CD

パガニーニ:ヴァイオリン協奏曲第1番、ブラームス:ヴァイオリン協奏曲 ジノ・フランチェスカッティ、サージェント、パレー(1951、1957)(日本語解説付)

ブラームス(1833-1897)

基本情報

ジャンル
:
カタログNo
:
KKC6080
組み枚数
:
1
レーベル
:
:
日本
フォーマット
:
CD

商品説明


パガニーニの直系フランチェスカッティによるライヴ!
ブラームス:ヴァイオリン協奏曲、パガニーニ:同第1番
フランチェスカッティ、サージェント&パレー指揮


英テスタメント・レーベルのCDは、解説書に力が入っていることでも定評があり、ヒストリカル・クラシック音楽の持つ歴史の面白さを際立たせることにもなっているので、日本語訳が付された国内盤の価値には大きなものがあります。

シリーズ概要
★歴史的録音の復刻で有名なイギリスの名門レーベル、テスタメント。1990年にスチュアート・ブラウン氏により設立され、正規音源にもとづく、高品質の音質でファンから絶大な支持を集めてきました。ここ数年日本への窓口が途絶えていましたが、このほど国内販売権をキングインターナショナルが獲得。400に近いタイトルのなかから、歴史的名盤はもとより最近話題の新盤までえりすぐって、全20タイトル、国内仕様にして発売します。
★日本語解説=オリジナル・ライナーノーツの和訳+ 曲目解説+ 歌詞対訳(声楽曲のみ)

このアルバムについて
★これは衝撃の未発表ライヴの登場。輝きのある美しい音色と思い切りのよいヴィブラートが魅力の「パガニーニの継承者」フランチェスカッティ[1902-1991]による、パガニーニとブラームスの協奏曲が国内盤でリリースされます。
★フランチェスカッティの十八番パガニーニ。フランチェスカッティはマルセイユ生まれ。父フォルトナートはパガニーニ唯一の弟子といわれたカミッロ・シヴォリ[1815-1894]に学んでおり、また本人もパリでのコンサートデビュー曲にこの曲(1番の協奏曲)を選ぶなど、自他ともに認める「パガニーニの継承者」でした。誉れ高き名盤として知られるオーマンディ指揮フィラデルフィア管の翌年にあたる1951年の当録音は、サージェント指揮BBC交響楽団との「プロムス」の実況録音。冒頭のソロから吸引力の強い美音に引き込まれてしまいます。ヴィロードのようになめらかでつやのある音色で、また多彩な技巧で抒情性が燃え上がる名演で、第1楽章演奏後に盛り上がった聴衆からの4分にもおよぶ熱い拍手も収録しております(カデンツァはセヴシック)。音はアセテート盤復刻のようで、ジリノイズが含まれていますが、明瞭です。
 ブラームスもフランチェスカッティが最も得意とした協奏曲。当録音は1957年、パレー指揮ニューヨーク・フィルとのカーネギー・ホールでのライヴ録音。圧倒的なテクニックと情熱的な歌いまわしで唯一無二の存在感をしめしております(カデンツァはヨアヒム)。音はテープからの復刻のようで、小レベルのヒスノイズが含まれておりますが、鑑賞の妨げになることはありません。

【収録情報】
●パガニーニ:ヴァイオリン協奏曲第1番ニ長調 Op.6(カデンツァ:セヴシック)
ジノ・フランチェスカッティ(ヴァイオリン)
サー・マルコム・サージェント指揮、BBC交響楽団
録音時期:1951年9月8日
録音場所:ロンドン、ロイヤル・アルバート・ホール
録音方式:モノラル(ライヴ)

●ブラームス:ヴァイオリン協奏曲ニ長調 Op.77(カデンツァ:ヨアヒム)
ジノ・フランチェスカッティ(ヴァイオリン)
ポール・パレー指揮、ニューヨーク・フィル
録音時期:1957年4月6日
録音場所:ニューヨーク、カーネギー・ホール
録音方式:モノラル(ライヴ)

輸入盤・日本語帯・解説付

【年表】

1900年
●11月10日、フランチェスカッティの両親が結婚。南仏マルセイユの聖フィリップ教会で挙式。父フォルトゥナート[1858-1923]、母エルネスタ・フェロー[1884-1982]ともにヴァイオリニスト。父はヴェローナ生まれのイタリア人で42歳、パガニーニ[1782-1840]のただ一人の弟子だったエルネスト・カミロ・シヴォリ[1815-1894]の門弟。


 フォルトゥナートより26歳若い母エルネスタは、フォルトゥナートにヴァイオリンを師事していた16歳のフランス人。エルネスタの父親は1854年生まれ、母親は1860年生まれなのでまさに親子ほどの年齢差の国際結婚ということで、フェロー一族の反対を押し切っての挙式でした。この婚姻によりエルネスタの国籍もイタリアになりますが、フランス滞在資格は永続的なもので、また、子供たちの国籍はフランスとなっています。

1902年(0歳)
●8月9日、ジノ・フランチェスカッティ、マルセイユに誕生。出生名はルネ・シャルル・フランチェスカッティ。


◆フランス総選挙で左派が圧勝。急進共和主義者のエミール・コンブが首相に就任し、内務大臣と宗教大臣も兼務。反教権路線を徹底し、バチカンと対立。
◆フランス政府、無認可修道会約300を解散に追い込み、無認可修道会系の学校約3,000を閉鎖。翌1903年にかけて約2万人の修道士・修道女を追放。抵抗した場合は軍隊も出動させていました。

1903年(1歳)

1904年(2歳)
◆7月、フランス政府、修道会教育基本法を可決。修道士・修道女を教団から排除。約2,400の教育施設が閉鎖。
◆11月、フランス政府、政教分離法を上程。
◆フランス政府、バチカンとの国交を断絶。

1905年(3歳)
●フランチェスカッティ、両親からヴァイオリンを学ぶようになります。ヴァイオリンをベッドに持ち込むほど気に入っていたのだとか。
◆12月9日、フランス政府により政教分離法公布。フランス政府と地方公共団体の宗教予算は全て廃止され、聖職者の政治活動も禁止、宗教的儀式での公的性格も否定され、以後、信仰は私的なものに限定されることとなります。教会財産の管理と組織運営は信徒会の管轄となり、売却なども自由化。


◆マルセイユにトランスポーター・ブリッジ完成。両岸の塔の高さ86.6メートルという長さ239メートルのゴンドラ式ブリッジ。海面から52メートルのところを重量20トンのゴンドラが1分30秒で対岸まで運行。



1906年(4歳)
●1月29日、弟レイモン・ルシアン・ピエール・アレクサンドル・フランチェスカッティ[1906-1943]誕生。1943年にアメリカによる大規模なフランス爆撃で殺されます。
◆4月、マルセイユで「植民地博覧会」開催。30ヘクタールの敷地にフランスの保護領となっていた地域の文化や自然などを紹介する施設を数多く建設、マルセイユの産業の紹介も兼ねて植民地交易の成果をアピール。10月末までの会期中に約180万人が訪れています。もしかするとフランチェスカッティの父も、膨大な展示物から影響を受けているかもしれません。


●父フォルトゥナート、政教分離法により、市場に大量に流出した宗教画や、大きな宗教像、頭蓋骨や医学標本の蒐集に熱中し、さらに1万点を超える貝類標本をコレクション。やがて、興味は動物の方に移り、ゾウガメ、ピューマ、ロバ、クマの剥製に、カバの頭蓋骨標本、そして生きた雌猿など、さまざまな父の蒐集物がフランチェスカッティの幼時期を彩ることになります。

1907年(5歳)
●フランチェスカッティ、初のリサイタル。

1908年(6歳)
◆4月、マルセイユで「植民地博覧会」開催。新しいエネルギーである電気を利用した建物や噴水のイルミネーション、農業への応用、家庭の電気製品への応用、工場への導入、伝送方法の紹介などさまざまな展示がおこなわれました。

1909年(7歳)

1910年(8歳)

1911年(9歳)

1912年(10歳)
●フランチェスカッティ、マルセイユの演奏会でベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲と、パガニーニ「ゴッド・セイヴ・ザ・キング変奏曲」を演奏。



1913年(11歳)

1914年(12歳)
◆5月、ドイツがフランスとベルギーに対して宣戦布告。
◆8月、フランスがオーストリア=ハンガリーに対して宣戦布告。
◆11月、フランス、イギリス、ロシアがオスマン帝国に対して宣戦布告。



1915年(13歳)
◆5月、イギリスの豪華客船ルシタニア号がドイツ軍のUボートにより撃沈。乗員・乗客1,959名のうち、61%にあたる1,198名が死去。また、アメリカ人乗客に関しては139名中128名、死亡率92%という状況でした。これは海難事故の場合、船内の下層からの脱出が困難なことが原因と考えられます。
 船内スペースの使用が限定され、上層とは生活・居住スペースが隔離されていた格安チケットの三等旅客ブロック(1,186名収容可能)の乗客は、魚雷攻撃など爆発による急速な沈没(このケースでは18分)では助かる見込みが極端に少なくなるのに対し、乗組員の多くと、上層の1等旅客&2等旅客ブロック(計1,012名収容可能)は生存確率が高くなる傾向があり、実際に船長も助かっています。仮に犠牲者のほとんどが三等旅客だったとすると死亡率は89%となり、アメリカ人乗客の死亡率と近いものとなります。
 なお、この魚雷攻撃は、イギリス海軍による「海上封鎖」に対抗するためドイツ海軍が策定した「無制限潜水艦作戦」の一環としておこなわれたもので、在米ドイツ大使館によってアメリカの新聞で予告されていたほか、事件の後にはミュンヘンで攻撃成功を祝う記念メダルが発行され、さらにイギリスでは、そのコピー品が25万枚以上も販売されていました。
 こうした流れもあって、アメリカの対ドイツ世論は「親ドイツ」から「嫌ドイツ」「親フランス」へと大幅に変化しますが、対ドイツ投融資の処理や、貿易、軍備の問題もあり、ウィルソン大統領はドイツ政府に抗議するにとどめ、宣戦布告までには約2年を要することになります。
◆5月、イタリアがオーストリア=ハンガリーに対して宣戦布告、。
◆10月、フランス、イギリス、イタリア、ロシアがブルガリアに対して宣戦布告。


1916年(14歳)
◆1月、ドイツ軍のツェッペリン飛行船がパリを爆撃。

1917年(15歳)
◆4月、アメリカがドイツに対して宣戦布告。アメリカ各地の港に停泊していたドイツ船はすべて政府によって略奪。巨大客船8隻を含む35隻が盗まれ、アメリカ軍で使用することとなり、膨大な数の兵士や物資をヨーロッパに輸送するのに役立てられたほか、戦後はアメリカやイギリスの船会社に売却されて利益を上げていました。
 140万人以上の兵士をヨーロッパ(とロシア)で展開させるため、パーシング将軍[1860-1948]と、部下のマッカーサー[1880-1964]やパットン[1885-1945]が率いるアメリカ外征軍では、工兵部隊がフランス各地に82の停泊地を建設、線路を約1,600キロに渡って敷設、さらに電信電話線を約16万キロ分も新設するという大規模な工事をおこなっており、準備を十分に整えて多くの兵士を前線に送り出していました。ちなみに名将として知られたパーシングは、1944年に登場するアメリカの重戦車にその名前が冠せられてもいました。


◆12月、アメリカがオーストリア=ハンガリー帝国に対して宣戦布告。
◆12月、ロシア、ドイツと休戦協定を締結。
●ヨーロッパの軍楽隊の演奏水準の高さに驚いたアメリカのパーシング将軍が、軍に同行していた指揮者のウォルター・ダムロッシュ[1862-1950]に対し、アメリカの軍楽隊リーダーがフランス人から教えを受けられるような仕組みづくりを要請。

1918年(16歳)
●3月3日、フランチェスカッティ、マルセイユでオルガニストのマルセル・デュプレ[1886-1971]と合同コンサートを開催。
◆3月、ドイツ軍の列車砲「パリ砲」でパリへの砲撃を開始(8月まで)。パリから114キロ離れた地点から発射し、成層圏まで達する長距離砲撃で被害は限定的でしたが、フランチェスカッティののちの妻ヨランドの実家のすぐ近くの建物に着弾してパニックを引き起こしてもいました。


●フランチェスカッティ、マルセイユ音楽院に入学。ヴァイオリンに関しては学ぶ必要がなかったので、和声、対位法、作曲、ピアノを勉強。のちに作曲家となるアンリ・トマジ[1901-1971]と共に和声で優秀賞を獲得。
◆12月1日、フランス軍、アメリカ軍、イギリス軍などによる「ラインラント占領」開始。1930年6月30日まで、11年7カ月に渡って継続。フランス軍の駐留規模は多い時で約25万人という膨大なものでした。アメリカ軍も当初は約25万人規模でしたが、すぐに約2万人規模にまで縮小しています。



1919年(17歳)
◆6月、ドイツ、ヴェルサイユ条約批准。
●フランチェスカッティ、ニースやモンテカルロで演奏。

1920年(18歳)
◆2月、フランス、ドイツ領だったメーメル(現リトアニアのクライペダ)を占領(現在のドイツ国歌の歌詞でも、メーメルまではドイツのようなことが謳われたままなので、いずれは何とかするつもりなのかもしれません)。
◆3月、ルール蜂起。ドイツの工業地帯ルール地方で、左派の労働者兵士5万人ほどで組織された「ルール赤軍」が蜂起し、「ヴァイマル共和国軍」と戦闘状態になり、1か月ほどで鎮圧されます。ルール地方は3年後、フランス・ベルギー軍に占領されます。
●3月14日、フランチェスカッティ、マルセイユの演奏会で成功を収めます。曲目はベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲と、ドヴォルザークの「ユモレスク」、パガニーニ「ゴッド・セイヴ・ザ・キング変奏曲」。指揮はエドゥアール・フラマン[180-1958]。以後、11月までの数回の演奏会で評価が高まって行き、フランスでも大人気だったチェコ人ヴァイオリニストになぞらえられて「マルセイユのクベリーク」とも呼ばれるようになります。
●フランチェスカッティ、パリ12区のリヨン駅近くに転居。故郷南仏への移動に便利な駅という選択で、実際に約660キロ離れたマルセイユにしばしば帰っていました。この頃、フランチェスカッティは、画家のアンドレ・ジラール[1901-1968]と知り合って親しく交流(ジラールの娘エヴィは、1953年にロベール・カサドシュの息子ジャン[1927-1972]と結婚)。
●冬、フランチェスカッティ、父の友人の指揮者、ルネ・バトン[1879-1940]とパドルー管弦楽団の演奏会に出演。パリ・デビューを果たします。
●冬、フランチェスカッティ、パリで腸チフスに罹患。マルセイユに帰還し治療に専念しますが、肺に合併症もあらわれ、回復までに2年を要することになります。

1921年(19歳)
●フランチェスカッティ、腸チフスと合併症の治療。

1922年(20歳)
◆2月、ワシントン海軍軍縮条約により、戦勝各国海軍の主力艦保有率を策定。アメリカ5、イギリス5、日本3、フランス1.75、イタリア1.75という数字はフランスには不満の残る数字でした。
◆4月、マルセイユで「植民地博覧会」、2度目の開催。35ヘクタールの敷地にフランスの保護領となっていた地域の巨大な宮殿などを、前回を上回る規模で建設、10月末までの会期中に約300万人が訪れています。もともとは前回の成功を受けて、1913年に企画されていましたが、第1次大戦の影響で延期となっていたものです。


◆10月29日、イタリアでムッソリーニ政権が成立、ファシスト体制に移行。ムッソリーニは1930年代初頭までは反ドイツ的な姿勢でした。
◆12月26日、ロンドンで、ドイツの戦時賠償支払い義務不履行が、債権各国によって認定。
●フランチェスカッティ、腸チフスと合併症の治療。

1923年(21歳)
◆1月11日、フランス・ベルギー軍が、ドイツの賠償金不払い、および石炭出荷拒否を理由に、ドイツのルール地方を占領。イタリアも技術者を派遣。
●1月21日、フランチェスカッティ、療養を終え、マルセイユのコンサートで協奏曲を演奏。
◆ドイツでハイパーインフレ策実施。通貨供給量を戦前の2,000倍とすることで、戦費調達などで生じた膨大な国内債務を劇的に削減。国民生活は犠牲になるものの、レンテンマルク導入によりなんとか事態を収拾。
●5月21日、フランチェスカッティの父フォルトゥナート、食道がんのため死去。
●フランチェスカッティ、マルセイユ音楽院時代の仲間で、共に和声で優秀賞を得ていた作曲家のアンリ・トマジと共にパリ18区に転居。高名なエージェントのジョゼフ・シュルマン[1857-1924]との契約を結ぶべく奮闘します。シュルマンはサラ・ベルナールやカルーソーとも契約していた人物で、フランチェスカッティにも条件の良い仕事をもたらします。


●フランチェスカッティ、パリで仏COLUMBIA(のちのPATHE MARCONI)にレコーディング。
●7月、フランチェスカッティ、エージェントの用意したリサイタルで演奏。
●夏、フランチェスカッティ、ビスケー湾に面した南仏ビアリッツで、ジャック・ティボーと交流。

1924年(22歳)
◆1月25日、フランス・チェコスロヴァキア相互防衛援助条約締結。
◆2月、ポアンカレ首相が財務権限も取得し、JPモルガンから借り入れ。
●エージェントのジョゼフ・シュルマン死去。後任のケレルのもとでフランチェスカッティは苦労を強いられることになります。ケレルは歌手である自分の妻の売り込みに熱心な人物で、シュルマンがとってきたフランチェスカッティの仕事も霧消させてしまい、挙句に妻を引き立てる伴奏役として出演するようフランチェスカッティに要求。結局、1924年のフランチェスカッティの公演回数は年間5回しかなく、母エルネスタの支援に頼らざるを得ない状況でした。
◆4月、連合国賠償委員会の要請で「ドーズ委員会」開催。8月に「ドーズ・プラン」が合意され、9月に発効。ドイツのハイパーインフレの原因とされたフランス・ベルギー軍によるルール地方占領を終結させると共に、占領の原因となったドイツの賠償問題をいったん白紙とし、ドイツをまず金本位制に復帰させることを目的としたアメリカ副大統領チャールズ・ドーズ主導の経済プラン。政治的問題を利用した経済プランでもあり、フランスのポアンカレ首相は猛反対するものの、イギリスがアメリカ側に付き、フランスもアメリカに大きな負債のある立場上、押し切られる形になります。
 「ドーズ・プラン」では、賠償の基礎となるドイツ通貨の安定を目指してまずドイツを金本位制に復帰させ、ゴルトマルク(金兌換マルク)相場が変動した際には送金を猶予するなど外国為替市場にも配慮、金本位制復帰のための準備金を「ドーズ公債」として証券化し、JPモルガンを中心に販売(イングランド銀行も2割ほど販売)、その資金でドイツが工業生産を再開し、賠償準備ができるように決定。結果としてアメリカ資本のドイツへの莫大な投資が促進され、ヴァイマル共和政下での復興の主軸ともなって、同時にアメリカの投資家に大きな利益をもたらしてもいました。
 もともとアメリカは第1次大戦途中までは、ドイツ側、英仏側の両陣営と取引しており、参戦が遅れたのもドイツへの投資の回収に時間がかかったからで(交戦状態になると財産が没収されてしまうため)、さらに参戦するとアメリカ国内に停泊中の巨大豪華客船などドイツ船を略奪して軍事利用し戦後は売却するという手法で巨額の利益をあげており、その仕上げともいえるのがこの「ドーズ・プラン」でした。
 これにより、英仏がアメリカへの返済で充てにしていたドイツの賠償額がいったん棚上げと決定。さらに「ドーズ委員会」メンバーだったオーウェン・ヤングが主導し、1929年9月に適用された「ヤング・プラン」によってドイツの賠償が59年間の分割払いと決定。
 これは英仏経済に大きな打撃を与えます。両国では戦後の復興事業で発生していたアメリカ業者への支払いに賠償金を充てる計画でしたが、それが自己資金に変更になったということが不安視され、輸出していたアメリカ業者の株価にも影響、翌月の株価大暴落(世界大恐慌)の引き金にもなっています。
 一方で、潤沢なアメリカ投資家の資金によってドイツの工業化が進んだことで、再軍備を支援したという側面もありました。ちなみに1925年から1928年の間に、ドイツの債務は19.7%から43.7%に増加しており、これが世界大恐慌で破綻したことがナチ政権を生み出す要因にもなっていました。


◆5月、パリ・オリンピック開催。ドイツ、ソ連、東欧諸国は不参加。


◆5月、フランス政府、20%増税(最大72%)。
◆5月、フランス総選挙で左派が躍進。
◆6月、フラン切り下げ。フランス政府が戦後復興のため紙幣を大量に増刷してインフレが継続していたことが原因(インフレ率約14%)。これにより資産家の財産や海外からの投資は大きな損失を被りますが、GDPは10.3%増加。
●夏、フランチェスカッティ、パガニーニのヴァイオリン協奏曲第1番をピアノ伴奏で演奏。ティボーを感激させ、自宅に招かれて滞在。



◆イタリア政府、フランス国債の購入を禁止。

1925年(23歳)
●2月、フランチェスカッティのエージェント、ケレルが、オランダの興行元と3年間の契約を獲得。
◆4月、フランスの左派活動家(共産主義者)たちが、右派の選挙集会を銃や刃物で襲撃。4人を殺害し約50人を負傷させています。
●フランチェスカッティ、この年はエージェントの妻の歌の伴奏もしながら公演に臨みますが、年間回数はフランス2回、海外2回という悲惨なものでした。

1926年(24歳)
◆フランス政府、フラン下落に歯止めをかける名目で関税引き上げを開始し、1926年中に全品目について関税を30%引き上げ。ちなみにフランの購買力は、たび重なる切り下げで1922年から1926年にかけて57%下落していました。1915年から1920年までの戦中戦後の下落率が30%だったことを考えるとすごいペースです。
●2〜3月、フランチェスカッティ、モーリス・ラヴェル[1875-1937]のイギリス・ツアーに同行。15回に及ぶ公演で成功を収めています。
●5月、フランチェスカッティ、兵役のため召集。フランスが占領していたドイツのラインラント地方コブレンツに展開中の第23歩兵連隊に配属。軍楽隊にも入りますが、胸部に炎症を起こし、年末には除隊しています。



1927年(25歳)
●フランチェスカッティ、ワルター・ストララム管弦楽団とヴァイオリニストとして契約。
●フランチェスカッティ、パリ音楽院のコンサートに出演。
●フランチェスカッティ、エコール・ノルマル音楽院の教師として契約。
●フランチェスカッティ、イギリス・ツアー。同行ピアニストはユーラ・ギュラー。

1928年(26歳)
●フランチェスカッティ、ローマ賞第2位を獲得した友人のトマジが創設したアンサンブル「オルケストル・ドゥ・ジューナル」のヴァイオリン奏者として契約。
●フランチェスカッティ、「ガストン・プーレ・コンソート」のヴァイオリン奏者として契約。ここで、のちに妻となるヴァイオリン奏者のヨランド・ポテル・ド・ラ・ブリエールと出会います。
◆6月、レイモン・ポアンカレ首相兼財務大臣が、フランを約5分の1(!)に切り下げ。国内債務の大幅な削減と輸出条件の向上による経済再建策。
●フランチェスカッティ、エコール・ノルマル音楽院の教師として在職。

1929年(27歳)
●フランチェスカッティ、自分で契約した演奏会での報酬の取り分を見て、エージェント、ケレルの業務実態を知り、関係が悪化。ほどなく契約を解消。
●フランチェスカッティ、ホセ・イトゥルビ[1895-1980]の紹介で、有能なエージェント、レオン・ドゥロールと出会い、キャリアが開けるようになります。ドゥロールはアンドレ・ナヴァラやニノン・ヴァランとも契約していた有名なエージェント。
●フランチェスカッティ、1930年のシーズンが始まる1929年の空きからドゥロールの采配で、数多くの演奏会に出演。やがて国内だけでなくヨーロッパ・ツアーと南米ツアーも実施するなどソロ活動を大幅に強化。
●12月、フランチェスカッティ、パガニーニのヴァイオリン協奏曲第1番をゴーベールの指揮によりパリで披露。大きな話題となります。
●フランチェスカッティ、エコール・ノルマル音楽院の教師として在職。

1930年(28歳)
●1月2日、フランチェスカッティ、ヨランド・ポテル・ド・ラ・ブリエールと結婚。ヨランドも優秀なヴァイオリニストでしたが、フランチェスカッティの実力がフランス最高であることは明らかだったため、夫のサポートに徹することとなります。フランチェスカッティが亡くなるまで61年間に渡って関係は良好でした。
●2月、フランチェスカッティ、再びパガニーニのヴァイオリン協奏曲第1番で評判となります。また、一晩に4つの協奏曲を演奏するという驚くべきスタミナでも話題となります。
●フランチェスカッティ、エコール・ノルマル音楽院の教師として在職。
◆「世界大恐慌」の影響が顕在化。金本位制のアメリカとフランスでの失策や、関税施策、金利施策の失敗が原因ともいわれる「世界大恐慌」には、1930年時点でのアメリカの金準備の世界シェア約38%、フランスの約20%という、2国だけで世界の6割近いシェアのもたらした国際的な資金の極端な移動も背景にありました。といっても、その5年前の1925年時点ではアメリカの金準備シェアは約44%で、5年間で6%減少という流れなのに対し、フランスは1925年には約8%だったので、実に2.5倍に膨らんでいたことになります。これによりパリではいくつもの銀行が倒産し、投資家や資産家たち、さまざまな産業も影響を受けるようになります。
●フランチェスカッティ、スペインとアルジェリアへのツアーを実施。

1931年(29歳)
◆「世界大恐慌」の影響で経済が疲弊していたドイツとオーストリアが2国間の関税同盟を結んで、少しでも経済を活性化しようとしたことに対し、フランス政府は反発、国際連盟や国際司法裁判所に提訴、両国の関税同盟成立を阻止します。
●フランチェスカッティ、初のワールド・ツアーを実施。

●夏、フランチェスカッティ、虫垂炎手術で半年間の療養生活を開始。
●フランチェスカッティ、エコール・ノルマル音楽院の教師として在職。

1932年(30歳)

1933年(31歳)

1934年(32歳)

1935年(33歳)
◆3月、ドイツ、徴兵制復活(再軍備宣言)。

1936年(34歳)
●フランチェスカッティ、コルトーと共演。
●フランチェスカッティ、イタリア・ツアー。
●フランチェスカッティ、カラヤンと知り合い、アーヘンの演奏会でパガニーニのヴァイオリン協奏曲第1番を演奏して成功。以後、親しい関係が続きます。
◆2月、仏ソ相互援助条約を締結。ヒトラーはロカルノ条約違反と批判し、自衛のためという理由で、翌月、国境沿いの非武装地帯に軍を進めます。
◆3月、ドイツ、ラインラントへ進駐。
●8月、フランチェスカッティ、ザルツブルク音楽祭出演。ワルター指揮ウィーン・フィルとのモーツァルト第3番。
◆9月、フランス政府、フランを約28%切り下げ。金兌換停止、および金(ゴールド)の輸出も停止。
●フランチェスカッティ、ストラディヴァリウス「ハート」(1936)を購入。

1937年(35歳)
●1月、フランチェスカッティ、ルーマニア・ツアー。
●夏、フランチェスカッティ、モロッコ・ツアー。オフにはヴォルビリス遺跡を観光。

1938年(36歳)
●4月、フランチェスカッティ、エージェントのエルネスト・デ・ケサダと契約し、南米ツアーを実施。タルティーニ、パガニーニ、ブラームス、ラロという4つのヴァイオリン協奏曲を友人のホセ・イトゥルビの指揮で演奏、大成功を収めます。ケサダはミルシテインやランドフスカとの仕事の実績もありました。


●5月12日、フランチェスカッティ、ブエノスアイレスのコロン劇場で、ホセ・イトゥルビの指揮によりパガニーニのヴァイオリン協奏曲第1番ほかを演奏。終演後は拍手が20分間鳴りやまず、ホールの外でも聴衆が興奮して押し寄せ、コートを破られるなどしたことから警察が出動してフランチェスカッティの護衛にあたるなど大騒ぎに。その様子はニューヨーク・タイムズ特派員によってアメリカにも伝えられ、アメリカ公演実現のきっかけにもなっています。滞在期間中に追加公演も数多く実施されますが、それでもチケットが入手できない人がたくさんいたという異例の成功を収めたツアーでした。


●夏、フランチェスカッティ、オーヴェルニュ地方の山中にあるシャンボン湖で休暇。
●秋、フランチェスカッティ、ポーランドのワルシャワで演奏会。
●冬、フランチェスカッティ、ルーマニアのブカレストで演奏会。

1939年(37歳)
●1月、フランチェスカッティ、スイスとイタリアで頻繁に公演。
●フランチェスカッティ、映画『最終合意』のヴァイオリニスト役の演奏部分の手のアップで出演することになり、録音と手の撮影をおこないます。オーケストラはアルベール・ヴォルフ指揮パドルー管弦楽団、アレンジャーとしてオットー・クレンペラーと親交のあったパウル・デッサウが変名で参加しています。


●フランチェスカッティ、コロンビア・コンサーツ(後のコロンビア・アーティスツ)のアーサ・ジャドソンからの北米ツアーの要請を承諾。
◆9月3日、フランスがドイツに対して宣戦布告。大規模な徴兵も実施。
●フランチェスカッティ、パレスチナ管弦楽団からの客演要請をキャンセル。
●10月1日、フランチェスカッティ夫妻、フランスからアメリカへのすべての便が運行中止となったため、パリからブリュッセルに行き、ビザ取得までの2週間ほどを過ごしてオランダ入り。ロッテルダム港から出発し10月25日にニューヨークに到着。
●11月1日〜12月中旬、フランチェスカッティ、北米ツアー実施。ピッツバーグで開始されたツアーはリサイタル中心の20公演で、協奏曲はパガニーニ、ブラームス、ラロのみでした。
●11月18〜19日、フランチェスカッティ、バルビローリ指揮ニューヨーク・フィルとパガニーニのヴァイオリン協奏曲第1番。
●12月17日、フランチェスカッティ、安全なジェノヴァ行きの定期船「マンハッタン」に乗船してニューヨークを出航。船は全長約215メートルの大型客船ですが、危険なヨーロッパに向かう乗客は少なくほとんどカラの状態で、船長らと同じテーブルで洋上でクリスマスを迎えたりするうちに寄港地のジブラルタルではツアー中のカサドシュと偶然出会ったりもします。ジェノヴァからは陸路でフランスに帰還。

1940年(38歳)
●フランチェスカッティ、ヨーロッパ・ツアーを実施するものの、ドイツ軍の侵攻により、スウェーデン、ノルウェーなどの公演をキャンセル。スイス公演は無事におこなえたものの、イタリアでは、イタリア風な名前にも関わらずイタリア語を喋れないことから不審に思われて警察に連行され、公演を主催したイタリアのエージェントによって助けられています。
●フランチェスカッティ、コロンビア・コンサーツのジャドソンからの2度目のアメリカ・ツアーの要請を承諾。
●3月、フランチェスカッティ、コルトーの尽力で兵役を免除。コルトーは、フランチェスカッティが1926年に兵役義務を果たしていることを政府に対して主張し、さらにフランチェスカッティが負傷兵のための支援をおこなうことを確約して兵役免除を獲得。改革委員会による正式な決定でした。
◆5月10日、ドイツ、フランスへの侵攻を開始。前年9月にドイツに対して宣戦布告したフランスでしたが、実際にドイツ軍がフランスへの侵攻を始めたのは8か月も後のことで、油断したフランスはすぐに国防の要衝マジノ線を突破されてしまいます。慌てたフランス軍と政府は、パリ市民に対して、そのままパリに留まるよう要請したり、疎開を促したりと、混乱した情報を通告。
 ほどなく市民たちも南下を始め、フランス国立放送管弦楽団など数多くの音楽家たちも南を目指すことになります。その数はごく短期間のうちに100万人を超えるという凄まじいもので、落ち着き先のフランス中部でも南部でも大きな混乱が生じることとなります。


◆5月26日〜6月4日、ダンケルクからの撤退。ドイツ軍の攻勢に押されたイギリス軍(とフランス軍)は退却を決定。約70キロほど離れた対岸のイギリスに、331,226名(イギリス軍192,226名、フランス軍139,000名)が駆逐艦や大型船を使って退却した作戦。民間小型船も徴用され、10万人近くを浜辺から沖合の大型船まで運ぶ作業に従事。


◆6月3日、ドイツ軍、パリを爆撃。254人を殺害(ちなみにイギリス軍とアメリカ軍が第2次大戦中に爆撃で殺害したフランスの民間人は約7万人で、フランチェスカッティの弟もアメリカ軍に殺されています)。


◆6月10日、イタリアがフランスとイギリスに対して宣戦布告。
●6月10日、フランチェスカッティ、友人たちとパリから脱出。
◆6月11日、フランス政府、パリから脱出。トゥール、ボルドーを経て、7月2日には巨大なカジノと数多くの宿泊施設を持つ温泉保養地ヴィシーにまるごと避難。
◆6月13日、フランス軍、パリから撤退。ペタン元帥がラジオで休戦演説。
◆6月14日、ドイツ軍、パリに無血入城。


◆6月15日、イタリア軍、フランスへの侵攻を開始。
◆6月16日、レノー内閣総辞職、ペタン元帥が首相に就任。
◆6月17日、ペタン元帥がドイツに対して休戦の申し入れ。
◆6月17日、イタリア軍、マルセイユを爆撃。143人を殺害。
●6月、フランチェスカッティ、マルセイユに到着。遷都と新政権成立のゴタゴタの中、フランス政府のビザ発給にかなりの時間を要したものの、その後の手続きは、スペイン、ポルトガル、アメリカの3国すべてがフランスの新政府を承認していたので遅滞なく進み、スペイン領事館、ポルトガル領事館、アメリカ領事館でビザを取得し4か月後には、アメリカ・ツアーのためマルセイユを出発することになります。
◆6月22日、独仏休戦協定締結。発効は25日。
◆6月22日、フランス、「フランス共和国」から「フランス国」となり、遷都先のヴィシーで政府が成立、アメリカ、ソ連など多くの国が国家として承認。ド・ゴールの逃亡先であるイギリスは承認せず。
◆6月24日、伊仏休戦協定締結。発効はドイツと同じく25日。ドイツとイタリアに降伏したフランスでは、国民は不自由な生活を強いられるようになりますが、当初は、湾岸部やパリなどの北部が「ドイツ軍占領地域」、南東部とコルシカ島が「イタリア軍占領地域」で、ほかはペタン元帥率いるヴィシー政府の管轄する「自由地域」となっていました。
 もっとも、「自由地域」とはいっても、占領軍がいない分、フランス警察による監視への要求は厳しく、言葉が通じるだけに、ドイツとイタリアの「占領地」よりもかえって不自由だったとされるのがヴィシー政府管轄地域の都市部でもあり、ユダヤ人のクララ・ハスキルも1942年9月に警察に連行されたりしていました(すぐに釈放)。

◆7月2日、フランス政府のヴィシーへの移転が完了。
◆7月3日、イギリス海軍、チャーチルの命令により、フランス海軍戦艦1隻を撃沈、2隻を破壊。フランス兵約1,300名を殺害。
◆7月5日、フランス政府、英国との国交を断絶。
●10月13日、フランチェスカッティ、マルセイユを出発しますが、国境の町セルベールで、出国者リストに載っていないという理由により警察に連行され、マルセイユに引き返す羽目になります。
 マルセイユに戻ったフランチェスカッティは、コロンビア・コンサーツのアーサー・ジャドソンからツアーのキャンセル警告の電報が届いていたため、なんとか出国許可を得ようとパリの友人に連絡を取ったりしますが、最終的には、政府の青年部芸術課長になっていたコルトーのとりなしで、出国許可を獲得。コルトーからの重大な支援はこれが2度目でした。
 コルトーのおかげで出国許可を得たフランチェスカッティでしたが、ほかのビザが期限切れとなっていたため、ヨランド夫人が一日でスペイン領事館、ポルトガル領事館、アメリカ領事館をまわってビザを取得。3国の新政府への承認状態に変更はありませんでした。

●11月11日、フランチェスカッティ、スペインを経てポルトガルに到着。4日後にリスボン港から「アメリカン・エクスポート・ライン」の「シボニー」に乗船して出港。「シボニー」は1917年に就航した全長135メートルの輸送船で、最高時速17.5ノット(約32.4キロ、100mを11秒)ほどしか出ないのと、ルートの問題で時間がかかり、18日後の12月3日にニューヨークに到着。
 なお、この5か月後、「シボニー」はリスボン沖で、イギリス海軍のコルヴェット艇2隻に至近距離から攻撃され、船首から30メートルほどのところに銃撃を受けています。「シボニー」は船体に2つの大きなアメリカ国旗と「American Export Lines」の文字が描かれており、イギリス海軍側はスピーカーで質問までしてきているので、アメリカ船と分かったうえで攻撃していることは明白でした。「シボニー」には当時ユダヤ人団体が乗っていることも多かったことから、イギリスにもたくさんいた攻撃的反ユダヤ主義者による悪質ないやがらせとも考えられます。ちなみにイギリス海軍は、この事件の9か月前にはチャーチルの命令でフランス兵を約1,300名殺害していました。そちらはダンケルク撤退時の非協力的な態度への報復の要素も多少はあったようです。

 フランチェスカッティはただアメリカ・ツアーに行くだけのつもりでしたが、周辺環境は確実に危険なものとなりつつありました。


●12月3日、フランチェスカッティ、ニューヨークに到着。まもなく列車で西海岸に向かい、パサデナとサンフランシスコでリサイタル開催。
●12月、フランチェスカッティ、ワシントンとシカゴでパガニーニのヴァイオリン協奏曲第1番で成功。



1941年(39歳)
◆3月11日、ルーズヴェルト大統領の提案による「レンドリース法(武器貸与法)」が議会により承認。これは枢軸国と戦う国を支援するという名目こそあったものの、実際には世界大恐慌でダメージを受けたアメリカ経済を復興させるための「経済政策」でした。
 あまり成果の出なかったルーズヴェルトの「ニュー・ディール政策」に較べて、「利益率がきわめて高い」という特徴を持った「武器」を経済政策に利用したことで劇的な効果をあげることができ、アメリカの軍需産業を巨大化させ、800万人を超えていた失業者問題も解決、さらに戦後には、イギリスに314億ドル、ソ連に113億ドル、フランスに32億ドル、中国に16億ドルという巨額の「リース料」も発生(現在換算では十数倍の規模)。武器のコストは実際には安いので、「リース料」の一部減免も可能となり、たとえばイギリスに対して200億ドル免除するなどして大きな「貸し」をつくることもできたというウルトラCの法案でした。
 これにより、戦後のアメリカは、「武器」を各国政府に販売する方向に大きく舵を切り、世界の軍隊にアメリカ製の武器が使われるようになっていきます。
◆6月、ドイツ軍が独ソ不可侵条約を破ってソ連に侵攻。「バルバロッサ作戦」開始。
◆7月、イギリス空軍とドイツ空軍の戦い「バトル・オブ・ブリテン」開始。
●フランチェスカッティ、フランスにしばらく帰れないことを覚悟し、ニューヨークのグレート・ノーザン・ホテルでのホテル暮らしをやめ、セントラルパーク近くのアパートに入居。
●夏、フランチェスカッティ、アメリカの運転免許を取得し自動車を購入。1929年にフランスでのキャリアが開けるきっかけをつくってくれ、1938年にはコロン劇場での大成功を指揮者として支えてアメリカでの知名度向上に貢献してくれた友人のホセ・イトゥルビの自宅を訪れるのが目的でした。スペイン生まれのイトゥルビは、ピアニスト、チェンバロ奏者、指揮者、作曲家として活動する一方、アメリカでいくつものミュージカル映画の音楽家役で大成功してビヴァリー・ヒルズに居住。その人気にはすごいものがあり、たとえば1947年に録音した「英雄ポロネーズ」は累計200万枚を超えるセールスを記録。さらにイトゥルビは、大型バイクや何台ものスポーツカーに加えて、自家用機も頻繁に操縦するスピード狂という人物で、好奇心旺盛なフランチェスカッティにとっては、7歳年長の楽しい友人でもありました。訪問にあたってフランチェスカッティが購入したのがフォード車だったというのもそれに触発されてのことかもしれません。


 フォードといえば、経営者のヘンリー・フォードがかつて熱烈な反ユダヤ主義者で、その著書「国際ユダヤ人」(1922)は、ヒトラーも称賛し、ナチ党員のバイブルのような存在ともなっていました。そのため、かつてアメリカのユダヤ人たちから大規模なフォード車の不買運動が展開されたこともあったほどですが、ユダヤ人ではなかったフランチェスカッティはそうした事情には疎かったようです。
 また、フォードは前年の1940年に、ドイツ・フォードの工場で、ドイツ政府の手配により、フランス人俘虜200人を働かせて、のちに問題にもなっていました。
 さらにフォードは、当時アメリカ政府と契約して自社工場を軍需工場としても稼働させており、ヨーロッパで膨大な数のドイツ人やフランス人、ベルギー人を殺害したB24爆撃機についても、世界最大の工場を駆使して、1942年から1機あたり平均1時間という驚異的なスピードでB24総生産数の半分にあたる9千機を製造。B24を「史上最も多くつくられた大型航空機」とすることに貢献しています。
 ちなみにヒトラーは、フォードの影響でポルシェ博士に国民車の開発を依頼し、ドイツ労働戦線直属の国営会社としてフォルクスワーゲン社を設立、ポルシェ博士はアメリカで小型のフォードV8を購入して研究し、最初の国民車「Kdfワーゲン(歓喜力行団自動車の意)」を完成させていました。
 なお、フランチェスカッティの弟は、1944年にB24爆撃機大編隊のフランス爆撃によって殺されています。


◆12月、アメリカ、第2次大戦に参戦。

1942年(40歳)
●フランチェスカッティ、プリンストンに転居。近くに住むこととなったピアニストのロベール・カサドシュ[1899-1972]と交流を深めます。カサドシュはフランチェスカッティと同じくアメリカに滞在していたフランス人で、以後、数多く共演。フランチェスカッティは、カサドシュ作曲「ヴァイオリン ・ソナタ第2番 op.34」の献呈を受けてもいます。


●フランチェスカッティ、プリンストンの住人でカサドシュと親しかったアインシュタインとも交流。3人でバッハなども演奏。
 プリンストンには戦火や迫害を避けてヨーロッパを離れていた文化人が多く集まっており、トーマス・マンの姿もありました。トーマス・マンは1933年に講演旅行でスイスに滞在していたときに、ベルリンの国会議事堂放火事件や、クナッパーツブッシュを中心にプフィッツナーら45名が署名した自分への攻撃と追放運動などを新聞で知ってドイツへの帰国を諦めてそのままスイスに滞在し、1938年からはアメリカで生活。トーマス・マンは妻がユダヤ系でした。
◆5月21日、アメリカ政府、ド・ゴールの「自由フランス」をフランスの抵抗を代表する機関として承認。レンドリース法(武器貸与法)の対象に認定。
◆7月21日、「自由フランス」が「戦うフランス」と改称。
●8月11日、フランチェスカッティとカサドシュ、ニューヨークで初リサイタル。
●11月、フランチェスカッティ、フランスに留まっている市民への支援を目的として、フランス人アーティストによるフランス音楽コンサートを10回開催。



1943年(41歳)
●7月14日、フランチェスカッティ、「バスティーユの日」に、フランス人音楽家たちがおこなったコンサートに出演。

1944年(42歳)
●5月、フランチェスカッティの弟レイモン、アメリカ軍の約100機のB24による爆撃で死去。弟はフランス国鉄カルヌール駅に勤務していました。連合国軍はフランスの駅や鉄道を中心に徹底的に破壊する作戦を継続的に実施し、民間人も数多く殺害。このときの爆撃はマルセイユやニース、アヴィニョンにかけて南仏の鉄道の破壊を主目的に3日間で約3,400トン、1万3千発を超える250キロ爆弾を投下し、多くの市民も虐殺。第2次大戦中のフランス民間人の犠牲者は連合国軍によるものがかなり多くなっています。


◆6月3日、ド・ゴールを主席とする「フランス共和国臨時政府」が、北アフリカのフランス植民地アルジェで発足。しかし承認する国はありませんでした。ド・ゴールの2人のライヴァルのうち1人が暗殺され、もう1人も暗殺を懸念して警戒していたという状況(後に暗殺未遂)がアメリカに知られていたためで、ルーズヴェルト大統領が、ド・ゴールをファシスト的だとして、実際には信用していなかったからでもあります。なお、ド・ゴールのフランス復帰はパリ解放後、安全が確保されてからのことでした。
◆8月28日、マルセイユ解放。しばらくしてアメリカとの連絡も回復。
●10月、マルセイユの母エルネスタから、弟のレイモンが5月にアメリカ軍の爆撃で殺されていたことを電報で伝えられます。
●フランチェスカッティ、悲報の衝撃と、3週間で16,000kmを陸路で移動するという過酷なスケジュールにより体調が悪化、坐骨神経痛を発症し、シカゴの2公演はキャンセル。治癒までに数か月を要しています。

1945年(43歳)
●5月、フランチェスカッティ、カサドシュ、ギレ四重奏団とショーソンの協奏曲を議会図書館で演奏。
●6月、フランチェスカッティ、健康問題もあって、フランスに帰るのは翌年にすることにして母エルネスタに連絡。コロンビア・コンサーツも1945年秋に開始されるシーズンは例年の70公演から40公演に減らすよう配慮しています。

1946年(44歳)
●4月、フランチェスカッティ、ニューヨークから全長241メートルの客船「イル・ド・フランス」に乗船し、フランスのル・アーヴルに到着。


●フランチェスカッティ、シャンゼリゼ劇場でミュンシュ指揮パリ音楽院管弦楽団とブラームスのヴァイオリン協奏曲を演奏。
●夏、フランチェスカッティ、家族や友人たちとの久しぶりの再会を楽しみます。
●秋、フランチェスカッティ、フランス、スイス、オランダ、ベルギー、スカンジナビアを回るツアーを実施。
◆10月、フランス共和国第四共和政発足。
●11月、フランチェスカッティ、クリュイタンス指揮パリ音楽院管弦楽団とラロのスペイン交響曲を録音。
◆12月19日、第1次インドシナ戦争勃発。フランス領インドシナ(現在のベトナム、カンボジア、ラオス)で、1954年8月まで継続。フランス側死者約7万6千人、インドシナ側死者30万人以上。
●12月、フランチェスカッティ、パリからニューヨークに飛行機で移動。ちなみに当時の旅客機は悪天候に弱く、大幅に遅れることが多かったため、コロンビア・コンサーツは、スケジュールが過密な人気アーティストには、内陸移動の際には飛行機での移動をあまり認めませんでした。



1947年(45歳)
●フランチェスカッティ夫妻、しばらくはホテル暮らしが続いていましたが、ヒマを見て大パトロンのガートルード・ロビンソン・スミス邸に厄介になったりもしていました。そこではナディア・ブーランジェと顔を合わせたりもしています。
●4月、妻ヨランド、物件探しに奔走し、85番街のアパートに入居を決定。
◆7月、アメリカ国務長官ジョージ・マーシャルが、ヨーロッパ経済の復興のための援助計画「マーシャル・プラン」を発表。翌年から1951年6月まで運用され、金額は総額100億ドル以上。ただし使途は限定され、主にアメリカ企業の機械や食料の購入が対象となるということで、アメリカ企業の国際化を支援するための経済政策と見ることもできます。また、これに対抗する経済政策としてソ連が「モロトフ・プラン」を立ち上げ、冷戦状態が大幅に進行。チェコスロヴァキアの政変も招くなどしていました。
●8月、フランチェスカッティ、ニューヨークでスタジアム・コンサートに出演。ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲を演奏。共演はスモーレンズ指揮スタジアム交響楽団(NYフィル)。
●夏、フランチェスカッティ夫妻、南アルプスのオワザンとケラスで避暑。その後、大規模自転車レース「ツール・ド・フランス」を観戦し、第1回エクサンプロヴァンス音楽祭では、カサドシュのリサイタルなどを鑑賞、ニューヨークに戻ります。
●フランチェスカッティ、ニューヨークのルウィソーン・スタジアムで演奏。聴衆5千人。

1948年(46歳)
●フランチェスカッティ、イスラエル・フィルからの客演要請を体調不良によりキャンセル。
●11月、フランチェスカッティ、プロコフィエフのヴァイオリン協奏曲第2番を演奏。

1949年(47歳)
●4月18日、フランチェスカッティ、ベル・テレフォン・アワーに初めて出演。以後も定期的に招かれ1956年までに計16回出演しています。
●夏、フランチェスカッティ、動物の写真撮影に熱中します。
●8月、フランチェスカッティ、初のイスラエル・ツアー。イスラエル・フィルの指揮者はフランス人音楽監督のポール・パレーでした。テル・アヴィヴ、エルサレム、ハイファなどで17公演おこないます。
◆9月、イギリス政府、ポンドを対ドルで約30%切り下げ。アメリカの原料輸入の大幅削減で生じた過度のポンド売りにより、外国為替市場が閉鎖に追い込まれたことが原因。これにより多くの国が自国通貨の切り下げに踏み切ります。
・約60%:アイスランド
・約53%:オーストリア
・約47%:アルゼンチン
・約36%:南アフリカ
・約30%:デンマーク、ノルウェー、アイルランド、オランダ、スウェーデン、フィンランド、イラク、エジプト、ヨルダン、ローデシア、インド、ビルマ、セイロン、シンガポール、インドネシア、オーストラリア、ニュージーランド、
・約27%:香港
・約22%:フランス
・約21%:西ドイツ
・約20%:タイ
・約13%:ポルトガル、ルクセンブルク、ベルギー
・約9%:カナダ
・約8%:イタリア
・約7%:イスラエル
●10月、フランチェスカッティ、マルセイユで、ブラームス、ショーソン、サン=サーンスを演奏。

1950年(48歳)
●7月、フランチェスカッティ、ニューヨークでスタジアム・コンサートに出演。ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲第1番を演奏。共演はゴルシュマン指揮スタジアム交響楽団(NYフィル)。聴衆5千人。



1951年(49歳)
●7月、フランチェスカッティ、カサドシュとエクサン・プロヴァンス音楽祭でベートーヴェン:ヴァイオリン・ソナタ全曲ほかのリサイタル。
●12月、フランチェスカッティ、マサチューセッツ州モントレーに、200ヘクタールの土地と30ヘクタールの森林に囲まれた部屋数20の豪邸を購入。モントレーはタングルウッド近くの景勝地。
 豊かな自然の中でフランチェスカッティは、ライフルでキツツキやマーモットを撃ったり、妻ヨランドのつくったウサギパイを食したり、庭園づくりに精を出したりと野趣あふれる生活を送る一方、ミュンシュ、クライスラー、スポールディング、オネゲル、カサドシュ、バーンスタイン、スターンらを招いて歓談するなど成功者としての余暇を過ごします。
 とはいえ実際にはコンサートやレコーディングで忙しかったフランチェスカッティは、人気の上昇と共にモントレー滞在日数もさらに減って行き、10年後にはオーマンディに売却することになります。

1952年(50歳)
●1月、フランチェスカッティ、カサドシュと議会図書館クーリッジ・オーディトリアムでリサイタル。


●夏、フランチェスカッティ、バルビゼとメキシコの山間都市モンテレイにツアー。

1953年(51歳)
●5月、フランチェスカッティ、パガニーニの生地ジェノヴァの記念式典に招待され、パガニーニゆかりの楽器で演奏。
●7月、フランチェスカッティ、ニューヨークでスタジアム・コンサートに出演。メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲などを演奏。共演はバーンスタイン指揮スタジアム交響楽団(NYフィル)。

1954年(52歳)
◆5月、フランス軍、インドシナ戦争のディエンビエンフーの戦いでベトナム民主共和国人民軍に敗北。
◆5月、フランス、1887年から植民地としていたインドシナから撤退。インドシナの面積は約74万㎢とフランスより約10万㎢も広く、天然資源や農産物の交易から得られた収入は巨額。フランス国民の関心も高く、1900年のパリ万博でも植民地ブースがつくられていましたし、フランチェスカッティの故郷マルセイユでも1906年と1922年の2度に渡って、大規模な植民地博覧会を開催して成功してもいました。
◆11月、アルジェリア独立戦争勃発。1962年まで長期化した戦争で、殺されたアルジェリア独立側の兵士は約14万人、殺されたフランス側のフランス人兵士は約2万5千人、殺されたフランス側アルジェリア人兵士は約5万人、そしてアルジェリアに暮らすフランス民間人約6千人と、アルジェリア民間人70万人以上が虐殺されたと言われています。アフリカ最大級の面積を持つアルジェリアは資源も豊富でした。



1955年(53歳)
●5月、フランチェスカッティ、マルセイユで、バッハ、メンデルスゾーン、ベートーヴェンの協奏曲を演奏。ピアノ伴奏での名技的な作品群も演奏。
◆5月、パリ協定により、西ドイツ主権回復&再軍備開始。
◆5月、ソ連主導によりワルシャワ条約機構発足。
●5月、フランチェスカッティ、エリザベート王妃国際音楽コンクールに審査員として出席。
●8月、フランチェスカッティ、エディンバラ音楽祭に出演。フルニエ、ソロモンとの室内楽の他、オーマンディ指揮ベルリン・フィルとの共演。特に室内楽は成功を収め、次回フェスティヴァルの際にはレコーディングも実施したいという申し出もありましたが、翌年、ソロモンが脳梗塞に見舞われ、演奏が不自由になったため実現しませんでした。
◆フランス領モロッコで暴動発生。
◆フランス領チュニジアで暴動発生。

1956年(54歳)
◆西ドイツで一般兵役義務法制定。
●フランチェスカッティ、マルセイユで、ベートーヴェン、ブラームス、ラロの協奏曲を演奏。
●7月、フランチェスカッティ、ニューヨークでスタジアム・コンサートに出演。ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲、モーツァルトのヴァイオリン協奏曲第4番、サン=サーンスのロンド・カプリチオーソを演奏。共演はシャーマン指揮スタジアム交響楽団(NYフィル)。満席(8千人)でした。
◆フランスで緊急事態法成立。予備役も動員し、25万人の軍勢でアルジェリアに越境して大殺戮を実施。
●10月、フランチェスカッティ、イスラエル・フィルへの客演などイスラエル・ツアーを11月下旬までかけて実施。ツアー中にスエズ戦争に向けて緊張が高まり、外国人がいっせいにイスラエルから脱出する中で、フランチェスカッティは冷静にツアーを継続。イスラエル国民を喜ばせたほか、ベンツヴィ大統領やイスラエル軍からも感謝の言葉を贈られ、さらにパレスチナの森にフランチェスカッティの名前が付けられることにもなりました。ちなみにイスラエル・フィルを指揮してフランチェスカッティとベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲を演奏したフランチェスコ・モリナーリ=プラデッリ[1911-1996]も逃げずに留まった非ユダヤ系外国人音楽家でした。
◆10月29日、スエズ戦争勃発。フランス、イギリス、イスラエルが、エジプト国内にあるスエズ運河のエジプト国有化に反対し、空母5隻と戦艦1隻からなる英仏艦隊によるエジプト領内空爆と艦砲射撃、上陸作戦を展開。フランスとイギリスから攻撃を依頼されたイスラエルも17万5千人という大規模な軍勢でエジプト領内に侵攻し、多くのエジプト人を殺害。エジプト側のイスラエル領への攻撃はハイファへの艦砲射撃くらいで、その軍艦もすぐに破壊・曳航されています。
 しかし開戦から11日目には、アメリカのアイゼンハワー大統領が、侵略3国に対して撤退を要請したことで停戦が決定。
 エジプト軍は兵器をチェコスロヴァキアから購入しており(下の画像はチェコスロヴァキアが生産したソ連自走砲SU-100)、チェコスロヴァキアの背後にはソ連が存在し、すでに強硬派のブルガーニン首相は、侵略3国に対してミサイル攻撃をおこなうと主張していたため、それを抑えるために、アイゼンハワーがエジプトへの支援にまわった結果でもあります。
 エジプト政府は国内にあった英仏の銀行を国有化し、ヨーロッパ利権を排除することにも成功。一方、イギリスはイーデン首相が辞職し、5億ポンドの損失が原因でポンドも下落という悲惨な事態に陥りますが、フランスはイスラエルへの武器販売という強力な経済プランが軌道に乗ったという面もあり、以後、ウーラガン、ミステールに続いてミラージュ戦闘機・戦闘爆撃機が、中東での多くの人命と引き換えにフランスに多額の利益をもたらすことにも繋がっていきます。
 なお、イスラエルがエジプトの制圧地域から撤退を始めたのは、なぜか翌年の3月中旬と4カ月も先のことで、スエズ運河の再開はその直後の4月ということになり、半年近く欧州関連の海上輸送に支障のある状態が続いていたことになります。その間、アメリカが国防予備船隊から、223隻の貨物船と29隻のタンカーを各方面にリースし、そこでも大きな利益を上げていました。


●12月、フランチェスカッティ、シャンゼリゼ劇場でモーツァルト、ベートーヴェン、サン=サーンスを演奏。

1957年(55歳)

1958年(56歳)
●7月、フランチェスカッティ、ニューヨークでスタジアム・コンサートに出演。メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲を演奏。共演はモントゥー指揮スタジアム交響楽団(NYフィル)。
●8月、フランチェスカッティ、ザルツブルク音楽祭出演。ミトロプーロス指揮ウィーン・フィルとのブラームス:ヴァイオリン協奏曲。室内楽ではブラームスのソナタ第3番、ラヴェル「ツィガーヌ」、ほか。
◆10月、フランス共和国第五共和政成立。ド・ゴールが大統領に就任。

1959年(57歳)
●1月、フランチェスカッティ、テキサス州サン・アントニオで公演。パガニーニとウォルトンを演奏。
●6月、フランチェスカッティ、ハリウッド・ボウルに出演し、ピエール・モントゥーの指揮でパガニーニのヴァイオリン協奏曲第1番などを演奏。悪天候の中、2万5千人が雨具で鑑賞。1936年のリリー・ポンスが2万6千人で最高記録だったので、それに近い人数でした。ちなみにハリウッド・ボウルの座席数は17,376なので、雨の中、7千人以上が立って聴いたことになります。
●7月、フランチェスカッティ、ニューヨークでスタジアム・コンサートに出演。パガニーニのヴァイオリン協奏曲第1番を演奏。共演はウォーレンスタイン指揮スタジアム交響楽団(NYフィル)。これが最後のルウィソーン・スタジアムへの出演でした。

1960年(58歳)
◆2月、フランス政府、フランス領アルジェリアで核実験を開始。以後、アルジェリア独立までに計17回の原爆実験が実施されます。また、フランス領ポリネシアでは、1996年までに原爆、強化型原爆に加え、超強力な水爆も含めて計193回の核実験を実施。アメリカ・ソ連に次ぐ核兵器大国として、周囲に睨みを利かせます。
●10月、フランチェスカッティ、カラヤン指揮ベルリン・フィルとブラームスのヴァイオリン協奏曲を演奏。
●フランチェスカッティ、ルクセンブルクで、ラロ、ベートーヴェン、モーツァルトを演奏。

1961年(59歳)
◆4月、退役将軍たちによるアルジェ一揆をド・ゴールが鎮圧。ド・ゴールの民族自決政策に反対する退役将軍たちが軍事政権樹立にために起こした反乱でした。ド・ゴールは長引く戦争や核兵器開発で膨らむ財政赤字対策として民族自決政策を打ち出し、世界的な植民地独立の流れに沿う道を選びます。
●フランチェスカッティ、母が見つけてきたマルセイユ近郊ラ・シオタの古い農場を購入して改築。太陽が輝く夏には、セミの声もにぎやかな松林越しに、真っ青な湾と造船所の見える素晴らしい立地でした。引退した1976年以降は終の棲家として、このラ・シオタで15年を過ごしています。
 ちなみにフランスではセミは南フランスにしか生息しておらず、ギリシャのイソップ寓話「セミとアリ(後世にキリギリスに改変)」の影響もあってか、南フランスではセミは幸福のシンボルとして有名(アリの生活は幸福に見えないようです...)。太陽が輝かしく海が真っ青で南国イメージのマルセイユですが、実際には緯度は札幌よりも北で、セミの生息北限に近いということです。
●フランチェスカッティ、マサチューセッツ州モントレーの豪邸を指揮者のユージン・オーマンディに売却。
◆10月17日、パリ虐殺。パリ在住のアルジェリア人を対象に発令された外出禁止令に抗議する3万人のアルジェリア人による非武装デモを、1万人の警官隊が攻撃。銃撃や撲殺などにより約200人を殺害したといわれており、セーヌ川に浮かぶ多くの遺体が目撃されています。発砲を許可したモーリス・パポン警視総監は、第2次大戦中にはドイツ政府に協力してユダヤ人1,690人を引き渡したり、レジスタンス活動家や共産主義の情報をドイツに提供したとされていますが、戦後1948年にはシュヴァリエ勲章を授与、1954年にはオフィシエ勲章を授与されたのちパリ警視総監に就任し、その7年後には国民議会議員となり、1978年には予算担当大臣も務めた人物。2007年に96歳で死去。
 コルトーのように占領中に音楽家として活動しただけで厳罰に処せられる者もいれば、膨大な数の人間を死に追いやってもお咎めなしで、叙勲までされ、さらに大臣にもなれる人もいるという不公平さがよく示された事件でもありました。



1962年(60歳)
◆8月22日、ド・ゴール暗殺未遂。パリ郊外で乗車中に機関銃で撃たれるものの頑丈なシトロエンDSのおかげで大統領夫妻らはみな無傷。暗殺を指揮したフランス空軍中佐で技術者のバスティアン=ティリーは翌年3月に処刑。


●8月26日、フランチェスカッティ、ザルツブルク音楽祭出演。ショルティ指揮ウィーン・フィルとベートーヴェン:ヴァイオリン協奏曲。

1963年(61歳)
●5月、フランチェスカッティ、エリザベート王妃国際音楽コンクールに審査員として出席。
●フランチェスカッティ、チェリビダッケ指揮イスラエル・フィルとの共演など、イスラエル・ツアーを実施。
●10月8日、フランチェスカッティ、カラヤンの招きでベルリンのフィルハーモニー落成記念公演に出演。フルニエと共にブラームスの二重協奏曲を演奏。

1964年(62歳)

1965年(63歳)
●フランチェスカッティ、ドラティ指揮イスラエル・フィルとの共演など、イスラエル・ツアーを実施。

1966年(64歳)
●11月、フランチェスカッティ、カサドシュとリンカーン・サンターでベートーヴェン:ヴァイオリン・ソナタ全曲リサイタル。

1967年(65歳)
●フランチェスカッティ、ドラティ指揮イスラエル・フィルとの共演など、イスラエル・ツアーを実施。
●フランチェスカッティ、体調不良により日本ツアーをキャンセル。
◆11月、イギリス政府、ポンドを対ドルで約14%切り下げ。

1968年(66歳)

1969年(67歳)

1970年(68歳)
●フランチェスカッティ、体調不良によりイスラエル・ツアーをキャンセル。

1971年(69歳)
●3月、フランチェスカッティ、ナッシュヴィル公演。バルトークとベートーヴェンを演奏。
●5月、フランチェスカッティ、エリザベート王妃国際音楽コンクールに審査員として出席。
◆12月、スミソニアン体制によりドルの切り下げ実施(対円で約14%)。1973年2月までドル固定相場制が継続し、以後は変動相場制に移行、現在に至っています。

1972年(70歳)
●1月20日、カサドシュの息子、ジャンが交通事故で死去。
●フランチェスカッティ、ローザンヌでドラティ指揮フランス国立放送管弦楽団と共演。
●9月19日、カサドシュ死去。息子の死による体調悪化が原因でした。

1973年(71歳)

1974年(72歳)
●4月、フランチェスカッティ、アンドルー・デイヴィス指揮イスラエル・フィルとの共演など、イスラエル・ツアーを実施。

1975年(73歳)
●12月6日、フランチェスカッティ、ブーレーズ指揮ニューヨーク・フィルと共演。これがニューヨークでの最後のコンサートとなりました。スターン、イーゴリ・オイストラフ、パールマン、ズッカーマンらが訪れています。

1976年(74歳)
●5月、フランチェスカッティ、エリザベート王妃国際音楽コンクールに審査員として出席。
●フランチェスカッティ、フランスで最後の演奏会を開催。
●フランチェスカッティ、ジュリアード音楽院からの教授就任要請の話も断り引退。
●フランチェスカッティ、マルセイユ近郊ラ・シオタで、妻ヨランド、図書館勤めの母エルネスタ、犬2匹との生活を開始。夏場には早朝のヴァイオリン練習の後で海にダイヴし、2匹の犬と庭を駆け回り、再びヴァイオリンを弾き、切手のコレクションの整備や読書に時間をかける生活を送ります。アメリカ時代のビュイックはプロヴァンスの道路には大きすぎるため、新たにプジョーを購入。近くには、1896年に制作されたリュミエール兄弟の短編映画「ラ・シオタ駅への列車の到着」で有名になった駅もあり、鉄道好きなフランチェスカッティには便利な場所でした。

1977年(75歳)

1978年(76歳)

1979年(77歳)

1980年(78歳)

1981年(79歳)

1982年(80歳)
●1月3日、母エルネスタ、ラ・シオタで死去。

1983年(81歳)

1984年(82歳)

1985年(83歳)

1986年(84歳)
●フランチェスカッティ、ストラディヴァリウス「ハート」をサルヴァトーレ・アッカルドに売却し、ラ・シオタで若いヴァイオリニストを支援するために「ジノ・フランチェスカティ財団」を設立。

1987年(85歳)
●フランチェスカッティ、国際的なヴァイオリンコンクールをエクサン・プロヴァンスで開催。

1988年(86歳)

1989年(87歳)
●マルセイユ音楽院に「サル・フランチェスカッティ」と名付けられたホールがオープン。

1990年(88歳)

1991年(89歳)
●9月17日、フランチェスカッティ、ラ・シオタで死去。




【商品説明:年表シリーズ】
指揮
アルヘンタ
オッテルロー
ガウク
カラヤン
クイケン
クーセヴィツキー
クチャル
クラウス
クレツキ
クレンペラー
ゴロワノフ
サヴァリッシュ
シューリヒト
ターリヒ
チェリビダッケ
ドラティ
バーンスタイン
パレー
フェネル
フルトヴェングラー
メルツェンドルファー
モントゥー
ライトナー
ラインスドルフ
ロスバウト

鍵盤楽器
ヴァレンティ
カークパトリック
カサドシュ
グリンベルク
シュナーベル
タマルキナ
タリアフェロ
デムス
ナイ
ニコラーエワ
ハスキル
ユージナ
ランドフスカ

弦楽器
カサド
グリラー弦楽四重奏団
シュナイダー四重奏団
パスカル弦楽四重奏団
ハリウッド弦楽四重奏団
ブダペスト弦楽四重奏団
フランチェスカッティ
ヤニグロ
リッチ
伝説のフランス弦楽四重奏団

作曲家
アンダーソン
ヘンツェ
坂本龍一

シリーズ
●テスタメント国内盤

内容詳細

フランチェスカッティのソロによる、パガニーニのヴァイオリン協奏曲第1番とブラームスのヴァイオリン協奏曲を収録。BBC響およびニューヨーク・フィルとのコラボレーションで、卓越した超絶技巧を披露する。(CDジャーナル データベースより)

収録曲   

  • 01. ヴァイオリン協奏曲第1番 ニ長調 Op.6
  • 02. ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 Op.77

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人物・団体紹介

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ブラームス(1833-1897)

1833年:北ドイツのハンブルクでヨハネス・ブラームス誕生。 1843年:演奏会にピアニストとして出演。作曲家、ピアニストのマルクスゼンに師事。 1852年:ピアノ・ソナタ第2番が完成。 1853年:ピアノ・ソナタ第1番、ピアノ・ソナタ第3番が完成。 1854年:ピアノ三重奏曲第1番、シューマンの主題による変奏曲が完成。

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