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バッハ(1685-1750)

CD ミサ曲ロ短調 コルボ&ローザンヌ声楽・器楽アンサンブル(2008)(2CD)

ミサ曲ロ短調 コルボ&ローザンヌ声楽・器楽アンサンブル(2008)(2CD)

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    となりのドロロ  |  北海道  |  不明  |  2015年04月21日

    慰められるバッハ。 エラートの旧盤もいい演奏だったけど、2枚目への交換がクレドの「三日目によみがえり」のところなのが不満。静から動へのいいところなのに興がそがれた。

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    ∀ラスカル  |  新潟県  |  不明  |  2010年11月21日

    バッハ畢生の傑作『ロ短調ミサ曲』といえば、古くよりカール・リヒター/ミュンヘン・バッハ管弦楽団&合唱団による録音が名盤中の名盤とされてきた。 曰く、この録音は人類の最も偉大な音楽遺産であるとか、曰く、この演奏を聴いて感動できない者はそもそもバッハを聞く資格が無いだとか、最大限の賛辞(というよりも強迫的な文言)を以ってリヒターの演奏は迎えられてきた。 何もこう書いているからといって、私はリヒター盤を否定しているわけではない。 高校時代、始めてこの曲を聴いたのはリヒター盤であったし、最初の第一音、『キリエ・エレイソン』の凄絶なコラールを聴いた瞬間の心臓を鷲掴みされたような感動は、昨日のことのように覚えている。 しかし、では私はリヒター盤の良い聴き手であったかという問いには、自分でも首肯することが出来ない。 高校時代から今に至るまで、通しでリヒター盤を聴いたのは両の指で余るほどの回数でしかないからだ。 換言すれば、私はリヒター盤を心の底から敬してはいるが、遠ざけてきた。 人間は、少なくとも私といういい加減でだらしの無い人間は、極めて弱い存在なのだ。 そのいい加減でだらしの無い私という人間がリヒター盤のような神々しいバッハ演奏の前に立たされると、己の無力さや醜さを眼前に突きつけられるような気がして、結果、そのような演奏に立ち向かうにはよほど精神が充実しているときでないと音楽に負けてしまうことになる。 まして、曲がバッハのロ短調である。 バッハの作品にも『ブランデンブルク協奏曲』や『管弦楽組曲』、一連の協奏曲のように娯楽的な感覚で接することの出来る作品があるが、無伴奏ヴァイオリン・ソナタとパルティータや無伴奏チェロ組曲、そして2曲の受難曲にこのロ短調のような音楽は、そうはいかない。 これらの曲を聴くと、少なくとも私は、音楽を聴きながら自分自身と対峙する様な感慨を覚える。 生半可な覚悟で聴くことの出来ない、音楽を聴きそれに身を委ねながらも、自分自身の最も深い部分、あまりにも深すぎて普段は自分でも感じることの出来ない形而上学的な領域にすら意識が及んでいくような感慨をすら覚えるのが、これらの楽曲なのである。 言い換えれば、リヒターの『ロ短調』とは、軟弱で不甲斐無い自分というものに対して渇を入れるための象徴として、卑小で矮小な自分を自身の中に現前させ、それを乗り越えるための切欠として存在するものなのである。 しかし、このコルボ盤は違う。 合唱音楽の大家であるスイス生まれのこの老人のバッハ演奏は、彼のフォレ『レクイエム』の一連の名盤と同じように、私たちの心に優しく、言葉の最も根源的な意味において優しく語り掛けてくるのだ。 リヒターの『ロ短調』が裁きを与えるための存在なのだとしたら、コルボのこの演奏は絶対的な『赦し』を与えてくれる存在なのだ。 『癒し』だとか『安らぎ』だとかいう、中途半端な言葉ではない。 この演奏が与えてくれるのは、絶対的な自己肯定という意味合いにおける『赦し』なのだ。 第一曲第一音の『キリエ・エレイソン』の合唱からしてそうである。 確かに、曲自体がとてつもないエネルギーを内在しているのは間違いない。 しかし、そこに威圧感は一切無い。 『主よ哀れみたまえ』という人類の祈りの言葉の中に、悲壮さではなく『主』に対する絶対的な信頼感とそれに基づく安心感をこそ、コルボは強調しているのである。 原罪を背負い、命として不完全である人間という存在そのものをそのまま受け入れ、そのまま肯定し、そのうえで神に縋る。 そこに見られるのは、罪を裁く強きものとしての神ではなく、人の弱さを全肯定し弱きものを弱いまま導いていこうとする、良き羊飼いとしての神なのだ。 他のコラールやアリアでも一貫してそのようなスタンスが取られ、録音の良さも相俟って、女声合唱においては天使たちが喜びながら乱舞するような、不思議な、ただただひたすら美しい音楽世界が展開されていく。 そう、この演奏はただただ美しい。 人によってはこんなにも美しいバッハはバッハではないというかもしれないが、言いたければ言わせておけば良い。 ここまで美しければ、バッハらしくないなどと訳の分らない難癖しか付けようがないのだから。

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    Kei  |  神奈川県  |  不明  |  2009年09月23日

    グレン・グールドが言ったように、バッハが癒しの音楽だと捉えるのであれば、正に本CDはそれを裏打ちしてくれる優れた演奏である。世評にはコルボの演奏は厳しさ(?)が不足するとか演奏スタイルが折衷的過ぎるとか色々な指摘があるが、このように美しく衒いの無い演奏で、聴き終わった後に「あー、良い音楽を聴いた」と思えるものに何の不満があろう。 声楽陣も中々良いし録音も優れているので、近年出色のCDであると思う。

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