笑っちゃうほど楽しい「ワルキューレ」

2020年04月28日 (火) 18:00 - HMV&BOOKS online - クラシック

連載 許光俊の言いたい放題 第277回


 おお、やっと出るのか! まだかまだかと待っていたラトルとバイエルン放送響の「ワルキューレ」がようやくCDになった。ミュンヘンで2日行われたコンチェルタンテのライヴ収録だが、ナマを聴いた時から、これくらい製品化を待った演奏もなかなかない。これまでのところ私がナマで聴けた最高の「ワルキューレ」。18歳のときにこの作品を初めてナマで聴いてから35年以上、ようやく、本当にようやく、満足させてくれた上演。
 ひとことで言えば、強烈な演奏だった。強烈だった、なんて何だか素人さんの感想みたいだけど、ほんとに強烈だったのだ。何しろ後日、ミュンヘンの新聞の演奏会評を読んだら、「こんな強烈な演奏はオペラハウスでは聴けない」と書いてあったほどだもの。ちなみに、このオペラハウスとは、もちろんミュンヘンのあの劇場のことである。辛辣ですね。
 これまたついでに付け加えると、そこにはご丁寧にも「何の発見もないけれど、強烈」と書いてあった。お見事、その通りである。はっきり言って、すでに「ワルキューレ」をよく知っている人が聴いて驚くような発見は、この演奏にはない。「へえ」とか「あっ」とかはない。にもかかわらず、圧倒されるのだ。「うわあ」である。
 ラトルとバイエルン放送響の尋常でない燃えっぷりは、第1幕前奏曲からして明らかだろう。聴いている者は、あっという間にドラマの真っただ中に投げ込まれる。子供の時分に離れ離れになったジークムントとジークリンデが、相手が誰だか気づくことなく、たまたま出会ってしまう。最初に生じるあたたかな感情。それをラトルとバイエルン放送響は、ほのめかしや気配としてではなく、はっきりガツンと表現する。まだ始まったばかりじゃないか、ここまでやらなくても、いや、ここまでやらないほうが・・・などと疑問に思いつつも、演奏者の熱量がすごいので、巻き込まれてしまう。これでいいんだという気がしてくる。
 この「ワルキューレ」第1幕は実にすきがない見事な作品だ。登場人物たちの心理がきわめて的確にオーケストラで描写されていく。しかし、弱点があるとしたら、これが第1幕であることだ。というのも、オペラハウスのオーケストラは、このあとにも長い第2幕、第3幕を演奏しなければならない。それが体でわかっているから、どうしたって全力では演奏しづらいのだ。だから、オペラハウスのオーケストラはエンジンがあたたまるまでは案外おとなしいか、緩いのである。どうしても第1幕は流し気味で、最後に帳尻を合わせるような感じになる。劇場ではそれが普通なのだ。ゆえに、密度が異常に高い「ワルキューレ」第1幕は、その密度に見合った集中度で演奏されることが決して多くはないのである。ウィーン・フィルはもちろん、ドレスデン・シュターツカペレですら、そうなのだ。だが、普段はコンサートで演奏するオーケストラは、そのあたりの手の抜き方、要領のよさが身についていない。バイエルン放送響も最初から全開だ。
 ついでに言うと、第1幕の最後、猛烈に煽るところは、ワーグナーが頭で考えたことを実際の音として鳴らすのが容易でない箇所。テンポを煽れば煽るほど、オーケストラの鳴りは悪くなる。が、さすがバイエルン放送響、そんな不満を抱かせない。

 そして、このように演奏されてみると、ワーグナーには申し訳ないが、「ワルキューレ」が深刻な音楽劇というよりも、すばらしい娯楽と感じられてくるのだ。聴いていて、めちゃくちゃ愉快になってくるのだ。ぷりぷり怒っているフンディングは、ヴェリズモ・オペラみたいじゃないか。「せいぜい身を守ることだな」だなんて、時代劇の悪者みたいな台詞だし。
 ジークリンデを歌うウェストブロークはひとことで言えば、声がでかい歌手である。純粋に歌という点では、私がまったく好きではない歌手である。だが、このでかい声があればこそ、オーケストラが安心して演奏できるのだ。声が弱ければ、オーケストラは抑えるしかない。それをしなくてすむための声量。この盤だけ聴くと、もっと繊細なジークリンデ歌手がいるはずだと思うかもしれないが、こういう意味があるのである。ちなみに、この歌手が出演するとき、私は、彼女の正面ではない席を選ぶ。直撃を受けたら、オーケストラがあまり聞こえないからだ。まあ、強い声を浴び続けるというのも、贅沢で貴重な体験ではあるのですがね。
 余談だが、これと反対なのがバリトンのクリスチャン・ゲルハーヘル。この人のつぶやき芸はすごい。何しろ「大地の歌」の最後の楽章を、ほとんどつぶやくだけで通してしまう。一度聴いたら、やみつきになるというか、忘れられなくなる。


 バイエルン放送響は、あちこちで実力を見せつける。特に低弦の重みと切れ味には痺れる。運命や不幸を暗示する動機を奏する金管楽器の暗い響きも、これでなくては。ミュンヘンの新聞いわく「ベルリン・フィルは冷たい」。その通り、バイエルン放送響は総じて、ベルリン・フィルよりずっと情感的だ。第2幕のヴォータンとフリッカの長いやりとりは、どうしてもだれてしまう箇所だが、だからこそこのオーケストラの表現力がよくわかる。木管楽器の値千金のソロ。全体の音色の変化。第2幕では3枚目の盤になってからの緊迫感がすばらしい。
 第3幕では腹を立てたヴォータンがやってきてワルキューレたちを詰問するあたりがすごい。まさに戦慄的な、すさまじい音がする。ワーグナーは、こんな荒れ狂う音楽を書いておきながら、あるいは書いてしまったから、オーケストラ・ピットに蓋をしたのである。だって、歌手はみんな怒鳴り合い、叫び合わなければいけないのだから。つまり、彼は自分がどんなものを書いているかわからなかったのだ。できあがったものは、彼が意図したのとむしろ反対の、ひたすら音楽と音で鑑賞者を圧倒するものだったのだ。
 オーケストラの演奏がすばらしくなればなるほど、ワーグナーが夢見た「綜合芸術」は破綻してしまう。その意味において、ここまで熱くなり、荒れ狂うラトルの演奏は、ワーグナーを裏切り、「おまえが書いたのは、結局普通のオペラだったんだよ」と嘲笑っているのではないかと思えてくるほどだ。「オテロ」のような「ワルキューレ」、そう言ってもいい。
 いよいよ最後の別れのシーンは、あまりにもゴージャスに開始されてしまうので、内容とは正反対に、嬉しくなってしまう。もうここまで来たら、ドイツのオーケストラのすばらしさ、いや、あえて言おうか、本物のオーケストラのすばらしさを満喫しちゃってください。この演奏には発見はないと先ほど書いたが、ここは例外かも。リヒャルト・シュトラウスそっくりなのだ。彼の交響詩の音楽は、このあたりに源泉があったのだ。

 笑っちゃうほど楽しい「ワルキューレ」! そして、この笑っちゃうほど楽しい、とは滑稽でも嘲笑でもない。幸福な笑いなのである。第1幕で、ふたりの恋は、絶望的な、死に行きつくほかないような階段を駆け上っていく。なのに楽しいのだ。ニュースを見れば、仕事をすれば、どこもかしこもコロナ、コロナ・・・、だが、このCDを聴いている間は、あの伝染病のことを完全に忘れられる。
 もったいぶらず、神話っぽさなど皆無で、ひたすら人間の感情、愚かさ、罪深さがぶつかりようなこの演奏。もしかしたら、結局はワーグナーを否定して「カルメン」を絶賛したニーチェは、この演奏を聴いたら、喜んだのではないか。ワーグナー作品を偽物くさいとは思わなかったのではないか。

(きょみつとし 音楽評論家、慶応大学教授)

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