エリー・ナイ・ボックス(18CD)
1968年に亡くなるまでドイツでは大人気だったエリー・ナイは、ヴィルヘルム・ケンプも絶賛するピアニスト。今回、VENIASから登場するセットは、ソロだけでなく、協奏曲と室内楽も収録し、CD18枚という大きな規模となっています。
協奏曲は、カール・ベームやヘルマン・アーベントロート、フランツ・コンヴィチュニー、マックス・フィードラーとの有名録音のほか、元夫で離婚後も生涯のパートナーだったホーフストラーテン指揮の演奏を収録。
室内楽は、ルートヴィヒ・ヘルシャー(チェロ)、ヴィルヘルム・シュトロース(ヴァイオリン)、マックス・シュトループ(ヴァイオリン)、ヴァルター・トランプラー(ヴィオラ)や、フロリツェル・フォン・ロイター(ヴァイオリン)ほかとの共演を収録。
そしてソロは、ベートーヴェン、ブラームス、シューマン、ショパン、ハイドン、モーツァルトの作品などを収録しています。
兵舎で生まれたピアニスト
エリー・ナイの父親は職業軍人で、普仏戦争勝利から11年経っても基地内の宿舎で夫婦で生活、そこに誕生したのがエリー・ナイと兄弟たちでした。子供たちは信号ラッパや兵士たちの訓練の騒々しい音、軍楽の音、食堂での兵士たちによる合唱などの中で生活。やがて母の願いで、父は軍を辞めてボン市の戸籍係になりますが、2人の子供をたて続けに失ったため、残りの幼い子共たちを鍛えるべく、毎朝5時に起床させ、ウォーキングとライン川での水泳を課すなどして丈夫な体に育てます。これがエリー・ナイの逞しさの原点なのかもしれません。
エミール・フォン・ザウアーの薫陶
エリー・ナイは最初、母や祖母からピアノを教わり、11歳からはケルン音楽院で9年間もユダヤ系のイジドーア・ザイスに師事していますが、演奏能力の向上はともかく、演奏スタイルはエリー・ナイの好みではなかったのだとか。エリー・ナイはやがてメンデルスゾーン賞を受賞して奨学金を獲得、そのお金でウィーンに留学しますが、最初に教わったレシェティツキーもザイスと同様にエリー・ナイの好みではなく、すぐにレシェティツキーのもとを去り、次にエミール・フォン・ザウアーに師事。ザウアーの自由で華麗なピアニズムはエリー・ナイにとって魅力的だったようで、1年間みっちり勉強していますし、後年ニューヨーク・フィルにデビューするときも、ザウアー仕込みのチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番を選んでいます。
ユーモラスな性格
エリー・ナイはいかつい写真が多いので怖そうに見えますが、実際にはユーモアもあったようで、ベートーヴェンの髪形を真似してみたり、解釈を決めるのに水晶振り子でダウジングをしてみたり、太り過ぎていたときにニンニク・ダイエットをして共演者を困らせたり、ニューヨークのビルの屋上でピアノを弾いてみたりといった具合に、おかしなこともけっこうしていたようです。
ちなみに1932年から室内楽で共演していたドイツ系アメリカ人のロイター[1890-1985]は霊能者でもあり、「自動書記」やスピリチュアル分野の著述活動でも有名で、アーサー・コナン・ドイル[1859-1930]との交流もあった人物。エリー・ナイにも秘教的パフォーマンスの影響を与えていたかもしれません。
4つの出来事
エリー・ナイは生涯に4つの大きな出来事に遭遇し、人生の転換を迫られることとなったので、以下に簡単にまとめておきます。
ドイツ革命
ドイツ帝国として参戦し、敗戦濃厚になったドイツで「ドイツ革命」が勃発、ドイツはヴァイマル共和政に移行するものの、社会主義勢力、保守勢力、共産主義勢力がせめぎ合って暴力が絶えず、1921年、エリー・ナイは夫ホーフストラーテンと共にアメリカに拠点を移しています。
世界大恐慌
エリー・ナイはアメリカ東海岸側で知名度を上げてドイツでも演奏する多忙な生活となり、約4,000キロ離れた西海岸側で常任指揮者の仕事が主体になっていた夫とのすれ違いからか1927年に離婚。
アメリカ好景気の絶頂でもあった翌年には、シカゴの石炭商で資産家のアレースと再婚。しかしその翌年の1929年にはウォール街で株が大暴落、アメリカでの優雅な生活どころでは無くなり、ほどなくアレースと別れてドイツに帰還。
ナチ党台頭
ドイツでは戦後の荒廃が継続しており失業者400万人という恐るべき状態でヴァイマル共和政体制への信頼は失われ、「国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)」が国民の人気を獲得。
ウォール街発となる強烈な経済破綻をアメリカで体験したばかりのエリー・ナイも多くの国民と同じくナチ党の政策に賛同。やがてドイツにも世界大恐慌の波が押し寄せ、失業者が600万人に達すると、ナチ党の人気は爆発的なものとなり政権を奪取、エリー・ナイも大きな渦に呑み込まれて行きます。
非ナチ化審議
戦後、アメリカ占領軍政府の音楽管理局のトップとして非ナチ化審議で重要な役割を果たしたエドワード・キレニー[1910-2000]は、エリー・ナイについて、政治的にあまりに素朴なため「非政治的」であると判断。しかし、彼女の居住地域を管轄するイギリス占領軍政府が、ドイツ側自治体に非ナチ化審議を委ねてしまったので、結局、エリー・ナイの審議はボンの市議会がおこなうことになり、占領軍政府が裁いたフルトヴェングラーやクナッパーツブッシュ、クラウス、ベーム、カラヤンといったほかのプロパガンダ協力アーティストと較べて大幅に長い演奏禁止期間が設けられることになってしまいます。特にギーゼキング[1895-1956]はエリー・ナイと同じようなことをしていたにも関わらず1947年1月復帰となり、1952年1月復帰のエリー・ナイより5年も早いのですが、これはギーゼキングの語りが共産主義なども引き合いに出してうまかったことと、エリー・ナイがなかなかヒトラーの「完全否定」をしなかったことが原因でもあったようです。信念に忠実だったということなのかもしれませんが、驚きの頑固さです。
ナチ
エリー・ナイは、戦前のドイツで復興を短期間に成し遂げたヒトラーとナチ党を深く信頼。戦争が始まると愛国心にも火がつき、戦時に音楽で貢献するのは自分の使命と考えて、前線兵士の慰問から病院、刑務所までどこでも出かけていって演奏し、爆撃の中でもコンサートを実施、時には愛国的な演説もおこなったりしていました。しかしそれでもヒトラーは彼女をあまり相手にせず、結局彼女は、バックハウスのようにヒトラーの前で個人的に演奏したいと願いながらも、それが叶うことはありませんでした。彼女のロマン的な演奏スタイルがゲッベルスからあまり好まれていなかったので、原因はその辺りにあるのかもしれません。
【年表】
1882年(0歳)
●9月27日、エリー・ナイ、ドイツ帝国中西部のデュッセルドルフで誕生。本名はエリーザベト=カタリナ・ナイ。父ヤーコプ[1852-1916]は軍人で下士官、普仏戦争にも従軍。エリー・ナイが生まれたのもプロイセン軍の宿舎でした。
一方、母アンナ・フリーデリケ[1854-1931]と、祖母マリア・アンナ・エリーザベト・フォス[1819-1904]は共にピアノ教師で、エリー・ナイは二人からピアノを教わったほか、祖母からはベートーヴェンに対する情熱を育まれています。
ちなみに同年4月17日にはオーストリア=ハンガリー帝国でシュナーベルが誕生。
1883年(1歳)
1884年(2歳)
1885年(3歳)
◆ボン市にボン駅が開業。活気のある町になりつつあった人口3万6千人ほどの文教都市ボンでもナショナリズムが浸透、同時に反ユダヤ的な風潮が強まっていました。背景には、「1848年革命(三月革命)」の失敗による保守派の台頭や、革命派の身の保全のための転身(ワーグナーなど)、1871年の普仏戦争での勝利、および「ドイツ帝国」成立などの影響や、都市への労働者の集中による労働条件悪化が招いた社会主義運動の勃興といった問題があります。
1886年(4歳)
1887年(5歳)
●エリー・ナイ、家族と共にドイツ中部の小都市ボンの新市街に転居。これはブルジョア出身で兵舎暮らしがイヤになった母が、父に軍を辞めて別の仕事に就くよう求めたためで、ほどなく父はボン市の戸籍係として採用され生活転換を実現。
◆6月、独露再保障条約締結。
1888年(6歳)
◆ドイツ帝国、三皇帝の年。3月9日にヴィルヘルム1世崩御。跡を継いだ息子のフリードリヒ3世も6月15日に崩御すると、その息子で29歳のヴィルヘルム2世が即位。
1889年(7歳)
1890年(8歳)
◆ロシア帝国におけるドイツ資本が7億9000万ルーブルに達し、ロシアにおける国別投資でドイツが首位に。作曲家メンデルスゾーンの父(とその兄)の銀行でもあったメンデルスゾーン銀行は、ロシア皇室のメインバンクとして、ロシア国債、鉄道などに巨額の出資をおこない。やがてドイツ最大の民間銀行となり、世界大恐慌もうまく乗り切りますが、1939年、ドイツ政府によって閉鎖が決定、ドイツ銀行に資産が引き渡されています。
◆3月、ドイツ帝国首相ビスマルク辞任。ビスマルクは社主義者を徹底的に嫌っており、「社会主義者鎮圧法」制定をめぐって皇帝ヴィルヘルム2世と対立。ビスマルクは親ユダヤ、皇帝は反ユダヤでした。
◆ビスマルク体制の一環として1887年に締結された独露再保障条約の更新を、ビスマルク失脚後のドイツ側が拒否。これが1894年の露仏同盟に繋がってしまいます。
1891年(9歳)
1892年(10歳)
1893年(11歳)
●父ヤーコプ、娘のためにボンの音楽関係者に会い、レオンハルト・ヴォルフ教授[1848-1934]の知己を得、エリー・ナイが低年齢でケルン音楽院に入学できるよう助力を依頼。レオンハルト・ヴォルフはブラームスとヨアヒムの友人でもありました。
●エリー・ナイ、ケルン音楽院に入学。年齢下限は14歳でしたが、レオンハルト・ヴォルフの推薦もあり試験を受けることが許可されモーツァルトのソナタで合格し、11歳になる直前に入学。ユダヤ系のイジドーア・ザイス[1840-1905]に9年間師事。クララ・シューマンの父、フリードリヒ・ヴィーク[1785-1873]の弟子でもあったザイスは、1905年、視力が悪化して失明寸前の状態になり、家族もすでに亡くなっていたことから自殺。遺言には4人の同僚への資金援助のための音楽院への寄付、およびケルン市への50万マルク以上の寄付が記されていました。
1894年(12歳)
◆ドイツ女性協会同盟設立。男女同権を求めて活動。
1895年(13歳)
1896年(14歳)
1897年(15歳)
●エリー・ナイ、ケルン音楽院でメンデルスゾーンのピアノ協奏曲を演奏。
1898年(16歳)
1899年(17歳)
1900年(18歳)
1901年(19歳)
●エリー・ナイ、ベルリンでメンデルスゾーン奨学金を獲得。作曲家メンデルスゾーンゆかりの奨学金で、審査員にはユダヤ系のヨーゼフ・ヨアヒムもいました。のちにケンプやルートヴィヒ・ヘルシャーもこの奨学金を得ています。
1902年(20歳)
●エリー・ナイ、ドイツ最古のピアノ・メーカー「イバッハ」が開催するコンクールで、ポーランド人作曲家ストヨフスキのピアノ協奏曲第1番の演奏によりイバッハ賞を受賞。
◆ドイツ女性参政権協会設立。女性の参政権を求めて活動。
1903年(21歳)
●エリー・ナイ、ウィーンの修道院の運営する施設に滞在し、テオドール・レシェティツキー[1830-1915]の運営するピアノ教室で勉強。レシェティツキーはベートーヴェンの孫弟子でしたが、その知的な教授法はエリー・ナイには満足できず、ほどなく教室に通わなくなります。
●エリー・ナイ、引き続きウィーンに滞在し、今度はエミール・フォン・ザウアー[1862-1942]に師事。ザウアーはリストの弟子で、エリー・ナイもその華麗なスタイルに魅せられ1年間修業。リストの「メフィストワルツ」や、チャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番といった作品の演奏を習得し、後年、ニューヨーク・フィル・デビューの際にもチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番を演奏しています。
1904年(22歳)
●エリー・ナイ、ベルリンで演奏会デビュー。
1905年(23歳)
1906年(24歳)
●2月9日、ヴェルテ・ミニョン社の自動再生ピアノに13曲を録音。
●エリー・ナイ、ケルン音楽院の教職に就きます。
1907年(25歳)
●エリー・ナイ、ケルン音楽院の教職。
●エリー・ナイ、ケルン音楽院で、オランダ人の学生で指揮とヴァイオリンを学んでいたウィレム・ファン・ホーフストラーテン[1884-1965]と出会って恋愛関係となり、4年後に結婚。
1908年(26歳)
●エリー・ナイ、ケルン音楽院の教職を退任。
●エリー・ナイ、ソリストとしての活動を本格化。
1909年(27歳)
1910年(28歳)
1911年(29歳)
●エリー・ナイ、パブロ・カザルスとロンドンで初めて共演。
●エリー・ナイ、ホーフストラーテンと結婚。新婚旅行はオランダ。新居は、ホーフストラーテンが仕事を得たドイツ南西部のシュランゲンバート。のちにボンに転居。1927年に離婚。
◆シュトゥットガルトで、国際社会主義女性会議が開催。
1912年(30歳)
1913年(31歳)
●エリー・ナイ、ホーフストラーテンと、ロシア帝国のサンクトペテルブルクでコンサート。
1914年(32歳)
●エリー・ナイ・トリオ結成。ヴァイオリンは夫のホーフストラーテン、チェロはフリッツ・ライツ[1885-1969]。
◆6月28日、サラエヴォ事件発生。フランツ・フェルディナント大公と妻のゾフィーが、ボスニア系セルビア人プリンツィプらにより殺害。
◆7月28日、オーストリアはセルビアに宣戦布告。第1次世界大戦開戦。
◆8月1日、ドイツがロシアに宣戦布告。
◆8月3日、ドイツがフランスに宣戦布告。
◆8月4日、イギリスがドイツに宣戦布告。
●ホーフストラーテン、クレーフェルト市立管弦楽団の常任指揮者に就任。
1915年(33歳)
1916年(34歳)
◆2月、ヴェルダンの戦い。北フランスのヴェルダンで展開されたドイツとフランスの戦闘。フランス軍死傷者377,000〜542,000人、ドイツ軍死傷者336,000〜434,000人と推測される凄惨な戦いで、フランスでは徴兵が厳しかったため多くの音楽家も参戦していました。
◆6〜9月、第1次世界大戦最大規模の戦いとなったガリツィアでの戦闘で、ドイツ&オーストリア軍が、ブルシロフ将軍率いるロシア帝国軍に惨敗。ロシア帝国軍死傷者約50万人、オーストリア=ハンガリー帝国軍死傷者約108万人、ドイツ帝国軍死傷者約35万人。
◆8月、イタリア、ドイツに宣戦布告。ドイツに膨大な死傷者が出ていたのを好機と捉えての参戦。
●エリー・ナイの父ヤーコプ死去。
1917年(35歳)
◆4月、アメリカがドイツに対して宣戦布告。アメリカは第1次大戦中、敵対する両陣営と巧みに取引して莫大な利益をあげており、参戦が遅れたのもドイツに投下した資金の回収スケジュールが影響していました。宣戦布告すると、今度はアメリカ各地の港に停泊していたドイツ船すべてをアメリカ政府が略奪。巨大客船8隻を含む54隻を盗んでアメリカ軍で使用(1800人の船員は強制収容所に収監)。膨大な数の兵士や物資をヨーロッパに輸送するのに役立てられたほか、結果的に「スペインかぜ(実際にはアメリカ発の超強力インフルエンザ)」をヨーロッパに運び、未曽有の大量死をもたらすことにもなっています。戦後はアメリカやイギリスの船会社に売却されて巨額の利益を計上。
◆アメリカ政府によるドイツへの宣戦布告後、アメリカ国内のドイツに関する扱いは凄まじいものとなっていき、政府によってドイツ系移民の財産5億ドルが略奪。戦後も市民による嫌がらせはしばらく続きます。以下、主な例です。
・ドイツ系市民や、親ドイツ派、聖職者らに対する凄惨な嫌がらせやリンチ、残虐行為が頻発し殺人までおこなわれるものの判決は無罪。
・アメリカ合衆国に忠実ではない態度をとる市民に対して、罰金10,000ドル、もしくは懲役20年という刑が科せられる法律が承認。
・公共の場でのドイツ語の使用の禁止。
・ほとんどの学校でドイツ語教育が禁止。
・図書館のドイツ語書籍の多くは焚書処分。
・ドイツ系の偉人の銅像などモニュメントの破壊。
・ドイツ語風の固有名詞は改名。「ハンバーガー」→「リバティ・バーガー」、「ウィーン通り」→「パナマ通り」等。
・演奏会からドイツ音楽が追放。
・教会でのドイツ語礼拝禁止。
・ドイツ語上演劇場の閉鎖。
・ドイツ語新聞200紙以上が廃刊。
・ルター派学校への放火。
・ルター派教会の破壊。
・ドイツ語専攻学生の極端な減少。
●ホーフストラーテン、クレーフェルト市立管弦楽団の常任指揮者を退任。
1918年(36歳)
◆アメリカ在住のドイツ系市民約50万人に対し、顔写真、指紋登録を義務化。2,000人以上のドイツ系市民が強制収容所に送られます。
●エリー・ナイ、長女エレオノーレ[1918-2007]を出産。
◆3月、アメリカで超強力なインフルエンザが発生。6月にはボストンで5,000人近い死者が出るなど大流行が始まり、折からのアメリカ外征軍のヨーロッパへの膨大な数の兵士派遣と共に感染が拡大、5月から6月にかけてヨーロッパ各地で多くの犠牲を出し、第1次世界大戦終結を早める要因ともなります。
なお、このインフルエンザは世界大戦下で感染爆発したため、報道統制の無かった中立国スペインでの被害報道が目立ってしまい、結果として「スペインかぜ」と名付けられてしまいますが、実際に感染拡大に大きな役割を果たしたのはスペインではなく、発生元のアメリカでした。
◆秋、スペインかぜ(アメリカ発の超強力インフルエンザ)、第2波。
◆11月、ドイツで「ドイツ革命」勃発。兵士と労働者による評議会組織「レーテ(ソヴィエト)」に扇動されたキール軍港での水兵の反乱に端を発し、ハンブルク、ブレーメン、ミュンヘンなど北から南までドイツ各地で反乱が広まる中、皇帝ヴィルヘルム2世はオランダに亡命、47年間に及んだ「帝政」(通称:ドイツ帝国)が崩壊、「ヴァイマル共和政」(通称:ヴァイマル共和国)に移行することとなります。
臨時政府は議会第一党だったドイツ社会民主党と、そこから派生したドイツ独立社会民主党による「人民代表委員会」であり、初代首相はドイツ社会民主党党首のフリードリヒ・エーベルトでした。もっともエーベルトは実際には君主制支持者だったということですが、議会第一党のドイツ社会民主党党首ということで首相になっています。
◆11月、ドイツ、オーストリアは降伏、連合国との休戦協定を締結。
●エリー・ナイ、アドルフ・ブッシュと共演。ベートーヴェン、ブラームスを演奏。
1919年(37歳)
◆1月、共産主義者グループ「スパルタクス団」がベルリンで蜂起するものの、ドイツ社会民主党党首のエーベルト首相が「ドイツ義勇軍(Freikorps)」などを動員して鎮圧、元ドイツ社会民主党員でもあった共産主義者ローザ・ルクセンブルクらを虐殺しています。収監されていたローザ・ルクセンブルクは、前年のヴィルヘルム皇帝廃位と同じタイミングで釈放され、この蜂起に加わっていました。
◆4月、バイエルン州政府が共産主義者たちに倒され、「バイエルン・レーテ共和国」が成立。「レーテ」はドイツ語でソヴィエトの意味。
◆5月、「バイエルン・レーテ共和国」崩壊。ヴァイマル共和国軍やドイツ義勇軍によってミュンヘンが陥落。短期間のうちに共産主義者たちによるミュンヘン市民の虐殺もおこなわれていたため、以後、ミュンヘンの右傾化が進むことになります。
◆春〜秋、スペンかぜ(アメリカ発の超強力インフルエンザ)、第3波。
◆8月、ヴァイマル憲法公布。
◆ドイツで女性が参政権を獲得。
1920年(38歳)
◆3月、カップ一揆勃発。国防軍35万人を11万5千人に縮小し、義勇軍25万人を3月31日までに解散するというヴェルサイユ条約に従った政府決定に反発したヴァルター・フォン・リュトヴィッツ将軍が、義勇軍であるエアハルト海兵旅団をベルリンに向けて進軍させ、エーベルト大統領は軍に鎮圧するよう命じるものの軍は動かず、政府はシュトゥットガルトに緊急避難し、ベルリンの官庁街はエアハルト海兵旅団らによって占拠、ドイツ祖国党ヴォルフガング・カップらは、ヴァイマル共和政議会及びプロイセン州政府の解散を宣言し、新政府樹立を宣言します。しかし左派の扇動による大規模なゼネストが本格化して一揆はあえなく終了することとなります。
なお、このとき海兵旅団を率いるヘルマン・エアハルトは、ベルリンでユダヤ人虐殺をおこなおうとしますが、ヴォルフガング・カップによって制止されています。
◆3月、ルール赤軍蜂起。カップ一揆をつぶした大規模なゼネストに刺激され、ドイツの工業地帯ルール地方で、左派の労働者兵士5万人ほどで組織された「ルール赤軍」が蜂起、「ヴァイマル共和国軍」と戦闘状態になり、1か月ほどで鎮圧されています。ルール地方は3年後、フランス・ベルギー軍によって占領。
1921年(39歳)
●8月、エリー・ナイ、ホーフストラーテン指揮モーツァルテウム管弦楽団員ほかとザルツブルク音楽祭でモーツァルトのピアノ協奏曲第15番を演奏。これがザルツブルク音楽祭デビュー。
●エリー・ナイ、戦勝国で好景気に沸くアメリカからの招聘で。夫と共に渡米。以後、世界大恐慌翌年の1930年までドイツとアメリカを往復する生活。
●10月15日、エリー・ナイ、カーネギーホールのベートーヴェン・リサイタルでアメリカ・デビュー。
●11月26日、エリー・ナイ、ニューヨーク・フィルの定期演奏会に出演。曲目はチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番で、共演指揮者はボヘミア生まれのユダヤ人指揮者、ヨセフ・ストランスキー[1872-1936]。ストランスキーはマーラーの後任としてニューヨーク・フィル首席指揮者に就任し、1911年から1920年までの膨大な公演のほとんどを指揮した人物。しかし1921年にニューヨーク・フィルがニューヨーク・ナショナル交響楽団を吸収合併すると、翌1922年1月からナショナル交響楽団首席指揮者だったメンゲルベルクと指揮を分け合うようになり、ストランスキーがシーズン前半、メンゲルベルクがシーズン後半を担当するというおおよその形で分担。ストランスキーはこれを嫌って1923年1月に辞任しています。
●12月4日、エリー・ナイ、リヒャルト・シュトラウス指揮ニューヨーク・フィルとブルレスケを演奏。
1922年(40歳)
●1月、エリー・ナイ、2日にホーフストラーテン指揮ニューヨーク・フィルと、ブラームスのピアノ協奏曲第1番と第2番を演奏。2週間後には同じくホーフストラーテン指揮でモーツァルトのピアノ協奏曲第15番を演奏。22日にはストランスキー指揮で「皇帝」。
1923年(41歳)
◆ドイツのルール工業地帯をフランス・ベルギー軍が占領。
◆ハイパーインフレ発生。インフレには債務軽減効果(デフレには債務増大効果)があるため、ドイツ政府は莫大な国内債務を一気に解消することに成功しています。
1924年(42歳)
●エリー・ナイ、ニューヨークのビルの屋上でピアノ演奏。
●1月、エリー・ナイ、ホーフストラーテン指揮ニューヨーク・フィルと、「皇帝」を演奏。
●10月、エリー・ナイ、ホーフストラーテン指揮ニューヨーク・フィルと、ブラームスのピアノ協奏曲第2番を演奏。
●エリー・ナイ、ブロニスラフ・フーベルマンとカーネギーホールで共演。
●エリー・ナイ、カール・フレッシュとカーネギーホールで共演。
1925年(43歳)
●1月、エリー・ナイ、17日にヘンリー・ハドリー指揮ニューヨーク・フィルと、マクダウエルのピアノ協奏曲第2番を演奏。マクダウエル[1860-1908]がドイツ時代に書いたロマン派的なピアノ協奏曲。28日にはホーフストラーテン指揮でチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番を演奏。
1926年(44歳)
1927年(45歳)
●エリー・ナイ、ホーフストラーテンと離婚。
●エリー・ナイ、ボン市の名誉市民に。
1928年(46歳)
●1月、エリー・ナイ、アメリカの石炭ディーラーで資産家のポール・F・アレース[1895-1990]と再婚。
◆6月、フランス政府、フランを約5分の1に切り下げ。国内債務の大幅な削減と輸出条件の向上を狙った経済再建策。
1929年(47歳)
◆9月3日、アメリカ、しばらく「買い」が蓄積して上昇を続けていたダウ工業株の平均が最高値381.17を記録。ほどなく利益確定のための「売り」が集中して1か月に渡って下がり続けて17%下落。その時点で底値と判断した「買い」が入って下落分の半分ほどまで上昇したもののそこで利益確定の「売り」が大きく入り、再び株価は下落。
◆10月24日、ウォール街株価大暴落。シカゴ市場、バッファローの市場は閉鎖。やがて損失確定組は、善後策として、各国への投資や預金などの資金を回収、結果的に、銀行や企業の相次ぐ破綻へと繋がって行きます。
◆ドイツの失業者数約200万人。
1930年(48歳)
◆ドイツの失業者数約400万人。
1931年(49歳)
◆「世界大恐慌」の影響で経済が疲弊していたドイツとオーストリアが2国間の関税同盟を結んで、少しでも経済を活性化しようとしたことに対し、フランス政府は反発、国際連盟や国際司法裁判所に提訴、両国の関税同盟成立を阻止。結果的にドイツによるオーストリア併合への期待をオーストリア国民にもたせることになります。
1932年(50歳)
●エリー・ナイ、エリー・ナイ・トリオとしての活動を再開。メンバーはヴィルヘルム・シュトロース[1907-1966](ヴァイオリン)とルートヴィヒ・ヘルシャー[1907-1996](チェロ)に交代。五重奏を演奏する際には、ドイツ系アメリカ人のフロリツェル・フォン・ロイター(ヴァイオリン)とドイツ人でのちにアメリカ人となるヴァルター・トランプラー[1915-1997](ヴィオラ)が参加。
1933年(51歳)
◆1月30日、ヒンデンブルク大統領がヒトラーを首相に任命。「ドイツ国(Deutsches Reich)」の体制は、14年間続いた「ヴァイマル共和政」(通称:ヴァイマル共和国)から「国家社会主義ドイツ労働者党独裁体制」(通称:ナチス・ドイツ)に移行(1945年まで)。
◆2月20日、 ヒトラーとゲーリングがドイツ経済界首脳陣と会合、大恐慌で経済の悪化する中、300万ライヒスマルクの政治献金を獲得。
◆2月27日、ベルリンの国会議事堂が放火され炎上。これを受けて、「国民と国家の保護のための大統領令」と「ドイツ国民への裏切りと反逆的策動に対する大統領令」が発令され、犯人がオランダ共産党員だったことから、ドイツ共産党・社会民主党も活動禁止措置。
◆3月5日、ドイツ総選挙でナチ党が43.9%を獲得。
◆3月、ドイツの国民啓蒙・宣伝省大臣にヨーゼフ・ゲッベルスが就任。プロパガンダのほか、新聞・雑誌・放送・音楽・映画・演劇・文学・絵画・観光・旅行などの「管理・検閲」を実施。当初の予算は1,400万ライヒスマルクでしたが、1944年には13倍以上の1億8700万ライヒスマルクにまで規模を拡大、下部組織に「帝国文化院」も設置して各分野への統制をおこなっていました。
◆3月23日、ドイツで全権委任法が成立。
◆3月、オーストリア、キリスト教社会党のドルフース首相が、警察を動員して議会を閉鎖。緊急令により独裁的な運営を開始。
◆4月7日、世界恐慌の影響で約600万人に急増していた失業者の就業対策の目玉として「職業官吏再建法」が施行。公務員から非アーリア人を追放する法律で、ドイツの全公務員、および新政権により新たに「国有化」された膨大な数の企業・団体の職員が対象。同時に国外に出るユダヤ人の財産を奪って国庫に収める政策も実施され、公共事業財源などに利用されます。
◆4月19日、ナチ党、新規の入党希望者の制限を開始。1月末の内閣成立、3月の総選挙という人気過熱イベントを経て、4月7日には、失業対策の目玉ともいわれる「職業官吏再建法」が施行され、爆発的な数の失業者が、求職目的、あるいは待遇向上目的で入党手続きに殺到したため、新規の入党希望者の制限を実施。以後、1939年5月10日に新規入党制限が完全に撤廃されるまでの6年間は、再入党や縁故のほか、数回の例外期間を除いて新規入党を基本的に受け付けませんでした。
◆5月10日、ドイツ学生協会の主宰で、大規模な「焚書」が実施。以後、6月末までに大量の「非ドイツ的」な書物を焼却。ドイツの34の大学都市で、学生たちによって実施された「非ドイツ的精神への抵抗」は成功し、新聞や放送を通じて全ドイツ国民に向けて成果を報道。なお、ナチは、教員・役人・劇場人などの公務員のほか、学生など若年層に特に人気がありました。
●5月、ヴィルヘルム・バックハウス[1884-1969]がヒトラーの前で演奏。エリー・ナイもヒトラーの前で演奏をしようと努力するものの結局実現することはありませんでした。ちなみにバックハウスは当時すでに国際的に活躍。1930年には世界恐慌下のドイツをあとにしてスイス国民となっていましたが、たびたびドイツに戻って演奏、1936年にはヒトラーより名誉教授の称号を授与。
◆5月26日、ドイツで共産主義者の財産没収に関する法律が成立。
◆5月26日、ドルフース政権、オーストリア共産党を非合法政党と認定し活動禁止措置。
◆6月19日、ドルフース政権、オーストリア・ナチ党を非合法政党と認定し活動禁止措置。これによりオーストリア・ファシズム政権による独裁体制が確立し、ローマ・カトリックを国教として認定。
◆6〜7月、ドイツで社会民主党活動禁止措置。続いてドイツ国家人民党・ドイツ国家党・中央党・バイエルン人民党・ドイツ人民党が自主解散。
◆7月14日、ドイツで政党新設禁止法が成立。
◆11月、ドイツ国会選挙。ナチ党への反対票(と無効票)が3,398,249票(7.89%)で、賛成票が39,655,224票(92.11%)と賛成が圧倒的多数でした。投票率も非常に高く95.3%の有権者が選挙に参加。
1934年(52歳)
●エリー・ナイ・トリオのヴァイオリニストが、五重奏でも共演していたドイツ系アメリカ人のフロリツェル・フォン・ロイターに交代。
◆隣国オーストリアの実質賃金は1929年に較べて44%も減少、失業率も1928年の8.3%に対し、1934年は38.5%と凄まじい景気の悪化ぶりで、政治・社会も大きく混乱。
◆2月、ウィーンで内戦が勃発。オーストリア・ファシズム政権と、オーストリア社会民主党の支援する「防衛同盟」戦闘員が衝突、4日間で2,000人前後の死傷者が出て戒厳令も布告。
1935年(53歳)
◆3月、ドイツ、再軍備宣言と共に徴兵制も復活。
●エリー・ナイ・トリオのヴァイオリニストがマックス・シュトループ[1900-1966]に交代。
1936年(54歳)
◆ドイツ経済が大恐慌前の水準に回復。
◆2月、仏ソ相互援助条約を締結。ヒトラーはロカルノ条約違反と批判し、自衛のためという理由で、翌月、国境沿いの非武装地帯に軍を進めます。
◆3月、ドイツ、ラインラントへ進駐。
1937年(55歳)
◆ゲッベルスにより「批評禁止令」布告。
●エリー・ナイ、ナチ党に入党。のちに「ドイツ女子同盟」の名誉会員にも叙せられています。
●9月、エリー・ナイ、ヒトラーより名誉教授の称号を授与。
1938年(56歳)
◆3月、オーストリア併合。当時のドイツは失業率が劇的に改善し、国民の貯蓄額も急伸、公債も大規模に運営されて景気も過熱気味となる一方、アメリカなどへの莫大な負債も抱える債務国でもありました。オーストリア併合の理由も、国境線拡大に加え、オーストリアの保有していた金資産や外貨、鉱物資源、そして何よりもユダヤ人の財産などが目当てだったとされています。実際、ドイツが手にしたオーストリアの金・外貨・財産は14億ライヒスマルクに達し、これはドイツのライヒスバンクの資産7,600万ライヒスマルクの実に18倍以上という凄いものでした。
しかし、景気回復の途上だった人口約650万人のオーストリアの一般市民の生活水準はまだ満足な状態には無く、約60万人も失業者がおり、自国経済の改善に期待する市民の思いは、併合に関して4月10日に行われた国民投票の結果にも反映、賛成99.75%という数字にも表れていました。
併合後は、1925年に「クローネ」から変更されたばかりのオーストリア通貨「シリング」を廃止してライヒスマルクを導入。ライヒスバンクは当初、オーストリア経済の実態に即して「2シリング=1ライヒスマルク」という交換レートを想定していたものの、市民感情にも配慮し、「1.5シリング=1ライヒスマルク」という交換レートを設定、民間組織の国有化など経済再建を進めます。
●8月、エリー・ナイ、オーストリア・シューベルト弦楽四重奏団ほかとザルツブルク音楽祭でシューベルト「ます」を演奏。
●エリー・ナイ、ヒトラーと初めて会い、握手。
◆11月7日、パリでユダヤ人によるドイツ外交官暗殺事件発生。
◆11月9日、「水晶の夜」事件発生。ドイツ各地でユダヤ人への一連の弾圧行為へと発展。
1939年(57歳)
●8月、エリー・ナイ、トリオのメンバーほかとザルツブルク音楽祭でシューベルト「ます」、モーツァルト:ピアノ四重奏曲第1番などを演奏。
◆9月1日、ドイツがポーランドに侵攻。第2次大戦開戦。
◆9月3日、イギリスとフランスがドイツに宣戦布告。
◆9月17日、ソ連がポーランドに侵攻。
●エリー・ナイ、ザルツブルク・モーツァルテウムからピアノ教授として招かれ、夏期講座も担当。1945年まで継続。
●前夫のホーフストラーテンがアメリカから帰還し、ザルツブルクでプロ組織として発足したモーツァルテウム管弦楽団の首席指揮者に就任。戦争が終わるまで務めます。
1940年(58歳)
●エリー・ナイ、ボン市からベートーヴェン賞を授与。
●エリー・ナイ・トリオのヴァイオリニストがマックス・シュトループ[1900-1966]に交代。
◆4月9日、午前4時、ドイツ軍が不可侵条約を破ってデンマークに侵攻。国王は午前6時に降伏を決定。占領統治は3年後の1943年8月に開始されます。
◆5月11日、チャーチルがイギリスの首相に就任。市街地空爆など民間人攻撃を推進し、最終的にドイツの民間人約41万人を殺害、500万人分以上の住居を破壊しています。
◆5月11〜12日、イギリス空軍、ドイツ西部のメンヒェングラートバッハ空爆。両国の間で最初の空爆はイギリス側が実施。
◆6月、フランス、ドイツと46日間戦ったのち休戦協定を締結。大枠で見るとフランス北部がドイツの占領統治、南部が「ヴィシー政権」による統治で、例外が長年の係争地であるエルザス=ロートリンゲン(アルザス=ロレーヌ)地方となります。
同地方はドイツに割譲という形になったため、1938年に併合したオーストリアと同様、ドイツ政府による統治とし、他のドイツ・オーストリア地域と同じく「大管区」に組み込まれ、徴兵なども実施されることとなります(エルザス=ロートリンゲン地域からの徴兵数は約10万人)。
◆6月14日、ドイツ軍、パリに無血入城。
◆8月25日〜9月4日、イギリス空軍、ベルリン空爆。
◆9月7日、ドイツ空軍、ロンドン空爆(死者約300人)。
◆11月14日、ドイツ空軍、コヴェントリー空爆(死者568人)。
1941年(59歳)
◆3月27日、ドイツ国防会議により法令布告。闇取引および買い溜めに関する取り締まりを強化。最高刑は死刑。
◆3月29日、ドイツ財務省が法人税増税について発表。前年度利益が3万ライヒスマルクを超えた場合、利益の25〜30%を徴税。
◆6月、独ソ戦開戦。
●8月、エリー・ナイ、クレメンス・クラウス指揮ウィーン・フィルとザルツブルク音楽祭でR.シュトラウス「ブルレスケ」を演奏。
1942年(60歳)
◆イギリス空軍、リューベック空爆により民間人約320人を殺害。
◆5月30〜31日、イギリス空軍、ケルン空爆により民間人約480人を殺害。
1943年(61歳)
●エリー・ナイ、クナッパーツブッシュと共に戦時勲功十字章を授与されます。
◆5月16〜17日、イギリス空軍、ドイツのダムを空爆する洪水作戦を展開し、約1,300人を殺害。
◆6月19日、ベルリンでユダヤ人ゼロ宣言。
◆7月27〜28日、連合国軍、ハンブルク空爆により民間人約41,000人を殺害。
◆8月、連合国軍、ベルリン空爆開始。翌年3月までに民間人約9,400人を殺害。
◆11月1日、モスクワ宣言。3回モスクワ会議でのソ連・アメリカ・イギリスの外相らにより取り決められた内容で、オーストリアについては、ヒトラーの侵略政策の犠牲となった最初の国であるとされる一方、ドイツへの戦争協力にも言及し、今後、オーストリアそのものがドイツからの解放にどのくらい関与したかで戦争責任の追及が変わってくるなどと指摘。以後、オーストリア国内でのレジスタンスは数を増すこととなり、1944年の終わりには、臨時オーストリア国民委員会も結成して抵抗運動を本格化していました。
1944年(62歳)
◆2月、イギリス空軍、ボンへの空爆開始。ボンは小さな文教都市で軍事施設はありませんでしたが、連合国軍による民間人大虐殺戦略の一環として、1945年2月までに計72回爆撃、約6,400人を殺害、旧市街の建物約70%を破壊する成果を上げていました。
◆4月、連合国軍、ベルギーとフランスの交通機関へ空爆開始。11月までにベルギーとフランスの民間人など約15,000人を殺害。
◆9月1日、ゲッベルスにより、全ドイツの劇場(歌劇場)閉鎖令が布告。これは7月20日に発生したヒトラー暗殺未遂事件とクーデーターを収拾させたゲッベルスが、国家総力戦総監に任命され、国家総力戦の一環として劇場を閉鎖することを策定したもの。立案は7月末におこなわれ、一部の劇場では早期の運用がおこなわれていました。
◆9月11〜12日、連合国軍、ダルムシュタット空爆により約12,300人を殺害。
◆9月25日、総統命令により、民兵組織「国民突撃隊」の編成が開始。対象者は16歳から60歳の一般市民。約600万人の組織を目指したものの、兵器や軍服の極端な不足や、様々な理由による拒否などにより計画にはまったく満たない状態で、戦果の方も限定的でした。
◆10月18日、連合国軍、ドイツに対して24時間体制で空爆を開始。
1945年(63歳)
◆2月13〜14日、連合国軍、ドレスデン空爆により3万人から15万人を殺害。
◆2月23〜24日、連合国軍、プフォルツハイム空爆により2万人以上を殺害。
◆4月16日、赤軍のジューコフ元帥によりベルリン砲撃開始。ベルリンの戦いは3週間続き、ドイツ側死者約32万人、ソ連側死者約8万人という激戦となります。
◆4月30日、ヒトラー自殺。ヒトラーはデーニッツ元帥を後継に指名していたため。同日、臨時政府「フレンスブルク政府」が発足。デーニッツが大統領に就任して降伏のための準備を進めます。また、1月からデーニッツの指示で実施中の海軍による市民と兵士の搬送作戦も5月中旬まで継続され約200万人を救出。
◆5月9日、ドイツ降伏。2週間後、デーニッツ逮捕により臨時政府解散。
1946年(64歳)
◆1月、アメリカ占領軍政府を中心に非ナチ化裁判が開始(1949年まで)。10万人以上のドイツ人が裁判にかけられ、音楽界でもナチ関連疑惑のあった人物が続々と法廷に送られることになったため、連合国軍側の作成したブラックリストに載っていなかった(=知名度が高くない)音楽家たちや、外国人、ユダヤ人たちには大きなチャンスが訪れることになります。
なお、この各国占領軍政府によって実施された非ナチ化裁判については、アメリカだけが熱心で、ソ連やイギリスの占領軍政府はあまりおこなわないなど、国によって温度差が大きかったのですが、その後のアメリカ人音楽家やユダヤ人音楽家のドイツでの躍進ぶりを考えると、最初からそれが目的だったとも考えられます。
実際、外国人が入り込めないような公的機関などについては、非ナチ化の追求はほとんど実施されなかったようですし、弁護士の約90%が元ナチ党員ということもあって裁きようがないため処罰を免れた約800万人以上の元ナチ党員や党友が普通に生活、占領統治下ながら、行政機構も戦時中からほぼそのまま継続していたため、役人はほとんどが元ナチ党員で、たとえば性的マイノリティの作曲家・指揮者の
ヘンツェが、西側にも関わらず自殺未遂寸前まで追い込まれたりもしていました。1957年の調査でも、西ドイツ司法省上級職員の元ナチ党員率が約77%、裁判長で約70%となっています。
ちなみに、ソ連はまず占領地行政の抜本的な変更を最優先し、行政機関の主要な役職は共産主義者に総入れ替えしていました。
また、フランスは、まず約4年間占領下にあった「自国民の非ナチ化」が喫緊の課題ということで、全教師の4分の3を入れ替えたり、ヴィシー政権で要職にあったコルトーを厳しく断罪したりしています。
◆1月、イギリス占領軍政府は、管轄地域の非ナチ化をドイツに委ねます。しかし自治体の整備もままならない状態だったので、音楽家など、凶悪な戦争犯罪とは無縁の職種については追及無し、もしくは後回しでうやむやにされたため、アメリカ管轄地域からイギリス管轄地域に移る人が続出し(オイゲン・ヨッフムなど)、イギリスの方針はアメリカから非難されることになります。イギリスも戦後間もなくの時期は、重度の戦争犯罪人訴追には熱心でしたが、その後、英独双方の経済復興を優先させています。
1947年(65歳)
1948年(66歳)
●12月20日、ボン市議会は、市のコンサートへのエリー・ナイの出演禁止を決定。
1949年(67歳)
●3月9日、ボン市議会は、市のコンサートへのエリー・ナイの出演禁止を再度決定。
1950年(68歳)
1951年(69歳)
◆3月15日、西ドイツ外務省、ボンで発足。職員の3分の2は元ナチ党員。初代外務大臣は反ナチのアデナウアー首相が兼務。アデナウアーは元ケルン市長で、反ユダヤ的なとり巻きの多かったアーベントロートと、ユダヤ人クレンペラーが対立した際、クレンペラーを上役にすることでうまくまとめたりもしていた人物。
1952年(70歳)
●1月25日、ボン市議会は、市のコンサートへのエリー・ナイの出演禁止措置を解除。
●エリー・ナイ、トゥッツィング市の名誉市民に。
1953年(71歳)
1954年(72歳)
1955年(73歳)
●エリー・ナイ、ルートヴィヒ・ヘルシャーとベートーヴェンのチェロ・ソナタ全集の録音。翌年にもセッションを組んでいます。
1956年(74歳)
1957年(75歳)
1958年(76歳)
◆西ドイツ政府司法局、国家社会主義犯罪の調査のための中央事務所をルートヴィヒスブルクに設立。
1959年(77歳)
●エリー・ナイ、ボンのホール「ベートーヴェンハレ」の改修工事費用として75,000マルクを寄付。
1960年(78歳)
◆西ドイツのGNP世界第2位に。
●エリー・ナイ、メンデルゾーンの無言歌を演奏。
1961年(79歳)
◆3月、西ドイツ政府、ドイツマルクを5%切り上げ。
●エリー・ナイ、和解して一緒に暮らすようになっていたホーフストラーテンと金婚式。
◆ドイツ・マルク切り上げ。
1962年(80歳)
1963年(81歳)
◆12月20日、フランクフルト・アウシュヴィッツ裁判開始。
1964年(82歳)
1965年(83歳)
●9月11日、ウィレム・ファン・ホーフストラーテン、ミュンヘン近郊の景勝地トゥッツィングで死去。
◆8月10日、フランクフルト・アウシュヴィッツ裁判終了。現場職員ムルカなどに有罪判決。このあと、実際にホロコーストを準備して取り仕切っていた多くの官僚たちも謀殺ほう助罪で裁くべきという世論がごく一部で盛り上がりますが、1969年に司法省による法改正がおこなわれて阻止。司法省には1,000人を超える元ナチ党員や協力者がいたということで、戦争犯罪のほとんどが時効により追求不可という流れで片づけられています。また、世論調査でも、戦時犯罪の追及は終わらせるべきという回答が過半数でした。こうした流れに変化が現れるのはそれから40年以上が経過した2011年のことですが、その頃には戦時下で名簿作成や移送計画立案なそ重要な役割を果たした官僚の世代は生きていれば100歳前後ということで実効性はほぼありませんでした。
1966年(84歳)
1967年(85歳)
◆11月、イギリス政府、ポンドを対ドルで約14%切り下げ。ちなみに1969年8月にはフランス・フラン約11%切下げ、1969年9月にはドイツ・マルク約9.3%切上げ、1971年12月には日本円が約16.9%切上げという明暗くっきりな国際経済情勢となっています。
1968年(86歳)
◆西ドイツのGNP、世界第3位に(第2位は日本)。
●3月8日、エリー・ナイ、ダルムシュタットでリサイタル。体調不良で医師からはキャンセルするよう勧告されるものの出演。
●3月30日、エリー・ナイ、トゥッツィングの自宅で死去。85歳。
●エリー・ナイ、ホーフストラーテンと同じトゥッツィングの墓に一緒に埋葬。
【収録情報】
CD1
ベートーヴェン
ピアノ協奏曲第2番 変ロ長調, op.19*
1.T Allegro con brio
2.U Adagio
3.V Rondo(Molto Allego)
ピアノ・ソナタ第14番 嬰ハ短調,op.27 no.2「月光」
4.T Adagio sostenuto
5.U Allegretto & Trio -V Presto agitato
ピアノ・ソナタ第4番 変ホ長調,op.7
6.T Allegro molto e con brio
7.U Largo con gran espressione
8.V Allegro
9.W Rondo:Poco allegretto e grazioso
録音:1937年11月23日(1-3),1956年(4-5),1938年(6-9)
ベルリン州立管弦楽団(*)
フリッツ・ツァウン(指揮)(*)
CD2
ベートーヴェン
ピアノ協奏曲第3番 ハ短調,op.37
1.T Allegro con brio
2.U Largo
3.V Rondo:Allegro
ピアノ協奏曲第4番 ト長調,op.58
4.T Allegro moderato
5.U Andante con moto
6.V Rondo:Vivace
録音:1961年
ニュルンベルク交響楽団
ヴィレム・ファン・ホーフストラーテン(指揮)
CD3
フリーデマン・バッハ(1710-1784)
1.Kein Hälmlein wächst auf Erden
ベートーヴェン/ダルベール
2.エコセーズ WoO83
ピアノ協奏曲第5番 変ホ長調,op.73「皇帝」*
3.T Allegro
4.U Adagio un poco mosso
5.V Rondo
ピアノ・ソナタ第32番 ハ短調,op.111
6T Maestoso-Allegro con brio ed appassionato
7.U Arietta:Adatio molto,semplice e cantabile
録音:1963年(1),1922月11月(2),1944年(3-5),1936年(6-7)
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(*)
カール・ベーム(指揮)(*)
CD4
ベートーヴェン
ピアノ協奏曲第5番 変ホ長調,op.73「皇帝」*
1.T Allegro
2.U Adagio un poco mosso
3.V Rondo
ピアノ・ソナタ第21番 ハ長調,op.53「ワルトシュタイン」
4.T Allegro con brio
5.U Introduzione:Molto adagio
6.V Rondo:Allegretto moderato-Prestissimo
録音:1960年
ニュルンベルク交響楽団(*)
ヴィレム・ファン・ホーフストラーテン(指揮者)(*)
CD5
ベートーヴェン
ピアノ・ソナタ第8番 ハ短調,op.13「悲愴」
1.U Adagio cantabile
ピアノ・ソナタ第23番 ヘ短調,op.57「熱情」
2.T Allegro assai
3.U Andante con moto
.V Allegro ma non troppo
ピアノ協奏曲第5番 変ホ長調op.73「皇帝」*
4.T Allegro
5.U Adagio un poco mosso
6.V Rondo
録音:1936年10月(1),1952年10月28日(2-3),1944年10月13日(4-6)
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(*)
ヘルマン・アーベントロート(指揮) (*)
CD6
ベートーヴェン
ピアノ・ソナタ第21番 ハ長調,op.53「ワルトシュタイン」
1.T Allegro con brio
2.U Introduzione:Molto adagio
3.V Rondo:Allegretto moderato-Prestissimo
ピアノ・ソナタ第27番 ホ短調,op.90
4.T Mit Lebhaftigkeit und durchaus mit Empfindung und Ausdruck
5.U Nicht zu geschwind und sehr singbar vorzutragen
ピアノ・ソナタ第32番 ハ短調,op.111
6.T Maestoso-Allegro con brio ed appassionato
7.U Arietta:Adatio molto,semplice e cantabile
録音:1951年(1-3),1952年2月(4-7)
CD7
ベートーヴェン
ピアノ・ソナタ第23番 ヘ短調,op.57「熱情」
1.T Allegro assai
2.U Andante con moto
3.V Allegro ma non troppo
ピアノ・ソナタ第30番 ホ長調,op.109
4.T Vivace,ma non troppo-Adagio espressivo
5.U Prestissimo
6.V Andante,molto cantabile ed espressivo
ピアノ三重奏曲第5番 ニ長調,op.70-1「幽霊」*
7.T Allegro vivace con brio
8.U Allegro assai et espressivo
9.V Presto
録音:1956年(1-3),1962年(4-6),1938年(7-9)
エリー・ナイ(ピアノ)
マックス・シュトループ(ヴァイオリン)(*)
ルートヴィヒ・ヘルシャー(チェロ)(*)
CD8
ベートーヴェン
1.アンダンテ・ファヴォリ ヘ長調 WoO 57
2.パイジェルロの歌劇「水車屋の娘」の主題による6つの変奏曲WoO.70
3.モーツァルトの歌劇「魔笛」の「娘か女か」の主題による12の変奏曲op.66*
4.モーツァルトの歌劇「魔笛」の「恋を知る男たちは」の主題による7つの変奏曲WoO.46*
5.変奏曲 ヘ長調,op.34
6.32の変奏曲 ハ短調,WoO 80
7.ロンド・ア・カプリッチョ ト長調op.129(なくした小銭への怒り)
8.6つのエコセーズ
Rec:1937年(1),1936年(2),1955-56年(3-4),1960年(5-8)
ルートヴィヒ・ヘルシャー(チェロ)(*)
エリー・ナイ(ピアノ)
CD9
ベートーヴェン
チェロ・ソナタ第1番 ヘ長調,op.5-1
1.T Adagio sostenuto
2.U Allegro vivace
チェロ・ソナタ第2盤 ト短調,op.5-2
3.T Adagio sostenuto et espressivo
4.U Adagio molto più tosto presto
5.V Rondo:Allegro
チェロ・ソナタ第4番 ハ長調,op.102-1
6.T Andante-Allegro vivace
7.U Adagio-Andante-Allegro vivace
録音:1955-56年
ルートヴィヒ・ヘルシャー(チェロ)
エリー・ナイ(ピアノ)
CD10
ベートーヴェン
チェロ・ソナタ第3番 イ長調,op.69
1.T Allegro,ma non tanto
2.U Scherzo:Allegro molto
3.V Adagio cantabile-Allegro vivace
チェロ・ソナタ第5番 ニ長調,op.102-2
4.T Allegro con brio
5.U Adagio con molto sentiment d'affetto
6.V Allegro
録音:1955-56年
ルートヴィヒ・ヘルシャー(チェロ)
エリー・ナイ(ピアノ)
CD11
ブラームス
1.間奏曲 変ホ長調,op.117-1
2.ロマンス ヘ長調 op.118-5
3.狂詩曲 変ホ長調 op.119-4
4.間奏曲 変イ長調,op.79-3
5.ワルツ 変イ長調,op.39-5
6.ハンガリー舞曲第2番 ニ短調 WoO1
7.眠りの精
8.グーテン・アーベント,グーテ・ナハト
ピアノ協奏曲第2番 変ロ長調,op.83*
9.T Allegro non troppo
10.U Allegro appassionato
11.V Andante
12.W Allegro grazioso
録音:1934年2月26日(1&3),1937年9月20日(2,4&,5),1922年1月(6),1963年(7-8),1939年(9-12)
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(*)
マックス・フィードラー(指揮)(*)
CD12
モーツァルト
ピアノ協奏曲第15番 変ロ長調,K.450*
1.T Allegro
2.U Andante
3.V Allegro
ブラームス
ピアノ協奏曲第2番 変ロ長調,op.83**
4.T Allegro non troppo
5.U Allegro appassionato
6.V Andante
7.W Allegro grazioso
録音:1935年(1-3),1955年3月3日(4-7)
室内管弦楽団(*)
ヴィレム・ファン・ホーフストラーテン(指揮)(*)
ライプツィッヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団(**)
フランツ・コンヴィチュニー(指揮)(**)
CD13
モーツァルト
ピアノ・ソナタ第10番 ハ長調,K.330
1.T Allegro moderato
2.U Andante cantabile
3.V Allegretto
4.アニュス・デイ
5.アンダンティーノ
ハイドン
6.Rondo All'ongaresco
ブラームス
ピアノ・ソナタ第3番 ヘ短調,op.5
7.T Allegro maestoso
8.U Andante:Andante espressivo
9.V Scherzo:Allegro energico
10.W Intermezzo(Rückblick):Andante molto
11.X Finale:Allegro moderato ma rubato
録音:1962年(1-3),1963年(4-5),1935年(6),1961年(7-11)
CD14
モーツァルト
1.ロンド イ短調 K.511
2.ロンド イ短調 K.511
リスト
3.ハンガリー狂詩曲 第8番
シューベルト
4.Hark,Hark! The Lark
5.ワルツ・カプリース 第7番 イ長調
ショパン
6.練習曲 ホ長調 op.10-3
7.夜想曲 嬰へ長調 po.15-2
8.夜想曲 ハ短調 op.48-1
9.夜想曲 ト長調op.32-7
10.夜想曲 嬰へ長調 op.15-2
11.幻想曲 ヘ短調 op.49
12.バラード 変イ長調 op.47
録音:1938年(1),1961年(2&8-12),1923年(3&6),1922年(4-5&7)
CD15
シューベルト
1.即興曲 ヘ短調 D935 No.4
2.楽興の時 ヘ短調 D780 No.3
3.楽興の時 嬰ハ短調 D780 No.4
ピアノ五重奏曲 イ長調,D667「ます」*
4.T Allegro vivace
5.U Andante
6.V Scherzo:Presto
7.W Thema mit Variationen:Andantino
8.X Finale:Allegro giusto
幻想曲 ハ長調 D760「さすらい人」
9.TAllegro con fuoco ma non troppo
10.U Adagio
11.VPresto
12.WAllegro
録音:1934年(1),1922年11月(2),1934年2月(3),1937年(4-8),1941年(9-12)
エリー・ナイ(ピアノ)
シュトループ弦楽四重奏団のメンバー(*)
マックス・シュトループ(ヴァイオリン)
ヴァルター・トランプラー(ヴィオラ)
ルートヴィヒ・ヘルシャー(チェロ)
ヘルマン・シューベルト(コントラバス)
CD16
ブラームス
ピアノ三重奏曲 op.8*
1.T Allegro con brio
2.U Scherzo
3.V Adagio
4.W Allegro
シューベルト
5.子守歌
6.春の想い
7.お空にはお星さまがいくつあるのかな?
8.黄金色の夕陽
シューマン
5つの変奏曲Op.posth.
9.Variation T
10.Variation U
11.Variation V
12.Variation W
13.Variation X
録音:1939年(1-4),1963年(5-8),1962年(9-13)
エリー・ナイ(ピアノ)
ヴィルヘルム・シュトロス(ヴァイオリン)(*)
ルートヴィヒ・ヘルシャー(チェロ)(*)
CD17
シューマン
四重奏曲 変ホ長調,op.47*
1.T Allegro ma non troppo
2.U Scherzo
3.V Andante cantabile
4.W Finale:Vivace
交響的練習曲,op.13
5.Thema
6.Variation T
7.Variation U
8.Variation V
9.Variation W
10.Variation X
11.Variation Y
12.Variation Z
13.Variation [
14.Variation \
15.Variation ]
16.Variation Ⅺ
17. Finale
録音:1935年(1-4),1962年(5-17)
エリー・ナイ(ピアノ)
フローリツェル・フォン・ロイター(ヴァイオリン)(*)
ヴァルター・トランプラー(ヴィオラ)(*)
ルートヴィヒ・ヘルシャー(チェロ)(*)
CD18
シューマン
1.子守歌
2. Kind erwacht
3.トロイメライ
4.子守歌(op.68から)
5.ノヴェレッテop.21-1 ヘ長調
6.幻想小曲集op.12-3「なぜ?」
子供の情景,op.15
7.TVon fremden Ländern und Menschen
8.UKuriose Geschichte
9.VHasche-Mann
10.WBittendes Kind
11.XGlückes genug
12.YWichtige Begebenheit
13.ZTräumerei
14.[ Am Kamin
15.\ Ritter vom Steckenpferd
16.] Fast zu ernst
17.Ⅺ Fürchtenmachen
18.Ⅻ Kind im Einschlummern
19.XVDer Dichter spricht
メンデルスゾーン
20.無言歌集「紡ぎ歌」op.67-4
21.アンダンテ・ソステヌート
リヒャルト・シュトラウス
22.ブルレスケ ニ短調*
テレサ・カレーニョ(1853-1917)
23.小さなワルツ
ドビュッシー
24.花火(前奏曲第2集-第12曲)
グルック
25.ガヴォット
録音:1963年(1-3&21),1962年(4-6),1937年3月12日(7-19),1922年(20),1932年(22),1924年10月22日(23-24),1961年(25)
シュターツカペレ・ベルリン(*)
ヴィレム・ファン・ホーフストラーテン(指揮)(*)
*収録曲ならびに収録曲順が変更になる場合がありますが予めご了承ください。
【商品説明:年表シリーズ】
指揮
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アルヘンタ
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オッテルロー
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ガウク
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カラヤン
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クイケン
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クーセヴィツキー
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クチャル
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クラウス
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クレツキ
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クレンペラー
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ゴロワノフ
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サヴァリッシュ
●
シューリヒト
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ターリヒ
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チェリビダッケ
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ドラティ
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バーンスタイン
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パレー
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フェネル
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フルトヴェングラー
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メルツェンドルファー
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モントゥー
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ライトナー
●
ラインスドルフ
●
ロスバウト
鍵盤楽器
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カークパトリック
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カサドシュ
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グリンベルク
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シュナーベル
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タマルキナ
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デムス
●
ニコラーエワ
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ハスキル
●
ユージナ
●
ランドフスカ
弦楽器
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カサド
●
シュナイダー四重奏団
●
パスカル弦楽四重奏団
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ハリウッド弦楽四重奏団
●
ブダペスト弦楽四重奏団
●
ヤニグロ
●
リッチ
作曲家
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アンダーソン
●
ヘンツェ