トップ > 音楽CD・DVD > ニュース > クラシック > 協奏曲 > 「シュタイアーを聴いて、古楽器を讃える」

「シュタイアーを聴いて、古楽器を讃える」 鈴木淳史のクラシック妄聴記へ戻る

%%header%%閉じる

%%message%%

2008年3月4日 (火)

連載 鈴木淳史のクラシック妄聴記 第1回

「シュタイアーを聴いて、古楽器を讃える」

 古楽器が苦手な人って結構多い。モダン楽器の豊かで多彩な表現に聴き慣れた耳には、古楽器は何とも頼りない、という意見もよく耳にする。確かに、古楽器の表現の「幅」はそれほど広くない。
 たとえば、ある旋律を弾くとき、モダン楽器は「笑っているようにも、怒っているようにも、悲しんでいるようにも」表現しうるだけのスケールがあり、そしてその表情がコロコロ変化するのにも瞬時に対応できるという特徴がある。
 ゲラゲラ笑っていたのが急に怒り出したと思ったら、ヨヨと泣き始めた。なるほど、この人は情緒不安定な人なんだな、と思うのが現代人である。それが許されたのは、ロマン派という時代のおかげかもしれない。人々は実際、大いにに笑い、激しく怒り、怒濤のごとく泣いていた、ということでは必ずしもないけれど、表現としてそれが求められたというわけだ。
 一方、古楽器の表現は、たとえば「ニヤリと含み笑いをしたかと思えば、一瞬憂いを覗かせつつも、口元はまだ笑みを保ったまま」などというような、やたらに細かな表情を得意とする。幅は広くないけれど、狭い範囲なら濃密にやりまっせ、といった具合なのだ(家電量販店と商店街の電気屋のサービスの違いのようなものかもしれない)。
 古楽器は、中間色を生かし、表情のグラデーションを繊細に表現するのが得意なのだ。そして、こちらの表現のほうが、リアリティが高いんじゃないのか。もちろん、わたしだって大芝居に打って出るモダン楽器の表現力にも、激しくゾッコンなわけではあるけれども。

 さらに、古楽器嫌いは主張する。古楽器やってる連中なんて、下手クソばっかりじゃないか。何をもって下手というのかは色々と議論すべきことがあるけれど、昔は大成しそうもない人が古楽器方面に行く、という流れはあったようだ。師曰く、あんたは手が小さいから、ピアノじゃなくてチェンバロやんなさい、みたいに。
 でも、今はそうではない。指揮の分野ではアーノンクールやブリュッヘンみたいな人が鮮烈に、そして強引なまでに先鞭をつけてくれたおかげで、今ではヘンゲルブロックやスピノージなど、注目に値する次の世代が続々と育ってきている。
 そのなかでも、フォルテ・ピアノのケースはちょっとだけ遅れていたかもしれない。この繊細な楽器をモダン・ピアノよろしくガンガン弾く、ほとんどサディスティック系といっていい演奏家はいたけれど(これは過渡期の面白演奏として後世まで伝えていきたい貴重なものである)、その楽器の特性を生かした演奏を、録音で聴くことはなかなか難しいものがあった。アンドレアス・シュタイアーが現れるまでは。

 そのシュタイアーの新譜は、久々のモーツァルトの協奏曲。しかも、伴奏はアダルトな感覚美を持ったフライブルク・バロック管となれば、期待するなという方が無理があるというもの。アルバム・コンセプトは「ラスト・コンチェルト」ということで、ピアノ協奏曲第27番とクラリネット協奏曲を収録している。いずれもモーツァルトが死んだ年に書かれた作品である。
 それにしても、なんと憂愁な面が色濃く出た演奏なのだろう。夏の終わりの空気が横溢しているような質感。そして、どことなくデカダンスの気配さえうかがえる。何よりも、独奏者もオーケストラも、そのようなイメージを現実の響きに置き換えて共有しているように聴こえる一体感がいいのだ。
 モダン・ピアノは、オーケストラ、とくに弦楽合奏と音が溶け合い難いものだ。おかげで、ピアノ協奏曲の演奏といえば、ピアノ独奏と管弦楽との異種格闘技めいた対決姿勢を打ち出すものがあったり、または、独奏者をスターに祭り上げ、オーケストラはそれをサポートする役割という体制を築いたりするものが少なくない。
 古楽器による演奏では、わざわざそのようなアクロバティックなことをやる必要がない。なにしろ、フォルテ・ピアノと古楽器オーケストラとの響きは、分離しないように楽器自体が設計されているからだ。この時代のピアノ協奏曲は、普段わたしたちが耳慣れている演奏よりも、もっと一体感を前提にしているのではないか。この演奏を聴くとこんなふうにも思ってしまう。
 それにしても、この盤でのシュタイアーとフライブルク・バロック管との響きの融合性には、ちょっとした感銘さえ受けた。オーケストラだけの主題提示では、シュタイアーはか細く通奏低音を奏でるのだけれど、それが終わって、ソロとしてオーケストラのなかから飛び出す瞬間は、まさにエロティシズムの極地。当然のことだが、こういうものは、ピアノと管弦楽の響きが明らかに分離しているモダン楽器での演奏では決して聴くことができないし、古楽器であっても、ここまで徹底しているものだって少ない。
 モダンで弾いたモーツァルトにはフォークトやグルダらのすばらしい演奏があるにも関らず、シュタイアーの演奏を聴いたあとは、モーツァルトはやはりフォルテ・ピアノでならぬのう、と心から思うのである。風呂上がりにはビールでなければ、みたいな安易な言い方だけど。当然、時代的な考証からそんなことを主張しようというのではない(それは後付けの理屈でしかない)。演奏された音楽だけが、そう語ってくれるのだ。

 ピアノ協奏曲の第1楽章、ヘ短調の副次主題が表われる部分や展開部の冒頭では、シュタイアーは思い切った翳りのある表情で聴かせる。まるでシューベルトの後期ソナタを聴いているかのようなメメント・モリな瞬間だ。
 第2楽章では最初の主題が再現されるとき、前には無かった装飾音を加えたり、アーティキュレーションを変えたりして、変化に満ちた音楽に仕上げる。再登場するその主題は、憂いや諦念のニュアンスがぐっと濃くなり、昔の出来事は決して同じようには蘇らない、などといったしんみりした感情をかき立ててくれる。こういう感じ、いかにもモーツァルトらしいじゃあないか。
 シュタイアーの協奏曲といえば、そのカデンツァの奔放さにも注目だ。やりたい放題に音色や奏法を変化させまくり、聴き手を振り回すのは、前にリリースされたモーツァルトのソナタ集でもおなじみ。さらに、これだけやらかしといて、全体の流れにまったく破綻を感じさせないのだ。とんでもねえ。

 実際に彼に会うと、いかにも知的なドイツ人という印象を受ける。もし『男はつらいよ』に出演したら、寅さんに「お前さん、さしずめインテリだね?」と言われていそうな人物なのである。ただ、目だけが獲物を狙っているように、その奥でギラリと光る瞬間があるのだけれど。
 インタビューのとき、シュタイアーは好奇心がなくなったら人間は完全にお終いだと言っていたが、彼自身も好奇心に満ちていて、来日したときには靖国神社の遊就館にまで足を運んだそうである。もしかして兵器マニア? いや、残念ながらそうではないのだ。母国ドイツと共に戦争犯罪国となった日本において、靖国神社が問題になっているということに興味を持っていたらしく、一度訪れたいと思っていたそうなのだ。ただ、館内の展示説明が日本語ばかりで困惑してしまったらしいが(あの施設は、完全に内輪に向けてしか機能しないように作られているから仕方ないのだけれども)。
 演奏家には実際に会って話をするよりも、その音楽を生で聴いたほうが、その人間が何を考えているかよくわかるものだ(その逆はほとんどない)。とくにモダンよりも古楽器の場合、その音楽から演奏者の人間性がいっそう強く伝わってくる。楽器の作りが多少原始的だから、演奏する人間と楽器のあいだが近くなるというせいもあるだろう。そもそも、古楽器が廃れていったのは、モダン(近代)という、努力さえすればある程度の基準に達することを目的とした文化にそぐわなかった、という理由もあるはずなのだ。
 シュタイアーの場合も、彼の人間そのものが音楽に表われる。かなり際どいことをやってのけるけれど、それは知性と感性のバランスの取れたセンスによって破綻なきよう流れ出す。その音楽からは、様々なものに好奇心を抱く遊び心があり、そしてそれをキチリとまとめてくる冷静な彼の姿がほんのりと浮かび上がる。そういったものが、聴いているだけのこちらに伝わってくること自体、どことなくうれしかったりもする。あえて喩えるなら、保坂和志の小説を読んでいるような気分に近いだろうか。
 舞台の上で強烈な個性を発揮されたものを、こりゃスゲーなと恭しく受け取るのも音楽であれば、もっと人間そのものを感じ、知己を得たような気分になるのも音楽だ。そして、後者はより古楽の演奏に強く表われるのだろう。もちろん、シュタイアーの演奏そのものは、スゲーなと思わせる瞬間にも満ちているのだけれど。
 シュタイアーのことばかり書いてしまったが、クラリネット協奏曲で独奏を努めるロレンツィオ・コッポラも実はなかなか秀逸。とくに、第2楽章の独白めいたクラリネット・ソロ、そして独特なバランスで応えるオーケストラが紡ぎ出す、タソガレまくった風景は絶品である。

(すずき あつふみ 売文業) 


関連情報

評論家エッセイ情報

著者ブログ 蛇の道はうねうね

※表示のポイント倍率は、
ブロンズ・ゴールド・プラチナステージの場合です。

%%header%%閉じる

%%message%%

featured item