ヴァンスカの至宝、シベリウス交響曲全集

2020年10月12日 (月) 17:15 - HMV&BOOKS online - クラシック

連載 許光俊の言いたい放題 第282回


 ずいぶん更新を怠ってしまった。通常なら、夏の間に2回くらいは書くのだが、今年は、打ち込んでいる小説の翻訳があって、それに集中するため、ほかの仕事にはできるだけ手を付けないようにしていたのだ。
 翻訳と演奏は同じ。とりあえず何が書かれているかを表すだけなら、それほど難しいものではない。そっけない演奏であっても、プロが聴けば、譜面に何がどう書かれているかはわかるわけで、頭の中で補完できる。実は作曲家系の演奏家の演奏がしばしば不愛想なのはこのせいでもある。アナウンサーのように明瞭に発音していけば、その文がどういうものであるかはわかるようなもの。
 だが、楽譜にどう書かれているかではなく、作曲家がイメージした音楽はどういうものなのか、を適切に表現しようとすれば、とたんに比べられないほど困難になる。そして、私たちが名演奏家と呼ぶ人たちのほとんどは、この困難を背負っている人たちのことだ。背負い込みすぎると、ムラヴィンスキーのように、数曲しか演奏できなくなる。やっぱりここはこうじゃなかろうか、迷いだすときりがない。
 演奏家の中には、案外勝手に原譜を書き換えてしまう人がいる。翻訳をやっていると、同じ気持ちになる。これ、こうやったほうがいいじゃない、と書き換えたくなる。だからと言って、原作者の仕事を破壊しているという気はしない。むしろ、手伝っている気になる。たぶんストコフスキーもそうだったんでしょう。

 さて、それはともかく、ヴァンスカとミネソタ管弦楽団のシベリウス交響曲全集はすばらしい。ヴァンスカとラハティ交響楽団が彗星のごとく現れて人々は驚かせたのはもう前世紀のこと。思い出せば、かつてサントリーホールでの演奏は、確かにどこの楽団とも違う、独特の響きを持っていた。強弱の差は少なく、さわさわ、ざわざわとした響きが変化していくような演奏だった。ヴァンスカはその後ミネソタを本拠地とし、新全集を完成させたのである。
ここでは、ラトルとベルリン・フィルの全集を激賞したことがあるが、あちらが現代におけるギラギラ系、肉食系、ゴージャス系のシベリウスのひとつの極致とするなら、その反対がヴァンスカだ。もっとも、シベリウスというと、北欧の清潔な抒情みたいなイメージが流布しているが、どうして、作曲家本人は女性関係についてはたいした情熱家(ものは言いようですね)だったらしいから、ギラギラしたってよいのである、と念のために記しておこう。ギラギラというか、ギランギランということではバルビローリの録音もあるが、あそこまでいくとちょっと・・・やっぱり・・・違うんじゃないでしょうか。
 ともかく、ミネソタ管は、まずはオーケストラの音色が猛烈に渋い。黙って聴かされたら、これがアメリカの楽団だと当てられる人は誰もいないのではないか。私だって当てられないと思う。アメリカ特有の明るい金管楽器の音、艶っぽい弦の音が、まったくしないのだ。世の中には、オーケストラの音はきらきらと多彩でなければいけないと思っている人もいるようだが、これはその逆。全体としてひとつの音色、響きになっている。その統一感がすごい。「クレルヴォ」の頭を聴けば、それがこのヒロイックな音楽にどれほど似つかわしいかがよくわかるはずだ。圧倒的な説得力だ。ここをウィーン・フィルやシカゴ響やスカラ座のオーケストラが演奏するところなど、まったく想像できない。
 ミネソタってどこよ?とアメリカの地域に詳しくない私は、改めて地図で調べた。たいへん寒い、実は北欧よりも寒いほどの地域らしい。オーケストラの音色が針葉樹林っぽいのは気のせいではないでしょう。茶色の幹の色、濃い緑の葉っぱの色。それだけと言えば、それだけ。その中に豊富なニュアンスがあるのだが。
 音色に限らず、オーケストラが実に緻密にまとめられているのに感心する。むろん指揮者の腕のせいだが、一日二日でこういう演奏はできません。完成するまで年月が必要な、熟成系の演奏。そういえば、私は以前ヴァンスカとウィーン交響楽団の演奏をウィーンで聴いたことがあるが、全然こんなではなかった。ウィーン響にはヴァンスカの音楽観を共有しようというつもりなど、微塵もなさそうだった。ヴァンスカは、そういう相手だと真価を発揮しない。まったくだめ。本当にがっかりなコンサートだった。
 第1番の頭、長い長いクラリネットのソロ。ここはラトルとベルリン・フィルだと、本当にかっこよくて聴きほれてしまうのだけれど、ヴァンスカも負けていない。名技丸出しなのではなく、まるで民俗音楽のような独特の情緒があるのだ。
 が、この1番もよいのだけれど、そのあとに入っている第4番ははるかに上だ。渋くて重たい開始から、暗い色調がゆっくりと変化していうさまがたまらない。あたかも液体がどんどん形を変えていくようだ。力ずくでは全然ない。

 しかし、白眉はやはり3、6,7番を1枚に収めた盤だ。
 第3番は、まるでロココの遊戯めいた第1楽章からしてすてき。あるいは、プロコフィエフの「古典交響曲」のようだと言ってもいいか。その一方で、抒情的な旋律には、ドヴォルザークのような濃さもある。この第3番は実におもしろい曲なのだけれど、これくらい細部まで考え抜かれた演奏もないのではないか。木管楽器の繊細なソロ、弦楽器の最弱音等々、ああ、作曲家はこういうことを考えていたのかと目の覚めるような思いがする。第2楽章の憂愁あふれる旋律と、ずれていく伴奏。とにかくいろいろと変なところがある曲なのだけど、それが手に取るようにわかる。この曲は、シベリウスの交響曲中もっとも狂気を感じさせられる作品だが、怪しいだけではなくて、ちゃんと音楽として立派に聞かせる。
 第6番も、最初から美しすぎるほどに美しい。もしかしたら、今ミネソタ管以上にシベリウスのこうしたマイナーな交響曲を知り尽くしている楽団はほかにないのかもしれない。オーケストラがやる気満々なのに、野蛮なイケイケドンドンではない。厳しく自分を抑えるのもまたやる気の一種なのだ。それに、全体にリズムが生き生きとして活力があるが、軽薄、腰高にはならない。いい感じの爽やかさだ。
第7番もすごい。驚くほど、ためがある。音と音が重なり合って、厚みがある、それでいて重くない、実に陶酔的かつ雄大なハーモニーだ。作品への愛情、音楽へののめり込み。ヴァンスカの音楽も、かつてよりいっそうフレキシブルで、音楽を揺らすようになったと思う。もしステレオを新調するつもりの人がいたら、これをかけてみるのもいいのではないか。再生装置の音楽性を見極めることができるはずだ。
そして、意外にもロマンティックな匂いがする。あれ、これはリヒャルト・シュトラウス? という瞬間がところどころあるのだ。「死と変容」さながらだ。

第2番の第1楽章は、セルをはじめ、いろいろな刺激的な演奏に耳が慣れているから、ちょっと物足りない。が、第2楽章はぐっとよくなる。ピチカートの意味深さ、木管楽器のローカル色、そして両者のバランスの見事なこと。一見単純な音楽だが、よけいなものがいっさいない。たりないものもない。
第2番のあとに入っている5番は情報量が膨大。作曲者の頭の中を見せられているようだ。単純そうなところが、そうではない。緻密きわまりない。やはりヴァンスカは第3番以降で本領を発揮するのは間違いない。第2番にしても、第1番の続きというよりも、あとの時代の作品の先触れのように感じられる。シベリウスのスコアをここまで読んだ指揮者も、ほかにいないのではないかと思わされる。
くどくど書いたが、この全集は、繰り返し聴いても発見がある、シベリウス愛好家にとっては宝のようなセットである。と同時に、シベリウスをちゃんと聴きたい人は見逃してはならないセットである。最大限の尊敬に値する音楽である。

(きょみつとし 音楽評論家、慶応大学教授)

評論家エッセイ情報
オスモ・ヴァンスカ
ミネソタ管弦楽団

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