Velvet Underground

Velvet Underground (ヴェルヴェット・アンダーグラウンド) プロフィール

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その異端ぶりゆえ、バンド解散後にその評価が高まったヴェルヴェット・アンダーグラウンド。彼らの遺した音源は、特にパンク以降の若いアーティスト、バンド達にとってかけがえのない財産だった。一般的な意味での音楽的な成熟といったものよりも感覚的なものが重視されたその音楽性(その裏には現代音楽を学んだジョン・ケイルの存在などもあったが)やセンセーショナリズム、アンダーグラウンド文化を指向する趣味性、文学性などを見れば、彼らが正に元祖パンクだったといっても過言ではないだろう。

SM雑誌からとった名を持つヴェルヴェット・アンダーグラウンドというバンドの原型が出来たのは1964年頃のことだった。当初のメンバーは、クラシックや現代音楽に傾倒し本格的にそれらを学んだジョン・ケイルと、ニューヨーク私立大で音楽を専攻したものの、そこでの学業に幻滅を感じ、シラキュース大学に再入学して文学とジャズ、ロックンロールをお遊び程度に演奏していたルー・リード、そしてルーの旧友でキング・ハットレズに居たスターリング・モリソン、パーカッショニストのアンガス・マクライズだった。

彼らはウォーロックス、プリミティヴズなどと名乗りながら活動を続けていたが、翌1965年にマクライズが脱退したため、替わりに女性ドラマーのモーリン・タッカー(愛称:モー)が加入し、ここであのよく知られたメンバー達が揃った。

1965年11月11日、彼らはヴェルヴェット・アンダーグラウンドを名乗り、初のギグをニュー・ジャージーのサミットで行った。そして、その後グリニッチ・ヴィレッジのカフェ・ビザールを拠点にプレイしていたところを、あのポップ・アート芸術家、アンディ・ウォーホールに認められたのだった。アンディ・ウォーホールのファクトリーへの出入りを許されたバンドは、同じくそこに出入りするダンサーらが行うSMショウを模した演劇やサイケデリックなライト・ショウの光線とともにステージに上がり、サイケデリックな総合アート・パフォーマンス(エクスプローディング・プラスティック・イネビタブルと呼ばれた)を行い、評判を得る。またアンディと交友を持っていたバンドは、アンディの薦めもあって女優ニコをバンドに参加させる。アンディ・ウォーホール画のバナナのジャケットに包まれたデビュー・アルバム ヴェルヴェット・アンダーグラウウンド&ニコ(Vevet Underground & Nico) がヴァーヴ・レーベルから発表されたのは1967年のこと。ここではルー・リードの書いた曲をニコルーが半々ほどで歌い分けるスタイルがとられている。このデビュー作はそれなりに評価を得るも、セールスはほとんど悲惨なもので全米171位という結果に終わった。

この後、ニコやアンディの存在がバンドにとって必ずしも好ましくないと考えたバンドは、彼らと結局袂を別ち、スティーヴ・セスニックをマネージャーに迎え、1968年にセカンド・アルバム ホワイト・ライト/ホワイト・ヒート(White Light/White Heat) を発表。同作は、おおまかに言ってファースト・アルバムよりもノイジーでフリーキーな志向を持つ作品となった。特に圧倒的な音の塊が怒涛のように響き渡る17分を超える長尺ナンバー、“シスター・レイ”は、ジョイ・ディヴィジョンはじめ、後のポスト・パンク勢に多大なる影響を与えた。しかしまたこの作品も商業的な成功とは無縁だった。そしてルーとの緊張関係が高まったため、このセカンド・アルバムを最後にジョン・ケイルが脱退。以降、ケイルはプロデュース業やソロ・アーティスト業を進めていった。

ジョン・ケイルの脱退により、実質ルー・リードがバンドを牛耳る形となったヴェルヴェッツは、ケイルの後釜にボストンのフォーク・ロック・バンド、グラス・メネイジェリーに居たダグ・ユールを迎え、1969年にサード・アルバム ヴェルヴェット・アンダーグラウンド(Velvet Underground) を発表。同作は、前作に顕著だった実験的なサウンドは影を潜め、繊細で内省的ともいえるムードに覆われた作風となった。

その後サード・アルバムにおいても商業的に成功を収められなかったヴェルヴェッツは結局ヴァーヴ・レコードをクビになり、アトランティック・レーベル傘下のコティリオンに移籍。ここで通算4作目となるアルバム ローデッドLoaded) を1970年に発表(90年代に入ると音源を加えた2枚組デラックス盤も出た)。しかしこれと前後してルー・リードはバンドを脱退していたのだった。因みにこのローデッドLoaded) はユール加入後のヴェルヴェッツを象徴するポップな仕上がりで、ルー・リードの代表曲“スウィート・ジェーン”や“ロックンロール”などが収録されているにも関わらず、ルー自身はこのアルバムを嫌っていたと言われる。これはユールがイニシアティヴをとって、ルー脱退後にミックスし直されたことが関係しているといわれている。

ヴェルヴェッツの支柱、ルー・リードが脱退したバンドは、ヴォーカルにウォルター・パワーズを迎えてバンドを存続させるが、1971年になると今度はスターリング・モリソンが脱退。その後バンドは、ウィリー・アレクサンダーが加入した後、MGMに吹き込みを行うが、これはリリースされなかった。やがてモーリン・タッカーも家庭に入るため、という理由で脱退してしまったため、結局ヴェルヴェッツはオリジナル・メンバーがひとりもいない形でダグ・ユールが引き継いだバンドとなったのだった。彼らは1973年にイギリスのみでリリースされた スクイーズ を発表するが、この作品ではメンバーは明らかにされていなかった。

ここでライヴ作を纏めておこう。1969年に収録された 1969 ヴェルヴェット・アンダーグラウンド(1969 Velvet underground With Lou Reed) Vol.1 , Vol.2は彼らの演奏のワイルドさが十二分に堪能できる名作2枚組ライヴで、1974年になってリリースされた。また1970年夏にニューヨークのマクシズ・カンサス・シティで収録された ライヴ・アット・マクシズ・カンサス・シティ(Live At Max’s Kansas City) は、コティリオンから1972年にリリース。因みにこの音源は女流映画作家ブリジット・ポルクが私的にカセット録音したものがもとになっており、ロック史上初の「正規ブートレッグ」とも呼ばれた。この作品の貴重なところはルー・リードが在籍したヴェルヴェッツ最後の夜のドキュメントという部分である。

冒頭に触れたように70年代以降ヴェルヴェッツは再評価を受け、その精神はパンク以降の多くのミュージシャン達に継承されていった。またルー・リードジョン・ケイルニコらは、そうした背景の中、自らのソロ・キャリアを着実に進めていった。

1986年には英ポリドールから5枚組ボックス・セット Velvet Undergoround がリリースされたが、これはヴァーヴでの三枚のLPに、未発表曲や別テイクなどを収めた VU(VU) 、 アナザー・ヴュー(Another View) をの二枚を追加したもので、のちに後者二つはそれぞれ単体でもリリースされた。

90年代に入っても主にギター・バンド達からのリスペクトを欲しいままにし、多くのカヴァー曲やトリビュートが捧げられたヴェルヴェッツ。そうした中、彼らの再結成が1993年になって果たされた。この再結成は1987年のアンディ・ウォーホルの死が、ケイルルーを再び結びつけたことに端を発している。翌1988年に執り行われたアンディの葬儀で久しぶりに対面したケイルルーは、このことをきっかけとしてアンディ追悼のため21年ぶりに共同で作曲を行った。そして二人はその楽曲を、翌1989年1月にウォーホール追悼公演で披露。これは後に1990年になってから ソングス・フォー・ドレラ として音盤化されたのだが、この発表と前後して、ルーケイルは競演ツアーに出ており、そのツアー中の1989年12月のブルックリン公演でモーリン・タッカーが飛び入り、また1990年6月のパリ公演ではモーリンに加え、スターリング・モリソンも飛び入りで参加し“ヘロイン”を演奏、という事態となり、これが再結成への布石となったのだ。因みに同年暮れに発表されたモーリン・タッカーのアルバム 夜は永遠に 中の一曲でも再結成ヴェルヴェッツによるプレイが実現している。

1993年2月からリハーサルを開始したオリジナル・メンバーの4人は、6月1日、スコットランドのエジンバラ公演を皮きりにヨーロッパ・ツアーを敢行。そのツアー中のパリ公演は、同年10月に ライヴ 1993(Live McMXC III) としてアルバムとヴィデオという形でリリースされた。しかしヴェルヴェッツはこのライヴ作と1995年の5枚組CDヒストリー・ボックス ピール・スローリー・アンド・シー(Peel Slowly And See) を残して再び消滅。さらに1995年8月30日にスターリング・モリソンが自宅で死去してしまったため、ヴェルヴェッツはオリジナル・メンバーでの再編が永遠になくなってしまったのだった。

バンドが存在していた時代には、ほとんどセールス的に惨敗していたヴェルヴェット・アンダーグラウンドは、のちにその異端ぶりが解散後に再評価され、多くのフォロワーを生むことになった。70年代のデヴィッド・ボウイニュー・ヨーク・ドールズパティ・スミステレヴィジョンモダン・ラヴァーズトーキング・ヘッズロキシー・ミュージックといったところ、ジョイ・ディヴィジョンエコー&ザ・バニーメンをはじめとする80年前後の英国ニュー・ウェイヴ勢、フィーリーズソニック・ユースREMヨ・ラ・テンゴギャラクシー500といった80年代米国ポスト・パンク勢、ジーザス&メリー・チェインハウス・オブ・ラヴマイ・ブラッディ・ヴァレンタインライドといった80年代半ば〜90年代にかけての英国ギター・バンド達….全てを挙げるのは不可能まほどヴェルヴェッツの影響下にあるバンドやアーティストは数多い。ヴェルヴェッツが遺した遺産(ある種の精神性のようなものと、混沌やポップ感がないまぜになった音楽的な特徴)はこれからも若いバンド、リスナー達によって再発見されていくだろう。

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