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シーザーとブルックナー 評論家エッセイへ戻る

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2018年7月17日 (火)

連載 許光俊の言いたい放題 第261回


 先月、グラインドボーン音楽祭に行ってきた。芝生でのピクニックもあることで昔から有名な音楽祭である。
 いやはやすばらしいところだった。これ見よがしでなく、淡々と贅沢だ。ロンドンを正午ごろ出て、電車とシャトルバスに乗り継いで劇場に到着するのは午後2時ごろ。午後4時からオペラを楽しんで、途中ゆっくり夕食を取り、ロンドンに戻るとまさに日付が変わる頃合い。幸せな1日を過ごしたと心から思える。
 生まれて初めてグラインドボーンに行きたくなったのは、もちろん上演演目のせい。クリスティがヘンデル「ジュリオ・チェーザレ(ジュリアス・シーザー)」を指揮したのだ。十年ほど前に収録されたDVDがすばらしいので、ぜひとも生でも見たかったのである。これを見たら、バロック・オペラ、特にヘンデルが日本であまり上演されない理由がわからないと思うはず。ストーリーがおもしろく、歌は多彩で効果的、ヘンデルならではの美しすぎるアリアも含まれ、実に楽しい。しかもこのDVDでは、クレオパトラ役のド・ニースが主役を食ってしまうほど活躍している。かわいらしく、セクシーで、野望を持ち、媚びがあり・・・なんだか典型的な女性像なのだけれど、これくらい見事に演じたら立派なもの。もしかしたらこの歌手にとっては一生のうちで最高に輝ける瞬間がこれだったのか、そこまで思わせるできばえだ。今年、彼女はグラインドボーンには出ず、ロイヤル・オペラの「ボエーム」でムゼッタを歌っていたが、そちらは・・・。
 グラインドボーンは音楽祭は、宣伝の意味もあるのか、映像の発売に積極的なようだ。しかし、皮肉なことに、その一番の魅力かもしれないくつろいだ、しかも上品な雰囲気は、絶対に映像では伝わらない。それに気づいたとき、いくらか寂しい気がした。


 さて、この連載では、ここしばらくあまりにも頻繁にラトルの製品を紹介しているので、また今度もかと自分でも思うのだけれど、ロンドン交響楽団を指揮したブルックナーの第8番のブルーレイを試聴すれば、やっぱりこれは無視できないと思う。
 ラトルに一番向いていない作曲家は誰か。そう問われれば、私なら躊躇なくブルックナーと答える。あまりにも饒舌でわざとらしくなるのだ。でなければ、饒舌をあえて抑えていることが伝わってしまうのだ。また、ゆったりした起伏よりも、短い周期での強弱のほうが耳についてしまい、どっしりした重量感が薄れる。今までも第4番や第9番を聴き、むろん決して低レベルの演奏ではないのだが、ラトルに向いている作曲家とはとうてい思えなかった。
 ところが、第8番は違うのである。ラトルが企てるいろいろなことが、マイナスに作用しないのだ。細かな表情づけや変化がうるさくない。こういう演奏を聴くと、この曲はブルックナーの作品としては異例のものではないかと改めて思えてくる。ブルックナーはこの曲では、19世紀のロマン主義に身をゆだねたのだ。あるいは、折り合いをつけることに成功したのだ。だからこそ、かつてない成功を勝ち得たに違いないのである。
 すでに第1楽章からしてロンドン響の自発性がすばらしい。アダージョ楽章は濃密だが、濃すぎるということはない。強弱の微妙なコントロールが不自然ではない。もしかしたら、この演奏はまるでブラームスのようではないかと非難できるかもしれない。ソロ楽器の表情豊かな歌、弦楽器の官能的なまでの色合い、確かにブラームス的だ。いや、それよりも「トリスタン」のような瞬間もある。だとしても、それでうまく演奏できてしまうのが第8番なのである。ラトルは、この曲に関しては、案外目をつぶって指揮している。昔なら、「お、今度はカラヤンのまねですか」と皮肉を言いたくなったかもしれないが、今はそうはならない。このアダージョ楽章では、複数の女性奏者が泣きそうな表情になっているのが見てとれる。演奏者にとっては感銘深い経験だったことだろう。
 フィナーレ冒頭、昔のラトルなら、苦笑させられてしまうほどイケイケドンドンのエンターテインメントになったかもしれないが、まったくその気配もない。そして、このフィナーレでも弦がよく歌う。それゆえ、超越的な巨大さ、崇高美、抽象美よりも、人間的なあたたかみを感じさせる。もしかしたら、ブルックナーがイメージしていた音楽とは違うのかもしれない。でも、これはこれでありだ。
 それにしても、まさかラトルとロンドン響のブルックナーをこんなに肯定的に受け止められる日が来るなんて、予想もしていなかった。演奏というものは、実際に聴いてみないとわからないものだ。
 いっしょに入っているメシアンの曲は明快でキレがよい演奏。フランス語というより英語のようだ。そんなオーケストラに比して、共演のエマールが妙にフランスっぽく聞こえるのがおもしろい。微妙な和声の感覚やら音の出の感覚やら。

 ところで、ラトルはベルリン・フィルとも少し前にセットを出している。2017年、サントリーホールでのライヴ録音を中心にして、主にツアー先での演奏をまとめたものだ。
 まずは最初の「ドン・ファン」から聴き始めて、あれと思った。ベルリン・フィルなら、そしてこの曲なら当然期待される豊穣な響きが楽しめないのだ。それとも、本拠地のモニタールームあたりで聴くと、これが最善の録音なのか。サントリーホールがベルリン・フィルにとっては響きすぎるホールであることは間違いない。明晰ではあるが決して豊かな響きとはいいがたいベルリンの本拠地に比べて、鳴りすぎる。それを心配しての録音か、ずいぶん抑制気味の音質だ。正直なところ、この曲なら、雄大に鳴るベルリン・フィルの音が聴きたい。しかし、他方で弱音、特に室内楽的に音が少ない部分は実にきれいなのだ。
 「ペトルーシュカ」もおとなしく聞こえる。私はこの演奏を生では聴いてはいないけど、ここはこうじゃないだろうと容易に想像できる場面が多い。たとえば始まって少しして低弦奏者たちがゴリゴリやるところ、こんなおとなしいはずがない。その一方で2分あたりのヴァイオリンの勢いのよさは伝わってくる。うーん、不思議。4分から5分にかけての音楽がぐっと迫力を増す部分、ここは不十分ながら、瞬間的な緊張の高まりが伝わる。
 このような音質上の不満にもかかわらず、この「ペトルーシュカ」は一聴の価値があると言うしかない。ひたすら、各奏者の名技をはじめとしてミクロを楽しむためだ。木管楽器はもちろんのこと、打楽器も。時折鳴る実に怪しい弦楽器の音も。ピアノとほかの楽器の絡み合いの妙。どうせラトルが目指したのは、バレエの舞台を音で描いたような演奏ではないはずだ。ベルリン・フィルにしても劇場オーケストラのような表現力を売り物にしているわけではない。ラヴェルのような洗練された音響美、それがこの演奏の特徴だ。「ペトルーシュカ」は、なるほど題材こそロシア的だけれど、ラヴェルの怪奇趣味の延長にある作品なのかと思わされる。この曲を聴いておもしろい、わくわくする、そう思うことは多いが、美しさに打たれることはあまりない。その点でユニークなのだ。
 そして、人間の耳は徐々に音に慣れる。最初は音質を物足りなく感じていても、中ほどにさしかかると、これで大丈夫かなという気になってくる。それだけでない、オーケストラのほうも最初より乗ってきたようだ。異様な克明さで音楽が進んでいく。息をつめて聴き入ってしまう。
 「ペトルーシュカ」から続くチン・ウンスクの曲がまた美しい。というか、もしかしたらもっと美しい。このような現代曲は、一流オーケストラの技量で弾かれてみると、繊細で快楽的な音で鳴ってくれる。

 ラフマニノフの交響曲第3番はかねてからラトルが好んでいる作品らしく、わざわざアジア・ツアーにも持ってきた。楽器の編成によるのか、こちらのほうが、弦楽器のボリューム感が伝わる音質だ。それも当然、ラフマニノフの作品なら、たっぷりした弦の響きが必須だ。もちろん大いに歌う演奏なのだが、その歌があまりロシアっぽく聞こえないのがおもしろい。ごくかすかな弱音のニュアンスの作り方とか、本当にうまいものだ。
 ラフマニノフの作品は、まるで映画音楽のようだと批判されることがある。この演奏は、開き直っている。映画音楽でどこが悪いと言わんばかりだ。フレージングや歌いまわしが濃厚なのに明快という技を見せつけられると、これで大いに結構と首肯させられる。濃い色の紙を、はさみでくっきりと切り取ったような。
 この作品が書かれたのはなんと1930年代半ば、まさにロマン主義の亡霊のような交響曲だ。しかし、何気なくはさまる金管楽器のコラール風のところとか、打楽器とか、マーラー的なグロテスクなものとして聞こえてくるのが、現代の演奏ならでは。
 そして、なぜか「シェエラザード」顔負けのエキゾチックな香りも。特に第2楽章では、精巧な工芸品のような、妖しくきらめく美が次々に登場してくる。

 アンコールで奏された「マノン・レスコー」間奏曲は、切々歌うかと思いきや(もちろんそうもするのだが)、ひとつひとつの楽器で克明に響きを作っていく後半が印象的。
 聴く順番としては、ブラームスの第4番を最後にしたほうがいいように思う。オケをいっさいがならせることなく進めていくふわとろ半熟オムレツのような柔らかな第1楽章。ほかの曲を聴いたあとだと、その意図するところがよけいはっきりする。第2楽章は、ヴァイオリンがかすれ声みたいにそよそよ。響きそれ自体が目的のような現代音楽をいろいろ演奏したことが、結果として感覚を鋭敏にしているのではないか。しかし、フィナーレ、どれだけクローズアップしているのか、フルートの息継ぎの音がハアハアいうのはどうも・・・。現代作品ではそれも音楽のうちということもありますけどね。

 付属する映像ディスクには、香港、武漢、ソウルでの演奏が収録されている。そうか、今や中国の地方都市にも立派なホールがあるのかと驚いたり、やはり香港やソウルの聴衆は慣れているなと思ったり、いろいろな意味でおもしろい。武漢では、次はどの楽器がメインなのか、それどころか、どの楽器からどの音が出るのか皆目わからないのか、カメラの切り替えがめちゃくちゃである。当たり前のように正しく切り替えてくれる日本やヨーロッパの映像は、経験と知識が土台にあることが改めてわかるというものだ。
 結論。このセット、初心者には絶対に買えとは言いません。でも、ラトルやベルリン・フィルやそれぞれの曲をもうよく知っている人は、大いに楽しめる。大方、そんな人が、このページを読むのだろうが。

(きょみつとし 音楽評論家、慶応大学教授)


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