あんた、きっとマニアだね?
で、まずはなんとなく「田園」が聴いてみて、期待以上のできばえに驚いた。ゆったりと豊麗。音色は明るいが、落ち着いていてかつ流麗。これ、前に聴いたことがある。そう、フルトヴェングラー指揮ウィーン・フィルみたいだ。しかし、不思議なことにインチキっぽさがないのだ。取ってつけたような白々しさがないのだ。
第2楽章はとろりと甘い楽園の情景。官能性さえ漂う。そして、曲の一番最後。実にすばらしくしみじみと美しい。夢のようだ。
「第9」は第1楽章が一番おもしろい。まさに彼方から聞こえてくるような冒頭部分。深遠にして巨大だ。もし生で聴いてもこれと同じだとしたら、こんなことをする指揮者、できる指揮者は、そうは多くはないはずだ。
第5番がおとなしいのは意外だが、第7番はいかにも楽しそう、嬉しそう。だから、あらはあるが不快ではない。まるでハイドンのユーモラスな交響曲のような雰囲気。こういう第7番の演奏はいまだかつて聴いたことがない。
「英雄」は、堂々とした進め方。特に第2楽章など、いにしえの「名演」が大好きな人にはたまらないだろう。まねっこをするとどうしても偽物くさくなるのだが、ここではオーケストラが納得して弾いているせいか、その感じがない。フルトヴェングラーをステレオにするとこういう感じだ、とまで言うとおおげさだろうが・・・。長い息遣いでじわじわとやるところなど、昨今の古楽に慣れた耳にはかえって新鮮だ。荘厳美、悲愴美なんて言葉は、古楽風の演奏には使えないが、この演奏には使える。
スケルツォは一転してにぎやかな笑い。明らかにベートーヴェンは第1〜2〜3楽章の強烈なコントラストを狙っていたわけで、これでいい。だけど、中間部になっても同じ調子で突っ走るのはなぜだろう。
フィナーレは、ぎゅるぎゅると始めておいて、大きくテンポを落とし、あっと仰天のノロノロで主題を出す。これは生で聴いていたら引き込まれただろう。ホールの聴衆が思わず微笑む様子が想像できる。ここに限らず、この楽章でチバスは振幅を大きく取って、音楽を揺らすのだ。
ちなみにチバスは実業家でもあるという。そういう人が自分のやりたい音楽をやる、それもいいじゃないか。それでいいじゃないか。
チバスはブルックナー集も出している。最初から最後までむらがない名演奏というものではないが、ところどころで、えっ、おっ、と引き込まれる瞬間がある。たとえば、この箇所は聴いていていったいどうなるのかと思わず手に汗握ってしまったのであえて書かないが、第8番の最後。
第9番冒頭の巨大スケールにも驚いた。ほんとにほんと、名前を伏せて聴かせたら、これが南米の楽団だなんて当てられる人は誰もいまい。第2楽章のせわしなさはショスタコーヴィチのようだ。続くフィナーレはいきなり熱い。
ブルックナーといえば、最晩年のロジェストヴェンスキーが読響を指揮した第5番が発売された。マニアが泣いて喜ぶ、いや泣いて悲しむシャルク版だ。
だが、この録音を聴いた人は、ギラギラ、ヌラヌラしていないので拍子抜けするかもしれない。
あの色彩感あふれる演奏をしていたロジェストヴェンスキーが人生の最後にたどりついたとき、その音楽もまた恐ろしくしみじみした、おだやかなものになっていたのだ。
特にフィナーレに漂うやさしさは強烈だ。やさしさが強烈だなんて、言葉としておかしいのだが、そう言いたくなるくらい、昔からこの指揮者を聴いてきた者にとってはショッキングなくらいのやさしさなのだ。例のフーガの箇所も、何の力みもない。音を積み上げていこうという意志すらないようだ。淡々と進んでいく。
そこから改訂版ならではで、いきなりカット、びゅんとおしまいに飛ぶ。これには唖然とさせられるが、さらにびっくりなのは、演奏がスイッチを切り替えるようにがらりと変わること。青い色を見ていたら、いつの間にか赤になっていたかのような。魔法にかけられたみたいだ。
音質はクリアで、かつ非常に音色が美しい。ダイナミックレンジを欲張らない分、細部やバランスを楽しむという傾向。ただし、最後の最後は、せっかく金管楽器を追加しているのだし、もっと突き抜けて鳴ってほしいが・・・。ここは、ナマでは、共産党大会の最後の大讃歌みたいで、思わずニンマリさせられたことを思い出す。
ロジェストヴェンスキーが読響に出演した最後の3つのプログラム、幸い、私は全部聴けたけど、一番感銘を受けたのは、「白鳥の湖」だった。その最後、あまりにも思いがけない遅いテンポで、まるでショスタコーヴィチの交響曲第5番みたいな終わりがやって来たときには、息をのんだ。勝利にして敗北。敗北にして勝利。絶望の果ての、破滅ゆえの浄化。その恐ろしい矛盾に打ちのめされたのだった。同時に、それはブルックナーのようでもあった。そうだ、普段、私たちはこんなことは全然考えないけれど、チャイコフスキーはブルックナーの完全な同時代人でもあったのだ。ぜひとも、この録音で、その圧倒的な事実を聴いてほしい。
なお、生では「白鳥の湖」の印象がもっとも強烈な印象を残したのだけれど、録音で聴くと、「眠りの森の美女」のやわらかな美しさがことに胸にしみる。
(きょみつとし 音楽評論家、慶応大学教授)(ロジェストヴェンスキー写真© 読響)
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