Eagles
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Eagles (イーグルス) プロフィール

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70年代の人気をピークとして現在でも再編バンドとして人気を博している イーグルス。ウエスト・コースト・サウンドの代名詞的存在だった彼らは、現在もある種の世代においてアメリカ的なるものを最も代表するバンドであり、その象徴としての役割をまっとうしているように見える。

イーグルスがスタートしたのは1971年頃のこと。そのメンバーは――少年時代をディキシーランド・ジャズ・バンドに費やし、ビートルズ旋風をきっかけにロックに目覚め、ブルー・グラス風のロック・バンドや1970年にレコードを発表したショイロというグループに在籍したドン・ヘンリー――いわゆるトップ40バンドに籍を置いた後、ボブ・シーガーのバンドに加入して作曲を始めつつ、J・D・サウザーとのロング・ブランチ/ペニー・ウィッスルをやっていたグレン・フライ――スコッツヴェル・スクワイレル・ベイカーズ出身でハーツ&フラワーズディラード&クラーク・エクペディション リンダ・ロンシュタットのバック・バンド、コーベッツを経てフライング・ブリトー・ブラザーズに加入したバーニー・リードン――バッファロー・スプリングフィールドポコリック・ネルソンのカントリー・ロック・バンド、ストーン・キャニオン・バンドに参加した経歴を持つランディ・マイズナー――という4人だった。

それぞれにキャリアを持つ彼ら4人を纏めたのが、当時リンダ・ロンシュタットのプロデューサーだったジョン・ボイランだった。彼らはアルバム リンダ・ロンシュタット に参加した後、自分たちのバンドを結成。バーズフライング・ブリトー・ブラザーズらのカントリー・ロックをよりハードにプレイするといった形をコンセプトとして、デヴィッド・ゲフィンが立ち上げたばかりのレーベル、新興のアサイラムと契約する。

ジャクソン・ブラウン 、ジュディ・シルらとともにアサイラム一期生となった彼らは、コロラド州でリハーサルを兼ねたショーを行い、その後渡英。そこでストーンズザ・フー等を手掛けたグリン・ジョーンズのプロデュースでデビュー・アルバム イーグルス・ファースト(Eagles)を制作。1972年にリリースした。本作からフライジャクソン・ブラウンとの共作“テイク・イット・イージー”がヒット。爽やかなウェスト・コースト・ロックでその名を知らしめた。その後リンダ・ロンシュタットをモデルにしているというシングル曲“魔女のささやき”、ジャック・テンプチン作“ピースフル・イージー・フィーリング”が立て続けにヒットした彼らは早くも重要な地位を得るようになっていった。

ツアーで人気を増幅させていったイーグルスは、1973年にセカンド・アルバム ならず者(Desperado) を発表。これもグリン・ジョーンズのプロデュースほか、前作も参加したジャクソン・ブラウンや、「もうひとりのイーグル」と呼ばれるJ・D・サウザーらが曲作りで参加。初期の名作となった。

ドン・フェルダーをギタリストとして加え、またプロデューサーをジョーンズからビル・シムジクに代えてレコーディングされたサード・アルバム オン・ザ・ボーダー(On The Border) を1974年に発表。よりヘヴィなロックンロール風味の作品となった。ここからはジャック・テンプチン&ロブ・ストラドリン作“過ぎた事”とドン・ヘンリーの渋いヴォーカルをフィーチャーしたバラード“我が愛の至上”などがシングル・カット。特に後者は彼ら初の全米ナンバーワン・ヒットとなり、人気を更に幅広いファン層に広げた。

そして1975年に発表された通算4作目 呪われた夜(One Of These Nights) が、初の全米ナンバーワン・アルバムに。この作品からはタイトル曲や“いつわりの瞳”、“テイク・イット・トゥ・ザ・リミット”と3曲のヒットも生まれ、彼らはもはや当代アメリカを代表するバンドと呼んで差し支えなかった。ただこの後1975年末に、バンドの方向性に疑問を感じたリードンが脱退するという事態も起こっている。

1976年の初頭に初のベスト盤 グレイテスト・ヒッツ1971-1975 をリリース。これも全米ナンバーワンとなり、更には正式に制定されたプラチナ・ディスクの第一号にもなった。

脱退したリードンの穴を埋めたのは、ソロ活動を展開していた元ジェイムス・ギャングジョー・ウォルシュ ウォルシュ加入後1976年2月にイーグルスは初来日を果たす。

そして1976年末に発表された ホテル・カリフォルニア(Hotel California) 。これはロック界に大きな波紋を投げかける作品となった。象徴的なのが、翌年にグラミー賞を獲る表題曲の“ホテル・カリフォルニア”。建国200年に沸き立つアメリカの現状に鋭い視点を投げかけた同曲は、いわば「アメリカン・ドリーム」の崩壊をテーマにしたものといえる。このアルバム自体は全米ナンバーワンを獲得、また全世界で1100万枚を売り上げるという驚異的なセールスを誇ることになった。また同1977年春からツアーを開始したイーグルスだったが、ツアー生活に疲れたマイズナーが脱退。代わりに同じくポコティモシー・B・シュミットが加入している。

 ホテル・カリフォルニア(Hotel California) の大ヒットからくるプレッシャーもあったのか、メンバーはバンド外での課外活動にも多くの時間を割くようになっていた。最後のスタジオ作 ロング・ラン(The Long Run) を1979年に発表。これも四作連続となるナンバーワンを獲得したが、結果論だがやや彼らの苦悩を滲ませた作品の出来ともいえた。この後1980年に二枚組の イーグルス・ライヴ (Live)を発表した彼らは事実上の活動停止状態に陥った。

イーグルス解散後、グレン・フライドン・ヘンリーはソロとしてヒットを飛ばし、ウォルシュも引き続きソロ活動を、またドン・フェルダーはソロ一作とセッション活動、シュミットもソロ作をリリースしている。

そうした80年代〜90年代初頭を経て、イーグルスの復活が実現したのは1994年のことだった。フライヘンリーウォルシュシュミット、フェルダーの5人が、4月にバーバンクのワーナー・スタジオでMTV番組用のライヴ・ステージを行ったのだ。更に5〜10月にかけて全米ツアーを行った再結成イーグルスは、MTV用のライヴ・テイクに新曲も加えた14年ぶりの新作 ヘル・フリーゼズ・オーヴァー(Hell Freezes Over) を発表。これが全米ナンバーワンを記録し、日本含むワールド・ツアーを廻った彼らは翌年の音楽賞を獲得するなど、それまでの業績も含めた高い評価を得た。

この後イーグルスが再び一緒に姿を現したのは1998年1月のことだった。ロックンロール・ホール・オブ・フェイムの席で、現メンバー5人にリードンやマイズナーを加え、パフォーマンスを披露した。またミレニアムを控えた1999年の大晦日にロサンジェルスのステイプル・センターでライヴを敢行、その模様がボックス・セット イーグルス・ヒストリー(Selected Works1972-1999) (2000年リリース)に収められたことはまだ記憶に新しい。そして2003年、「Farewell I」と称したツアーを敢行し、待望の新曲Hole In The Worldと新作アルバムを自身のレーベルからリリ−スする。

70年代という時代を華麗に駆け抜けたイーグルス。記録だけでなく記憶にも残る活動を遺した彼らには、やはりオッサンくさいイメージが付きまとうのは仕方のないことかもしれないが、彼らが単なる恐竜バンドに終わらず、アメリカ大衆の最大公約数的な部分を代表しながらも当時ある種のスマートさを有していたことは語り継がれなければならないのではないか、と思う。

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