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「ベルリン・フィル・ラウンジ」第7号:ハーディング、ベルリン・フィルに待望の再登場! ベルリン・フィル・ラウンジへ戻る

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2009年10月14日 (水)

ドイツ銀行 ベルリン・フィル
ベルリン・フィル&HMV提携サイト
 ベルリン・フィル関係ニュース

ラトル、各国勲章を連続受章
 10月3日のドイツ統一記念日に、サー・サイモン・ラトルがホルスト・ケーラー独連邦大統領より大功労十字章を授与されました。受章の理由は、彼が提唱した青少年活動「未来@ベルリン・フィル」での功績で、ラトルは他の43人の受賞者と共に、大統領官邸での式典に参列しています。なお音楽家としては、ヴァイオリニストのアンネ=ゾフィー・ムターも、今回同勲章を受章しました(写真はラトルとケーラー大統領)。
ラトルはその直前に、ポーランド文化省の「グロリア・アルティス」金メダルとスペインの「ドン・ホアン・デ・ブルボン音楽賞」も受賞。「グロリア・アルティス」では、ポーランドの作曲家シマノフスキとペンデレツキを紹介した功績、「ドン・ホアン音楽賞」では、ベルリン・フィルの青少年活動における業績が称えられています。

デジタル・コンサートホールに学割導入!
 デジタル・コンサートホールでは、26歳までの 青少年(生徒・学生)を対象に、学生割引を導入することになりました。学生証・生徒手帳等の身分証明をスキャンしてお送りいただくと、30%の割引が適用 されます。手続きは以下の通り。Eメールに英文で住所・氏名・年齢・生年月日・学校名を記入、身分証明(できれば英文で書かれたもの。国際学生証でも可) のファイルを添付した上で、Please send me a student discount code.と書いてdch@berliner-philharmoniker.deま でお送りください。折り返し割引コードが送られてきますので、これをチケット支払いの際に入力します(日本語による登録・ログインの手引き7頁参照)。コードを入力すると、シーズン会員券は149ユーロから104.30ユーロ、30日券は39ユーロから27.30ユーロ、1回券は9.90ユー ロから6.93ユーロに値引きされます。
 なお割引は、学校や大学で授業用にデジタル・コンサートホールを使用する教員の方々にも適用されます。所属団体の身分証明か、担当学科が分かる学校のウェブサイト・リン ク等をお送りください。

 次回のデジタル・コンサートホール演奏会

ハーディング、ベルリン・フィルに待望の再登場!
(日本時間10月17〜18日深夜)
 ダニエル・ハーディングが、ベルリン・フィルの定期演奏会にカムバックします。ハーディングは1996年、フランツ・ヴェルザー=メストの代役として21歳でベルリン・フィルにデビューしましたが、その後は2001年に一度客演したのみで、再登場が待たれていました。昨年、ベルリン・ムジークフェストでシュトックハウゼン《グルッペン》をサー・サイモン・ラトル、ミヒャエル・ボーダーと共同指揮した後、今回は定期を振る久々の機会となります。曲目は、彼がここ1年ほど取り上げてきた《死と変容》を含んでおり、当演奏会のために周到な準備を重ねてきたことが伺えます。
 ブリテンの「ヴァイオリン協奏曲」での共演は、オランダの美人ヴァイオリニスト、ジャニーヌ・ヤンセンです。彼女はベルリンでは、スペクトラム・コンサーツの一員としてお馴染みですが、2006年のヴァルトビューネ・コンサートでベルリン・フィルにデビューしています。定期への登場は初めてであり、その成果にも期待が掛かります(写真:©Harald Hoffmann/DG)

【演奏曲目】
バルトーク:弦楽のためのディヴェルティメント
ブリテン:ヴァイオリン協奏曲
R・シュトラウス:死と変容

ヴァイオリン:ジャニーヌ・ヤンセン
指揮:ダニエル・ハーディング


放送日時:10月18日(日)午前3時(日本時間・生中継)

この演奏会をデジタル・コンサートホールで聴く!

 アーティスト・インタビュー

サー・サイモン・ラトル
「我々はある解釈をするにあたって、我々の時代の“ものの感じ方”を越えることはできません」
ラトル、社会学者ヴォルフ・レペニースとロマン派の概念について語る(第2回)

聞き手:ユルゲン・オッテン(音楽評論家)

 ラトル&レペニースの対談第2回では、ベートーヴェンのロマン性、シューマンとブラームスの違いが論じられます。興味深いのは、ラトルが解釈の“理論的限界”について語っていることです。我々の解釈は、時代の音楽的趣味を越えられないもので、客観的に正しい解釈は存在しないというものですが、これは古楽演奏などを考える上でも有意義な指摘でしょう。ラトルの卓抜な見解には、さすがのレペニースも異論を挟む余地がないといった感じです(映像は今年2月13日に収録されたシューマン「交響曲第4番(1841年版)」。写真は©Markus Weidmann)。

レペニース 「リューディガー・ザフランスキが記しているように、ロマン主義時代は1800年ではなく、シュトルム・ウント・ドラング(疾風怒濤)の時代に始まるものです。E・T・A・ホフマンがハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンを3大ロマン派作曲家と呼んだのは、ロマン主義を一定の時期ではなく、ある種の“機運”と捉えているからでしょう。チャールズ・ローゼンは“古典的スタイル”を定義しましたが、同じように“ロマン的スタイル”を想定することも可能だ思います。ある作品がロマン主義の時代に属さなくても、ロマン的に演奏することはできますよね。これは曲のなかに、ロマン的解釈を許容する要素があるということでしょうか?」

オッテン 「そう言った場合、ロマン的解釈が一体何であるか、定義しなければなりませんね」

ラトル 「解釈とは、それが行われる時代と不可分です。いわゆるロマン的な解釈は、不変で固定的なものではありません。ある時代の音楽的趣味は、我々が想像するよりもずっと速く変化してゆきます。その際我々は、ある解釈をするにあたって、今生きている時代の“ものの感じ方”を越えることはできません。つまり我々の解釈は、それがロマン的かどうかとは無関係に、自分自身の視野のなかに閉じ込められているのです。以前、『ヘンリー5世』(ケネス・ブラナー監督)のために映画音楽を録音した時に、興味深い経験をしました。私は40年代後半に作られたローレンス・オリヴィエ主演の映画も知っていたのですが、それとブラナーの作品を比べることは、まったく不可能でした。台詞の喋り方からして、スタイルが全然違うからです。時代の趣味は、本当に速く変わってゆくわけですが、この事実には開いた口がふさがりませんでした。そこから学んだのは、(解釈が原理的に相対的でしかありえない以上)どの解釈も間違いではない、ということです。大体にして、唯一の“理想的解釈”を想定すること自体が、ロマン的な発想でしょう。音楽史において、革新的なことを行った作曲家たち(とりわけワーグナー、限定付きでベートーヴェン)は、人々に完全に理解されなかったと思います。当然のことながら、作品の解釈にも限界があったわけですが、当時の人々は、自分が正しいと思ったあり方で演奏する以外に、方法がありませんでした。同じように我々も、我々自身が感じ取ったように演奏するより他ないのです。このように解釈について語ることは、たいへんな困難を伴います」

レペニース 「もう一点、ベートーヴェンについて質問させてください。先ほどベートーヴェンはある発展の到達点をマークする作曲家だとおっしゃいましたが、《フィデリオ》を聴くと私は、ドイツの啓蒙主義はベートーヴェンにおいて頂点に達したと感じます。ベートーヴェンの偉大さは、啓蒙主義とロマン主義を統合した点にあるのではないですか?もしそうだとすれば、その後に来たのは、何だったのでしょう?」

ラトル 「ロマン主義時代において人間は、勝利を音楽で表現する可能性を得たと言えるかもしれません。しかし同時にベートーヴェンは、それを実現し得た最後の作曲家でもありました。以後に書かれた勝利の音楽は、どれも(例えば国家主義的な意味において)問題があると思います。私が初めて《第9》を演奏したのは、30代の頃、スコットランド交響楽団でのことでした。団員はベートーヴェンの弦楽四重奏はよく知っていましたが、一度も《第9》は演奏したことがなかったのです。この時私は、《第9》が重々しく始まって軽快に終わる唯一の交響曲であることに気がつきました。終楽章はまるで《魔笛》のようで、奇妙な感じがします。音楽は啓蒙主義、理想主義、そして様々な戦いの類型を連想させるものです。そして《魔笛》と並んで、ハイドンの《天地創造》が聴こえてきます。何か独特なものが、これらの作品を互いに結び付けていると言えるでしょう。19世紀でベートーヴェンと似た勝利を音楽化した唯一の作曲家は、ブルックナーです。もちろんそこでの勝利は、理想主義的な無邪気さを示すものですが」

オッテン 「しかしそれは、とてもカトリック的な勝利ですね」

ラトル 「それは面白い意見です。宗教的な勝利については、考えたことがありませんでした」

レペニース 「ひとつ重要な点を指摘されましたね。ロマン主義は、宗教的な現象でもあったからです。ブルックナーはその例でしょう」

ラトル 「しかし19世紀において、音楽が宗教の代用品になった、ということではありませんね。芸術は政治の代用品になりましたが」

オッテン 「ベートーヴェンの勝利の後には、それへの反動としてメランコリーの時代が来たと言えませんか?レペニースさんのご説によれば、メランコリーとはブルジョワ的概念なわけですが」

ラトル 「ベートーヴェンの後に登場したすべての作曲家は、何よりも自分自身であろうとしました。しかしロマン派の作曲家は、全員がベートーヴェンを目標としたのです。これは後にも先にも例のない、まさにロマン的な現象だったと思います」

レペニース 「歴史的には、“メランコリーの時代”は何度も起こっています。古代やシェークスピア時代における“エリザベス朝の病”(注:エリザベス朝後期の憂鬱的雰囲気を指す術後)といったものです。ベートーヴェンの後には、ドイツでメランコリーがブルジョワ層の流行になりました。もちろんシューベルトのメランコリーは、流行とは別のものですが」

ラトル 「シューベルトは、ベートーヴェンと違って、社会的に成功していませんでした。彼は晩年の作品を書いた時、まだ子供と言えるほどの年齢だったのです。そしてその作品は、絶望的な調子で満たされています。しかしシューベルトだけが、メランコリーに見舞われたわけではありません。シューマンもそのひとりです。彼の場合、憂鬱は深いと同時に、すぐに形となって現われてくるものでした。ワーズワースと同じで、彼の作品はものすごい速さで書かれたのです。シューマンは作曲できなかった時期が長かったことを考慮すると、モーツァルトよりも速筆だったと言えるでしょう」

オッテン 「彼は《謝肉祭》で、気ぜわしく論争する芸術家とペリシテ人(俗物)を創造しましたね」

ラトル 「当時の作曲家のなかに、作家としての才能がある人が多かったことは、興味深いことです。例えばベルリオーズはきわめて辛辣な書き手で、著作では自己憐憫のかけらも見せませんでした。とても19世紀に書かれたものとは思えません。時間があれば、そうした書物のすべてを読みたいくらいですが……。ところでイギリス人として私がいつも不思議に思うのは、ドイツ人の森へのつながりです。森にはある秘密が眠っている、という感じがします。森は、たいへんロマンティックなトポスであるように思われますが」

レペニース 「森のないドイツ・ロマン主義というのは、想像しにくいですね。ホルンが登場しないロマン派の音楽など、存在しないのではないですか?」

ラトル 「シューマンの交響曲第4番第2楽章を考えてみましょう。これは森の音楽です。ここでは(シューマンにとって不可欠なはずの)クララがまったく出てきません。これに対してブラームスは、別の世界だという気がします。少なくとも森は出てきません。私にはブラームスという人は、どこか置き去りにされたような感じがします。彼の音楽が真にロマン的なものであるとは、思えないのです。シューマンがブラームスのように演奏されるのを聴くと(そしてその逆の場合も)、非常に奇妙な感じがします。ブラームスの響きはよりパトスがあります。もっともドイツ語のパテーティッシュという言葉は、英語のパセティックとは違う意味なのですが」

オッテン 「英語でパセティックと言った場合、どういう意味なのでしょう」

ラトル 「例えば、サラ・ペイリン(注:昨年のアメリカ大統領選挙における共和党副大統領候補)の知性はパセティックだと言えるでしょう(注:英語のパセティックは“惨めで哀れ”、ドイツ語のパテーティッシュは“大げさで芝居がかった”という意味である。ラトルはここで、ブラームスのパトスがやや大時代的であると捉えている)」
(第3回に続く)

シューマン「交響曲第4番」の演奏会をデジタル・コンサートホールで聴く!

 ベルリン・フィル演奏会批評(現地新聞抜粋)

定期演奏会(2009年2月5・7・8日)
曲目:シューマン《楽園とペリ》
指揮:サー・サイモン・ラトル


 アーノンクールを初めとして、メッツマッハー、ハーディングなどが好んで取り上げる《楽園とペリ》は、近年上演機会が増しているシューマンの傑作です。しかしベルリンの批評家たちには作品そのものが気に入らないようで、やや辛口の評が並んでいます。理由は、天国への帰還を求めるペリの物語があまりにお涙頂戴的だというものですが、曲が書かれた1840年代の感傷主義にむしろ注目するべきでしょう。この作品には、「天から落ちた」後期シューマンの悲しみが、色濃く表れているように思われます。

「シューマンは、天から追放されたペリの物語を淡々と語り、リート風の響きで包み込む。それは時々閃きを見せるが、基本的には衰退している創作力を、寄せ集めにしたものである。メランコリックで叙情的な音楽は、しばらくすると天国的なまでの退屈さに変わってくる。ラトルは見事に演奏するベルリン・フィル、ベルリン放送合唱団と共に、情熱的な表現で欠点を救おうとしていた。(2009年2月7日付け『ベルリナー・モルゲンポスト』、クラウス・ガイテル)」

「トーマス・モアの『ララ・ロック』に依拠した台本は、文学的には駄作である。そこでは、わざとらしい異国趣味、抹香臭さ、中途半端な古典の知識がない交ぜになっている。すべては叙情的かつメランコリックで、いかめしいと同時に甘ったるい。この作品は、熱愛するか唾棄するかのどちらかだろう。シューマンは今シーズンのテーマだが、ラトルは聴衆に対してもオーケストラに対しても、作品への理解を求める、という感じだった。メンバーはプロフェッショナルに演奏したが、どこか心ここにあらず。フィナーレの喜びの合唱に至ってようやく、全員が熱気に満ちた演奏を展開した。(2009年2月7日付け『ターゲスシュピーゲル』紙、フレデリク・ハンセン)」

「叙事的なこの作品では、音楽的な流れを維持するために、テンポの綿密な計算が必要とされる。この点でラトルは、見事なバランス感覚を示していた。鮮烈な戦場のシーンも緩慢なペストの描写も、彼にかかっては最大限の表現を得る。ベルリン・フィルはきわめて明晰に演奏し、音画的ディティールを完璧に描き出していた。鐘を模倣するトロンボーンは(音量が小さいにもかかわらず)アクセントが効き、ナイル河の場面では弦が波を想起させた。聴衆は感嘆し、喝采を送ったが、ひょっとすると来年(シューマン生誕200周年)には、この不当に忘れられた作品がもう一度聴けるかもしれない。(2009年2月7日付け『ベルリナー・ツァイトゥング』紙、ペーター・ユーリング)」

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 ドイツ発最新音楽ニュース

本コーナーでは、ドイツおよび欧米の音楽シーンから、最新の情報をお届けします。

バイエルン放送、自主レーベルの旗揚げ記者会見を開催
 9月23日、バイエルン放送(BR)が、バイエルン放送交響楽団、ミュンヘン放送管弦楽団、バイエルン放送合唱団を主軸とするCDレーベルの発表記者会見を行った。レーベル名は「BRクラシック(BR-Klassik)」で、新録音が年10タイトル発売されるほか、BRに眠る放送録音の数々もリリースされる。この秋には、バイエルン放送創立60周年を記念したボックス・セットも予定され、キリル・コンドラシンなどの秘蔵ライヴが初公開されるという。記者会見でヤンソンスは、「録音は文化的遺産だと思います。未来の人々に演奏を聴いてもらうため、着実に残していかなければなりません」と語っている(写真:左から合唱指揮者ディークストラ、シルマー、BRラジオ部門長グロツキー、ヤンソンス各氏。©BR)

ティーレマン、ドレスデン・シュターツカペレの首席指揮者に決定
 クリスティアン・ティーレマンが、2012年よりドレスデン・シュターツカペレの首席指揮者に就任することが決定した。ティーレマンは、ミュンヘン・フィルの契約非延長をめぐって、ミュンヘン市と争っていたが、この9月にドレスデンに代役で登場。本人によれば、「年間の指揮回数、契約金等の重要な項目は、すでに合意している」という。彼は、ここ3ヶ月ほどのインタビューで、ミュンヘン・フィルに残る意向を再三強調していたため、ドレスデンへの電撃転出は、驚きをもって受けとめられている。なおドレスデンでのポスト(7年契約)は、オケの首席指揮者であり、オペラの音楽総監督ではない。

HR響、創立80周年でパーヴォ・ヤルヴィのシューベルトを無料ダウンロード提供
 10月1日に創立80周年を迎えたHR交響楽団(ヘッセン放送交響楽団)では、パーヴォ・ヤルヴィ指揮によるシューベルトの交響曲第6番を、ダウンロードで無料提供している。公式ウェブサイトからダウンロードのページに移り、Schubert 6. Sinfonieを右クリックしてデータを保存する。

ボン・ベートーヴェン・フェスト2009終了
 ライン地方の代表的フェスティヴァル、ボン・ベートーヴェン・フェストが、9月4日より10月3日まで開催された。今年のハイライトは、パーヴォ・ヤルヴィ&ドイツ・カンマーフィルハーモニーによる交響曲全曲で、5日にわたる演奏会はテレビ収録され、DVDとして発売される(来年4月の予定)。同時に32曲のピアノ・ソナタも取り上げられ、アンドレアス・シュタイアー、児玉麻里、アレクサンドル・メルニコフなどがピリオド楽器で演奏している。

ジョナサン・ノット、バンベルク響との契約を更新
 2000年よりバンベルク交響楽団の首席指揮者を務めるジョナサン・ノットが、2012年まで同職に留任することになった。同時にイギリス出身の若手ロビン・ティッチャーティも、3年の契約で首席客演指揮者に任命されるという。


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